君の名は……
「ただいま――」
俺は疲れた身体を引きずり、ようやっと帰宅した。
桐生の三日間に渡る不登校の解決。
鈴の父親との話し合いの回避。
流石にダブルヘッダーはきつかった。
「おかえり――。冷蔵庫にアイスあるよ。クッキー&クリームはもらったからね。ショコラと抹茶が残っている」
いいとこどりしやがって。どうせ親父の分もこいつがもらうんだろう。ならば後でグチグチ言われない為には……。
「わかった、抹茶をもらう」
「ふ――ん……」
妹は、なにか見透かすように俺を見つめた。
俺は火照った躰をアイスで内側から冷やす。
一日の疲れがほぐれていくようだった。
そんな俺をじっと見つめ、妹は口を開く。
「ねえ、お兄ちゃん。私のパンツ、触った?」
口の中で、アイスがピンボールみたいに跳ねまわる。
かろうじてアイスは吹き出すこと無く、俺の口に留まった。
「ナニヲオッシャイマス……」
俺は感情を殺し、答える。
「いやね、私のパンツを仕舞ってるところが、キレイなのよ」
そらそうでしょう。苦労しましたもん。
「一糸乱れず、並んでいるのよ。折り畳み方もそう。まるで判を押したみたいに、誤差も無く同じに畳まれている。これってどういう事かな?」
妹はニコッと天使の笑みを浮かべる。死の大天使だ。
「まあいいけどね、使った形跡もないし。ショコラに免じて見逃してあげる。……次は、ないからね」
ショコラは俺を死の顎から救ってくれた。
「それに昨日はあの彼女さんがいたから、私のパンツなんかお呼びじゃなかったでしょうしね。――あ、もしかしてプレイで汚してパンツが必要になったの? それなら素直に言ってくれればよかったのに」
こいつは洞察力が鋭いのか鈍いのかよく分らん。
近いとこは突いてくるんだが、結果として訳の分らんとこに辿りつく。
「言っとくがお前のパンツは使っていないからな。神にかけて誓う」
触ってないとは言ってないもんね。
「はいはい。お兄ちゃん案外ヘタレだもんね。あんなシチュエーションでゴム使わなかったみたいだし」
この子は、なにをぬかしやがる。
「明日ゴミの日だから、お兄ちゃんの部屋のゴミ箱もまとめといたよ。あ――お礼はいいから。お陰で知りたいことも知れたし」
プライバシーの侵害ですよ。親しき中にも礼儀あり!
俺はお返しに、昨日の差し入れの『う〇〇す』と書かれた箱について尋ねる。
妹は『えっち……』と頬を染めて答えた。
ホントにこいつはよくわからん。
「じゃあ私、友達ん家行くから。明後日、日曜の夕方には帰ってくる。留守番ヨロ~」
夕日が沈みだす頃、妹はキャリーバッグを引き摺りながら玄関へと向かう。ちょっと待ったぁ――。
「お前がいなくなったら、俺一人じゃないか。父さんも母さんも居ないんだぞ。頼む、行かないでくれぇ――」
俺は妹の足にしがみつく。
「知るかっ。高校にもなって一人が嫌なんてなんなの? 普通『親が居なくてやりたい放題だぜ、イエーイ』ってなるはずでしょうに、まったく。一人が嫌なら、昨日の彼女さんを呼びなよ。父さんと母さんには黙っていてあげるから」
「それが嫌だから頼んでいるんじゃないか。頼む! あいつがやって来る。あいつが、俺のパンツから這い出てくるんだ!」
「意味わかんない! 彼女が来るのが嫌なの?」
「あいつは彼女じゃない! ついでに人でもない! あいつは……亡霊だ――」
俺の言葉に妹は顔をしかめる。
「お兄ちゃん、それはないよ。彼女さんが可哀想だよ。亡霊扱いなんて。そんな例えをするなんて……」
「例えじゃねぇ――。ダイレクトに! ありのままに! 言ってんだよ」
妹は『はぁ』と溜息をつく。
「おおかた、初体験に失敗して気まずいから二人っきりになりたくないとかだろうけどさ。……いけないよ、逃げてちゃ。向き合わなければ。失敗して傷ついてるのは彼女さんも一緒なんだよ。トラウマになって、エッチに恐怖を感じるようになったら、どーすんのよ。……ちゃんとしなよ」
「だからこれはそんな色っぽい話じゃないんだって! 正味のオカルトなの! ホラーなの! ラブコメじゃないの!」
俺は声を荒げ力説する。
「あーはいはい。わかりました。それじゃ私はオカルトに巻き込まれたくないんで退散します。じゃあね――」
妹はそう言うと手をひらひらと振りながら去ってゆく。
年ごろの男女の兄弟は、その考え方に差異が生じると云う。本当なんだな。
午後10時、俺は早くも床につく。
さっさと眠って朝を迎える。何が起ころうと気が付かなければ、無かったのと同じだ。
アイマスクをし、耳栓をする。光も音も感じなければ起きることも無いだろう。
念のため、部屋の四隅に盛り塩もした。味塩しかなかったが、まあいいだろう。
準備は万端、朝よ来い!
全身にお経を書き込んだ僧侶の気持ちで夜明けを待ちわびる。
就寝し、10分経った頃である。
ザワザワという幻聴が聴こえた。瞼の裏に景色が映った。
ちくしょう、これ無駄だった。無用の長物と化したアイマスクと耳栓を煩わしく思う。
俺の腹部に、生暖かい吐息がかかる。
あーはいはい、アレね。予想をしていれば、心乱されることはない。
柔らかく尖った双つの突起も、ジョリジョリした茂みも、ぷっくりとした弾力のある桃も、恐くはない。
かかってこいや――。
「おっと」
這い進んでいた彼女が膝を滑らす。
態勢がぐしゅっと崩れ、俺の躰にその身を預ける。
何か、ビラビラしたものが、彼女の両脚の間にあるものが、俺のお腹を掠めてゆく。
くぁwせdrftgyふじこlp;
人は予想外の攻撃には脆い。
こんな感触、童貞には想定外だわ!
「よっと、でーれーたっと。昨日ぶりっ、夢宮くん!」
弾むような声がする。
声の主が誰かなど、確認するまでもない。
俺は聴こえない振りをする。
「ありゃ、無視かいな。傷つくな—、もう」
ぷんと拗ねる声も可愛らしい。
「そっか、これが邪魔をしてんだね」
彼女は俺の耳栓を外し、アイマスクを除く。
黄金の、輝く裸身がそこにあった。
「うふっ。気になる? 私のカ・ラ・ダ……。好きにしていいのよ、あなたの思うがままに……」
彼女はクイッと躰を捻る。
ねじれた肉体はウエストのくびれを強調させ、生々しく蠢いていた。
「あなたのカラダも素敵よ」
彼女は蕩けるような眼で俺を見つめる。
「引き締められた腹斜筋。しなやかで、力強く、あなたの精励と節制が伝わってくる」
するりとその長く細い指で、俺の腹部に触れて来た。
「浮かびあがった鎖骨も綺麗ね。……喰べちゃいたい」
ぬるっとした舌が、俺の肩から胸にかけて這ってゆく。
「あなたの初めてを頂ける女の子は幸せね。任せて……私が最高の初体験をさせてあげる」
ねっとりとした言葉と空気で、部屋中が包まれる。
鎖骨を舐めていた舌は徐々に上へと這いあがり、いまは首筋を舐めていた。
理性が、溶けそうだった。
「うおぉ――――」
俺は雄叫びをあげる。金縛りが解けた。人間、気合だ。
力を振り絞り、彼女を引き剥がす。あ――勿体ねえ。
『きゃん!』といって彼女はベットから滑り落ちる。
どすん、という音と共に尻餅をついた。
「いった――い。乙女のお尻はもっと丁寧に扱ってくれるかな。スパンキング禁止!」
何でもかんでも、そっちに結び付けるんじゃねぇ!
「服をきちんと着ることも出来ないような、躾が出来てない娘は乙女とは呼びません。痴女と云う名の存在で――す」
「むう、失礼な! あのビーナスだって、裸でやって来たのよ。美の女神と褒め称えなさい」
俺たちは睨み合い、次にぷっと吹き出し、そして大声をあげて笑い合った。
馬鹿馬鹿しい。そんな言葉ですべてを吹き飛ばすような気分だった。憂いも悩みも。
「今日一日、大変だったみたいね……」
労わるように話しかけてきた。
「ああ。大変だった。けど、お陰で落ち着いた。桐生は立ち直ったみたいだし、鈴はもう大丈夫だ」
この一週間で係わった者たちを思い浮かべる。
彼女たちは、もがいていた。
どうしょうもない自分と、思いどうりにならない現実に。
絶望の沼に沈んでいた。
そこから這い上がったのは彼女たち自身の力だ。
俺は大したことはしていない。ただ彼女達の振るう力の方向性を示しただけだ。
本当に、たったそれだけの事だったんだ。
「あなたが自分をどう評価しているか知らないけれど、それは大きな事だったのよ。暗闇に灯された灯台の灯りがどんなに小さかろうと、それに導かれる水夫にとっては、何物にも代えがたい希望の光なのよ」
彼女は真剣な表情で語りかけてきた。まるで別人のように。
「そういう風に言ってもらえると、報われた気がする。ありがとう……」
素直に、お礼の言葉が出て来た。
「お礼は、形にしなくちゃね」
ニコッと彼女は無垢な笑顔を浮かべる。こいつらしい物言いだ。
「わかった。御祝儀だ。何がいい?」
彼女たちの門出を祝う、お裾分けをしよう。
「名前を、くれるかな。……私の名前、夢宮くんにつけて欲しい……」
祈るような目をしていた。
「『ゆーこ』と『レイ』は却下だからね。……安直すぎる」
ちょっと照れたのか、彼女は少しおどけてみせた。
そんな彼女がいじらしく見えた。
最高の贈り物をしたい。俺はそう思い、考えを巡らせる。
「……『メア』。『メア』は、どうだろう」
長い黙考のあと、彼女に語りかけた。
「……理由を訊いても?」
「理由は、ない。なんとなく、本当になんとなく、頭に浮かんできた」
本当に、それが相応しく思えたのだ。
「その名前に苗字を付けるとしたら?」
彼女は訝しげな貌で訊ねてくる。
「内藤さん?」
俺の答えに、彼女はジト目で睨みつける。
「違う、違うぞ。『メア』と云う名前に引っぱられて出ただけで、決してそれからもじった訳じゃない。純粋に、その名前がぴったりだと思ったんだ」
言うんじゃなかった。最悪だ。もうそれ以外に取りようがないじゃないか。
「まあ、いいわ。あなたがくれた名前だもの、大切にするわ。……今日から私は『メア』ね。よろしく、悠真!」
「悠真?」
「私が『メア』で、あなたが『夢宮くん』じゃバランス悪いでしょ。私も『悠真』って呼ばせてもらうからね」
悪霊は、天使の微笑みを湛えていた。
これが俺とメアの、物語の始まりだった。
第二章『Love is War』開始です。引き続きご愛読お願い致します。
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