マスカレード
一人の少女が、泣いていた。己の罪に堪えかねて。
一人の男が、慰めていた。彼女を罪悪感から救おうと。
二人は寄り添うように、生きていた。
「あのね、あのね、帽子屋さん。ジャックが、ジャックが……死んじゃった。お友達とケンカを始めて、殺し合って、みんな、みんな……死んでしまった。……止められなかった。ごめんなさい」
少女は涙を堪え、必死に伝えようとする。事のあらましを、取り返しのつかない申し訳なさを。
「……そうですか。つらかったですね、そんな責に苛まれて。あなたは何も、悪くない。彼らの業が、悪かったのです」
男は責めるでなく、優しい労わりの言葉をかける。
「彼らは、殺し合う運命にあったのです。己の歩んだ人生で、決して譲れぬモノを、守るべきモノを侵し合い、どうしょうもない所まで来ていた。その破綻した瞬間の記憶を消しても、何かのはずみで吹き出し、そうなるのは必定でした」
彼は、彼女の重荷を少しでも軽くする様に、語りかける。
マッドハッターは膝を折り、目線をアミユに合わせ、滴り落ちる彼女の涙を拭う。
「いつも申し上げているでしょう。『最強の仮面は、女の子の笑顔』だと。……笑って、女王陛下!」
彼の表情は、窺い知れない。白塗りで金銀箔で装飾され、口もと以外が覆われた、コロンビーナと呼ばれるハーフマスクに隠されている。
だがその声は優しく、思いやりに溢れていた。
『うんっ!』とアユミは元気よく答え、満面の笑顔を仮面の男に向ける。
そこには揺るぎない信頼と、愛情があった。
「では、ご照覧あれ。あなたの忠実なる僕の、戦いぶりを」
彼は膝を伸ばし、立ち上がり、俺たちを見据え、歩き出す。
「あいつは、何者だ?」
迫りくる敵を指差し、隣の明日香に訊ねる。
「ジャック、クイーンときたら、次はキングでしょう。ダビデ王か、カール大帝か、アレキサンダー大王か、それともジュリアス・シーザーか……」
えらいメンツだな、おい。
「私は、そんな大層な者ではありませんよ」
俺たちの会話を聞いていた男は、クスリと笑いながら話に割り込んでくる。
「私は、 "キング" などではありません。取るに足らない、些末な存在。 "愚者" ですかね、敢えて言えば」
今度はタロットかよ。
「求め、彷徨い、何処にも辿り着けない、哀れな旅人……」
彼の声には情感がこもり、異邦人のような悲哀に満ちていた。
軽妙さと愁い。どこか相反する物を内在する、矛盾する印象だった。
ウエーブのかかった黒髪のボブカットが、燕尾服にシルクハットという固い雰囲気を打ち壊す。
刺すような視線が、漏れ聞こえる明るい鼻歌で和らげられる。
氷と炎が同居しているみたいな男だった。
マッドハッターは軽やかなステップを踏み、俺たちへと近づいて来る。
だがある場所で、その歩みはピタリと止まった。
「失礼、少しだけお待ち頂けますか」
何かを見咎めたマッドハッターは、神妙な声で許しを請う。
俺は彼の視線の先を見る。
そこには、彼の仲間――ランスロットの亡骸があった。
俺は黙って頷く。
敵味方に関わらず、弔いはされるべきだ。
『感謝いたします』――マッドハッターはそれだけを言い、ランスロットの前で跪く。
彼は無言で物言わぬ仲間の顔を見る。
そしてぼそりと呟いた。
「いい顔だ……」
そう言うと懐からナイフを取り出し、その刃をランスロットの顔に当てる。
ナイフは食い込み、顔の輪郭を滑るように進み、肉を断ち、貌をえぐり取る。
あっという間に、ランスロットの躰から顔が切り離された。
マッドハッターはそれを頭上に掲げ、まじまじと見つめる。
「……味わい深い表情です。後悔、自責、恋慕……、色々な感情が混ざり合い、複雑で奥深い作品に仕上がりました」
彼は嬉しそうな声をあげる。
そして一通りデスマスクを眺めた後、おもむろにテールコートの裾を翻す。
テールコートの内側が露わとなる。
そこに、ある物が見えた。
彼が今手にしているのと同じ様な仮面が、テールコートの裏一面に夥しい数取り付けられていた。
その表情はみな苦悶の表情を浮べ、慟哭している様だった。
「うん、やはり此処ですね」
マッドハッターはランスロットのデスマスクを、テールコートの裏に取り付ける。その横には、目を引ん剝き絶望に喘ぐ仮面があった。
「驚愕、悔恨、そして絶望の仮面――。信頼していた友に裏切られ『お前もか?』と嘆く男の横が、相応しい」
世界三大美女の一人を手に入れ "パクス・ロマーナ" の礎を築いた英雄の、悔いなく終わる最期の貌でなく、奪われる悲しみに暮れる憐れな貌だった。
「人の心は、ままならぬ物。どんなに主君への忠義に厚くとも、恋の花を咲かせるのを防ぐ事は能わない。どれだけ心に秘めようと、冬に穴ごもりする蛇のように、すぐに蘇り顔をもたげる」
彼は詩を詠みあげるように、語り続ける。
「始末が悪いことに、禁じれば禁じる程、諦めようとすればする程、毒は蜜となり、苦悶は快楽となり、その心を蝕む。……そして人は、堕ちてゆく」
まるで他人事みたいな言い方に、俺は言わずにいられなかった。
「随分な言い方だな。そいつは、仲間じゃなかったのか」
「私と? これが?」
彼は取り付けた仮面を見やり、心底『意外だ』という顔をする。
そして高らかに、笑った。
「違いますよ、丸っきり違う。出自も構成も、彼らと私では別物です」
笑いを噛み殺しながら、彼は語る。
「貴方がたの言葉で言えば、彼らは " N PC" 。もっと突き詰めれば、 "哲学的ゾンビ" ですよ」
その言葉に、明日香が反応する。
「『内面的な経験を持たない』という、アレ?」
「そう。彼らの "怒り" も "悲しみ" も、仮初のもの。事象に対して、プログラムされた感情が隆起しているに過ぎない。17世紀の哲学者・ライプニッツが述べた例えがあるでしょう。『考え、感じる事が可能な機械があったと仮定する。それを風車小屋の大きさで作り、その内部を探索する。そこに在るのは、歯車が噛み合い動く、単なる作動。 "心" と云う物を、見い出す事は出来ない』と――」
マッドハッターは言う。『これは、ヒトでは無い』と。
「如何に巨大な力を得ようと、意思が無ければただの機械。貴方がたは、自動販売機が壊れたら弔うのですか?」
生命というものを、感情というものを、篩に掛ける傲慢な言い方だった。
「それでも、彼らが末期に浮べる貌は興味深い。彼らの基と成る意識が、滲み出ている。単なる人形でないと叫んでいる。それを私は、遺したいのです」
彼のおぞましい行為を、供養とでも言うのか!
「お前たちは、ベータのような "クローン" なのか?」
もはや遠慮は無かった。言葉を選ばず、ストレートに訊いた。
「それこそ、とんだ見当違い。心外ですね、あんな人造人間と一緒にされるのは」
彼は、不機嫌な声で否定する。
「私たちは、オートマタでもホムンクルスでもない」
だが、ただのヒトではなさそうだ。
「貴方とアユミは、何者なの?」
明日香が、堪りかねて答えを求める。
「彼女は、神ですよ。紛れもなく」
それは、比喩とかではなく、そのものを表しているのか。
「私は……なんでしょうね? 神に創られし忠実なる下僕―― “天使“ のようなもの……」
「 “堕天使“ も、天使の一種だよな」
天使も悪魔も、捉えるもの次第だ。能力的には、大して変わらん。
「ははっ、これは手厳しい!」
マッドハッターは愉快そうに笑う。
「でもね、思うんです。 “堕天使“ は、神に忠実だったんじゃなかろうかと。神の意に沿い、忠実に叛逆し、忠実に悪の役割を担った。悪とは、正義を否定するもの。『吾に逆らえ。吾を超えよ』――その意思に忠実に」
それは、あまりにも重い忠誠だ。
「進化の神髄、親の本質でしょう、それは」
神は何を求め、何処へ向かわせようとしているのか。
「ひとつ、お尋ねしたい事があります」
マッドハッターが、真剣な声で問いかけてきた。
「カラスが……」
その質問は、聞いた事がある。『書き物机と似ているのは、何故でしょう?』と続く、あの有名な一節。
「貴方と亜夢美を襲ったのは、何故だと思います?」
『……は?』 予想外の質問だった。そして、その意味が分からなかった。
「あの帝都での夜、 “五・一五事件“ の夜の事ですよ」
その言葉で、あの日の記憶が甦る。
幼い二人が手と手を取り合い、事件を知らせるべく、駆けた日を。
あの時俺は、強風に煽られ飛んできた看板から亜夢美を庇い、血塗れになっていた。
その血に引き寄せられて、カラスの大群が押し寄せ、二人を襲った。
俺は亜夢美を守ろうと、彼女を覆う様に抱きしめた。
カラスたちは、無防備となった俺の血肉を、啄んだ。
「本来カラスは、人を襲う事は滅多にありません。襲うのは大抵、巣や雛を守る時。四月から六月が多い」
時期は、合っている。だが『巣や雛を守る時』? 俺たちは、何もしていない。
「もう一つ。『カラスは、光る物を集める』と云われます」
『それは、『好き』という理由じゃないでしょう』――黙って聞いていた明日香が、口を開く。
「そう。警戒しているのです、未知なるものを」
マッドハッターの答えに、明日香は頷く。
「『新奇恐怖症』――『経験の無いものに、恐怖を覚える』という本能が、野生動物には備わっています。あの時カラスたちは、感じ取ったのです。貴方と亜夢美から生まれる、未知なるものを。それに恐怖し、排除しようとしたのです」
ちょっと待て! 三つの子どもだぞ。そんな話があるか!
そんな俺の気持ちを見透かしたように、マッドハッターは呟く。
「 “三つ“ ではありません。…… “三百年“ です」
……え?
「 “殿倉“ と “大道寺“ の縁は、それほど深く、長いのです」
俺たちだけの問題では、ない?
「あの夜貴方たちは、新たなモノを生み出そうとしてた。この世界を変えるモノを。三百年渡る因縁を経て。それを彼らは察知し、防ごうとした。自分たちの巣を守る為に」
俺にはまったく、見当がつかない。
「そして “神“ は、 “新たなる神“ を封印した。記憶の底に埋め、無かった事にした。貴方と亜夢美の出会いを、恋心を」
俺は、昨日取り返したばかりの記憶を思い返す。
亜夢美との甘い口づけの後、温かい舌と一緒に侵入して来た、何十何百という蠢く糸。
あれは、 “神“ の介入?
「 “ネアンデルタール人“ が “ホモ・サピエンス“ を怖れたように、 “神“ も怖れたの? “新たなる神“ の出現を」
“神“ の真意を質そうと、明日香は問いかける。
「さあ? 『 “神“ のみぞ知る』ですよ、それこそ」
マッドハッターはそれを受け流すように、肩を竦めた。
「さて、お喋りはこの位にして、……戦りますか!」
これまでと違う低い声で、彼は静かに言った。
マッドハッターは、両手を背中に回す。
何かを掴み、それを持ち上げる。
巨大な鋏が出現した。
マッドハッターは二つの持ち手を左右の手で握り、それを頭上に掲げた。
『Praise a fool, and you may make him useful.』
そう叫び、力一杯、鋏を左右に引っ張る。
鋏が、二つに分かれた。
二本の刀に、変化した。
「我は "愚者" 、常識の逸脱者。理の鎖から解き放たれし者!」
そう叫びながら、俺に襲い掛かって来た。明日香には目もくれない。
俺は明日香に目配せする。
明日香はそれを見て、俺の手を握る。
明日香の手から、何かが流れ込んで来た。
「私は、貴方の目となる。私の力は、みんな貴方にあげる!」
そう言うと、明日香は後ろへと下がった。
打ち合わせ通りだ。前衛が俺、後衛が明日香で、戦況分析をしてもらう。
「行くぞ、赤龍!」
俺の右手から、赤い剣が現れた。
赤龍の力が籠った剣だ。
相手の武器がどんな物であろうと、引けを取らない。
躰に伝わる膨大なエネルギーが、そう言っていた。
「ふふっ。どんな名刀も、使う者が未熟なら、木刀にも劣ります」
マッドハッターはそう冷笑し、大きく回転しながら横薙ぎに斬りかかって来た。
俺はそれをいなす様に受け流し、剣を躰の正面から動かさない。
第二撃が襲って来た。
初撃と違う手に持っていた刀が、交差する様に斬りつける。
俺はそれを剣を回転させながら、横へと流した。
「ほう。基本は出来ているみたいですね」
俺も大道寺の人間。小さい頃から武芸は仕込まれている。
「だが、弱い、遅い」
彼は見下すように言う。
それは、承知している。
俺は奴より一回り小さく、力は弱く、動きは遅い。
だが……。
「代わりに、技がある、知恵がある。大道寺の技が、明日香の知恵が。それは貴様の力を、速さを、凌駕する」
俺は自信を持って宣言した。脳筋に、負けるつもりはない。
「若者の根拠のない自信は、見るに堪えないですね。現実を、教えて差し上げましょう」
刀の棟で肩をトントンと叩きながら、余裕綽々といった風情で、マッドハッターは言い捨てた。
「よろしく、先生――」
俺は挑発するように言い返す。
「二刀の優位性は、小刀で相手の剣を押える事よ。 "平青眼の構え" をとって。剣先が中心から外れるから、押さえられ辛くなる。大刀は、上段から振り下ろしてくる筈。そっちに注意して。小刀はあまり気にしなくていい。二刀はバランスを取るのが難しい。必ず隙が出来る。そこを、突いて!」
明日香の指示が、後ろから飛んで来た。
「ですって!」
俺の更なる挑発に、彼は苦虫を嚙み潰したような顔をする。
「それでは参ります」
俺は自信を持って、攻撃を仕掛けた。
……おかしい。何かが変だ。
こちらの思惑が、見透かされている。
まるで約束稽古みたいに、俺の攻撃が流されてゆく。
俺の動きが、読まれている。
未来視? いや、ちがう! 動きが、思考が、筒抜けなんだ。誘導されるように、動かされている。
昔、この様な経験をした事がある。遠い昔に。俺はその時を思い出す。
頭に、昔の情景が浮んだ。
俺がまだ、今の紬より幼かった頃だ。
小さな身体で木刀を構え、大人相手に打ち込みをしていた。
俺が打つ所打つ所全てに、相手の木刀が待ち構えていた。
それを相手は、嬉しそうに受け止め、叫んでいた。
『いいぞ、その調子だ。もっと流れるように!』――父はそう言いながら、俺の剣を導いていた。
そういう事なのか?
「悠真! あなたの動きは、マッドハッターと一緒! 同じ流派みたいに、同じ流儀に則って動いている!」
明日香の声が、届いた。
その言葉で俺は、確信を得た。真実の、勝利の。
進むべき道を示され、俺はそれに向かって突き進む。希望を持って。
「いっけえぇ――」
俺はビートに乗り、ステップを踏み、身体をのけ反らせ、ウエーブさせ、敵の剣を躱しながら、剣を突き立てる。
はっきり言って、邪道だ。美しくない、理に適ってない。
だがこれは、悠真が考え出した剣だ。勇哉でなく、悠真が。
飛鳥山で鍛錬していた時、悠真の未来の記憶から引き出された剣だ。
洗練されてなく、みっともない剣だ。
だが先鋭的で革新的で、虚をつくには十分な一撃だった。
斯くしてこの剣は、奴の刀をすり抜け、彼の仮面に届いた。
仮面が、俺の剣を受け止め、ひび割れてゆく。
無表情だった仮面が、亀裂により驚愕と云う感情を浮かび上がらせた。
そして仮面は、砕けた。
だが浮かれてはいけない。
これからが正念場だ。
奴も本気で来るに違いない。
マッドハッターの素顔が、露わとなった。
俺は戦うべき相手を見極めようと、視線を投げる。
そこで俺は、衝撃を受けた。
「父……さん?」
そこにあったのは、幼い頃に見た、父の顔だった。
あの “五・一五事件“ の夜、優しく抱きしめ『お前は私の誇りだ』と言ってくれた父だった。
俺は、動揺した。俺は、父さんと戦うのか。
「そうじゃない! 悠真、よく見て!」
明日香が、叫ぶ。その声が、俺の目を覚ませた。
ちがう! よく見ると、ちがう。
目が、口が、表情が、少しずつ異なっている。父とは、似て非なるものであった。
俺は、この顔を知っている。
ある意味、父さんよりも此処にありうべからざる存在。
それでも、理解した。
物理的に間違っていても、時空的に辻褄が合わなくとも、こいつはアイツだ。
俺はその顔を、何千回も見た事がある。
水面で、反射するディスプレイで、鏡の中で。
そこにいたのは、齢を重ねた、三十歳の “俺“ だった。
父そっくりの、俺だった。
彼の表情は変わっていた。
先刻までの飄々とした雰囲気は霧散していた。
忌々し気に俺たちを睨みつけていた。
「……まったく。未熟な自分を見ると、反吐が出る」
彼は静かに、そう呟いた。
もう一人の俺が、そこにいた。
『マスカレード』――『仮面』、『見せかけ』、『ふりをする』、『なりすます』……、様々な意味があります。色々な意味を込め、書きました。
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