王国
俺の胸に、アユミが顔を埋める。
子ども独特の、甘く、濃い、果実やミルクのような匂いが漂って来た。
それはパン屋から放たれる香りの如く、人を幸せな気持ちにさせる魔法みたいだった。
「会いたかった……。ずっとずっと……。他の事が何にも考えられなくなるぐらい」
彼女は幸せそうな涙を流す。
俺が、泣かせたのか? 何故、こんなに慕われているんだ?
俺は答えを見いだそうと、三歳のあの日を思い返す。
1932年(昭和7年)5月15日。『五・一五事件』の、あの日を。
首相官邸から帝国ホテルへと向かう道を、幼い二人は手を繋ぎ、庇い合いながら、駆けていた。
突風に飛ばされ二人にぶつかろうとした看板から、俺がアユミを庇う。
その血の匂いに引き寄せらせ、俺の血肉を啄む鴉の大軍を、アユミが追い払う。
互いに庇い合う二人を、銀色の月光が微笑むように照らしていた。
「わたしの、白馬の王子さま!」
アユミは愛おしそうに呼びかけ、ぎゅっと俺を抱きしめる。
俺は突き放す事も抱きしめる事も出来ず、ただ立ち尽くす。
「……ロリは目を瞑れても、ペドフィリアは流石にアウトよ」
後ろから、とんでもない台詞が聞こえて来た。
「私も、ツインテールにしようかしら……」
明日香が、指を髪に巻き付かせながら呟いている。
とんだ冤罪だ。
「あのオバさん、だれ?」
「はぁ?!」
アユミの問いかけに、明日香は青筋を立てる。
ケンカは、やめて!
「だれがオバさんよ! ぴっちぴちの十七歳! 悠真と同い年!」
……表現が、妙に古臭い。
「え~。どう見ても十代に見えない~。子どもを産んでそう~。お母さんでしょ。だったらオバさんじゃない?」
確かに明日香は半分社会人で、大人びている。
作品と云う子どもを、たくさん産んでいる。
けど、だからといって、オバさん呼びはしちゃいけない。絶対マズイ!
案の定、明日香は怒髪天を突いていた。
人は自分が認識しているをコンプレックスを指摘されると、逆ギレするものだ。
「オイ! ゴルァ! ガキ! ママゴトは、その位にしときな。お兄ちゃんお姉ちゃんは、忙しいんだ。さっさと道を開け、次の “球体“ に案内しな!」
ドスの効いた声で、明日香は恫喝する。
「かわいくな――い。品がな――い。ああ、やだやだ。これだから女の子を辞めたオバさんは」
アユミは一向に動じる素振りを見せない。
ピキピキという音が、明日香の顔面から聴こえて来た。
「ふふっ。ふふふふふ。……いいよね、悠真、やっちゃって。好き勝手暴れて、いいよね……」
それは質問ではなく、決意表明だった。
「礼儀というものを、教えてやる――!」
目を血走らせ、赤き龍を出現させた。
龍は吹き抜けの三階まで上昇し、そこから急降下しながら幼女へ攻撃を仕掛けた。
「いけ――っ! ジャック!」
その龍の顎に怯むことなく、アユミはホールいっぱいに叫び声をあげる。
すると彼女の足下の影から、黒い鎧を纏った騎士が出現した。
「火竜を退治したその剣で、返り討ちにしちゃえ――!」
騎士は襲い来る赤龍を凝視し、剣を左横に構える。
その剣は、柄頭に赤い宝石が嵌め込まれていた。
そして刃は高い剛性を示し、 "決して|刃毀れせぬ剣" の様相を呈していた。
赤龍がその巨体を活かし、身体中で騎士を押し潰す様に襲い掛かる。
騎士は攻撃を軽やかにいなし、横薙ぎに剣を一閃させる。
龍は弾けるように飛散し、花火のように消え去った。
明日香は呆然とした表情で、それを見つめていた。
「アロンダイト?!」
明日香の口から、その言葉が漏れた。
"湖の騎士" "円卓の騎士最強" ―― "ランスロット卿" の持つ聖剣の名だ。
「そうか。トランプの "クラブのジャック" は、アイツがモデルだったわね」
騎士をよく見ると、ヘルムの目の穴の部分に上下の空洞があり、クラブの模様となっている。
そして鎧の胸に、十個のクラブが描かれていた。合わせて十一個。ジャックだ。
「王国には、兵士が付き物。 "不思議の国" では、クラブは兵士として描かれていたわ」
ファンタジーと英雄譚が交差する。
「勝てるのか?」
あの英雄に。最高の騎士に。
「あいつ一人ならね……」
奥歯に物が挟まった言い方だった。
「 "円卓" の席数は十三席。一つは主君・アーサー王の物、一つは呪いがかけられた禁忌の席。つまり十一人の騎士が存在する」
おい、まさか。
「偶然かしらね。残るトランプの数は十、残る円卓の騎士の数も十……」
俺はアユミに視線を向ける。
彼女の影から、次々に兵士が出現する。
「キャメロット軍の、お出ましよ」
ガウェイン、モードレッド、トリスタン…………。
ランスロットに比肩する錚々たる英雄が十体、出現した。
みんな胸に、一から十のクラブが描かれている。
とんだトランプの兵士たちだ。
「一人当たり、五人の英雄が相手か……」
目の前が、真っ暗になった。
「なに馬鹿な事を言ってるの」
絶望に沈む俺に、明日香は平然とした顔で言い放つ。
「馬鹿正直に、まともに相手をする気はないわ」
彼女の目には、怯えの色が丸っきり無かった。
まるで勝利を確信しているかの様だった。
「あの子の間違いは、既存の英雄を使った事。それはお手軽で強力だけど、その分しがらみも多い」
明日香はニヤニヤと、チェシャ猫のように笑う。
そしてキッと表情を引き締め、高らかに声を上げる。
「円卓の騎士様方に、申し上げる!」
明日香の呼びかけに、十二人の視線が集中する。
「皆さま、ご存知ですか? "湖の騎士" ――ランスロット卿とギネヴィア王妃の不貞の恋を!」
今にも襲い掛かろうとしていた円卓の騎士たちの、動きが止まる。
「二人の恋の始まりは、二人が初めて会った時から。それから長い間、彼らはアーサー王を欺き、裏切り続けてきた」
明日香は滔々と、微に入り細に入り、吟遊詩人がうたう様に物語を紡ぐ。
『何を戯れ言を』と歯牙にもかけなかった騎士たちも、そのあまりのリアリティに疑問を抱き始めた。
最初に信じたのは、アグラヴェインだった。
アーサー王の甥に当たり、ギネヴィア王妃を慕っていた彼は、その愛情の分だけこの裏切りを許せなかった。愛情の量だけ生まれた怒りは、そのまま密通相手のランスロットへと向かう。
次に敵意を抱いたのは、ランスロットと双璧を成す、ガウェイン。
誠実で実直な彼は、忠義に反する行いを許せなかった。
ランスロット派と反ランスロット派。円卓の騎士は、二つに割れた。
「そして、これもご存知ですか? そこに御座すモードレッド卿、アーサー王の異父姉モルゴース殿の御子――すなわちアーサー王の甥となっていますが、実は違います。モードレッド卿の本当の父は、事もあろうにアーサー王。姉弟の間に出来た、不義の子!」
糾弾されたモードレッドは蒼白となる。それが今述べられた事が真実であると、雄弁に物語っていた。
王の後継者の立場から、生きた罪の証へとその立場を急変させる。
円卓の結束が、更に割れた。
己の正義の分だけ、相手の罪が許せない。
十一人の騎士が、かっての仲間にその剣を向ける。
危うい所で、均衡が保たれていた。
三つの勢力――ランスロット派、ガウェイン派、モードレッド派が、お互いの隙を窺い睨み合っていた。
あとは切っ掛けさえあれば、瓦解する。
それを見た明日香が、赤龍を使いガウェインを襲う。
これを好機と捉えたランスロット派とモードレッド派が、ガウェイン派に攻撃を仕掛ける。
それぞれ罪を自覚している両派が、清廉たるガウェインからの粛清を恐れ、『やられる前にやれ』の精神で先手を打ったのだ。
三つの集団の、乱戦が始まった。
アロンダイトが、ガラティーンが、クラレントが、相討つ。
明日香はいち早く赤龍を引き上げ、俺たちは高みの見物と洒落込んだ。
いや~、観客席から観る聖剣同士の戦いは、壮観だわ。
「みんな、仲間割れしないで。敵は、こいつらよ」
アユミは戦いを必死で戦いを止めようする。
だが誰も、女王の命令を聞こうとしない。
「貴方の事など、聞きゃしないわ。みんな、それぞれの信念を持っている。だからこその英雄、だからこその力。人形みたいに自己判断出来ない奴なんて、恐くも何ともない!」
騎士たちの記憶をリセットしておけば、この様な事態にはならなかっただろう。
だがそれでは、彼らの本当の力は発揮できない。
これまでの想いがあってこそ、初めて力は生まれるのだ。
それを纏める事こそ、困難を極める。
おろそかにすると、内部崩壊を招く。
そこを突くのも、一つの戦いだ。
「貴方は、負けるべくして負けた。あいつ等との、絆も信頼も無かった。それが敗因……」
経験を積めば、それは得られるだろう。
しかし今は、前の主君への忠義が強く残っている。
戦うのが、早すぎた。
一人また一人と、騎士たちが斃れてゆく。
そして最後の一人となった。ジャックと呼ばれた最強の騎士だ。
だがその彼も、ガラティーンの光に焼かれ、クラレントの雷に打たれ、満身創痍だった。
『赤龍、勇者に相応しき死を』――明日香の命に従い、龍は騎士を顎で砕く。
湖の騎士は、鮮やかにその命を散らした。
「『勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし』――私たちが勝ったんじゃない、貴方が負けたのよ!」
明日香は俺の手を強く握りしめながら、震える声で言った。
勝利の昂ぶりも、敵を葬った達成感もなかった。
ただ無情だけが、漂っていた。
アユミは悲しそうな顔をしていた。
負けた事ではなく、繋がりを持ち合わせていない事を嘆いていた。
孤独な、淋しそうな表情だった。
「泣かないで下さい、ユア ハイネス――」
霧が流れ込んで来たホールの中、何処からともなく低い男性の声が聞こえて来た。
コツコツと革靴の音が響く。
霧の中から、人影が現れる。
燕尾服を着込み、シルクハットをかぶった、中肉中背の男だった。
ヴェネツィア・カーニバルで使われる様な仮面を被り、素顔は見えない。
だがその姿形から、三十歳前後と推察される。
その男がゆっくりと、近づいて来た。
「マッドハッター、参上仕りました。変わらぬ忠誠を、貴方に捧げます」
男はアユミの前で跪き、右腕を胸に添え、深く首を垂れる。
「帽子屋さん……」
アユミは、涙ぐんでいた。その顔に、笑みが浮かんでいた。
孤独の霧が、吹き掃われたようだった。
借り物じゃない本物の忠臣が、そこにいた。
ここは色々な国が混ざり合う場所。セフィロトの樹の “王国“ 、ブリテンの “王国“ 、不思議の国、……。それぞれの原理で成り立つ世界です。
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