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ワンダーランド

暗く長い廊下を、俺と明日香は脇目も降らず、ひたすら走る。

この先に、聡美がいる。

枝分かれした通路は無く、一本道だ。このまま進めば、必ず追いつける。

横を走る明日香が、息を切らせながら言葉を投げかける。


「振り向いたりしたら、許さないからね。……鈴の想いを、無下(むげ)にしないで」


言われるまでもなく、理解している。

いま後ろで、何が起きているのか。俺たちは、何をせねばならないのか。

……鈴のためにも。



長い廊下の、終わりが見えた。

黒い荘厳な扉が、行き止まりに在った。

扉には、文字が刻まれていた。アルファベットのようだが、少し違う。読めない……。


「古ラテン語ね、これ」


こともなげに、明日香は言う。


「なんて書いてあるんだ?」


ラテン語なんて、分かるか! 大体なんだ、 “古ラテン語“ って。ラテン語に、種類があるのか?


「『この門をくぐる者 一切の()()を捨てよ』――だそうよ」


困惑した表情で、明日香は答える。


「『希望』じゃないのか、それ?」


あの有名な一文は、流石に俺でも知っている。


「間違いないわ。地獄じゃなさそうね、ここ」


明日香は苦笑する。

俺たちは顔を見合わせ、頷き、重い扉を開く。

この先に、どんな世界が待ち構えているのか。

緊張した面持ちで、門をくぐる。






「おいおい、冗談だろう――」


門をくぐった俺たちに襲い掛かって来たのは、戸惑いであり、混乱であり、呆れだった。



そこは、海だった。水平線が霞んで見える。太陽が燦々(さんさん)と輝いている。

俺たちが立っているのは、白い砂浜。波の打ち寄せる音だけが、静かに響く。

風に乗り、塩の香りが漂って来た。


「なんで地下に、海があるんだ?」


もう、滅茶苦茶だった。

さっきの体育館ぐらいの大きさの部屋は、まだ許容出来た。サイズの違いだ。

だが、これはないだろう。

なんで地下に、海があるんだ。

なんで真夜中に、太陽が輝いているんだ。


「亜空間ね、ここは」


明日香が唇に指を添え、呟く。


「強力なエネルギーフィールドを発生させ、誕生させた世界。欧州原子核研究機構(CERN)では、大型ハドロン衝突型加速(LHC)器を使い、高エネルギー粒子衝突によってミクロな次元を発生させる研究が行われている。……それと似たような物ね」


分かる様な、分からない様な……。


「考え方を変えてみて。仮想空間――メタバースだって、ひとつの世界よ。そこは無の空間でありながら、無限の広さを持っている」


「今の俺たちは、単なる記号――情報集合体みたいな存在なのか?」


ここが電脳世界に準ずるのなら、俺たちは “プログラム“ や “アバター“ みたいな存在なのだろうか。


「どっちかと言うと、『不思議の国のアリス』ね。白ウサギを追いかけて、異世界に迷い込んだ……」


『ウェルカム・トゥ・ワンダーランド!』――世界が、そう叫んでいた。

俺は空を見上げる。現実から、少し目を逸らしたかった。



果てしなく、青い空が広がっていた。

空に浮いていた雲が、流れて行く。

すると、ある筈のない物が出現した。


天に根を張り、地に葉を広げる、逆さに生えた巨大な樹だった。

その根は遥か遠き宇宙に在り、星から生えている様だった。

俺はそれに、見覚えがあった。



生命(セフィロト)の樹……」


見紛(みまご)うことなき、 “生命(セフィロト)の樹“ 。

よく見かける図案化された平面的に描かれた物ではなく、立体的な、三次元的な存在だった。

(そら)に三つの柱がそびえ立ち、十個の球体(セフィラ)が連なる、巨大な樹が屹立していた。



前の部屋でベータの背後に見えた幻影は、これだったのか。



「……えらい物が現れたわね。まあ、進化の話には付き物だけど」


明日香は、(なか)ばうんざりとした表情をしていた。

物書きとしては、嫌という程見て来たシチュエーションなのだろう。


「十個の球体(セフィラ)で、一番下にあるのが物質世界を表す “王国(マルクト)“ 、一番上にあるのが思考や創造を司る “王冠(ケテル)“ 。たぶん亜夢美と聡美は、一番上の “王冠(ケテル)“ にいる」


それは、間違いないだろう。

いま彼女は、神になろうとしているのだから。


「そこまで、どうやって行く?」


それは、神へと到る道。人の身では、決して辿り着けない場所。


「ひとつずつ、登って行くしかないでしょう。いっぺんに登れる程、神の座は甘くない」


肩をすくめ、明日香は答える。

それしか無いだろう。だがそれさえも、険しい道だ。

顔を(しか)める俺に、明日香はフッと笑いかける。


「心配いらないわ。おそらく、道は開ける」



一番下の球体(セフィラ)―― “王国(マルクト)“ から、何かが降りて来た。

レモン色・オリーブ色・小豆色・黒の四色に光る、水晶の板だった。

それが上下に連なり、螺旋階段のように地上に伸びて来た。



「 “天使の梯子(はしご)“ の、お出ましよ」


明日香は予想していたかのように呟く。


「主馬とは違う意味で、亜夢美も貴方に執着している。こうなると思っていたわ。女の勘ね」


よく分からん分析から、真理に辿り着いていたようだ。


俺たちは階段を登り、王国(マルクト)へと向かう。

地上は雲海の下にあり、もう何も見えない。

代わりに、遥か彼方(かなた)にあった球体(セフィラ)の全貌が見えて来た。

それは、碧く輝く地球だった。




俺たちは階段を登り切り、王国(マルクト)に到達した。

どんな異世界かと身構える。

だが(あに)(はか)らんや、そこは見覚えのある場所だった。

正面の池を囲むように、黄色いスダレ煉瓦(スクラッチタイル)で出来た建物が、幾何学模様の装飾を施され、神殿のように建っていた。

帝国ホテル "ライト館" ――思い出の場所が、出現した。

それを見て、明日香が呟く。


「……本物ね、これ。愛知の博物館 明治村に何度か取材に行った事があるけど、それと丸っきり同じ」


そうか、こいつは移築した後の "ライト館" しか知らないんだな。

俺が知っているのは、日比谷公園の前にあった "ライト館" だ。

多分これは、俺が知っている方の "ライト館" だ。


中央玄関をくぐり、メインロビーに入る。

三階まで吹き抜けとなり、広々とした空間が展開していた。

透間入りのテラコッタを使った照明―― "光の(かご)(ばしら)" が複雑な陰影を作り出す。


その光の神殿の中、一段高い場所に、玉座が設えられていた。

部屋中の光がその一点に集められ、眩いばかりだった。


異常に長い背もたれの、玉座だった。

そこに、一人の人間が鎮座していた。

逆光で、顔はよく見えない。



「やっと会えたね、ユウヤ。わたしの、 “白馬の王子さま“ !」


玉座の人物は、あどけない声でそう呼びかける。


「『ずっと、一緒だよ』――そう言ってくれたよね。……信じてた、その言葉」


聞き覚えのある声、言葉だった。

その人物はすっくと立ち上がり、一目散に俺に駆け寄る。

そして、俺の胸に飛び込んで来た。

俺は慄然とした。




そこにいたのは、三歳のアユミだった。

五月の帝都を一緒に駆けた、彼女だった。

あの夜のまま、天使の笑みを浮かべていた。

五・一五事件があった日の、亜夢美です。

あの日幼い二人は、首相官邸から帝国ホテルまで駆け抜けました。


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