恋の手習い
違う世界の存在だと思っていた。決して交わらない相手だと。
今そいつが、這いでてくる。
白い服を着た、長い黒髪の女性が、目を爛々と光らせながら、四つん這いになり、四肢を動かし、ゆっくりと這い出てきた。 ……テレビの画面から。
「ぎゃっ――ぁ」
隣の彼女が悲鳴をあげる。
真っ青な顔で俺の腕にしがみつき、プルプルと震えていた。
「なんでお前が怖がる? お前の先輩じゃねえか」
有名ホラー映画をマジ泣きしながら観る幽霊にむかい、呆れと不条理を込めて問いかける。
「いや、先輩のことはリスペクトしてるよ。こんなに自在に出現できるなんて、マジ尊敬。私も早くレベル上げして、こんなスキルを身に着けたい。けど、これは無理。こんなおどろおどろしいの、堪えられない。……もらしそう」
おい、漏らすんじゃねえぞ。それは俺のお気に入りだ。ガナーズFCのレプリカユニフォームだ。昨日のスウェットじゃ嫌だ、これじゃなければ裸のままでいるって言うから泣く泣く渡した逸品だ。絶対に汚すんじゃねぇ!
「なんで幽霊と一緒にホラー映画を見なけりゃいけねえんだ……」
根本的な疑問をぶつける。
「今更だね――。言ったでしょう、『デートの練習をしましょう』って。『お家デート』の練習だよ、これは」
「『最高の初体験をさせに来た』と云ってなかったか? デート指南に来たとは聞いていないが?」
俺の問いかけに、メアは呆れたような顔でハッと声を漏らす。
「これだから挿れる事しか考えない童貞は、まったく。……エッチはね、ひとつの流れなのよ。女の子の身体はデリケートなの。準備が整わないのに行為に至ろうなんて言語道断。身勝手そのものよ。優しくほぐしてあげなくちゃダメ」
小さな子に言い聞かせるみたいにメアは言う。
「デートもね、そこに到るまでの大切な前戯なの。『この人と結ばれたい』って思わせなきゃダメなの。……わかる? 恋は戦いなの。戦いは、始まる前から始まっているの。全身全霊をかけて、闘いに臨まないといけないの。その気構えがない奴に、エッチをする資格はないっ!」
言わんとする事はわかるけどさ――。
……情緒もへったくれもねえな。
「さあ、わかったら私相手に模擬戦をする。まずは私の肩に優しく手を回し、『僕が守ってあげる』って耳もとで囁く。リピートアフタミー!」
鬼軍曹が熱血指導をする。
「そんなんで女の子が墜とせるか――。女子を舐めんじゃねぇ――」
メアの罵声が闇夜に響く。
恋愛って、こんなに体育会系だったっけ?
熱気のこもった眠れぬ夜は、ゆっくりと更けてゆく。
夜が明けた。眩しい陽の光が射しこんできた。
いつの間にか眠っていたようだ。
メアの厳しい指導を受け、力尽き、気を失うように眠っていた。
デート道の極意を教えてやると意気込むあいつは、災厄以外のなにものではなかった。
羞恥に悶える心、容赦ない突っ込み、……戦場だった。俺は恋の敗残兵だった。
長かった夜は去った。
朝日が訪れ、闇の住人のあいつは、もういない。
輝く世界の中、解放の歓喜にむせび、階段を降りてゆく。
「おはよ――。もうちょっとで朝食できるから、座って待っててね――」
リビングに入った俺に、アイランドキッチンから夜の住人が呼びかける。
お前、朝になったら消えるんじゃなかったのか。
「どうしたの? 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして? ……はっはぁ~ん。さてはメアちゃんのこの姿に悩殺されちゃったな――。いや――参った参った、私って罪な女っ」
うっせえよ。そうほざくメアの恰好を見やる。
メアは、エプロンを身に着けていた。
女らしい家庭的なアイテムは、確かにメアの新たな魅力を引き出していた。
だが、他のものが全てをぶち壊していた。
他に、何もなかった。何も身に着けてなかった。すっぽんぽんである。いわゆる『裸エプロン』である。
朝っぱらから、何をしとんじゃ――。
「高校生男子が憧れる、ベスト5に入るシチュエーションでしょ、これ。私には何がいいんだかサッパリわかんないんだけど……」
そう言いながら、メアはぺろりとエプロンを捲る。
見せんじゃねえ――。大事なところが顕わになるぅ――。
「恋の手習い、つい見習いて、誰に見しょとて紅鉄漿つきょぞ、みんな主への心中立て……」
はらりと流れる長い髪を口に咥え、妖艶な目つきで俺を見詰める。
『誰のために美しく装っていると思うのですか。みんな恋しい貴方に、真心を伝えるためです』そう朗々と唄ってきた。真摯さと情念を込めて。
「さあ、大人しく待ってて。腕によりをかけて作るから。食の巨人と崇めるがよい!」
零れるような笑顔で包丁をトントンとリズミカルに鳴らす。
部屋には温かい匂いが漂っている。
なんか、いいな、こういうの。
俺は椅子に深く腰掛け、朝の空気を堪能した。
「はい、完成。召し上がれ!」
食卓に、ご馳走が並べられた。
一汁三菜。みりん干しにほうれん草のおひたし、ひじきの煮物。
お味噌汁は白味噌で、かつおと昆布の合わせ出汁。具材は『浮く具』はワカメと三つ葉、『沈む具』はあさりだ。温かな湯気が漂っている。
質素な、だが贅沢な朝食だった。愛情が込められた、ご馳走だった。
俺はそれを頬張る。
「……うまい」
素直な感想が、するりと出る。
彼女はその光景を、嬉しそうに見ていた。
「ごちそうさま」
俺はきれいに平らげ、箸を置き、合掌し、感謝の意を伝える。
彼女は満足そうに笑っていた。
俺は食器を流しに運び、スポンジを手に取る。
洗い物ぐらいはしなくちゃな。
彼女はリビングでくつろぎながら、テレビを見ていた。
のどかな、休日の朝だった。
「ねえ。ここ、行ってみようよ」
彼女はテレビを見ながら呼びかける。
画面には、ローカルニュースが流れていた。
『ここララーラ茅崎では、多くの家族連れで賑わっています』
女性アナウンサーがショッピングモールを紹介していた。
『ララーラ茅崎』――県下有数の大都市『茅崎市』、その茅崎駅に隣接する巨大ショッピングモール。近くに日本で一二を争うお洒落な人気都市があるので霞がちだが、それなりの人気を誇っている。
「ここに行きたいのか?」
「うん!」
迷いのない瞳で彼女は答える。
「大丈夫なのか……。陽の光にあたると、灰になるんじゃないのか」
「……私、吸血鬼じゃないよ」
メアはぷくっと頬を膨らます。
その辺りのカテゴライズがよく分らん。
「なんでララーラ茅崎?」
俺は疑問を口にする。
彼女は真剣な顔となり、キッと俺を見る。
「『買い物デート』をします! 昨日の『お家デート』は正直失敗でした。よく考えたらレベル1のクソザコに、ファイナルステージの『お家デート』をクリア出来る訳がありません。ひのき棒でラスボスに臨むようなものです。無謀でした。身の程知らずでした。アホでした」
クソミソだな、おい! 否定できないのが、もどかしい。
「よって難易度低めのクエストをします。『買い物デート』です。話題の種に事欠かず、自然に会話ができ、相手の好みが把握出来る、恋愛初心者向けのクエストです。これの模擬戦をします!」
仁王立ちでふんぞり返る。鼻息は荒い。
「ほかに、目的があるだろう……」
冷徹な目でメアを見詰める。
彼女は『うっ』と怯む。
「だって悠真の服、可愛いいのないんだもん。レースとかリボンとか付いてないし、色も地味だし。……私だって可愛い服着てみたいんだもん!」
付いてて堪るか! そんな趣味はねぇ!
「だから裸エプロンか? そんなに俺の服を着るのが嫌だったのか?」
俺の言葉に、メアは平静さを失う。
「違う。それは違う! だってこの服、悠真のお気に入りなんでしょう。料理で汚したらいけないと思って……」
この馬鹿! 気を遣うところが違う!
料理に素肌は厳禁だ。油やお湯が飛び散る危険が潜んでいる。
こいつが霊体か何かは知らないが、痛みは感じる筈だ。
自分をもっと大切にしろ。
「わかった……。あんまり高いものは買えないぞ」
「うん! 百均でも、在庫処分品でも、構わないから!」
いや、もうちょっといい物買ってやるよ。
「お出かっけ、お出かっけ、ララーラ、ルラ――!」
謎の呪文を唱え、踊っている。
まあ、いいか。こんな休日も。
初夏の爽やかな朝、俺は幽霊と出かけることとなった。
メアちゃん、こんな性格です。
ちょっとでも『かわいい』『いじらしい』と思ったら、『ブックマーク』、『星評価』、『いいね』をお願いします。メアちゃんの魅力をもっと引き出します。……筆者の切なるお願いです。