ファースト・ラブ
眩暈がしそうな程の眩しい夏。
日差しはチリチリと肌を焼き、木立を通り抜ける風が撫でるようにそよぐ。
空は、まっさおに蒼かった。
俺、ソフィア、主馬、紗稀は縁側で、冷やした西瓜を口いっぱいに頬張っていた。
「うんまっ! シャキシャキした歯ごたえ、さっぱりした甘さ、塩をかけると尚良!」
紗稀が口を尖らせ、種を飛ばしながら言う。
「日本では塩をかけるのね。私の所では、パンと一緒に食べてたわ。もっとも私は、レモンをかけるイタリア式が好きだったけど」
ソフィアが上品に、口に添えた紙に種を移しながら呟く。
『ほえ~。世界は広いね――』と、紗稀は目を丸くしながら驚嘆する。
俺たちは無言で貪る。
かけがえの無い蒼い夏を味わうように。
静寂の中、蝉の声だけが響いていた。
「あれは、何の音なの?」
訝しむように、ソフィアは尋ねる。
「蝉だよ」
「セミ?」
俺の答えに、彼女は困惑の表情を浮べる。
「цикада」
その言葉に、『ああ』と納得する。
「ロシアに蝉は、いなかったんだっけ」
「丸っきりいない訳じゃないけどね。サハリンにはいるし。けど、こんなに沢山が一斉に鳴くのは、初めて聴いたわ」
独唱と合唱では、まるで違うのだろう。歌も、人生も。
彼女はいま、一人ではなかった。
人生の夏を、謳歌していた。
「もうじき夏休みも終わりやな。直輝と主馬は、蒼森に帰るん?」
紗稀が首を振り、横の俺たちに問いかける。
「主馬は蒼森だが、俺は東京だ。そこの大学に通ってるんでな」
「東京帝大?」
「まあな」
『ほっほうー』と紗稀は目をぎらつかせる。
こいつはそんな事に心奪われないと思っていたのに。
少し、残念な気持ちになった。
「実はな、ウチ秋から東京に行く事になったんや」
ん?
「鈿女坂歌劇団、東京に進出する事になってな、ウチもそのメンバーに選ばれたんや。ま、栄転やな」
紗稀は鼻の頭を掻きながら、照れくさそうに言う。
「ええ話なんやけど、一つ問題があってな……」
彼女は急に真顔となる。
「ウチん所、チケットのノルマきついんや」
『ああ』と、皆が納得の声を上げる。
「買い取るだけやったらええんやけど、回収率もチェックされるんや」
どういう事?
「進出する以上、知名度を上げなあかん。やから、客の入りを重要視する。チケットの半券に目印を入れて、誰が何人集客したかチェックされるんや。ウチ、東京に知り合いおらへん……」
紗稀は、しゅんとした顔で俯く。
「そこに現れたんが、天下の東大生や。きっと友達も多いやろ。お願い! 紹介して!」
手を合わせて俺を拝む。
成程、そういう事か。こいつらしい。
俺は少しほっとした。
「それとも友達おらへんのかな~。それやったら悪い事言うたな。ゴメンな、忘れて。ボッチのアンタに、酷な事言うたわ」
上目遣いに、煽るように言って来る。
上等じゃねえか。
「友達ぐらいおるわ! 腐るほど!」
売られた喧嘩は、買う主義だ。
「よかった――。50枚もどうしようかと思うとったんや。さすが直輝はんや。頼りになる~」
すいません、見栄を張りました。友達50人もいません。どうしよう……。
隣で全てを理解した主馬が額に手を当て、薄々察したソフィアが苦笑いしていた。
転ぶ事も楽しい、夏の日だった。
「じゃあ、ウチ午後の稽古があるから」
そう言って紗稀は去って行った。
「僕も少し勉強をします。『夏を制する者は受験を制す』ですから」
主馬も自室に戻って行く。
残された俺とソフィアは、肩をつけて寄り添い合った。
「直輝は、する事がないの?」
彼女は、甘い声で問いかける。
「こうして、好きな人と一緒にいる事かな」
「バカ…………」
夏の太陽も羨むような、輝く時を過ごしていた。
「行きたい所があるの。一緒に、行ってくれる?」
ソフィアは俺の腕に縋り、ギュッと握りしめる。
「シベリアだろうとアラスカだろうと、何処へでも」
「……そこまで遠くはないわ。すぐそこ」
彼女は俺の腕を離し、立ち上がる。
「準備しましょ。着替えてくる」
その言葉を残し、妖精のように軽やかに駆け出した。
トントン。俺の部屋がノックされる。風呂敷包みを持った女中さんが入室して来た。
「これにお召替え下さい。ソフィア様からの、お言付けです」
そう言って退室していった。
彼女の望むがままに。俺は素直に従った。
着替えた俺は、玄関ロビーに出る。
そこに、身支度を整えたソフィアがいた。
彼女が着ているのは、濃紺の地に、流水紋の上を蝶が飛び交う浴衣。
そして髪は、日本髪を結わえていた。
鬘ではない。彼女の銀髪で結わえられている。
本来似つかわしくない組み合わせである。
だが同じ寒色系の濃紺の浴衣と、輝く銀髪が合わさり、清涼感を漂わせていた。
「どう? 似合うかな? おかしく……ない?」
無言に陥った俺に、彼女は不安そうに問いかけてきた。
「ありのままの私で、この場所に……溶け込んでみたかったの……」
消え入るような小さな声で、彼女は囁く。
「……びっくりした」
俺の答えに、ソフィアは泣きそうな顔をする。
「あまりに綺麗で、天国に迷い込んだかと思った。人生最後のご褒美かと思った」
彼女は顔を真っ赤にして、ポカポカと俺の胸を叩いてきた。
「もう、言い過ぎ!」
涙の上に、笑顔を重ねていた。
「あなたも、似合っているわよ」
藍色の地に描かれた光琳水を泳ぐ水鳥の群れ。そこに咲き乱れる色鮮やかな花々。
俺が着ているのも、ソフィアと同じ “加賀友禅“ の浴衣だった。
「これ、高いだろ」
物を見る目は鍛えられている。これは、給料の半年分はする。
「……モノノフさんに貰ったの。一生に一度のお願いだと言って」
モノノフ氏も気の毒に。彼女にそう言われて断れる訳がない。
立場的にも、男としても。
「一緒に、歩いてくれる? 恥ずかしくない?」
なおも不安そうに問いかけてくる。
「嫉妬で睨み殺されそうな懸念はある。『恥ずかしくない?』というのは、アレか? 俺とお前の背が同じ位だから、『恥ずかしくない?』という事か?」
俺は少し怒ったような顔をする。
「…………ありがと」
彼女は俺の胸に顔を埋め、震える声で呟いた。
俺は彼女の背をそっと抱きしめる。
後ろではソフィアの身支度を整えた女中さん達が、『うんうん』と頷いていた。
彼らは知る由もない。
この浴衣は27年後、直輝の息子と主馬の姪に着られ、思い出の品となる事を。
運命の神以外、誰も知らない。
「さあさあ直輝、もうちょっとよ。あと少しで掬星台、展望広場よ」
俺たちは神戸市の中央部に位置する摩耶山にいた。
数百段の長い階段を登り、天上寺まで辿り着く。目的地まで、もうすぐだ。
はしゃぐソフィアが足を取られ、よろめく。
俺はすぐさま駆け寄り、支える。
「ありがと……」
ソフィアは恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「あの……臭くなかった? 私、汗まみれだから、その……」
彼女は乙女の恥じらいを見せる。
「……俺は、匂いを感じられない」
ソフィアは顔色を蒼白に変える。
「ごめん!」
彼女は勢いよく頭を下げる。
「別に気にしない。今更だからな」
俺は事もなげに言う。
「だが少し、残念だ。お前の匂いを嗅げない事が。汗の匂いでも髪の匂いでもいい、知りたかった……」
その言葉に、彼女は哀しそうな顔をする。
そして思い切った表情をし、俺に抱きついた。
彼女は頬を、俺の唇に押し当てた。
「吸って、私の汗を。匂いは分からなくても、味は分るでしょう。私の味を、覚えて。……忘れないで、この味を」
涙を流しながら、囁いた。
俺は彼女の頬を舐める。
涙と汗が混じった味は、苦く甘く、俺の心に刻まれた。
目的地に到着した。
掬星台からは、神戸港が、大阪湾が、そして淡路島が一望出来た。
穏やかな凪いだ海が、広がっていた。
「優しい海ね。北国の激しい海とは、大違い」
遠い目でソフィアは呟く。
この海に、故郷の海を重ねるように。
「ヤクーツクには海は無かったんじゃないか」
彼女の故郷はレナ川中流の内陸部で、海岸線からは離れていた筈だ。
「ウラジオストクやナホトカの港を見た事はあるわ。冬の、荒れた海だった」
そこは、津軽以上に冷たい海だ。
「そこに比べれば、ここはまるでギリシャ神話みたいな世界よ。お伽話みたいな平和な世界……」
実際そこまでの理想郷ではない。
だが内戦、外国からの干渉に揺れる故国に比ぶれば、天国にも感じられるのだろう。
「ずっと、ここに居ればいい。俺も一緒に居る」
チリチリとする焦燥感に襲われる。何か、嫌な予感がする。
「……そういう訳にいかないの。明日、ロシアに戻る事となったの」
「なぜっ!」
俺は思わず大声を張り上げる。
先日の劇場での襲撃事件か。あれで身の危険を感じたのか。
彼女は目を細め、辛そうに言った。
「ミハイル・アレクセーエフ将軍が、亡くなったの」
『ミハイル・アレクセーエフ』――白軍司令官。元ロシア陸軍最高司令官。ドン地方の反革命組織 “ロシア義勇軍“ の創設者。
「いま白軍は、内部分裂を起こしかけている。それを繋ぎ止める “鎹“ が、必要なの」
それが、彼女という事か。
ロシアはいま、彼女を欲しているのか。
「俺も……一緒に行く」
思わず言葉が零れた。
それは、嘘偽らない本心だった。
「……だめよ。それは、許されない事なのよ」
彼女は、自分自身に言い聞かせるような、哀しそうな貌をした。
「私もあなたも、それぞれの国に根を張っている。それを離れて、存在出来ない。少しの間は大丈夫だけど、ずっと離れていると、心が枯れてしまう。そう謂う存在なの、お互いに……」
彼女は切なそうに、語る。
「それぞれの人生を歩みましょう。あなたは素敵なお嫁さんを貰って。そう、紗稀ちゃんみたいに可愛らしい人を。裏表のない、素直な人を。貴方にはああいう娘が、きっとお似合いよ。幸せになれるわ。ううん、必ず幸せになって。それが……私の願い」
聖母のような貌で囁く。
身を切られるように、辛かった。俺も、彼女も。
「ここに来たのはね、この輝く黄金の時を心に刻みたかったから。ここで、この時、最高の瞬間を生きたと記憶に残したかったの。それだけで、この先どんなつらい事があっても、生きていける……」
涙を流しながら、輝く笑顔で、一片の悔いもなく、彼女は言い切る。
俺はそれを見て、不憫だとか、いたわしいとか謂う気持ちが吹き飛んだ。
そう思うのは、彼女に対する侮辱だと感じた。
彼女は、誇るべき人生を生きているんだ。
「また、会おうな」
誇るべき人生の、その先に。
「あなたが、私と同じ銀髪になった頃にね。その時に、お互いの人生を語り合いましょう。楽しかった事も、悲しかった事も、……酸いも、甘いも……」
俺たちは、それ以上何も言えなくなった。
だが二人の瞳は、熱い胸の内を映し出していた。
その瞳に吸い込まれるように、どちらかもなく近づき、抱き合った。
そして、初めての口づけを交わした。
甘く、苦い味がした。
最初で最後の、彼女との口づけだった。
俺たちは唇を離し、言った。
「私の……ファーストキスよ」
「俺の……ファーストラブだ」
俺たちは、ふふっと笑った。
「初めてを、あげちゃった……」
「初めてを、捧げた……」
「「永遠に、忘れない――」」
二人の声が、重なった。
この神戸の景色に、この声が、想いが、深く刻まれた。
この夏が終わっても、消えることは無いだろう。
翌日波止場で、俺たちは向かい合っていた。
「これを、紗稀ちゃんにあげて。大事にしてって……」
ソフィアはそう言うと、持っていた風呂敷包みを俺に手渡した。
包みを開ける。中には、彼女が昨日着ていた加賀友禅の浴衣が入っていた。
「……いいのか?」
これはお金の問題ではない。彼女の気持ちの問題だ。
「うん。紗稀ちゃんなら、安心して任せられる。きっと大切にしてくれる……」
それは、この浴衣の事ではないのだろう。
「直輝の分はモノノフさんに預けているから。二人で大切にしてね。……そして偶には私の事を想いだして」
俺は堪らず彼女を抱きしめる。
「忘れる訳がないだろう! 忘れたくっても、忘れられない!」
俺の涙が、彼女の頬に流れた。
「ふふっ。そうか、忘れられないか……。罪な女だね、私も」
そう言う彼女の声も、掠れていた。
彼女の頬を伝う涙は、誰の物か分からなかった。
ひとしきり泣いた後、俺たちは離れた。
これからは、それぞれの道を歩まなければならない。
「元気で」
「元気でな」
俺たちは最後の言葉を交わす。
それだけだった。
それ以上は、蛇足だった。
お互いの人生を、阻んではいけない。
出港の汽笛が鳴る。
船が段々と遠ざかる。
俺はいつまでも白い航跡を眺めていた。
「一緒に行かなくて、よかったんですか?」
物陰から主馬が出て来た。
両手をズボンのポケットに入れ、気だるそうにして。
「……来てたのか」
俺は海を眺めたまま、横目で主馬に声をかける。
「てっきり止めに入るもんだと思っていた。『大道寺を捨てるな』とか言って」
主馬の立場上、そうするのが自然に思えた。
「そんな野暮は言いませんよ。恋に生きるなら、それでもいい。大道寺でなく、貴方にお仕えしているんですから、僕は」
その言葉は少し意外だった。大道寺あっての俺だと思っていたから。
「だったら何で此処にいるんだ? 物陰に隠れて。邪魔する気満々じゃねえか」
見送りに来たのなら、隠れる必要はない。
堂々と別れの言葉なり、恨みの言葉なりを投げつければいい。
「邪魔をしに来た訳じゃ、ありません」
主馬は俺の言葉に反発もせず、淡々と返す。
「邪魔者を排除して来たんです」
主馬はポケットから手を出す。現れたシャツの袖は、返り血を浴び赤く染まっていた。
よく見ると、胸の辺りも赤いシミが出来ている。
俺は全てを悟った。彼女との最後の時間を、守ってくれたんだ。
「ご苦労だったな」
俺は主馬の肩をポンと叩く。泣きそうに嬉しい気持ちを抑えながら。
「これが僕のお役目ですから……」
本当に不器用な奴だ。もっと自分の功を誇ればいいのに。俺の感謝を素直に受け取ればいいのに。
「さてと、東京に帰るとするか」
俺は指を絡め、手を頭上に掲げ、大きく伸びをする。
「僕が来年東京に行くまで、毒牙にかからないで下さいよ」
「ん?」
「あの “男役の娘“ ですよ。嫌な予感が、ビンビンします」
未来視の出来るこいつが言うんだ、間違いないだろう。
だがそんな未来が来るのだろうか。
俺には信じられなかった。
俺の心は、あの人で満たされていた。
きっとこれは消える事はないだろう
どれだけ時間が経っても どんなに恋をしても
青春の日々が色あせないように
彼女との思い出は輝き続ける
首をかしげた時に揺れる銀色の髪
雪のように清らかな声
瞬きするくらいの短い夏で
俺の心を染め上げた
それは俺の人生の宝
生きて来た証
その俺のすべてを
涙を堪え 見送る
愛する人の幸せを祈りながら
さらば初恋 我が青春
二度と還らぬ 黄金の日々
とある映画試写会に行った時のことです。その舞台挨拶で、原作者であり映画監督を務めた有名作家が質問を受けていました。『先生の初恋は、実ったのですか?』と。
作家は言いました。『何をもって、実ったと謂うのでしょう? お互いが好きだと分かったら? 付き合ったら? 結婚したら?」
……考えさせられました。
直輝とソフィアの恋は、実ったと思っています。
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