月の子
建物が、ライト館が、崩れて行く。
スダレ煉瓦が、光の籠柱が、サラサラと、砂のように。
彼女の思い出が、役割を終え、消えて行く。
暗い夜空が、現れた。
月が、冴え冴えと白い光を放っていた。
白い光が集まり、銀の板に変わる。
板は連なり、螺旋階段となる。
それはどこまでも高く、月まで続いていた。
「あれが第九のセフィラ―― “イェソド“ 」
明日香が “月“ を指差し、呟く。
俺は拳を握りしめ、足を踏みしめ、天上世界へと進む。
もうどのくらい登ったのだろう。
時間の感覚も、分からなくなっていた。
時間ではなく距離で測ろうと、足下を見やる。眼下には、青い地球が輝いていた。
「わたしはカモメ……」
先人の言葉が、思わず零れる。
「『鷲は舞い降りた』――でしょ、そこは。ここで終わる訳にはいかない。何としてでも、あそこまで行くのよ」
明日香は上を見つめながら、呟く。そこには、白く光る月が浮んでいた。
宇宙に出るのではない、月まで到れと彼女は言う。
男は過去を見て、女は未来を見る。
月がだんだんと、迫りくるように大きくなる。
「もう少しだ」
俺は明日香を励ますように、自分を奮い立たせるように、言葉を放つ。
そして最後の一段を登る。
「……着いた」
光は無く、闇に覆われていた。今は、夜か。
目が慣れ、うっすらと周りが見え始める。
そこは寂寞とした、草木の一本も生えていない荒野だった。
白い岩石が剝き出しのまま、あちらこちらで転がっていた。
俺はこの光景に似た場所を知っている。
下北半島にある、『恐山』。
俺たちは周囲を探る。敵がいる筈だ。
気配を感じた。獣臭い、生暖かい空気が流れて来た。
俺と明日香は目配せを交わし、頷く。
少し離れた場所で、ゴゾゴゾと蠢くものがいる。
俺たちは細心の注意を払い、そちらへと進む。
小高い丘に、五つの影があった。
俺たちは物音を立てないように慎重に近づき、その正体を探る。
全身が白い毛で覆われていた。
眼は顔の両側に位置し、360度見渡している。
耳は悪魔のように大きく長く、僅かな音にも反応している。
彼らは警戒を、最大限にしていた。
そしてその手には、巨大なハンマーが握られていた。
彼ら内の一人が、両手でハンマーを頭上に持ち上げる。
ハンマーが、力強く振り下ろされる。
『ぺったん』――粘り気のある、湿った音が響いて来た。
ハンマーが振り下ろされた先には、木の幹を半円形に抉った『臼』が置かれていた。
『はいっ』――その掛け声と共に、そこにいた少女が、臼の内部の物を捲り、返す。
『ぺったん』『はいっ』『ぺったん』『はいっ』…………。
杵でつかれ、臼の中で、熱々の餅が出来上がって行く。
俺たちは今、月面で、『兎の餅つき』を目撃していた。
俺と明日香は、唖然となる。
「あら、いらっしゃい。丁度つき終わった所よ。いまちぎって丸めるから、一緒に食べよう。つきたてで、アツアツで、モチモチで、ウマウマだよ!」
白い着物をたすき掛けにした少女が、俺たちに呼びかける。
彼女は腕で汗を拭い、太陽のような笑顔を浮かべていた。
その顔を見て、俺は驚愕する。
それは先程亡くなったアユミの、少し成長した姿だった。
「……アユミ?」
死んでなかったのか。俺の目から、涙が流れた。
「うん、 “あゆみ“ だよ。初めまして」
少女は朗らかに答える。……『初めまして』?
俺の戸惑いを察した明日香は、前に出て、少女に問いかける。
「初めまして、 “あゆみ“ ちゃん。いま、何歳かな?」
「五歳! おっきくなったでしょう。もう何でも、出来るんだから!」
彼女は右手の五本指を広げ、誇らし気に叫ぶ。
「やっぱり、そういう事か」
明日香は腕組みをして、唇を噛む。
俺も、それで全てを理解した。
ここに居る “あゆみ“ は、三歳から五歳に綴られた言霊。
王国で出逢ったあの “アユミ“ は、もう何処にも居ない。
「あっちで食べよう。今夜は、空が澄んでいる」
あゆみはそう叫びながら、丘の上に駆けて行く。
「夢みたい。本当に、お話出来るんだ」
彼女は満面の笑みで、呟いていた。
丘の上には、赤い布を張った長椅子が置かれていた。
あゆみは端に腰かけ、その横をパンパンと叩いて『こっち、こっち』と呼びかける。
俺はそこに坐った。明日香は少し離れて、そんな二人を見守っていた。
俺とあゆみは長椅子に腰かけ、地球を眺めながら、餅を頬張る。
「おいしいねっ。やっぱり、つきたてが一番」
熱い餅を、ふうふうと息を吹きかけ、美味しそうに食べる。
「最高にキレイな物を見ながら、一番美味しい物を食べて、大好きな人と一緒にいる。……こんな幸せ、あったんだね」
あゆみは愛しそうに、俺を見つめる。幸せを噛みしめていた。
そして一通り俺を眺めまわした後、視線を空へと向ける。
「今夜は十五夜。地球が、よく見える……」
椅子に座り、顔を天に向け、足をブラブラと揺らしながら、彼女は全身で嬉しさを表現していた。
俺もそれにつられ、天を仰ぎ見る。
空に、地球が浮んでいた。
俺たちはあそこから歩いて来たんだよな。重力とは一体……。
「キレイでしょう……」
少し大人びた口調で、あゆみは囁く。
「私たちはみんな、あそこで生まれたの……」
切ない声で、彼女は語る。
「けれど、どんなに美しくて、懐かしくても、いつ迄もあそこに留まっていては、いけないの。お父さんお母さんの手を離れるみたいに、あそこから巣立たなければならないの。私たちは、為すべき事を為さねばならないの」
それは己の存在理由を理解した、大人の貌だった。
「このまま通してもらう訳には、いかないのか?」
一縷の望みを託し、俺は問いかける。
彼女は哀しそうに、顔を横に振る。
「そうか……」
俺は手に持った餅を頬張る。
餅は熱く、苦い味がした。
そんな俺を、あゆみは『ふふっ』と笑い、愛しそうに見つめていた。
そして『よいしょっ』と勢いよく長椅子から飛び降り、両手の指を絡め、『う~ん』と空に手を伸ばす。
「じゃあ、やろっか。……お話し合い!」
俺たちは、肉体言語による会話を始めた。
濃く、激しく、めくるめく時間だった。
◇◇◇◇◇
「きゃっ!」
明日香が叫び声をあげた。足が縺れ、階段を躓きそうになる。
「大丈夫か!」
下段にいた俺は素早く近寄り、彼女を支える。
「ありがとう、助かった。……ごめん。ちょっとだけ、休ませてくれる」
明日香は申し訳なさそうな顔で謝り、階段に座り込む。俺もその下の段に坐る。
「銀河鉄道が通ってたら、よかったのにな」
「本当よ。歩いて行く場所じゃないわよ」
俺たちは愚痴をこぼし合い、笑い合う。同じ苦しみを共有した者同士の、連帯感に基づく笑いだ。
そしてこれからを見据え、これまでを振り返る様に、周囲を眺めた。
俺たちの頭上には、第一の球体 “王冠“ ―― "海王星" が輝いている。
足下には “知恵“ ―― "天王星" 、 “理解“ ―― "土星" 、 “慈悲“ ―― "木星" が連なっている。
その足下の星々で、多くの "亜夢美" を殺めてきた。
三歳の "アユミ" 、五歳の "あゆみ" 、七歳、九歳、十一歳、十三歳、十四歳、十五歳、十六歳。
九人の "亜夢美" を、葬ってきた。
その全てを、俺がやった。
明日香が見るに見かねて、『代わろう』と言ってくれた。
だが、断った。これは、俺がしなければ意味が無い。
彼女たちの声を聞き、想いを受けとめる事を。
それはとても哀しく、やり切れなかった。
俺たちは、限界に達していた。体力的にも精神的にも。
……溢れる寸前だった。
「もう大丈夫よ。手を貸してくれる、立ち上がるのに」
明日香の顔色は青いままだ。それでも無理して立ち上がろうとする。
「ああ」
俺は右手を差し出す。
俺の身体なら、いくらでも使え。
明日香は差し出された腕を両手で掴み、胸に押し付け、抱きしめる。
「おいっ」
そんな使い方を、するんじゃありません!
「いいの、いいの。海王星は風が強いから、はぐれない様にしないとね」
明日香のアームロックが、しっかりと極まる。
「なにせ時速2,200㎞だから、あそこの風」
「にせん……!?」
聞き間違いか。
確かハリケーンの歴代最速が、時速300㎞と聞いた事がある。それの7倍?
時速2,200㎞といったら地球上でマッハ2。F-35のマッハ1.6より速いじゃないか。
「俺は戦闘機と衝突して、無事でいられる自信はない……」
間違いなく、吹き飛ばされる。
「大丈夫、何処に飛ばされても、見つけてあげる。私が持っているボイジャー2号のデータを使って、あなたの痕跡を辿って、この惑星の何処でも迎えに行ってあげる」
本当にやりかねないからな、こいつ。
「その身が荒れ狂う嵐の “大暗斑“ に在ろうと、地球上の大気圧の10万倍にもなる “大気圏最下層“ に落ちようとも、きっときっと助け出す」
随分と具体的な例えを。
お前、専門はミステリーだろう。こんな天文学的な知識が、トリックに役立つとは思えないが。
「えらい詳しいな。分野が違うのに」
「調べたから。『ギャラクシー急行 殺人事件』を書いた時に」
…………タイトル!
「聞いた事ないぞ、そんなツッコミどころ満載のタイトル」
「ボツを食らった。お蔵入りになった」
「…………」
「『SFなのか、ミステリーなのか、ホラーなのか、ラブストーリーなのか、焦点がぼやけている』とダメだしされた」
さもありなん。もっともな意見だ。
「けどね、どれも必要な要素だったの。削る事は、出来なかった……」
振り絞るような、苦しみに満ちた声で明日香は言う。
「胸を張れる作品だった。編集者も、『いい作品だ』と言ってくれた」
誇らし気に、我が子を愛しむみたいに語る。
「でも、『売れる作品ではない』『読者が求めている物じゃない』とも言われた」
切ない目で、その時を思い返しながら、言葉を続ける。
「そこで私は知ったの。『いい作品』『正しい物』を世界は求めているんじゃない。『世界が必要とする物』が、正しいんだと」
それは挫折であり、社会の理を認識した事でもあった。
「だから、あなたがあの子達に肩入れする気持ち、分からないでもないの。決して間違えていないのに、否定され排除される、あの子達への気持ち」
ああ、そうか。彼女はこれを言いたかったのか。俺の苦しみを慮っていたのか。
「それに、もしかして……。メアさんと重ねて見てた? 一族に疎まれ人里離れた山奥に追放された、彼女と……」
確かに彼女は、『罪の子』――『月子』と呼ばれていた。
明日香の言う事も分かる。だが……。
「――ちがう。メアは、追いやられてあの山にいたんじゃない!」
俺は否定した。それだけは、認めちゃいけない。
「あの山は、メアそのものだったんだ!」
メアの存在を、否定してはいけない。
「あそこは、空は果てしなく高く、四季の生き物が放つ声は力強く、吹く風は清らかで穢れを払う。そんな、場所なんだ」
解ってくれ、その素晴らしさを。
「空気が淀み、星の光も見えない、物音を立てるのさえ気を遣う、俺たちが住んでいた街とは、違う」
便利さ、快適さと引き換えに、俺たちは何かを失っている。
「持っているとか持っていないとか、豊かだとか貧しいとか、そんな物差しでは計れない存在なんだ!」
“幸せ“ とか “満ち足りる“ とかは、そんな物じゃないんだ。
俺はハアハアと息を切らせながら語る。この思い、伝われと。
明日香は横で俺の腕を握りしめ、俺の顔をじっと見つめていた。
「あなたが、メアさんに惚れた訳が分ったわ」
彼女は柔和な顔で、俺に微笑む。
「そしてメアさんが、あなたに惚れた訳も」
ちょっと揶揄うみたいな、悪戯っぽい表情が加わる。
「今度は、私に惚れる訳を教えてあげるね」
俺に宣言する様にも、己を鼓舞する様にも見えた。
「負けないぞ――!」
彼女はそう叫び、両手を天に突きあげる。
そして軽やかな足取りで、宇宙の階段を登って行く。
目的に辿り着こうというより、自らが高みに昇って行くみたいだった。
ゴールは、目の前だった。
『ギャラクシー急行 殺人事件』――お分かりですよね。元ネタは、アレとアレです。
そりゃ、ボツ食らいます。
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