天使と悪魔
昨日の夜は、地獄だった。
妹の部屋に侵入した痕跡を消すのに、大変だった。
投げ捨てられた妹のパンツを元の状態に戻し、引き出しに仕舞った。
折りたたみ方でバレないように、見本通りに丁寧に、寸分の違いもなく。
シーツの皺も綺麗にした。
ピシッとし過ぎず、僅かな乱れを残して。
一番神経を使ったのが、落とし物だ。
彼女が消えたので、そこから抜け落ちた物も消えるのではと思っていたが、そうでは無かった。
しっかり残っていた、黄金の毛が。
もし他にも抜け落ちていて、この部屋で妹に見つかったら、とんでもない事になる。
何しろ金色で、妹のものではないからだ。
「妹の部屋をプレイに使うなんて、何考えてんの! 変態! それに下も金髪に染めさすなんて、ど――いう趣味?」
……罵倒されること、請け合いである。
目を皿のようにして床を確認した。幸い落とし物はこれ一本だった。
遺留物は大切に保管した。今後あいつの正体を探る手掛かりになるかもしれないからだ。
それ以外の意味は……ない。
「疲れてるね、悠真」
教室で机に突っ伏す俺に、話しかけてくる奴がいた。
「ああ、憑かれた……」
微妙な齟齬が発生していた。
優しい温和な笑顔に癒される。
こいつは本当に天使みたいな奴だ。
女子に疎まれ、男子も距離をとられる中、俺に話しかけてくれる数少ない友達だ。
『姫川 歩』――通称『ヒメ』。
肩に軽くかかる位の細い髪、くりっとした大きな目、薔薇色に染まった頬、――天使だ。
こんな俺に話しかけたら一緒にハブられそうなもんだが、一切そんな事はない。
こんな清らかな奴を穢すなんて、何人にも出来ない。
……だが、男だ!
正真正銘の、男だ。
最初の自己紹介で「姫川 歩。……男です……」、そう言った時のクラスのざわめきと、歩の気まずそうな表情は忘れられない。
外見だけでなく、こいつは中身も天使だ。
ぼっち飯となっていた俺を『一緒に食べよう』と誘ってくれた。
本当に感謝している。
「一緒にお昼、食べよっか」
にこっと歩は笑う。俺の心を握りしめるみたいな、優しい微笑みだった。
「悪い、先約があるんだ」
断腸の思いで誘いを断る。
「また? ここ一週間、ずっとそうだね。誰と食べているか教えてくれないし……。けどいい事だよね、友達が増えるのは。……楽しんできて!」
満面の笑みで、歩は俺を送り出す。
俺の友達が、天使すぎる!
俺は屋上に続く階段を登っていた。
足取りは、重い。
階段の一番上にたどり着く。
ふうっと息を吐き、軋む鉄の扉を開ける。
目の前に、仁王立ちで佇む少女がいた。
「遅いっ!」
鋭い目つきで、吊り上げた口で、今にも喰い殺さんとばかりに怒気を放つ。
桐生 明日香、別名『ミステリーの女王』。
それが彼女の名だ。
「阿川 玖璃珠」のペンネームを持つ、若手人気ミステリー作家。
父は純文学の巨匠で、彼女自身も弱冠十五歳でM社新人賞を受賞。
校内、この地域にとどまらず、全国レベルの有名人。
俺たちのクラス、『クイーンズ・コート(女王の中庭)』の一員でもある。
「一体何分かかっているの。同じ教室から来たんだから、そんなに遅れる筈がないでしょう。まったくもう……」
桐生はツカツカとにじり寄って来た。
なんでこんな事になったのかな。
俺は一週間前を思い起こす。
◇◇◇◇◇
俺は屋上で一人、昼食をとっていた。
いつも一緒に食べる歩は休みで、居心地の悪い教室から避難してきた。
空が碧かった。
浮かぶ雲は遥か遠く、初夏の太陽しか存在を許されないみたいな世界だった。
俺は渇いた喉に水を注ぐ。躰がそれを求めていた。
ギィーという音がして、入口の重い扉が開く。
ここは階段が急なこともあり、滅多に人が来ない。
俺は慌てた。狼狽の余り、食事をしながら眺めていたスマホを落とす。
スマホは滑るように来訪者のもとに流れてゆく。
来訪者はそれを拾い上げる。
「落としたわよ」
つまらなそうに、事務的に来訪者は言う。
目はどんよりと濁っていた。
俺は来訪者を見つめる。
そいつを俺は、知っていた。
『桐生 明日香』、我が校いちの有名人だ。
若くして才能を発揮した彼女を、知らない者はいない。
だがその突出した才能・実績により、気軽に声をかける事が憚られた。
何しろ何時も遠くを見つめ、なにか思案しているのだ。
執筆構想の邪魔をしてはいけない。みんなそう思い、遠慮していた。
彼女は孤高だった。
だがその姿は凛々しく気高く、同じぼっちでも俺とは質が違った。
その彼女といま、邂逅した。
「画面、割れてはないみたい……」
相変わらず感情の乏しい声で呟く。
まるで自動音声みたいだ。
だが次の瞬間、世界は一変する。
「なに、これぇ――――――――」
桐生は大声で叫ぶ。感情の塊みたいに。
彼女は食い入るように画面を見ていた。
やべぇ、さっきまで見ていたページが開いている。
俺は絶望の底に叩き込まれる。
エロサイトならばまだマシだ。『男子ってエッチなんだから』ですむ。
だが俺が見ていたのは、そんなモンじゃない。
俺が見ていたのは投稿サイト、ジャンルは…………BLだ。
断っておくが、俺の趣味じゃない。
「お兄ちゃん、この小説を読んで。そして感想コメントを交換しよう。作品について、語り合いたいの」
「知るか! 学校の友達にでも頼め!」
「なに馬鹿なこと言ってんの。腐女子バレする訳いかないでしょう。ね―お願いっ、お兄様っ♡」
可愛い妹のおねだりに、逆らえるはずも無かった。
油断した。完全に油断した。誰も来ないと思って学校で見るんじゃなかった。
俺は桐生を見る。
彼女はどんな反応をするのか。それによって俺の運命は決まる。
「『上江洲 麻瑚都』よね、それ。……好きなの? その人の作品」
予想をしていなかった反応だ。
この作家を知っているのか?
考えてみれば同じ分野に生きる者同士。プロとアマの違いがあっても、知っていても不思議はない。
となると慎重に答えなければならない。
二人の関係性が分からない。仲がいいのか、悪いのか。
間違った選択肢は、即デッドエンドだ。
「いや、妹に勧められててね。感想を聞きたいから、是非見る様にって言われて。ははっ、参っちゃうよ」
どうだ! 好きとも嫌いとも答えず、お茶を濁す。自分の趣味では無いとさり気なくアピールして。真実を塗してリアリティを持たす事も抜かりはない。
「200話越えの長編なのに、『続きから読む』が最新話になっていたわよ。昨日今日読み始めた訳じゃないでしょう」
ぐはっ、さすが推理作家。見事な観察力と分析力です。嘘が丸わかり。
戦況は劣勢。身体中から出る脂汗が止まらない。
「勘違いしないで。この事を言いふらそうとか考えていないわ。……ただお話したいの、この作品について。妹さんみたいに」
思ってもいなかった展開に転がってゆく。
こいつと、お話する? この美少女と?
改めて桐生を見つめる。
艶やかな長い黒髪が光っている。氷みたいに冷たく鋭く。
刺すような瞳は、鉄の壁を射通すことさえ出来そうだった。
尖った印象の、凡俗と相容れない、聖域じみたものを感じさせる。
迂闊に触れるべからず。そんな言葉が頭に浮かんだ。
「ただとは言わない、それなりの見返りは用意するわ。……閲覧履歴に『バカな僕と、スケベな姫さま』があったわね。それ、好きでしょ?」
『バカな僕と、スケベな姫さま』――略称『バスケ』。
異世界に飛ばされた主人公が、思春期を拗らせて見るもの聞くもの全てをエロ方面に変換してしまう姫さまと一緒に、魔王討伐に出かける異世界ファンタジーだ。ブックマークをして、欠かさずチェックしている。
「それの裏バージョン、見たくない? ポリコレ、自主規制、みんなガン無視、やりたい放題の裏バージョン。おまけに神絵師『腐乱腐乱』先生書き下ろし、『検閲機構かかってこいや!』の18禁、無修正イラスト付き。……どう?」
どんなに金を積んでも、手に入るものじゃないぞ、それ。
「私もこの業界にいるからね、それなりに伝手はあるのよ。もちろん流出しないと約束はして貰うけど」
桐生は嗤う。
悪魔のように口を三日月に開け、人の心を見透かすみたいに。
俺は膝から崩れ落ちる。
「……先生、『バスケ』が、見たいです……」
俺は瞳を潤ませ、眦を下げ、口を震わせ、肩を震わせ、言葉を零す……。
しょ―がないだろ、こんなもん。
どこか聞き覚えのあるキャラが出てきましたが…………気のせいです。
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