I’d love to(よろこんで)
かって愛の女神『ヴィーナス』は海より誕生し、西風の神『ゼピュロス』に運ばれ、季節の女神『ホーラー』たちに服を着せられ、オリュンポスに連れて行かれたと聞く。
いま俺の前には愛の女神、『裸のヴィーナス』が顕現していた。
目のやり場に困る。
「これを着ろ」
俺は『ホーラー』よろしく、持っていた袋から荷物を取り出し、メアに手渡す。
「悠真、この服……」
その荷物を見た瞬間、メアの動きが止まる。
「ああ、おまえのだ。せっかく買ったんだ、着なきゃ勿体ないだろう」
あの日二人で一緒に買った、白いワンピースだった。
「持ってきてくれたの? 私のために……」
メアは両手で口を押さえ、瞳を潤ませている。
「お前を裸のままにさせる訳にはいかないだろう。それに、着せるとしたらこれしか思いつかなかった。……お前に、よく似合っていた」
メアは服を受け取ると、両手でぎゅっと抱きしめる。頬に一筋の涙が流れていた。
「馬鹿ね、悠真。こんな所まで持ってきて。もし他の人に見つかったら、どうするつもりだったの?」
嬉しそうな、呆れた声でメアほ言う。
「その時は妹の服が間違って紛れ込んだとでも。……着て、見せてくれるか」
「うんっ!」
元気よくメアは答えると、服を両手で広げてじっと見つめ、満足した表情を浮べて身に着け始めた。
「……ただ、下着だけは持ってこれなかった。もし俺のバックから下着が出てきたら、問答無用で変質者確定だからな」
「……うん。もしこのシチュエーションでパンツやブラまで手渡されたら、さすがの私もドン引きする」
ご理解いただき、ありがとうございます。
俺たちは湖の畔にいた。湖面は黒いビロードのように艶やかにゆらめいていた。
それを眺めながら俺たちは腰かけ、横に座り、ぴったりと身体をくっつける。
お互い片腕を相手の腰に廻し、引き寄せる。俺たちは一つであった。
残されたそれぞれの片腕は大地に手を着き、二人を支えている。
その腕は翼のように広げられ、星空に飛び立たんばかりの力がみなぎっていた。
「まるで比翼の鳥みたいだね」
片翼しかなく、寄り添い力を合わせて飛ぶ二羽の鳥のようだと彼女は言う。
満天の夜空を見上げ、虫の鳴く声を聴き、俺たちは寄り添いながら二人だけの世界にいた。
「なんでこんなに幸せなんだろう」
俺は呟いた。幸せが溢れ、思わず声に出たようだ。
「お前がいるからかな。それだけでもう……幸せだ」
メアは、ちょっと哀しそうな顔をする。
「……私がいなくなったら、どうするの? 私がいなくなっても、悠真にはずっと幸せでいて欲しい」
不安な未来に怯えるみたいに、メアは言う。
「だったら、ずっと俺の傍にいてくれ。俺の幸せのために。俺もお前を幸せにするから」
メアは俺の言葉に顔を曇らせ、泣くように言う。
「それは…………無理だよ。分かっているんでしょう、悠真も」
本当に、哀しそうな顔だった。
「私と悠真は違う世界、違う次元の存在。こうして触れ合えているのが、奇跡なんだよ。奇跡はいつまでも続かない。だから奇跡って言うんだよ」
見ようとしなかった現実、冷徹な事実を突きつける。
「なら、俺がそっちの世界に行く! どんな世界でも構わない。お前がいない世界なんて、何の意味もない!」
冥界だろうが地獄だろうが構わない。俺が求めるものがそこにあるのならば。
「……我がまま言わないの。こっちの世界にも、悠真を愛してくれる人がいるじゃない。……明日香さんとか鈴さんとか。私は彼女たちと上手く行くように、お手伝いに来ただけ。私に本気になったら……いけないよ」
メアは、小さい子どもを諭すように語りかけてきた。
そうはいくか。
「今更だな。もう手遅れだ。こんなにがっちり心を掴みやがって。最後まで責任取りやがれ! やり逃げなんて許さないからな!」
「……なんか、私、とんでもないクズ男みたいに言われている? 優しく導いてあげるお姉さん、のつもりなんだけど……」
「思春期の男子高校生を舐めるんじゃねぇ! いっぺん火をつけて、それでハイおしまいで納まる訳ないだろうがぁ――」
「なんか、めんどくさい事言い始めた――!」
俺たちは向かい合い、言い合った。お互い肩で息をハァハァとしている。
「人の心は、そんなに簡単にくっつけたり離したり出来るものじゃないだろう。お前への想いは、もうかっちりと俺の心の一部になっているんだ。それを無理やり引き剥がしたら血は流れ出すし、他のものを押しつけても代わりにはならない。……お前じゃなければ、駄目なんだ」
俺の声は段々と小さくなってゆく。魂を吐き出すような、叫びだった。
「どうすればいいのかな…………。私はただ悠真に幸せになって貰いたい。素敵な女の子と恋をして、色んな経験をして、喜んで、笑って、ちょっぴり泣いて、幸せだって思える人生を歩んで貰いたい。それだけなんだよ、私の望みは。そしてそれは、私には叶えてあげる事は出来ない。……袋小路なんだよ、私たちは」
メアは哀しそうな顔をする。どうにもならない巨大な力に、『仕方がない』と自分自身を諦めさせるみたいに。
「今はただ、こうやって一緒にいよう。あらゆる物に、終わりはある。終わりを恐れて今を生きないのは、すごく勿体ないことだよ。この限られた一瞬一瞬が宝物なの。年老いて、人生を振り返り、玉入れの籠から玉を取り出すみたいに一つ一つ思い出を取り出して、ああ幸せな人生だったなと思って欲しいの、悠真には。その時隣にいるのは私じゃなくてもいい。思い出の玉の一つにでもなれればいいの、私は!」
澄んだ、迷いのない瞳で俺を見つめる。
その潤んだ瞳を見ると、何も言えなくなった。
メアも、それ以上は何も言わなかった。
虫たちの音も止んでいた。
星の光が、ただしんしんと降っていた。
遠くから音楽が聴こえてきた。
人のざわめきも聴こえる。
フォークダンスの曲が終わる。
ざわめきが一層大きくなる。次の曲が始まるまでの休憩だ。
「フォークダンスか……。いいな……」
メアがぽつりと呟く。
「興味あるのか?」
「そりゃあ女の子ですもの、男子と恥じらいながら手を繋ぎ、かすかに触れた指からお互いの体温を感じ、ぱちぱちと爆ぜる松明に照らされながら踊るシチュエーションには、心惹かれるものがあります」
ちょっとふくれたような顔をし、メアは答える。
「悠真は、そうじゃないの……?」
顔を傾け、覗き込むみたいに尋ねてくる。
「別に、踊りたくは、ないな。……だが、好きな娘とは、踊ってみたい。心から――」
メアはじっと俺の顔を眺めていた。
しばらくの沈黙のあと、音楽が再び流れ出した。
俺は立ち上がり、土を払い、服で手を拭き、メアの前に立つ。
両脚を揃え、ゆっくりとお辞儀をする。
そして神妙な面持ちで語りかけた。
「Shall we dance?」
ありったけの気持ちを込めて、俺はメアに語りかけた。
「I’d love to.」
メアは嬉しそうに、本当に嬉しそうに、顔をほころばせた。
俺は右腕を差し出し、メアはそれに左腕を組ませる。
二人は開けた場所へ向かう。
辿りついた俺たちは、顔を見合わせ、こくりと頷き、一歩を踏み出す。
俺たちは音楽に合わせてステップを踏む。
一歩一歩、しっかりと現在を踏みしめて。
未来への道を切り開くように。
未来の事など、知る術はない。
ただこの一瞬一瞬を、精一杯、悔いなく、生きるだけだ。
それでいいんだろう。俺は目でメアに問いかける。
彼女は輝くような笑みを、顔いっぱいに浮かべている。
その目は、『やっとわかったか』と言わんばかりだった。
俺たちは今この瞬間、幸せの只中にいた。
満天の星空の下、かすかに響く音楽に合わせて踊る二人。
細い噴水のように流れ込む光が二人を照らし、その影がゆらゆらと揺れる。
草木の匂いを帯びた風が、さあっと吹く。夜が羽を広げるように覆いかぶさってきた。
暗闇に輝く星のように、二人は命の光を放っていた。
好きな人と手をつなげるかどうかドキドキした、あの日が懐かしい……。
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