少年時代
目の前に、怒りに身を焦がす鬼がいた。
その憤怒は、すべて私に注がれている。
ああ、何という至福!
彼の目には、私しか映っていない。
愛する人を殺め、その存在を侮辱した私が、彼の心の内を占拠している。
父親そっくりのその顔で、私に迫り来る。
「貴様だけは、許さん!」
熱い瞳で、そう語りかける。
夢みたいだ。彼の一番に、なれた。
代償行為だとは、理解している。
あの人は、もういない。
だがあの人が遺し、あの人が愛した存在が、いま私に全てをかけて挑んで来る。
それだけで、無上の幸せに浸れた。
「なに笑ってやがる。人の痛みが、苦しみが分らねえのか。このド外道がぁ――!」
――まだ、若いな。
痛み苦しみも、愛の一つだと知らないとは。
君への最高の愛を、奏でよう。
あの人への、君の父上への、不滅の恋の歌を。
「……なにを以て、語ればいいのだろう。夏に吹く涼やかな風。雲の切れ間から射す冬の光。苦しみを薙ぎ払う破邪の剣。雲雀が歌い夜が逃げ去るように、すべての邪は消えてゆく。私は賛美し、憧憬する。彼が生まれた事を神に感謝し、彼が失われた事で神を呪う……」
勇哉は憤り、私を睨みつける。
「貴方に言われたくない。間接的にとはいえ、ソフィアさんを殺し、父の心を壊した、貴様に!」
彼の主張に、私は頬を緩める。あの人が、こんなにも愛されている事に。
だが私の直輝さんへの想いは、それ以上だ。
愛とか恋を超えた所にある崇拝。それが私の気持ち。
あの人こそが、世界であり、神だった。
小さな小さな、箱庭みたいな世界。それが私たちの、全てだった。
◇◇◇◇◇
「よし、蹴るぞ! しっかり見とけよ!」
直輝さんがクヌギの木を、思いっ切り蹴る。
僕は耳を澄まし、目を凝らす。
ポトポトと落ちる音がし、。
『ここと、ここだよっ』――僕は指差し、直輝さんに得意気に伝える。
「よし、よくやった! え~と、ノコギリ、コクワ、おーこっちはミヤマだ!」
直輝さんは僕の指差した場所に素早く移動し、次々とクワガタを捕らえてゆく。
「大漁大漁、5匹獲れた。お前のお陰だ。次も頼むな」
彼は眩しい笑顔で僕の頭を叩き、労いの言葉をかける。
僕はそれがこの上なく誇らしく、嬉しかった。
「任せて! 絶対見落とさないから!」
僕は手を握り、肘を引き寄せ、鼻息荒く、彼に誓う。
「肩の力を抜け。まだ何か所も廻るんだ。そんなんじゃ、すぐへばるぞ」
直輝さんはそう言いながら、僕の頭をワシャワシャと撫でる。
それは、僕をとても幸せな気持ちにさせた。
10か所を廻り、合計25匹のクワガタを捕まえた。
出発したのは早朝だったのに、帰ると太陽は中天に昇っていた。
腹ぺこになった僕たちは、縁側でおにぎりを頬張る。
心地よい疲労感に、思わず横になる。
枕元に、お菓子の空き缶があった。
おがくずを詰めたその中で、クワガタたちがゴソゴソとしているのが聴こえる。
なにか自分が、素晴らしい偉業を成し遂げた心持ちにさせる音だった。
その音に耳をそばだてながら、わくわくした瞳で、裏庭から帰って来た直輝さんに呼び掛ける。
「いっぱい捕まえたね。僕にも少し頂戴!」
クワガタが欲しいというより、今日の、この思い出が欲しかった。
「……一番大きいノコギリかミヤマ、お前が欲しいのを、一匹だけやる。あとは、勘弁してくれ」
意外だった。直輝さんはケチではない。どちらかと云えば気前のいい方で、何でもホイホイあげてしまう人だった。『幸福な王子』と揶揄されるくらいに。だから僕は訊ねた。
「残りは、どうするの?」
彼が一人占めするとは、どうしても思えなかった。
「堤町の奴らにやる。こいつと一緒に……」
直輝さんの手には、大振りのスイカが何個もあった。
ああ、そういう事か。
僕はすべてを理解した。
「クワガタがたくさん獲れたんで、やる! これはエサだ!」
小さなカンに入ったクワガタ三匹と、大きなスイカ二玉を、直輝さんは堤町の子ども達に配って回った。
どう見ても、つり合いが取れていない。クワガタ三匹が、こんなに食べる筈がない。
子ども達は、涙を流して喜んだ。
三年前の1905年、 “大凶作“ があった。 “天明・天保の大飢饉“ に比肩すると云われた “大凶作“ だ。
僕たちの友達も、何人も飢えて亡くなった。
三年経ち、少しはマシになった。だが、飢えはまだまだ続いている。
直輝さんは三年前から、裏の畑で食物を育てる事を始めた。
小学校に上がるかどうかの、子どものお遊びだ。名家の子どものお遊びだ。みんなそう思っていた。
だが直輝さんは必死に教えを請い、精魂込めて育て、見事に実らせた。
そしてそれを自ら食するのではなく、みんなに配って回った。
勿論それには相手が受け取り易い配慮を添えて。今回のように。
「エサが余ったら、始末しておいてくれ」
直輝さんは鼻を掻きながら、きまり悪そうに言う。
『うん、うん、うん……』 受け取る子どもは全てを心得、彼の心遣いをくみ取り、ただ頷く。
「じゃあ、他にも行く所があるから……」
直輝さんは面映ゆい表情をしながら、そそくさと後にする。
その顔は、茹蛸みたいに真っ赤だった。
「……めんどくさいな、この人」
つい独り言が零れる。
直輝さんが、ぎょろりと睨みつけてきた。
すべてのクワガタ、スイカを配り終えた。
時刻は、午後3時を回っていた。
「もうちょっと付き合え。面白いもの、見せてやる!」
直輝さんは僕の手を引き、楽しそうに笑う。
「どこに行くの?」
「海! お前も小学校に上がって、泳げるようになったんだろ?」
「うん! 100メートルなら、泳げる」
僕は胸を張って答える。小学1年生なら、上出来だ。
「……よし。なら冒険に連れてってやる!」
直輝さんはニヤリと笑う。
すこし、嫌な予感がした。
「じゃーん。これが “ドレッドノート2世号“ だ。すげーだろ」
直輝さんは、鼻高々に “ドレッドノート2世号“ を紹介する。
「どれっど……のーと??」
疑問符混じりの言葉が漏れる。
そこにあったのは、竹を紐で縛り、四隅に浮き玉を括り付けた、1.5メートル四方の、まごうことなき “筏“ であった。
「どうだ、すげーだろ」
「うん。これを “ドレッドノート“ と言い張る神経が、すごい」
一昨年就役した、イギリス海軍の革命的な戦艦。 “弩級戦艦“ の語源でもある。ここから “超弩級“ という言葉が生まれた。
流石に小学生ともなると、身分不相応な言葉を使うのは恥かしくなる。
「いーんだよ、今はこれで。これは叩き台だ。こっから改良を進めて、最高の船を作ってやる。最初の一歩は、こんなもんだ。この後、三世、四世、五世と続くんだから」
どうやら僕は、歴史的瞬間に立ち会っているらしい。
「主馬はそっち側を持て。さあ、せーのー」
直輝さんと僕は “ドレッドノート2世号“ を持ち上げ、『よいしょよいしょ』と海まで運び、ざぶんと投げ入れる。
「さあ、出航だ! 七つの海が、俺たちを待っている!」
僕が右舷、直輝さんが左舷でオールを漕ぐ。
ドレッドノート2世号は、悠々と海を往く。
波と汗が飛び散る。
僕はふと、後ろを振り返る。
海ごしに、見慣れた街並みが見えた。
新鮮な感動だった。
見る場所が異なるだけで、こんなにも違って見えるのか。
「どうだ、世界は広いだろ!」
直輝さんは得意気に言う。
彼はいつも、新しい世界の扉を開いてくれる。
ドレッドノート2世号は、どんどんと沖へと進む。
高揚感も、段々と高まる。
まるで七つの海を往く海賊にでもなった気分だ。
僕たちは、冒険者だった。
冒険には、試練がつきものだ。
バキッという音が、左横からした。
続いて『やべっ』という直輝さんの声がする。
僕は恐る恐るギギッという軋む音を出しながら、首を隣に向ける。
「……オールが、折れちまった。てへっ!」
オールの先端部分、羽根のような形をしたブレード部分がポキリと折れて、海を漂っている。
直輝さんは残された柄でコツンと自分の頭を叩き、ペロリと舌を出す。
おーまい ごっと! なにしとるんや、われ!
僕は必死の形相で、残されたオールで水面を掻く。
するとそれまで順調に進んでいた筏が、その場で独楽のようにクルクルと回り始めた。
「……なるほど。オール一本なら、こうなる訳か」
直輝さんは右手を口に当て、フムフムと納得したような顔をする。
「なに呑気に検証してるんですか! そんな場合じゃないでしょう! どーすんですか、これ! 沖に流されているじゃないですか!」
僕は声を張り上げる。
引き潮の影響で、筏は陸からどんどん遠ざかっている。
すでに100メートル以上離れた。ここから泳いで戻るのは難しい。
「心配するな。こんな事もあろうかと、ちゃんと準備している」
直輝さんは落ち着き払った表情で、ごぞごぞと筏の隅に置いていた物を取り出す。
よかった。予備のオールがあったのか。
「じゃじゃーん。これでもう、だいじょーぶ!」
直輝さんが取り出したのは、オールではなかった。
横に長い、布だった。
彼はそれを広げる。
布には、『たすけて――』と書かれていた。
直輝さんは持って来た二つの釣り竿を筏の両脇に立て、その布を括り付ける。
漂流者の、出来上がりだった。
僕は眩暈がした。
ぱたりと仰向けに倒れた。
空が、蒼かった。
「本当に心配ないって。この湾は出口が窄まっていて、幅100メートルしかない。いざとなったら、泳いで帰れる。この救助要請は、まあ保険だ。のんびりといこう!」
彼はそう言いながら、僕の横に寝そべった。
僕はハァとため息をつく。
この人は、いっつもこうだ。
抜けてんだか、しっかりしてんだか、よく分からない。
いつも僕を振り回す。
「いいか、主馬。世の中には、失敗なんて無いんだ。転んだって、なんで転んだかが分れば、それは成長なんだ。次に活かせばいい。失敗を失敗で終わらす奴は、それをしない怠け者だ」
いつになく真剣な口調で、直輝さんは語りかける。
「そして臆病者は、失敗を怖がって何もしない。そんな奴に、未来は無い。俺は、怠け者にも臆病者にもなりたくない。この手に、すべてを掴むんだ!」
直輝さんは寝そべりながら、両手を広げる。
彼は、大空を掴んでいた。
太陽よりも眩しかった。
海よりも透き通っていた。
爽やかな風が吹く。
潮の匂いと、彼の甘い匂いが漂ってきた。
生命に満ち溢れ、明日に生きる、少年の匂いだった。
妬ましく、憧れた。
八月の太陽が、じりじりと焼きつける。
僕たちは無言で、この身をさらす。
心地良かった。
太陽と、海と、風と、そして空と、僕たちは一体となった。
直輝さんと僕は、一つの宇宙だった。
どの位時間が過ぎたのだろう。
陽が陰ってきた。
湾の出口が近づいて来た。
「……いくか」
直輝さんはそう言うと、服を脱ぎ始める。
近い方の陸まで、30メートルの距離だ。
「おっと、これも片づけないとな」
彼は立てかけていた釣り竿を外し、海に投げ捨てる。
救助要請の布は二つに裂き、一つは僕に渡す。
「このままにしとくと、『誰か遭難している』と大騒ぎになるからな」
屈託のない笑顔を浮かべ、他人事のように言う。
……まったく、この人は。
直輝さんは脱いだ服を布で包み、頭に括り付ける。
そしてザブンと海に入った。
「さあ来い! 俺が受け止めてやる。何があっても、守ってやる!」
彼は両手を広げ、呼び掛ける。
僕は、例えようもない幸福感に襲われた。
笑いながら、泣きながら、僕は『えいやっ』と飛び込む。
水しぶきが上がる。
水面に顔を上げる。
直輝さんの笑顔が、輝いていた。
『やるじゃないか』――直輝さんのその言葉が、じんと染みてきた。しあわせだった。
彼は僕をしっかりと抱え、陸へと運ぶ。
人生最高の、30メートルだった。
海岸線に辿り着いた僕たちは、砂浜に寝そべっていた。
「どうだ。刺激的で、スリリングで、面白かっただろう」
息を切らしながら、直輝さんは問いかける。
まったく反省していない。
「命の危険を感じ、寿命が縮む思いでしたよ。こんな思い、当分したくありません!」
口を尖らせ、僕は答える。
直輝さんは、肩を竦める。
「でも、まあ……」
頬を掻きながら、僕は続ける。
「来年の夏休みには、もう一度くらいは、してもいいかと……」
頬に熱を感じながら、言った。
直輝さんは嬉しそうに、僕の肩をバンバンと叩いた。
夕日が、砂浜に坐る二人を照らす。二人は、それをじっと眺めている。
『服が乾くまで、もう少し居ましょう』――僕がそう言ったから。
ヒュルルーという音がした。
パンッと弾ける音が続く。
空に、色とりどりの光が乱舞する。
赤青緑黄色、世界が極彩色に包まれた。
海の上に花火が昇る。
私たち二人は、それを見上げる。
月や星が俯いて、そんな二人を眺めていた。
何時までも何時までも…………。
月も星も花火も、貴方という輝きの前では、背景に過ぎない。
熱く眩しく狂おしく、私の胸を焼き尽くす。
消えない刻印を、私に刻む。
私は貴方の僕です。貴方のために、すべてを捧げます。
これから先、百年の人生も、愛も、忠誠も、すべてのものを。みんな、貴方のものです。
私は誓った、満天の星に。
無限の星々すべてに誓っても、私の想いが尽きる事は無かった。
いま私の目の前に、あの日の貴方と同じ顔をした息子がいます。
私は、貴方の息子を殺します。
そして、貴方と一緒に蘇らせます。
貴方の驚く顔が、楽しみです。
『ご苦労だったな』と褒めてください。いつものように、肩を叩きながら。
私は『これが私のお役目ですから』と強がるでしょう。涙を堪えながら。
それが、私の望みです。
世界すべてを敵にしても、神に逆らっても手に入れたい、私のちっぽけな野望です…………。
お盆を帰省先で過ごされている方も多いと思います。
昔の少年時代の原風景を思い浮かべながら、お読みください。
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