マイ・ライフ
“光“ と “闇“ 、 “善“ と “悪“ 、 “創造“ と “破壊“ 。
世界は二つに分け隔たれた。
“光“ は眩しく輝き、甘く香り、安寧と慈愛を齎す。
“闇“ は色彩を滅し、音さえも凍らせ、暗黒の虚無が鎮座する。
「なんて神々しい――。あらゆる穢れが除かれ、この世の美しいものだけを集めた結晶。亜夢美さまの為に誕生した宝玉!」
聡美は恍惚とした表情で、手にした光る結晶を見つめる。
その足元には、闇が広がっていた。
コールタールのように、暗黒色のねっとりとした液体が、ぶよぶよと蠢いていた。
「あれは――ベータなの?」
嗚咽を押えながら、鈴が尋ねる。
それは最早、生物とも言い難い存在だった。
この世の “悪意“ を煮詰めた “闇“ ――純然たる思念体。
聡美が手にする結晶と、あまりに対照的だった。
「ソレは、どうするつもりだ。曲りなりにも、神なんだろう。そして本を正せば “殿倉 主馬“ 、お前の大旦那じゃないのか」
俺の言葉に聡美は最初キョトンとして、そしてその意味を理解するとクスクスと笑い始めた。
「なにか、おかしな事を言ったか?」
俺は不機嫌な気持ちを隠そうともせず、敵意剝き出しで質問を重ねる。
「ええ、ええ! 幾重にも、思い違いをされていらっしゃいます」
鈴を転がすような声で、いかにも愉快だと言わんばかりの答えが返って来た。
「まず一つ目、私は殿倉家の従者ではありません。仮にも私は、相馬家の当主。相馬は殿倉の分家ではありますが、家臣ではありません。あくまで同盟者、対等な関係……」
相馬の成り立ちを考えれてみれば、もっともな答えだ。
両家の祖である、殿鞍 忠継と相馬 晴明。彼らは主従の関係ではなく、兄弟であり、同志であった。
「私は “殿倉家“ に仕えている訳ではありません。 “亜夢美さま“ に、お仕えしているのです」
彼女は手を握り締め、熱弁する。
「敬意なき信仰は偽りに過ぎず、心なき祈りは独り言と変わらない。至高なる “亜夢美さま“ があってこそ、私の忠誠があるのです。 “大道寺“ だから、 “殿倉“ だから無条件に敬意を払われる等と考えるのは、些か思い上がりが過ぎるんじゃありませんか」
ぐうの音も出なかった。
「貴方は、亜夢美さまの素晴らしさをご存知でない。あの方は、花です。姿ではなく、心が。貴方という大地から、愛という要素を汲み上げ、その体内で清らかな物に変移さす。それはとても尊く、綺麗で、この世のあらゆる穢れを祓ってくれる……」
聡美は恍惚とした表情で、雄弁に語る。
「『淤泥不染の徳』と云う言葉をご存知ですか? 仏教で、釈迦如来が座す “蓮の花“ を表した言葉です。蓮は不浄である泥の中から生まれるも、その穢れに染まらず、曲がらず真っすぐに天に伸び、清らかな美しい花を咲かす」
狂信者の爛々とした眼で、彼女はなおも続ける。
「それは、亜夢美さまがお書きになられた『万を超える手紙』をお読みになれば、理解されるでしょう。あの方が何を苦しみ、何に恋焦がれ、そして如何に昇華されたかを。 “解脱“ ですよ、もはやあれは」
俺は慄然とする。その想いの深さに。
聡美は、そんな俺を蔑んだ目で見る。
まるで分不相応な祝福を受ける愚者を見る目つきで。
「そして二つ目、貴方はあれを “神“ と呼びましたが、あれは “神“ などではありません。その残りカス、不純物。 “神“ から削ぎ落された、不要なものです」
さらに冷たい目を、暗黒色の汚泥に向ける。
「あいつを……、ベータをどうするつもりなの?」
それまでじっと聞いていた鈴が、耐えきれずに問いかける。
「なにも……。なにもしません。あれはもう、役割を終えました。集めた魂の、不浄なるモノを吸い取るという役割を」
命あるものに向ける言葉では、到底なかった。
「濾過器として創り、使い、そして捨てるのか……」
俺は非難がましく、言葉を投げる。
「なにを感傷的な事を……。。アレは元々、単なる有機化合物。人の手により創られ、人の為に存在する、ただの道具。そこに仮初の魂を貼り付けたに過ぎません。その魂の源泉たる主馬さまが、『この様に使え』と申されたのです。部外者である貴方たちに、とやかく言われる筋合いはございません!」
ぴしゃりと、彼女は言い切る。一寸の戸惑いもなく。
「親だから、子を好き勝手にしていいと云う理屈は間違っている。子は、親の従属物じゃない。人も、神の奴隷じゃない!」
俺の怒りに、聡美はフフッと嗤う。
「ジェネレーションギャップと言うんですかね、これも。『親に忠を』『神に無償の献身を』と云うのは常識ですよ、私たちにとっては。どうやら貴方たちは、過剰な権利意識をお持ちのようで」
揶揄するように、聡美は述べる。
彼女から見れば、未来は甘すぎる世界なのだろう。
「それに貴方たちは、アレをヒトと認めるのですか? 貴方たちと変わらぬ人権を与えるのですか? ……アレは、人の姿を模した装置です」
それは、未来でも議論が別れるところだ。
だからこそ、その技術は禁忌とされている。
「アレの始末は、煮るなり焼くなりお好きなように……。私は忙しいのです。そんなものに関わり合っている暇はありません。一刻も早く、これを亜夢美さまにお届けする御役目があるのですから!」
聡美の関心は、もはや俺たちにもベータにも無かった。
彼女の視線は、天に向けられていた。
「それでは、失礼いたします」
聡美は軽く一礼する。
そして身を翻し、軽やかに空を駆けた。
手足を動かす事なく、風のように部屋の奥へと流れていった。
まるで天女が羽衣で翔ぶが如く。
俺たちは為す術もなく、呆然とそれを見送る。
聡美を追いたかった。
だがそれは容易ではない。
目の前に、暗黒色の闇が蠢いていたのだから。
「……どうする? 聡美を追わなくちゃいけないけど、アレに背を向けるのは、危険すぎる」
明日香が困惑した表情で尋ねる。
闇に、知性は無い。
ただ “憤怒“ と “暴食“ と、 “嫉妬“ だけが、あった。
怒り、喰らい、呪う。
根元的な感情だけの存在だった。
その剝き出しの悪意が、俺たちに注がれていた。
それは巨大な、世界を二分する力。
“アンラ・マンユ“ の化身であった。
「二人は先に行って……。アレは、私が始末をつける……」
鈴が、思い詰めた顔で言葉を紡ぐ。
「聡美が持っていった結晶を、亜夢美に渡してはいけない。きっと、とんでもない事になる。あんた達は聡美を追いかけて、それをくい止めて。私はここで、アイツを片付ける」
唇をキュッと噛む。揺るぎない決意が、見て取れた。
「アレは、放置しておいていいモノじゃない。この世の全てを、みんな飲み込んでしまう。本能の赴くままに……。放っておいたら、世界は闇に堕ちる。それに……アレにそんな真似をさせられない。そんなの、可哀想すぎる…………」
鈴の憐れみは、全てのものに注がれていた。あの闇にさえも。
周囲は、静寂が支配した。
誰も、声を出せなかった。
沈黙の世界は、やがて終わりを告げる。
「あなた一人に、やらせない! 私も残る! 二人でやれば、きっと上手くゆく!」
明日香の悲痛な叫びが木霊した。
まるで、半身を失うのを堪えかねるような声だった。
それを見て、鈴は哀しそうな顔で頭を振る。
「明日香は、ユマと一緒に行って。これから先は、未知の領域。そこで必要となるのは、私みたいなピーキーな深い知識ではなく、あなたみたいなオールラウンドな広い知識。何かヒントを見つければ、後はユマが直感でなんとかしてくれる。……明日香、あなたの力が必要なの」
その言葉に、明日香は思わず口ごもる。
それが正しい事を理解しているだけに。
そして鈴一人に苛酷な役割を課す事を、納得出来ずに。
一瞬の逡巡の後、明日香は意を決し、鈴に話しかける。
「必ず後から追いかけて来なさい……。決着がついていないんだから。どっちが悠真の一番になるかの。不戦勝なんて、許さない。あなたを足元に這いつくばらせ、勝利の余韻に浸るのが私の望みなんだから!」
明日香は縋るような声で叱咤する。『死ぬな!』と言っているのだ。
「性格悪いね――、この女。ホントろくでもねぇ奴だ! ……おちおち死なせても、くれないんだから」
鈴は呟く。最後の台詞は、明日香に聴こえないように。
俺はそんな二人のやり取りを、じっと見ていた。涙を堪えながら。
俺は無言で鈴に歩み寄り、正面に立つ。
そして彼女の目を見つめながら、語りかけた。
「待ってる…………」
それだけを言い、力一杯ぎゅっと、胸の中で彼女を抱きしめる。
小さな肩だった。壊れそうな細い躰だった。
愛おしく、切なく、申し訳なかった。
こんな女の子に、色々なものを背負わせて。
自分が、不甲斐なかった。
「ユマ、……痛いよ、……大袈裟だよ」
俺の重荷を減らすように、鈴はおどけて囁いた。。
「笑顔を、見せて。最後の最後に見るのがこんなんじゃ、未練が残るじゃない……」
俺は笑った。涙を流しながら、顔を歪めながら。
「ま、こんなもんでしょう」
彼女の、湿った声が聴こえた。
鈴も、泣きじゃくりながら、笑っていた。
そして、そっと顔を俺に近づける。
彼女の半開きの艶やかな唇が、なまめかしかった。
その唇が、俺の顔に触れる。
湿り気と熱が伝わり、電流が走った。
「頬で、勘弁してあげる…………」
彼女の声は、とても綺麗だった。
恐れも悲しみも憎しみもなく、ただ前だけを見つめる、澄んだ声だった。
◇◇◇◇◇
愛しい人の背中を、無二の親友の背中を、私は見送る。満ち足りた心で。
私の人生を彼らに捧げる。――格好をつけるつもりはないが、まさにそんな心持ちだった。
荒れ狂う激情ではなく、凪いだ、穏やかな気持ちで。
『悔いのない人生』とか言うけれど、そんな物、ある筈がない。
アウトバーンを300km/hで走りたかった。お酒も飲んでみたかった。
言いだしたら、きりが無い。すべてを行うなんて、不可能だ。
けれど、満足できる人生だった。
『幸せでしたか?』と問われたら、躊躇いなく『はい!』と答えるだろう。
彼と出会えた事で、闇と光が逆転した。
人生とは “競い合い“ ではなく、 “愛し合い“ だと、教えてくれたから。
あの日彼は、指し示してくれた。
支え合い、自分の責務を果たし、一つの集合体として突き進む世界を。
時代に見捨てられ、進む道を見失いそうになった私に。
それは、なんてことはない事だったのかもしれない。
けれど彼は、教えてくれた。
その世界の、真の姿を。その、素晴らしさを。そこに属せる、幸せを。
孤独から解放され、安らぎを与えてくれた。
それがあったから、この過酷な運命にも耐えられた。
私ひとりなら、きっと心折れていただろう。
満ち足りた者は、他者へも愛を降り注ぐ。
私は世界の苦しみを、見逃せなかった。
「アンタは “闇“ に、 “悪“ に染まっている。でもそれは、アンタのせいじゃない。アンタも被害者なんだ……」
私はベータを、闇を、哀れに思った。
「いま私が、救ってあげる。その泥沼から、掬い上げてあげる」
私の声に、闇が咆哮する。
それは恫喝ではなく、地獄の底で救いを求める亡者の声に、私には聞こえた。
「苦しいよね、悲しいよね、すべてを呪い、壊さずに、いられないんだよね。…………分かるよ、私も似たようなモノだから」
私は目を瞑り、思いかえす。自分の闇を。
「この世界に来て、嘆いた、怨んだ。『なんでこんな化け物になったの』と」
胸を締め付けるような昏い声が、発せられた。
「メアさんを見て、妬んだ、呪った。『なんで貴方が愛されるの。今の私に、そんな資格はないの』と。……激しい嫉妬に苛まれ、すべてを壊してしまいたかった」
自分の激情を吐露する。飾ることなく。
「でもね、出来なかった。ユマの居場所を、壊したくなかった。あの人の幸せを、奪いたくなかった。……しょうがないね、惚れた弱みだ。鈴ちゃんは、いい女を演じます!」
晴れやかな顔で涙を流し、曇りなき笑みを浮かべる。
強がりでもなく、自然な表情で。
「私の命が代償か……。 仕方がない。世界の半分を相手にするんだもの。質量保存の法則、等価交換……。世の中そんなに甘かないよね」
フッと微笑する。怯えを微塵も感じさせない、ほがらかな顔で。
「持ってけ、この命! ユマの幸せの、礎となれ!」
これまでにない黄金の輝きを放ち、黄龍が出現する。
黄龍は砕け、光の粒となり、鈴の躰を覆う。
その光は、聡美が持ち去った結晶にも匹敵する輝きだった。
純粋なる想いが故に、鈴は違う次元へと昇華する。
精神体であった彼女は神性を帯び、神の域まで辿り着いた。
この龍は、あなたがくれた物。
この翼は、あなたの優しさがもたらした物。
あなたの声は、羅針盤。私に正しい道を指し示す。
迷わない、恐れない。あなたを失う寂しさより、怖い物はない。
あなたのために、私の命はある。
『さあゆけ――。おそれるな――。俺たちがついてる――。ひるむな――。すすめ――。つきすす~め――』
頭の中に、いつの日にか聴いたチャントが鳴り響く。
そして今度は、幻影が見えた。
『ウィ・アー・アズーリ!』
そう叫びながら、無数の水色のユニフォームが上下に揺れている。まるで巨大な波のように。
その波の中に、私と愛しい人の姿があった。
二人は楽しそうにジャンプをし、タオルを振り回していた。
歓声が、蒼い空に溶けてゆく。
ああ、楽しかったな。救われたな。……好きだったな。
恋に落ちた瞬間を噛みしめながら、私は今、愛しい人のために逝く。
幸せでした。満ち足りていました。……愛していました。
風よ伝えて、この想いを。
私の命は絶えるとも、あなたが生きている限り、私の愛は不滅だと。
光る球体が、昏い穴に向かい、突き進む。一片の迷いもなく。
“アンラ・マンユ“ と、 “鈴“ が交錯する。
ビックバンの再来のような輝きが、放たれた。
世界は、原初へと還ってゆく。
深い愛に彩どられながら。
生きていた時代から飛ばされ、生さえもあやふやな存在となり、まともな精神状態でいられる訳がありません。鈴の葛藤は、筆舌し難い物だった筈です。彼女は何を思い、どう感じたのか。それを一生懸命考えながら、書きました。
『ブックマーク』、『星評価』、『いいね』をお願いします。下段のマークをポチっとして頂くだけです。それが執筆の何よりの糧となります。……筆者の切なるお願いです。