死ってなに?
想いは深く 願いは脆く 愛は儚く 祈りは悉く 砕け散る
人の夢が幻なるは むべなるかな。
巨大な触手が、襲い掛かる。
唸りを上げ、何本も何本も、落雷のように降り注ぐ。
その衝撃で、床は抉られ、噴煙を上げる。
「新世界じゃなく、深海世界かよ、てめえの目指す場所は。このタコ野郎!」
俺はクラーケンを睨みつける。
頭部中央、二つの大きな目の間に、ベータの上半身が船首像のように突き出ていた。
その姿は、護り神みたいに神々しかった。
「芋虫が、蝶に向かって吠えるでない! 猿が、人を罵るでない! 畏れよ! 崇めよ! 深淵なる者を!」
後方に控える聡美が、背教者をなじる様な声をあげる。
「肉体など、しょせん入れ物。猿は人間を見て、こう言うでしょう。『なんと醜い生き物だ。体毛も無く、剝き出しの肌。後ろ足の指は短く退化し、あれでは木の枝を掴む事も出来ぬ。そして何より、あの肥大化した頭。おぞましい!』と。まるで人類が宇宙人を見て抱く嫌悪感の如く。その内包する力を、露ほどにも理解せずに。……進化とは、その繰り返し。旧き者に、新たな価値を想像出来よう筈がない」
せせら笑うような声だった。
「たぎる! 満ちる! 溢れる! これが、力か! なんと甘美な。なんと安らかな。『一は全 全は一』とは、こういう事か!」
ベータが歓喜の雄叫びをあげる。今あいつは、新たな力に酔いしれていた。
だが俺には、それが “神“ とは到底思えなかった。その対極に位置する者に感じられた。
彼は、思いのままに力を振う。
十二本の触手は龍のように、俺たちに襲い掛かる。
一本一本が独立した存在みたいに、異なるリズムで。
俺たちはそれを必死で避ける。
「何なの、この攻撃パターン。まるっきり統一性がない。普通何らかの共通性がある筈なのに、なーんも見い出せない!」
鈴が嘆きのグチを零す。
「指令を出している脳が違うから、でしょうね」
明日香の言葉に、思わず振り向く。どういう事だ?
「蛸はね、九つの脳を持っているの。一つの “中央脳“ と、八つの腕に付随した “腕脳“ 。自律的に判断し “分散制御“ する “腕脳“ と、それを統合する “中央脳“ 、その働きによりマルチタスクが可能なのよ」
鈴が『ああ――』と声を出し、ポンと手を叩く。知らなかったのは、俺だけのようだ……。
「あいつは蛸になったのか?」
馬、蚕ときて、今度は蛸か。うんざりした気持ちで、思わず零す。
「『蛸になった』と言うのは語弊があるわ。 “平行進化“ と言った方が適切かしら」
鈴が『ふむふむ』と頷いている。……また、置いてきぼりだ。
「異なる種において、似通った進化が見られる現象。『必要は発明の母』よ。彼は蛸になったのでは無い。その進化の道筋を辿っているのよ」
『相似器官ね……』 鈴が呟く。……すいません、ついて行けません。
「そうなると、気になる事が出て来るの。蛸の持つ特性として……」
「RNA編集?」
明日香の呟きに、鈴が応える。もうダメだ、ギブアップ。
「それはどういう事だ? 分りやすく教えてくれ」
知らない事は恥ではない。知ったかぶりをする事こそ、恥かしい。
「……DNAは知っているわね。遺伝子の設計図。それは、書き換えが難しい。でもDNAの情報を写し取ったRNAなら、書き換えは容易く状況に応じた肉体改造が可能。蛸は、その能力に優れている。つまり、『短期間での進化が可能』という訳よ」
なんじゃ、その都合のいい能力は。あいつらに、おあつらえ向きじゃないか。
「厄介な事になりそうね……」
明日香はハァとため息をつく。鈴と俺も、つられて吐く。
「天にも昇る心持ちだ。座標的にじゃない。次元的に、根元的に。いま僕は、神のいる場所に辿り着こうとしている!」
「その調子です、ベータ。押し寄せる念を、みんな吸収しなさい。米の一粒を惜しむように。貴方の全ての力を使って。情報分析・制御は私にお任せください。この聡美が貴方の目となり耳となり、導いて差し上げます。貴方はただひたすらに、魂を喰らいなさい」
二人は愉悦に浸っていた。
「そして “大道寺 勇哉“ を、 “夢宮 悠真“ を喰らいなさい。その魂を、データを!」
聡美が、とんでもない事を言い出した。
「貴方の愛しい直輝さんが遺した、その血を喰らいなさい!」
標的は、俺か! だが、何故? ここまで進化したこいつ等に、なにゆえ俺が必要なのだ?
戸惑う俺に、十二本の触手が襲い掛かる。
その戸惑いが一瞬の隙を生み、回避行動が遅れた。
「「危ない!」」
二つの声が重なる。
明日香と鈴が、俺の前で光の壁を作り、触手から守ってくれていた。
「あいつ等の狙いは、悠真の遺伝子情報。髪の一房、血の一滴も渡しては駄目!」
明日香が叫ぶ。
「ユマの過去への跳躍が、自然の摂理に反する能力が、奴を完全体にする。未来と過去を融合させ、完全な神となる。それは絶対に阻止すべし!」
鈴の声が、心に響く。
俺は、自分のなすべき事を理解した。
邪神を、誕生させてはいけない。
二人の光の壁が軋みだした。亀裂が入る。光が砕ける。触手が、押し寄せて来た。
「「逃げて!」」
二人の声が木霊する。
俺は死にもの狂いで回避する。
触手の攻撃は、鋭く速く重い。だが、それだけだ。
攻撃を見極め、過去に跳躍する。ほんの一二秒前の過去だ。
けれどそれは、攻撃開始前に回避行動を発動させ、躱す事を可能とした。
倒す事は出来なくとも、逃げる事は出来る。完全なる神にさせない事、それが重要だ。
「……なるほどね。見事な逃げっぷりだ」
攻撃を空振りしたベータに、焦りは無かった。
冷静に、次の攻撃を繰り出してきた。
「だけど、僕には通用しないよ!」
そう笑いながら。
俺は攻撃を確認し、過去へ跳ぶ。
「だけど、僕には通用しないよ!」
ベータは、微笑っていた。
予想通りの攻撃が押し寄せる。
俺は回避行動に移る。
だがそこで、異変が発生した。
時間が、跳んだ。ほんの数舜だけ。俺が逃げ出した瞬間が。
主馬の “時間操作“ だ。
触手が迫って来た。
「ならば、もう一度!」
俺は再び過去へ跳ぶ。主馬の “時間操作“ は、押し流せる筈だ。
“過去“ から “未来“ に流れる川の流れが、それを叶えてくれる。
「僕には、通用しない」
ベータが嗤っている。
またもや時を跳ばされ、回避を妨害される。
もう一度だ!
「僕には通用しないと、言っただろう」
ベータが、嘲笑う。
時が、跳ばされる。
どういう事だ。主馬のこの能力は、連発出来ない筈じゃなかったのか。
俺は過去へ跳ぶのを諦め、必死の思いで攻撃を避ける。
紙一重で、なんとか躱せた。次は、ない。
驚愕に染まった目で、ベータを見つめる。
「そんな熱い目で見ないでくれるかな。照れるじゃない」
飄々と、ベータは笑う。
「そんな真似は、出来なかった筈だ」
クラーケン頭部中央の、手足が埋もれたベータを睨みながら疑問を投げかける。
「 “アルファ“ はね。けれど、僕は違う。吸収したエネルギー量が違う。そして僕には聡美が付いている。センサーを除去して、全てのリソースを攻撃に回せる。 “アルファ“ とは、違うんだよ!」
勝ち誇った顔をしていた。
何に? 俺に? 主馬に? それとも世界に?
ベータは認められた子どものように、幸せそうな顔をしていた。
「さあ、いくよ――。楽しませてね――」
彼は嬉しそうに触手を繰り出す。
過去に跳ぶのは、悪手だ。
持久戦では、分が悪い。
俺は必死に逃げまどう。
「しっかり逃げてね~。勇哉くんの――、ちょっといいとこ見てみたい――。はいはいはいはい!」
なにコールしてやがる。この野郎!
「何をやっているんですか!」
そんな彼を、咎める声がした。
「 “釣り“ を知らないのですか、ベータ!」
黒服のメイドが、主を叱責する。
「魚は、とても臆病で慎重な生き物。エサを垂らし、じっと待たねばなりません。エサをコツコツと啄んでも、焦ってはいけません。針を飲み込むまで我慢し、ここぞとばかりに糸を引き、その口にしっかりと針を食い込ませる。これは、戦いでありません。狩猟なのです」
聡美は、ベータ以上に冷酷だった。
人間としてではなく、獲物として見ていた。
「殺しては、いけないの?」
無邪気に、ベータが訊ねる。
「アレは、貴重なサンプルです。死なせても構いませんが、消滅させてはいけません。そのデータは、私たちに必要な物です」
「死なせてもいいけど、消しちゃいけないって事?」
「ええ、そうですよ、ベータ。それはとてもとても、大切な事なのです」
背筋が凍るようだった。
死ではなく、この化け物たちの礎となる事が。
そんな俺の気持ちを他所に、ベータは呟く。
「 “死“ って、何なのかな? 僕、生まれたばかりで、よく分からないんだ」
幼い子どもがよく口にする問いだった。
だがそれは、まるで違う意味に聞こえた。
「動かなくなったら、意識がなくなったら、 “死“ なの? それは生まれる前と、何が違うの? 生まれる前に戻るのなら、生きている事こそ幻じゃないの?」
生も死も、お伽話の中の出来事みたいな口ぶりだった。
「 “死“ ってなに? “生きる“ ってなに?」
根元的な質問が、投げかけられる。
おそらく心理戦とかではない。こいつは本当に、それを知りたいのだ。
俺も、明日香も、鈴も、口ごもる。誰もその答えを、持ち合わせてなかった。
「 “リレー“ ですよ、 “生きる“ というのは」
答えたのは、聡美である。
「 “悠久の時“ という永いレースを、 “遺伝子“ というバトンを繋げ、どんな生命体がゴールのテープを切るかを競い合う、気の遠くなるような……」
聡美は、遠い目をしていた。
「それに、意味はあるの?」
ベータの言葉に、彼女はフッと笑う。
「……本能です、遺伝子に刻まれた。誰もそれに、抗う事は出来ません」
相馬 聡美も、殿鞍 晴明から続く四百年の記憶を引き継いでいる。
彼女の言葉には、その歳月を生きた重みがあった。
「さあ、行きなさい。己の成すべき事を果たしに。生まれた意義を示しなさい!」
聡美の叱咤に、ベータは攻撃を再開する。
先程以上の鋭さだ。十二本の触手が、縦横無尽に襲い掛かる。
「中々しぶといね。どうせやられるんだから、さっさと観念した方が楽なのに」
ばっか野郎! 最後まで粘って、逆転してこそのカタルシスだろうが! これだからお子ちゃまは!
俺は折れそうな心を、必死で奮い立たせる。
触手が、迫る。
大きく重いだけでなく、その表面が光り輝いていた。
小さな刃先のような物が高速回転し、光を反射していた。
ヤバイ! これは触れるだけでアウトだ! 切り刻まれる!
俺は受け止めようとしていた剣を引き、懸命に避ける。
触手は俺の横を流れて行く。
俺はホッと一息つく。
そして流れて行く触手を確認する。
引き戻され、再び襲って来ないかを確かめる為に。
触手は戻る事なく、真っすぐに進んでいた。
俺はそれを見て、戦慄し、後悔し、己を呪った。
触手の先には、明日香がいた。
力を使い果たし、光の壁を出す事が出来ない明日香が。恐怖に怯えた顔で。
俺は、知らないうちに駆け出していた。
背中に、痛みが走る。
少し遅れて、血が舞い散る。
「大丈夫か?」
俺は苦痛に歪む顔に笑顔を浮かべ、明日香に問いかける。
腕に抱いた彼女に、傷は無いみたいだ。よかった……。
「なんで、なんで、なんで――――」
明日香の悲鳴が、頭に響く。
「なんで私を助けたの! あなたが一番大切なのよ。世界にとっても、私にとっても。なんで私を見捨てなかったのよ!」
彼女は涙を流しながら俺を抱きしめる。そして優しく、背中の傷口を擦る。
「無理を、言わないでくれ。俺にお前を見捨てる事なんか、出来っこないだろう」
精一杯の力を振り絞り、笑う。
彼女を悲しませないように。
「……ばか」
彼女はコツンと、俺の胸に頭をぶつける。
それは背中の焼けるような痛みより、温かかった。
傷口に、誰かが触れる感触がした。
「残った力で傷口を塞ぎ、細胞を再生させるわ」
鈴が両手を添え、光を放っていた。
血が止まり、傷口が塞がった。
「応急処置だからね。無理したら、すぐ傷口が開くよ」
それでも有り難かった。
明日香の辛そうな顔が、少し和らいだから。
「ははっ。ついに、ついに手に入れた。過去への切符を! 直輝さんの血を!」
ベータが、喜色満面で叫ぶ。
クラーケンの躰が、脈打つように盛り上がり始めた。
躰中から、黄金の光が吹き出す。
光はクラーケンの躰を登り、ベータの許へと押し寄せる。
そしてそれは、一点に収束する。ベーターの額に。
ベータの額が光り輝く。
そしてそこに現れた。
第三の目が。神の目が。
いま、その目が開く。
世界を浄化し、新しい世界を創る目が。
「おおぅ! これが神の世界! 創造神の力!」
ベータが感動に打ち震える。
彼はいま、神となった。
聡美はクラーケンの躰を軽く蹴り、タンタンタンと駆け登る。
そしてベータの正面に立ち、右手で優しく彼の頬を撫でる。
「よくやりましたね。お見事です。それでこそ、ベータ。神話に名を残す者」
嬉しそうに、誇らしそうに、彼女は語りかける。
ベータは両目を瞑り、感無量といった表情をする。
聡美は頬を撫でていた右手を、スーと上へと這わす。
眉まで来ると横に向きを変え、なおも指を滑らす。
指は、額に到達した。
そこにあるのは “神の目“ 、 “第三の目“ だった。
「ほんとうに――ご苦労さま……」
聡美は感情が一切死んだ冷たい声で、ベータに囁く。
そして静かに、指を第三の目に突き刺す。
血しぶきが上がり、眼球が目から抉り出された。
ベータは、時が止まった。
神の世界が、突然消え失せたのだ。
訳が分からなかった。何が起きたのか、自分が何者かも。
遅れて、激しい痛みが押し寄せる。
切り刻まれるような、鋭い痛み。
だがそれは、序の口だった。
闇が広がって来た。
全身を喰い尽くす、虚無の闇。
それに比べれば、痛みなど可愛い物だった。
『死ってなに?』――その答えが、やって来た。
恐怖が、じわじわと這い寄る。
頭に浮かぶのは、水槽に浮ぶ肉片の群れ。
『僕は……失敗作じゃ……ない……』
それが彼の、最後の言葉だった。
「純然たる、光の結晶。全ての闇を分離し、濾過した、混じり気なしのエネルギー。原初の神がスプンタ・マンユ(光)とアンラ・マンユ(闇)に別かたれた様に、純化されし物。これこそが、新たなる世界の扉を開く鍵!」
聡美は高々と、血塗れの手で、光り輝く結晶を頭上に掲げる。
「感謝します、ベータ。貴方のお陰で、亜夢美さまは至高の存在となられます。新たなる聖書に、貴方の名は記されるでしょう。聖人として、列せられるでしょう」
漆黒の闇に浸食される彼に向かい、嬉しそうに聡美は呼びかける。
ベータはただ悲鳴をあげ、闇に飲み込まれてゆく。
そして闇は収縮し、どんどんと小さくなる。
「偉大なる神、亜夢美さまに栄えあれ! 我が神への賛美は、いつも私の唇の上に!」
彼女はまさしく、忠実なる僕だった。
殿倉家でも人類に対してでもなく、亜夢美にとっての。
彼女にとって亜夢美は、真理であり絶対であった。
真の敵は、ベータではなくコイツでした。心の底から亜夢美を愛してやまない狂信者。
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