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黄昏

1939年 5月。

大道寺邸に、一人の男がやって来た。


180センチを超える長身。彫の深い顔。

若い頃は細長かった躰にも筋肉が付き、がっしりとした体格に変わっていた。

彼の心は浮足立っていた。

疎遠になっていた、あの人と会える。久々の呼び出しだ。

例え叱責でも咎めでも、何でもよかった。あの人から与えられるなら、何でも。


彼は懐かしい部屋の前に立つ。

オールバックにした髪を整え、緊張した面持ちでノックする。


「主馬です。お召しにより参上しました」


『入れ』――中から低い声がした。

殿倉 主馬はドアノブを回し、ゆっくりと開ける。

部屋の奥に、執務机に坐る四十歳ぐらいの男がいた。

その姿を見た時、主馬は歓喜に震えた。


「お久しぶりです。紗稀さんの葬儀以来ですね」


会うのは、一年ぶりだった。

大道寺 直輝の妻・紗稀が、二人目の子どもを出産後、他界した。その時以来だった。

久々に会う直輝は、頬がこけ、目の下の隈が目立った。



「……満洲国とモンゴルの国境―― “ノモンハン“ で日本軍とソ連軍の大規模な軍事衝突が起きた」


直輝は挨拶も返さず、いきなり本題に入る。


「そのようですね」


主馬はそんな直輝の対応を、一切気にしなかった。

彼ら二人の間には礼儀など必要ない。そんな昔の取り決めが甦ったようで、かえって嬉しかった。


「お前の――仕業か?……」


冷たい、声だった。

冷や水を浴びせさせられた。嬉しい気持ちが引っ込んだ。

これは、直輝の怒りが頂点に達している時の声だ。

主馬は慎重に言葉を選ぶ。


「起こるべくして起こった事です。日本は満州を、ソ連はモンゴルを支配下として睨み合っていました。いつかは起こるべき戦争、それが……」


「御託はいい。簡潔に答えろ。お前が、仕組んだのか?」


有無を言わせぬ言い方だった。

言い訳は逆効果だと、主馬は悟る。


「……はい、私がやりました」


「なぜ、やった……」


そこで主馬は初めて気づく。

直輝の心を満たしているのは、怒りではない。悲しみだ。

怒りは、悲しみに引きずられて出た物だ。一体どういう事だ?



北進論(ほくしんろん)を抑える為です。対ソ強硬派は、ソ連の実力を知らない。知らないからソ連に攻め入れなどと無茶を言う。戦って現実を知れば戯言(ざれごと)も出なくなるでしょう」


素直に本音を述べる。嘘偽りは、絶対してはいけない。


「ソ連と全面戦争になったら、どうするつもりだ……」


「それは、あり得ません。スターリンは、ナチス・ドイツと手を組もうとしています。間もなく不可侵条約が結ばれるでしょう。そしてドイツとの密約により、ソ連はポーランドに侵攻します。ソ連としても、日本とポーランドの二方面作戦は避けたい。ならばどちらか一方の戦線は諦める事となります。それは間違いなく日本との戦争です。リスクだけ高く、リターンが少ないのですから。だから戦争となっても、必ず直ぐに停戦を持ちかけて来ます。北進論の連中には、いい薬となります」


理路整然と、主馬は語る。

それは一見、一部の隙もないかに見えた。


「お前には、すべてが、未来が、視えているんだな……」


「はい」


主馬は自信を持って答える。

自分は、間違っていないと。


「だが、肝心なものを見落としている。全体を視るあまり、ほんとに小さな、だがとても大切なものを見失ってしまっている」


直輝の言う事が、主馬には理解出来なかった。


「今日、モノノフ氏が訪ねて来た。ソフィアが……亡くなったそうだ。ノモンハンで…………」


「……え?…………」


思いも寄らぬ事実に、主馬は言葉を失う。


「戦闘時、ソフィアはノモンハンに居た。モンゴルの反ソ連勢力を支援する為、前線付近に居た。そして戦闘に巻き込まれ、……死んだ」


それは、まったくの計算外だった。予想だにしていなかった。


「うそでしょ! そんな……何かの間違いです!」


主馬は、焦る。これは、まずい。


「……その様子だと、ソフィアの事は知らなかったみたいだな」


直輝の(けん)が、少し(やわ)らぐ。

仇を見るような目が、()いでゆく。


「当たり前です! 知っていたら中止させていました。貴方が悲しむような事は、絶対しません」


「……そうか」


全面衝突は、回避された。




「本当に彼女は、亡くなったのですか……」


“信じられない“ と云うより、 “信じたくない“ と云う気持ちで、主馬は訊ねる。


「……俺に死人(しびと)の声が聞こえるのを、知っているよな。いま俺の耳には、ソフィアの声が聞こえる」


最も残酷な形で、それは証明された。


「皮肉なもんだな。あれだけ聞きたかった彼女の声が、こんな形で聞こえるなんて」


運命の皮肉か、神の悪戯か。どっちにしろ、碌な物ではない。


「そしてな、それだけじゃない。彼女の声と一緒に、大陸で亡くなった死人の声も聞こえる様になった」


主馬は愕然とする。

嫌な予感が身を苛む。


「チャンネルが、開いたんだろうな、戦場に――」


直輝は笑う、痛々しいほどに。


「主馬、俺は大陸に、戦地に行く。そして、死人の魂を鎮める」


本来決意の表明は、輝く未来を夢見て行なうものである。

だがこれには、何の希望もなかった。


「止めてください! 貴方が行く必要はありません!」


この人を、亡霊たちに引き渡してはならない。


「必要とか、そういう問題じゃない。……堪えられないんだ、俺の心が。どんなに耳を塞いでも、死人の叫びが聴こえる。断末魔の響きが、呪詛の声が、俺の脳を切り刻む」


主馬は血の引く音を聴いた。意識を失いそうだった。

死人の縄は、がっちりと直輝を絡め取っていた。



「いまあそこは、民間人の立ち入りが制限されています」


現実世界の縛りで、直輝を留めようとする。


「兵士として行く。召集令状が発行される様にした」


縛りは、あっけなく引き千切られる。



「お願いです、捨てないでください。……僕を……蒼森を……」


情で縛るしか、もう残された手立てはなかった。


「勇哉くんは、紬ちゃんはどうするんです。去年母を亡くし、今また父を失うんですか。……思い直してください」


子供をダシに使うのは、卑怯者だ。だがもう、なりふり構っていられなかった。


「あの二人のためにも、俺はここにいては、いけないんだ」


直輝は正面から、それを撥ね返す。


「遠からず俺は、正気を失うだろう。ソフィアと同じ世界に行く事になる」


聞きたくない台詞だった。想像もしたくない未来だった。


「あの二人も連れて行こうとするだろう。――だから。一緒にいては、いけないんだ」


直輝はいま、崩れ落ちようとしている崖の上に立っている。

愛する者を、巻き込まない様にとしている。


紗稀がいれば、話は違ったのだろうか。 だがいま彼女は、いない。


「僕では、駄目ですか? 紗稀さんの様に、あなたを慰める事は、出来ませんか?」


自分の無力感を感じ、それでも縋る様に問いかける。


「紗季と俺には、間にソフィアという繋がりがあった。同じ人を共に愛し、失い、傷ついた者同士が慰めるみたいな連帯感だ。お前には、それが無い」


主馬は、絶望に打ちひしがれる。

この人の為なら、誰だって愛せたのに。何故そうしなかった。後悔に、苛まれる。

手を床に突き、慟哭した。






直輝は、紗稀の死ぬ間際の言葉を思い出していた。


「ウチ歌劇団でな、なかなか役が貰えへんで、代役ばっかりやったんや。初めて会うた時の舞台、あの “土方 歳三“ も、代役やったんや」


病床で彼女は、明るく言った。


「ずっーと代役ばかりしてるとな、よからぬ考えが頭をもたげてくるんや。『怪我せんかな』『病気にならへんかな』ってな。……最低やろ」


「けどな、そんな考えはすぐ消し去るように努めたんや。引き抜いて、焼き払って、跡形も無く。別に、ええ子になろうとしたんとちゃう。そんな考えしとったら、役に影響するからや。(よこしま)な考えをしとったら、演技に出る。台詞の端々(はしばし)に、顔の表情に、顕れる。それは、とっても醜いんや。役のためなら、ウチはええ子になる」


「やからな、代役には慣れとるんや。何の不満もなく、務め上げたる。ソフィアさんの身代わりも――」


「ウチ、ええ奥さん()れたやろか? ええお母さん、出来たやろか?」


「ウチ、あんたの事も、ソフィアさんの事も、大好きや。やからあんたらが幸せになれたら、それでええ……」


「ウチも、幸せやった。こんなええ役もろうて。……おおきに」


彼女は、最期まで彼女だった。

ソフィアが言った通り、裏表がなく、馬鹿みたいに素直な――最高の女性だった。






モノノフ氏は、彼女との最後の会話を教えてくれた。


「 “ソフィア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ“ ――私はこの名を名乗っています。けれど皆、 “ニコラエヴナ“ という父称(ふしょう)か、 “ロマノヴァ“ という家名しか見ていません。誰も、 “ソフィア“ とは呼んでくれません……」


彼女は、 “容れ物“ としての自覚があった。


「ソフィアさま…………」


モノノフは、なんと慰めていいか、言葉に詰まる。


「 “ソフィア“ でいいんですよ、モノノフさん。その “さま“ には、 “ニコラエヴナ“ が、 “ロマノヴァ“ が付き纏っています」


言葉ではない、そこに込められる意味だと、彼女は語る。


「 “ソフィア“ と呼んでくれたのは、あの人だけでしたね……。あの島国の、童顔で、乱暴な、……優しい人」


そう言って彼女は、東を見つめた。

地を駆け、時を(さかのぼ)り、あの夏の海を見ていた。

二度と帰らない青春の日々を。




愛する人を捨て、愛する故国に身を捧げた女性。

高貴な血に縛られ、己の幸せを諦めた哀れな少女。




みんな、愛する者の幸せを願っていた。




「俺も、白いものが目立つ様になって来た。ソフィアには『私と同じ銀髪になるまでは会いに来るな』と言われていたが、もういいだろう」


もう、いいよな。

そろそろ昔話をする(とき)だ。






「静さんは、まだ飛鳥山にいるのか」


直輝の問いに、主馬は無言をもって答える。


「俺の、せいだな……」


自分を責めるように直輝は呟く。


「俺が若い頃、ロシア女に入れあげていたのは有名な話だ。そこに殿倉の娘が外国人の子どもを産んだとなれば、俺たちは外国勢力の関与を疑われる。だから敢えて、厳しい処分をしたんだろう」


「…………」


「俺の尻ぬぐいをさせてしまった……。すまん」


「私が、殿倉の当主として、決めた事です。貴方が気に病む事では、ありません」


主馬は、すべてを自分で背負い込むつもりだった。


「時が来たら、静さんに伝えてくれ。『すまなかった。俺のせいで、君の人生を滅茶苦茶にしてしまった』と、直輝が謝っていたと」        


たぶん、そんな時は来ないだろう。

主馬は、あらゆるものから直輝を守るつもりだった。






「じゃあな。後は任せる。愛する蒼森を、守ってくれ」


その言葉を聞いた瞬間、主馬の中から溢れ出すものがあった。

ずっと溜め込んでいた、絶対言わないつもりでいた気持ちが。


「私が愛しているのは、あなただけです」


「……知っている」


直輝は動揺も見せず、穏やかに受けとめる。

主馬の目から、涙が零れた。


「私が女だったら、愛してくれましたか……」


「お前が悪魔でも、愛していたよ」


その問いは切なく、その答えは残酷なくらい優しかった。




直輝は出て行く。パタンと扉が閉まる。


「うわぁぁぁぁぁぁぁ」


部屋に一人残された主馬は崩れ落ちる。

四肢を床に突き、子どものように泣き叫んだ。


「私は……馬鹿だ! すべてを手にしていたのに、すべてを壊してしまった」


苦悩が、後悔が、愛憎が、渦巻いていた。




青い春が過ぎ去り、(あか)い夏が終わり、白い秋が訪れる。

陽の光が、針のように細くなってゆく。黒い冬の、足音が聴こえた。




川は流れ 水車(すいしゃ)は廻る

廻れ廻れ水車(みずぐるま)

人生最期の走馬灯のように


願わくば その映し出される光景が

しあわせな記憶でありますように

前回で彼らの物語を終わらせた方が、きれいな終わり方だったかもしれません。

ですが主馬の苦悩が、直輝の戦場に赴いた理由が、それでは不十分でした。

後味の悪い終わり方となってしまいましたが、ご理解下さい。

次回から本来の時間軸に戻ります。


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