表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
148/148

最高の……

長くなりました。一万字越えです。

更新が遅れ、申し訳ございませんでした。

「ノイズは不快なだけでなく、有害となります。讃美歌の歌声を穢します。オルガンの音を濁らせます。天上の調べに対する、冒涜です」


亜夢美が、冷たい視線を明日香に投げかける。


「ノイズは、除去しなければ――」


亜夢美のその一言は、侮蔑であり、告死であり、号令であった。

金剛石(ダイヤモンド)の龍が、明日香に襲いかかる。

俺は振り返り、明日香の許に駆け付けようとする。


「行かせません。貴方には、私のダンスのお相手を務めて頂きます」


亜夢美はそう言いながら、槍の攻撃を繰り出す。

その突きは鋭く、俺の離脱を阻む。


「大丈夫、悠真。あなたがこの龍の力を(あば)いてくれた。そのデータがあれば、倒す事は出来なくとも、躱す事ぐらいは出来るわ」


明日香はその言葉の通り、龍の攻撃を紙一重で避ける。


「なるほど、見事な解答です。ならば、難易度を上げるとしましょう」


亜夢美は槍の石突(いしづき)部分で、床をタンと叩く。

地が、軋む。振動が床を這い、空気が震える。

亜夢美の左右にある柱が二つ、砕けた。

ダイヤモンドの粒が乱舞する。

粒は集まり、二つの固まりとなり、神性を帯びる。


難陀(なんだ)龍王、跋難陀(ばつなんだ)龍王。共に()き、沙羯羅(しゃがら)龍王を(たす)けよ。天意に(そむ)く大罪人を、誅せよ」


亜夢美の命が下る。龍たちは命ぜられるまま、討伐へと赴く。

俺はそれを見て、絶望を帯びた声を洩らす。


「八大龍王――」


それは、伝説の龍王たちの名だった。


「単に、一対三で戦うというだけではありません」


亜夢美は、さらに絶望の淵へと突き落とす。


「惑星の軌道計算も、単独ならば明快至極。重力が相互干渉する二つでも、まあなんとかなります。でもそこに、三つ目の惑星の重力が加わると、どうなるか? 難易度は桁違いに跳ね上がります。この三体問題、解けますか?」


甚振(いたぶ)るみたいな声だった。


「勇哉さんには、こちらをご用意しています」


亜夢美は再び槍で床を打つ。

彼女の背後で、柱が五本崩れる。

もうもうと立ち込める煙の中から、五体の龍が現れた。


和修吉(わしゅきつ)徳叉迦(とくしゃか)阿那婆達多(あなばだった)摩那斯(まなし)優鉢羅(うはつら)。この五柱の龍王が、貴方のお相手です。三体問題より更に難解な、五体問題を解いて頂きます」


先程の三柱の龍王たちに劣らぬ神気を放つ龍が、五柱現れた。

金剛石(ダイヤモンド)の柱から生まれた龍の五柱か。洒落にもならねぇ。



神の攻撃が、苛烈に残酷に、間断なく襲い掛かる。

彼らはまるで、五本の指だった。

独立した動きである筈なのに連携がなされ、一つの掌となって俺を握り潰す。

彼らの牙が、俺の喉元まで届く。

俺は時を遡り、死から逃れる。

そこで俺は、驚愕の事実に直面した。


同じ攻撃が、二度と繰り返されない。

おかしい。時の川を遡っているんだ。同じ流れとならないのは、合点がいかない。

これでは『未来を知り、優位に立つ』という利点が活かせない。

困惑する俺を見て、亜夢美はクスリと笑う。


「時間を巻き戻していらっしゃるんでしょう。分かります、それくらい。私にも、未来視の能力があるのですから」


そういう事か。

多分明確に視えている訳ではないのだろう。

だが時間軸の歪みを感知し、演算して、あったであろう未来を予想する事は可能なのだろう。

だから過去の未来とは違う結末にする為、異なる攻撃方法を採る。

そいうう事なのだろう。


「それにしても、随分と沢山の攻撃方法を持っているんだな。まるで技の見本市だ」


率直な気持ちを述べる。うんざりした気分で。


「研鑽しましたもの。棋士が過去の棋譜を読み漁るように、先達の戦いの記録を読み解きました」


その目は賢者のように貪欲で、狂戦士のように純粋だった。


「お嬢様が、何でそんな真似を」


彼女は闘う側の人間ではない。闘わせる側の人間だ。

自らの手を汚す必要はない。


「殴りたかったから……守られるだけの自分を」


唾棄すべき過去の自分を忌み嫌うように、唇を噛みながら言葉を零す。


「成りたかったから、貴方を守れる自分に……」


憧れの自分に恋焦がれるように、彼女は切なく涙を零す。


「その努力は、少しも苦痛ではありませんでした。むしろ快楽でした。自分が成長しているのを実感出来、痛みさえも幸せでした」


澄んだ、凛とした声だった。

気圧されそうだった。その清らかさに。


「……その努力を違うベクトルに向けていれば、いい女になれたのにな」


抗うように、軽口を叩く。


「あら! 私は十分いい女ですわよ、最高の!」


虚勢を張るのでもなく、茶化すのでもなく、厳然たる事実を述べる様に、彼女は平然と豪語する。


「だって、最高の貴方に添い遂げようというのですもの。そうでなくば、務まらないでしょう。それを自任する以上、私は最高の女なんです。またそうある様に努めました」


その自信は、揺るぎの無い物だった。

『高き所から低き所に、水は流れる』――そんな自然の摂理を述べる様に。




龍王たちは見守るように、二人を取り囲み、停まっていた。




「……分からないな」


伝えるつもりも無く、ひとり言みたいに俺は呟く。


「なにが?」


幼子に問いかけるみたいに、彼女は優しく目を細め、訊ねる。


「俺の、どこに、君にそこまで想われる価値があるんだ? あの三歳の俺がやった事だけでは、到底足らない」


彼女は少し寂しそうな顔をした。


「今の俺に、何故失望しない? 大道寺の責務を放棄し、殿倉の忌み子に血道を上げる、放蕩息子に」


俺の言に、彼女は眉尻を下げる。

転んで泣き叫ぶ子どもを見詰めるみたいに、切なげに。

傷つき自信を無くし、しゃがみ込んで背中を丸める者を、哀れむみたいに。


その貌は、慈愛に満ちていた。

そして彼女の内側から、それさえも覆い尽くすような温かい物が溢れだしていた。


「貴方は、至高なのです」


熱のこもった瞳で、彼女は語りかける。


「私は、最高です。けれど貴方は、至高です。唯一無二です。集団の中で最も優れた、最高の私とは違います。比べるもの無き、ただ一つの存在。それが貴方なのです。……何をなしたが問題ではありません。その内包する気高さが、貴方を “唯一神“ にするのです。私は、その随神にすぎません」


それは絶対真理を信じて疑わない、狂信者の目だった。


「その神のためなら、私は敬愛すべき貴方を手に掛ける事も厭いません」


彼女は槍を構え、穂先を俺に向ける。


「最期のとどめは、私の手でいたします。貴方の最期の鼓動を、この手に刻みます」


悲壮な覚悟が感じられた。主殺し、神殺しの十字架を背負うと云う。


「そして、私の胎内にお入り下さい。そこで私は新たな貴方を育みます。貴方は私の子宮を通り、新世界へと降り立ち下さい。……そしてまた、まぐわいましょう。ガイアとウラノスがそうした様に。そしてまた、新たな貴方を産みます。クロノスを産んだように。永遠に貴方を、産み続けます」


それは、母の愛か、神への献身か。いずれにしろ、狂っている。


「お(やす)みの時間です」


優しく誘うように、彼女は呼びかける。


「私の胎内(なか)で、お眠りなさい」


その誘惑に、従う訳にはいかなかった。世界のためにも、亜夢美のためにも。

俺は黄龍の鎧を纏い、赤龍の剣を構える。


「……まずはそのお邪魔虫に、二匹の邪龍に、ご退席願いましょう」


亜夢美の言葉を皮切りに、それまで控えていた五柱の龍が襲いかかる。


「これは、貴方へ想いです。(ほとばし)る力は、私の情念。引き裂く爪は、堪えた淋しさ。私の愛を、お受け取り下さい!」


これまでにない、最強の恋文(ラブレター)を突きつけられた。


「愛しています!」


摩那斯(まなし)龍王が、津波を押し返したその巨大な力を(もっ)て、体当たり(ダイレクトアタック)をかける。

俺の全身の骨が、砕ける。


「心から!」


徳叉迦(とくしゃか)龍王が、凝視すればその者の命を絶つと云う “視毒“ を放つ。

空間を歪め無効化しようとした赤龍の刀身に、(ひび)が入る。


「狂おしいほどに――」


和修吉(わしゅきつ)竜王が、『世界を滅ぼす』と云われる “猛毒(ハーラーハラ)“ を吐く。

それを浴びた黄龍の鎧が、青黒く変色する。



時間を遡り、それらを無効化しようと試みる。

だがそれは、叶わない。

龍王たちは連携し、死角から攻撃を仕掛けて来る。

気づいた時には、ダメージを喰らっていた。

リソースを、ダメージ遮断・回復に割かねばならない。

とても時間跳躍をする余裕が無かった。


じわじわと、存在が削り取られてゆく。

心臓に爪を突き立てられるみたいに、死が迫って来た。


「まどろみの中で、お眠りなさい。私が見守っててあげますから……」


甘美な子守歌が聴こえる。

悪魔の優しい旋律だった。




やがて俺は力を失い、倒れた。

俺は、弱い。無力だ。何も――守れない。


涙が零れた。

悔しくて、哀しくて、……申し訳なくて。

合わす顔が無かった。こんな俺の為に命を捧げた “鈴“ に。


涙は床にポタポタと落ち、一筋の線となって流れて行く。

俺はそれを、意味もなく見送る。



在り来り(ありきたり)ですが……せめて苦しまずに送って差し上げます」


亜夢美が足音を立てるのさえ(はばか)るように、静かに静かに近づいて来る。

俺の心に波紋を立てないみたいに。



「くっくっくっ」


静寂の中、俺の(きし)るような声が響く。


「あはははは」


錆びた笑い声をあげる俺に、亜夢美は眉をひそめる。


「……何が可笑しいんです? 恐怖で、気が触れましたか」


彼女は戸惑いと、苛立ちと、心配から、訊ねる。


「……これが笑わずにいられるか。俺たちの戦いはな、俺たちの知らない所で、俺たち以外の者によって、とうに勝敗が定められていたんだ」


亜夢美は怪訝な顔をする。


「 “お前の敗北“ という結末でな」


彼女の顔は、哀れな者を見るものだった。

現実を受け入れられず、現実逃避していると思った。


「俺は、弱い」


俺は認める。自信をもって。


「皆の力を借り、ようやっと戦える位に。敵であるお前に、心配される程に」


亜夢美は黙って俺の言葉に耳を傾ける。


「お前は、強い。巨大な力を秘め、あらゆる物を見通す眼を持ち、誰にも頼る必要が無い程に」


彼女の目は、一層細められる。俺の言葉を見極めようと。


「だからこそ、お前は敗ける。この非力な俺に」


その結論に、亜夢美は『ふぅっ』と溜息を吐く。


「論理が――破綻していませんか?」


彼女の瞳には、憐憫の(あか)りが(とも)っていた。


「いや、全然! ちゃんと筋が通っている」


俺は弱者だが、勝者だ。騙し討ちとかじゃない、正当な。



「ここに来る前、青翠館(せいすいかん)地下二階に描かれた幾何学的模様について、俺たちは話し合った」


俺は勝利の筋道を説明する。彼女が心残り無いように。


「そこでな、鈴が言ったんだよ。『これは集積回路(IC)だ』とな」


集積回路(IC)』――亜夢美はその意味を理解しようとする。拾い集めた未来の情報を基に。


「『これは集積回路(IC)。それには、二つの役割がある。ロジックICとメモリIC。ロジックICは演算や制御を行い、メモリICはデータを記憶する』と、アイツは言った」


耳慣れぬ言葉を、亜夢美は一言一言噛みしめる。


「考えてみれば、当然の事だ。お前、龍を八つも操っているだろう。そんな真似、何かのサポートシステムが無ければ出来っこない。……この床には、電気回路の様な物が張り巡らされている。その類だろう、これは?」


涙が真っ直ぐ、回路に沿って流れた瞬間、その事を理解した。


「そんな絡繰り(からくり)と、この “生命(セフィロト)の樹“ が混同されるのは、心外ですね」


神の御業を舐めるでない! 彼女はそう怒っていた。


「鈴はこうも言った。『神の造形物と、人間による機械工学が類似するのは、よくある事』と、実例を挙げてな」


流石に “おしっこ“ と “銃の原理“ のくだりは、カットした。

あれは、鈴だから許される。俺が生きていたのは、コンプライアンスに厳しい時代だからな。



「観察し、分析出来れば、対策も出来る。いや、していた。すでに、ここに、答えが在った。……鈴が、(のこ)してくれていた」


俺は鈴の残り香のする、黄龍の鎧を撫でる。


「これが、強き孤高のお前が、弱き支えられる俺に、敗ける理由だ」


俺の言葉に、亜夢美はたじろぐ。その自信に満ちた言いぶりに。


「受け取れ。俺の仲間が遺し、託した物を。独りでは辿り着けない、人の偉大なる御業を!」


黄龍の躰から、無数の黒い紐のような物が這い出して来た。

ねっとりとした、禍々しい空気を醸し出している。

うねりながら床を這うそれは、黒い蛇を思わせた。


蛇は、何かをつたうように進んで行く。

目には見えない。だが感じる。

蛇がつたわっている物は、金剛石(ダイヤモンド)の龍と亜夢美を繋げている何かだ。

考えてみれば、あの龍がしていた様な連携した複雑な動きを、直接操作せずに出来る訳がない。

必ず何かで繋がっている。

その繋がりを、蛇は暴走したエネルギーとなって逆流する。

何百何千の群れとなり、亜夢美へと向かう。


「鈴特製の “ウイルス“ だ。俺もさっきまで知らなかった。黄龍に潜んでいる事に」


ここのシステムが集積回路(IC)を模した物ならば、ウイルスも有効な筈だ。

それを理解していたアイツは、こんな置き土産を遺していた。

その事実を知った時、絶望が吹き飛んだ。

歓びのあまり、狂ったように笑った。


「この神殿の床に倒れ、涙をつたい集積回路が露わになって、初めて顕現した。あいつ、こういうギミックが好きだったからな」


ニヒヒッと、得意気に笑う鈴の顔が目に浮かぶ。その笑顔を思い出すだけで、涙が出た。


「ウイルスの概念はあっても、詳細は解らないだろう。俺の記憶を覗くしか、未来の情報を得る手段の無いお前にはな」


こいつ等に、ウイルスを無効化する(すべ)はない。

何故なら、俺にそんな知識は無いからだ。

俺が弱いから、こいつ等は敗ける。


「喰らえっ! これが “新開(しんかい) (すず)“ だ。とくと味わえ!」


鈴が、蛇が、祈りとなって走って行く。

彼女のように真っ直ぐに、迷いなく。





蛇が、亜夢美に辿り着く。そして、両者は繋がる。

蛇の口が、亜夢美の髪に咬みつく。

蛇は、髪を飲み込み、どんどんと進む。

口先が、髪の根本まで到達する。

蛇の口が、目が、頭が消えた。胴体に吸い込まれるように。

すると今度は、尾に変化が現れた。先程消えた頭が、尾の位置に出現した。


何百何千もの蛇が、(うごめ)いていた。

亜夢美の髪が蛇と化し、貪婪(どんらん)な口を開いていた。



彼女の後ろに、神殿のレリーフが見える。

そこには、神々の叙事詩が刻まれていた。



荘厳な白亜の神殿。海皇が、美しい髪の巫女に迫り、手折る。

その情交を、この神殿の主である処女神が物陰から覗いていた。

女神は自分の神殿を穢された事を、烈火の如く怒る。

しかしその怒りを、海皇に向ける事は出来ない。巨大過ぎる存在故に。

怒りは、被害者である女性にのみ注がれた。理不尽にも。

美しかった髪が、蛇と化す。口には、猪の牙が生える。

そしてその目に、見るものを石に変える呪いがかけられた。


その物語のレリーフが、亜由美と重なる。


「メドゥーサ…………」


それはまさに、神代の怪物。

亜由美はいま、その怪物となった。






「亜由美さまっ!」


聡美の悲鳴のような叫びが鳴り響く。

右眼から血を(したた)らせながら、(あるじ)の許へと進む。



「見ないで……ちょうだい……わたしの……こんな姿……」


苦しみに悶えながら、怪物は拒絶の言葉を吐く。


「あなたにだけは……見られたく……ない」


その言葉に、聡美の足は止まる。

忠実なる従僕である彼女の躰は、主の命に逆らえない。

だが心は、主の許へと駆けていた。

彼女の残された左眼が、それを物語っていた。



「あなたの前では……私は……美しく……在りたい……」


なんとなく、理解出来た。

亜由美は聡美という “鏡“ を通して、 “神“ という自分を磨いてきたのだろう。

聡美からの憧憬は安心を与え、賞賛は(やわ)らぎを与えた。

その崇拝が、亜夢美を更なる高みへと押し上げたに違いない。


そんな聡美が、これまでと何ら変わらない声で、亜夢美に応える。


「……なんの事ですか。この(まぶた)の裏に映るのは、亜夢美さまの美しい御姿だけです」


聡美の言葉には、虚偽も慰めも無かった。

ただ真実の愚直さのみが、如実に表れていた。


「空がどんなに曇ろうと、透き通る綺麗な青は、そのままです。真の御姿は、なんら変わる事はありません」


その言に、嘘偽りは無いだろう。

だが人の心は移ろいやすい物。いつ迄もその様な気持ちでいられるか。

そんな疑念が、亜由美の表情から見て取れた。

それは、聡美も感じたようだ。


それを見た聡美は口角をゆっくりと上げ、菩薩のような微笑を湛える。

目に強い意志を灯し、手を強く握り締めていた。



「ですが、亜夢美さまがお気になさると仰るのならば…………こう致します」


聡美は握り締めた右手を少し緩め、人差指と中指を伸ばす。

口もとに微笑を湛え、目をかっと見開く。

そして二本の指を勢いよく……残された左眼に突き刺した。



時間が止まった。空気が凍った。

あまりの出来事に、俺も、明日香も、そして亜夢美も……動けなかった。



聡美の左眼から、血が滴り落ちる。

彼女の指は、赤く染まっている。

足下には一つ、眼球が転がっていた。


「バカな子、なんて真似を……」


亜夢美の声は、驚き、当惑、そして(いと)しさに包まれていた。


それを聴き、(めし)いた両目を亜夢美に真っすぐに向け、聡美は言う。


「いつも申しているでしょう。『亜夢美さまの望まれる事は、何でも叶えて差し上げます』と。しゃがれた声をお気になさるのなら、この耳を裂きます。肉が腐る匂いを嗅がれたくないなら、この鼻を()ぎます。私のすべてを、差し上げます!」


狂っている! そう思った。

何故そこまでする。

忠誠という言葉では、説明出来ない。


「亜夢美さま、私は幸せなのです。貴方の御心の沿うのが、貴方のお役に立てる事が。私の為でなく、貴方の為に生きられるのが……」


聡美は、本当に幸せそうだった。


「だって亜夢美さまは――」



聡美の脳裏に、宝石の様に煌めく、出会ったあの日が甦る。






◇◇◇◇◇






相馬(そうま) 聡美(さとみ)と もうします。これより亜夢美さまに せいしんせいい おつかえいたします」


教わった口上(こうじょう)を、つかえながら、それでも間違わずに言い切った。

幼い五歳の私は、大任を終え、ほっと一息をつく。

『褒めてもらえる』――そう、思っていた。



「そんなこと、しなくていいわ」


「え?」


我が耳を疑った。言葉を間違えて申し上げたのかと思った。


「わたしは、ひとりで何でも出来るようになるの。……神さまになるんだから」


「神さま?」


意味がよく解らなかった。

『殿倉家』は我が一族の(おさ)。偉大なる先祖の血を、一番濃く受け継ぐ家。『相馬家』が忠誠を誓う方と聞かされていた。ならば……。


「わたしたちは おおきくなると 『おとな』になると おしえられました。『殿倉さま』は 『神さま』になるのですか?」


幼い頭で、必死に理解しようと努めた。

そんな私を見て、亜夢美さまは遠い目で語りかけられる。


「神さまって、見たことある?」


「まだ おあいしたことは ありません。『お前も大きくなったら何時か、神さまと繋がる時が来る』と お父さまには いわれましたが」


意味は分からない。幼い私は、父に言われた事をオウム返しに語るだけだった。


「そうだったわね。あなたの家は、そういう家だったわね」


思慮深いお顔で、亜夢美さまは仰られた。

すごい! この方は何でも知っているんだ。私は素直にそう思った。


「あなたの言う神さまは、人の力の及ばない、台風や吹雪みたいな、わたしたちとは違う場所にいるモノ」


訳が分からなかった。


「そういうのじゃないのよ、わたしの大すきな神さまは!」


私の表情を見て、亜夢美さまは笑いながら説明する。


「三さいの時に、わたしは出会ったの。わたしの、神さまに」


とろんとした、とろける様なお顔で言葉を続けられる。


「そのかたはね、わたしを守ってくれて、 “にほん“ を守ってくれて、 “せいぎ“ を守ってくれたの」


……話が大き過ぎて、よく分からなかった。


「わたしは、何もできなかった。ただ守られるだけだった」


亜夢美さまは、ぎゅっと手を握り締め、唇を噛み締める。……くやしそうに。


「そんなわたしは、だいっキライ。だからわたしは、強くなる。神さまを守れるくらいに!」


少女は誓う。自分自身に。


「あなたは見ていて。そんなわたしを。逃げだしたり、へこたれたりしない様に」


私は鏡。この方を映す鏡。


「それがあなたの、お役目よ」


唯々諾々(いいだくだく)と従うのではない。主人の道標(みちしるべ)とならなくてはいけないのだ。


「字は、よめるわね」


「ひらがな、カタカナ、あと かんたんな かんじなら……」


私は、自分の無能さを恥じた。この人に失望されたくない。そんな恐怖感だけがあった。


「なら、だいじょうぶね」


そう言うと彼女は立ちあがり、部屋の奥へと向かい、押し入れを開ける。

そこから、うんしょうんしょと、何かを引きずって来た。

大きな葛籠(つづら)だ。中には何かが詰まっていて、重そうだった。

そして亜夢美さまの席まで運ぶと、中から一つ取り出して、私に手渡した。


「これ、読んで。神さまへの、お手紙」


渡されたのは、表に『だいどうじ ゆうや さま』と幼い字で書かれた封筒。

その中に、手紙が収められていた。

私はその手紙を取り出し、広げ、読む。




『ゆうやくん。おげんきですか。わたしは げんきです。ううん。うそをつきました。ちょっと げんきが ありません。……ホタルを みたんです。きれいなきれいな川で いっぱいいっぱい飛んでいました。いいな ホタルは。たくさんトモダチがいて。わたしは ひとりです。トモダチは いません。だれもわたしのこと だきしめてくれません。 ちかよって くれません。 だきしめてくれたのは ゆうやくんだけです。 ……あいたい。 あって ギュッとだきしめてほしい。 ゆうやくんのぬくもりを かんじたい。 あのひのぬくもりが わすれられません……………………』



延々と、幼い恋心が綴られていた。

見るだけで身を切られるような、切ない想いだった。


私は、心に刻むように読み上げた。






帝都の女学校に来て二年目の夏。私は寄宿舎の廊下を、静かに、急ぎ、亜夢美さまの許へと向かう。部屋に辿り着くと普段はしない乱暴なノックをし、入室する。


「失礼します。蒼森の主馬(かずま)さまから、電報が届きました」


ただならぬ雰囲気に、亜夢美さまは真剣な面持ちとなる。

私は厳粛に、電報を読み上げる。


「『シキュウ アオモリヘ カエレ  ダイドウジ ナオキシ センチニテ シボウ  ミッカゴ ソウギヲ オコナウ』……」 



「来るべき時が、来たのね」


実質、大道寺 直輝は死んだも同然だった。

肉体は生きていたが、すでに魂は死んでいた。


「喪主は勇哉さんが務めますが、実際取り仕切るのは主馬さまです」


まだ若い勇哉には県内外の有力者との繋がりも、彼らを従わせる手練手管も無い。


「それは、これからも続くでしょう。主馬さまの後見人としての地位は、揺るぎない物となります」


まるで清須会議における、秀吉と三法師(さんぼうし)だ。

この葬儀で、大道寺の背後に在る殿倉の影が、より印象づけられるだろう。


「お二人の婚礼も、間近ですね」


当然そうなる。

外見(そとみ)中身(なかみ)に合わせるように。


「肝心の勇哉さんのお気持ちが、置き去りよ」


亜夢美さまは、クスッと笑う。


「そんな物、選択の余地は無いでしょう。こんな状況では」


有力者同士の婚礼は、政治だ。恋愛ではない。


「それは、悪手よ。そんな事をすれば、勇哉さんは大道寺を捨てるかもしれない」


そんな馬鹿な。

何百年と続く家を、そんな簡単に。


「あの方は、そういう人よ。地位も名誉も、一顧だにしない。多分『分家のどなたかが、お継ぎください。僕は大道寺と縁を切りますから』と仰るでしょうね」


家を第一に考える私たちにとって、神殿で乱痴気騒ぎをする様な恥知らずな行いだ。


「私はね、別に勇哉さんと結ばれたいとか、大道寺に嫁ぎたいとか、そんな事思っていないの。ただ、勇哉さんには幸せになって欲しい。最高の女性と結ばれて欲しい。そう思っているの……」


そんな背教者を咎める事なく、むしろ愛おしそうに頬を緩める。


「だから私は努力する。最高の女性を勇哉さんに与えるために、 “最高の女性“ を用意するの。私より優れた女性が現れたら、その席を譲ってもいい。けれどそんな事になったら、私はもっと努力をして、その人より “最高“ になってみせる!」


亜夢美さまの瞳には、揺るぎない意志が灯っていた。


「結果、勇哉さんと私が結ばれるのは、必然なの」 


フフッと、少女らしい無邪気な微笑みを浮べた。

この笑顔を守る為なら、悪魔と契約しても構わない。そう思わせるほど、美しかった。




「お聞きになっていらっしゃいますか? 勇哉さんの、最近の、その……」


「アメリアさんとのこと?」


言いよどむ私に、亜夢美さまは平然と言い放つ。


「もちろん知っているわ。家の者に勇哉さんの動向を把握し、報告する様に言ってあるもの」


やはりご存知だったか。私の耳にも入っている。

昨年より彼は飛鳥山に入り浸り、不義の子・アメリアと密会を重ねていると聞く。

亜夢美さまは、どんなお気持ちでいらっしゃるのか……。


「もしかして、私がアメリアさんに嫉妬していると思っている?」


頬に右の人差し指を一本だけ当て、小首をかしげてお訊ねになられる。


「……綜馬(そうま)さまと小夜姫(さよひめ)の物語は、知っているわね」


先程までの可愛らしい声が低くなり、真剣味を帯びた口調となる。


「綜馬さまの最期の時、小夜姫を救いに行った時、彼は何を願っていたのかしら……」


遠い目で、まるで独白(どくはく)みたいに語られる。


「小夜姫を自分のものにしたい、彼女と添い遂げたい、そんな事を考えていたと、思う?」


あり得ない。彼の想いは、もっと崇高なものだ。

そんな風に思うのは、彼らに対する侮辱だ。

飛び散って顔に付いた泥を払い落とすように、私は(かぶり)を振る。


「私の想いは、その時の彼らに似ている。ただ相手の事しか考えられない……」


彼女の瞳は、これ以上ないくらい、澄んでいた。


「アメリアさんが “最高の女性“ ならば、負けを認めて引き下がってもいい」


亜夢美さまの声から、抑揚が消えて行く。


「けれど、彼女では勇哉さんを幸せに出来ない」


冷たい、凍るような声だった。


「あの人の生い立ちが、それを許さない」


冷厳な “殿倉の貌“ が、そこに在った。


「憎むべき敵の姿をして、隠れるように山に籠る “飛鳥山の鬼“ 。そんな彼女と結ばれる事に、皆の祝福が得られると思う?」


私は言葉に詰まる。


「戦争が終わり、敵が支配者となり、事態は変わるかもしれない。でも憎しみは、終わる事はない」


それは、真理。幼い頃から社交界の悪意に触れて来た、亜夢美さまが()る真理。


「どんなに憎悪を消そうとしても、一旦布に付いた墨は、薄れる事はあっても消える事は無い。……私はね、幸せになって欲しいの、勇哉さんに。一点の曇りも無く!」


それは祈りを捧げる巫女の貌だった。




「変わられましたね、亜夢美さま……」


私は思わず零す。


出会った頃に書かれていた手紙には、いつもこんな言葉が綴られていた。

『会いたい』『淋しい』『愛しています』――ご自分の心情を綴った言葉ばかりだった。


最近のお手紙は、違う。


『お元気ですか』『何かお困りな事はありませんか』『最近嬉しかった事は何ですか』『桜の花は咲きましたか』『空襲は大丈夫ですか』『美味しいお菓子が手に入ったので送ります』


そんな、相手を思いやる言葉で溢れていた。

そのお手紙も、あの方には届かない。



「ずいぶんと溜まりましたね、神さまへのお手紙……」


とうに千を越え、もうすぐ万に届くだろう。

亜夢美さまのこの想いは、届くのだろうか。


……届かせてみせる。

そうでなければ、亜夢美さまが哀れだ。


五歳の時から、亜夢美さまが書かれるのを傍で見てきた。

汗が滴る暑い日も、手が(かじか)む凍る日も、一日も欠かさず書かれてきた。


これは祈り、崇拝、……なんと言えばいいのだろう。

彼女の存在が、神の国を手繰り寄せる。

その神域の(へり)で、私は誓う。


亜夢美さまへの忠誠を。

至高なるものへの献身を。


この身も、心も、すべて捧げます。

だって亜夢美さまは――。






◇◇◇◇◇






「亜夢美さまは―― “最高の神さま“ なのですから」


赤く滴る血が、彼女の高潔さを彩る。想いの深さを物語る。


「亜夢美さまが、 “神さま“ なのではありません。 “神さま“ とは、亜夢美さまを指す言葉なのです。他の有象無象の神は、貴方の亜種にすぎません!」


血の滲む(まなじり)で見詰め、掠れた声を張り上げ、聡美は叫ぶ。


『そう。あなたこそが、この世の正義、美しさの定義、穢れなき存在』と。


迷いなく、絶対の信念をもった声が、神殿中に木霊する。

まるで(デルフォイ)の宣託のように。



高潔なる魂、敬虔なる信仰により、彼女たちは繋がれている。

二人は(もつ)れ合い(から)み合い、一つであった。

世界が、(やさ)しさと(いと)おしさで微笑む。

その中心に、二人の少女の姿があった。



それは、醜悪な化け物だった。

だが(とうと)く、清らかで、例えようもないほど――美しかった。

俺はその美しさに、目を奪われた。

『最高』ってなんでしょう? 求めるものによって、その姿は異なります。


『ブックマーク』、『星評価』、『いいね』をお願いします。下段のマークをポチっとして頂くだけです。それが執筆の何よりの糧となります。……筆者の切なるお願いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ