ユー・アー・マイ・サンシャイン
昨日は……疲れた。
新開家への訪問は、心地いいものではあったが、……疲れた。
二駅向こうに行っただけなのに、まるで違う世界に迷い込んだようだった。
いい人たちではあるんだけどな――。
俺は昨日とは逆方向への電車へと乗り、新たな記憶の上書きへと赴いた。
「園明蝶舞――。園明蝶舞――」
アナウンスが流れ、駅に止まり、乗車客が入ってくる。
「あら、偶然ね」
見知った顔があった。彼女は俺の隣りに座る。
「この路線という事は、渋谷にでも行くの?」
彼女は俺の顔をじっと見ながら訊ねてくる。
「いや、特にどことは決めてない。ちょっと気分転換に……」
「気分転換なら逆方向の方がいいんじゃない? 都心方向はゴミゴミしているわよ」
「あっち方向はちょっと……」
昨日の今日だ。兎越木方面に行く気にはなれない。
「ふ~ん…………」
彼女は考え込んだ表情をする。
「そりゃそうか。新開家訪問の次の日に、また鉢合わせしたら気まずいものね」
事もなげに彼女は言う。
「なんで桐生がその事知っているんだ。休みで鈴とは会ってない筈だろうが」
これが平日で学校があったならまだ分かる。だが昨日今日は土日で、こいつ等は会ってない筈だ。
「この間ファミレスで話した時、グループチャット作ったじゃない。あれ以来私とあの娘、毎日メッセージのやり取りしているの。……昨日あの娘から送信があったわ。『ユマをお父さんとお母さんに紹介しちゃった』『ユマ私の料理がどっちか正解してくれた……やった――』ですって……。思わず携帯ぶん投げて、画面にちょっとヒビが入っちゃった。うふふふふ……」
「な、仲がいいんだな」
「悪いわよ。煽り煽られの仲!」
それでも本当に仲が悪いなら、相手のメッセージなど見たくもないと思うんだが……。
「どんな事を話しているんだ?」
怖いもの見たさで尋ねてみる。
「99%、あなたの事ね。あなたが授業中居眠りをした時の表情とか、水泳の授業での様子とかの感想交換」
聞くんじゃなかった……。
「で、新開家には挨拶をして、我が桐生家はガン無視するつもりなのかしら?」
にこやかな、凄い圧の笑顔で桐生は尋ねてくる。
やべぇ、これマジだ。
「ちょっと付き合いなさい。これから私の親族に会ってもらうわ」
有無を言わさぬ勢いで迫ってくる。
「心配いらないわ。あなたは黙って手を合わせるだけでいい。後のことは私がやるから」
桐生は静かに呟く。
「……墓参りか」
それ以外はなかった。
桐生は黒いワンピースを着ている。手には花束を抱えている。
「そう。千石池に家の菩提寺があるの。生きてる親族は来ていないわ。……付き合ってくれる?」
死んでる親族は居る訳ね。
「わかった、そのくらいなら付き合うよ。その代わり『お父さんに会って欲しい』とかはナシだからな」
昨日の御対面で、今はお腹いっぱいだ。
「ああ、それは心配いらないわ。お父さんに会ってもらうのは、『お嬢さんを僕にください』って言って貰う時って決めているから。楽しみは先に取っておく方なの、わたし」
いたずらっぽく彼女はウインクをする。濃艶に、清爽に。
夏の光が、湖面で砕かれた硝子のように光っていた。
キラキラして眩しくて、儚い青春の光のようだった。
「こんな所にお墓があるのか」
「そ、いい所でしょ。静かで、開けていて、落ちついていて。光と風と、鳥の声だけの世界。一生を終えて休むには、いい所だわ」
俺たちは木々の廂の下、ゆっくりと歩いていった。
細い隘路を抜け、開けた場所に出る。
通路を、一匹の猫が塞いでいた。茶色い、でっぷりとした三毛猫が、お腹を地面につけ前足を前に突き出し、犬の『伏せ』みたいな恰好で座っていた。そして俺たちに気が付くと、顔だけをこちらに向ける。
「こんにちは、スフィンクス。ちょっと通してくれるかな。あなたの御主人の、お参りをしたいの」
桐生の呼びかけに、猫は『しょうがないな』という顔をし、のっそりと立ち上がり、何処へとなく立ち去った。
「あの猫、スフィンクスっていうんだ。知っているのか?」
「知らないわよ。いつもお墓の前で通せんぼしている野良猫よ。スフィンクスって名前も私が勝手に呼んでるだけ。それっぽいでしょ」
『墓守』からとったのか、『スフィンクス座り』からとったのか、確かにふさわしい名に思えた。
門番の座っていた先に、立派なお墓があった。
左右に大きな灯篭があり、土を盛った高い所に墓石が置かれていた。
このお墓だけで、周囲には何もない。
「これが桐生家のお墓なのか?」
桐生の祖父も、戦前に名を馳せた小説家と聞いている。
このくらいのお墓であっても不思議はない。
「そんな訳ないでしょ。家は一般家庭なのよ。こんな独立したお墓、持てる筈ないじゃない」
いや多分あなたの代になったら、『桐生家三代のお墓』が記念碑みたいに出来る気がするんですが。
「これはね、『江戸城無血開城』の幕府側立役者のお墓よ」
ああ、あの人か。軍艦奉行のあの人ね。
「家のお墓にお参りする前に、ここに寄りたかったの。ちょっと思うところがあってね……」
奥歯に物が挟まった物言いをする。
桐生は手を合わせ、目を瞑り、黙祷する。俺もそれに倣う。
幾ばくかの時が流れた。黙祷を終え、桐生がきっと口を結び俺を見つめた。
「こっちに来てくれる。見せたいものがあるの」
お墓から少し離れた場所に、石碑があった。桐生はそこに向かって行った。
朝蒙恩遇夕焚坑
人生浮沈似晦明
縦不回光葵向日
若無開運意推誠
洛陽知己皆為鬼
南嶼俘囚獨竊生
生死何疑天附與
願留魂魄護皇城
石碑にはそう刻まれていた。
桐生はその文言をじっと見つめている。
「この石碑になにかあるのか。この漢詩は、この人が生前残した言葉なのか?」
桐生の思惑を測りかね、俺は質問をぶつける。
「違うわ。この七言律詩を詠ったのは、『江戸城無血開城』のもう一人の立役者、あの人よ」
俺は恰幅のよい、維新三傑の一人を思い浮かべる。
「朝に恩遇を蒙りて 夕べには焚坑せらる
人世の浮沈は 晦明に似たり
縦い光を回らさざるも葵は日に向う
若し運を開く無きも 意は誠を推す
洛陽の知己 皆鬼と為り
南嶼の俘囚 獨り生を竊む
生死何ぞ疑わん 天の附與を
願わくば魂魄を留めて皇城を護らん」
桐生は朗々と詠いあげる。
「朝に主君の恩恵を受けたと思えば、夕方には生き埋めにされる。
人生の浮き沈みというものは、輝く昼と昏い夜のように移り変わるものだ。
向日葵は日が射さなくても、いつも太陽を向いて咲いている。
もし運が開けなくこの南の島で朽ちたとしても、忠義の心は失わない。
京で共に闘った同志たちは、みな使命をまっとうして散っていった。
南の小島で囚われの身となり、私だけが生き恥を晒している。
人間の生き死には天から与えられるもので、人がどうこう出来るものではない。
ただ願わくば、死んでも魂だけはこの世に留まり、霊魂となって皇城を護り続けたい。
…………こう詠っているわ」
確か藩主の怒りを買い、島流しになったことがあった。その時のことか。
けれどなんでまたそんな詩が、ここに刻まれているんだ。
この墓の主とは敵同士じゃないか。
「あの人が内戦で亡くなった時、この墓に祀られた人は悲しんだそうよ。その死に、日本が失った大きな損失に。そしてこの人の手元には、あの人の書が残っていた。これがそうよ。あの人の直筆を写した石碑……あの人の文字よ。そして石碑の裏側には、このお墓で眠っている人の書が刻まれている。……見て……」
俺は裏に回り、石碑を見る。
あった。書が刻まれていた。
『慶応の戊辰の春、君は大軍を率いて東下す。人心は鼎沸し、市民は荷担す。我は之を憂えて一書を屯営に寄す。…………』
官軍が、江戸城に向けて進軍した時の事だ。書はなおも続き、二人のやり取りについて語られる。
『…………之を欽慕して自ら止むを能わず。石に刻み、以って記念碑をつくる。ああ、君は我をよく知り、而して君を知ること我に若くはなし。地下にもし知る有らば、きんぜんをもって一笑せんか』
君が昔書いた、この詩を見た。君を敬慕し、詩を石に刻み、記念碑を作った。君はよく私のことを知り、そして君を知ることでは、私に敵う者はいない。地下でもし君がこの記念碑の事を知ったならば、きっと嬉しそうに笑うだろう。――そう結ばれていた。
石碑を見る俺に、桐生は後ろからそっと近づいてきた。
そして俺の背中に抱きつき、両手でぎゅっと抱きしめる。
「……あなたは私の太陽よ。そして私はあなたに真っ直ぐに向かう向日葵。陽が射さなくとも、私があなたを見失うことはない。例えあなたが他の人を愛し、私に愛を与えてくれなくとも」
静かに、だが激情をもって、桐生は語りかける。
「あなたが死んでも、見失わない。私が死んでも、魂となってあなたを守る!」
いつか、睡蓮の上で儚く消えた、あの人の言葉が思い返された。
「これが私の気持ち。…………わかってくれた?」
愛と云うには、重すぎる気持ちだった。
結ばれなくともよい。報われなくともよい。ただ貴方を護ります。たとえこの身が滅び、魂となっても!
結婚の誓いよりも、なおも激しい、魂の誓いがかわされた。
これで二章は終りです。次回から新章が始まります。ご期待ください。
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