皇帝
妙な緊張感があった。
いがみ合っている訳ではない。むしろお互い好ましく思っている。
しかし譲れぬ物、守るべき物がそれぞれに有った。
その大切な物がゆえに、猫が毛を逆立てるように、睨み合っていた。
「ニコライ皇帝陛下は、どの様な方だったのですか?」
俺は探るように問いかける。
焦っては駄目だ。氷の湖を歩くように、慎重に。
「多分貴方の方がよくご存知でしょう。一般に知られている以上の事を、私は知りません」
ソフィアの返答は、にべもない。
「お会いした事は?」
俺は挫けず、質問を重ねる。
「2回だけ。私が産まれた時と、9年前、行幸でヤクーツクを訪れられた私が7歳の時。当然産まれたばかりの時は記憶にありませんので、覚えているのは一度だけです」
つまり彼女は16歳。
アナスタシア皇女が生きていれば17歳。
アナスタシア皇女が産まれてすぐに結ばれた時の子どもとなる。
「生まれたのもヤクーツク?」
「いいえ、サンクトペテルブルク(ロシア帝国の首都)で生まれました」
そりゃそうか。皇帝陛下がホイホイとヤクーツクに行ける筈がない。
つまり出産は、目の届くとこでさせた訳だ。
『ヤクーツク』――ロシア北東部の、シベリア永久凍土の上に建てられた極寒の都市。
冬の平均気温はマイナス40℃と聞く。
「お母さまの実家が、ヤクーツクだったのですか?」
「母は、サンクトペテルブルク出身です」
胸糞が悪くなった。思惑が透けて見えた。
14年前、アレクセイ皇太子が誕生するまで、ニコライ皇帝には男児がいなかった。すべて女児だった。
だから皆が望んでいた、男性の後継者を。
17年前、4人目の子どもが産まれた。アナスタシア皇女だ。その時の皇帝の心情は、いかばかりであったろう。
彼は、アレクサンドラ皇后を溺愛していた。
しかしロシアにおけるアレクサンドラ皇后の立場は、決して盤石なものではなかった。
アレクサンドラ皇后は、ドイツ帝国領邦ヘッセン大公国の大公を父とし、イギリス王国ヴィクトリア女王の次女を母として生まれた。彼女は早くに母を亡くし、祖母ヴィクトリア英女王の下で育てられた 。
その二人が、ニコライの叔父とアレクサンドラの姉との結婚式で知り合い、恋に落ちた。
だが二人の恋は、順調ではなかった。
なにしろ二人の保護者、ニコライの父・アレクサンドル皇帝は大のドイツ嫌いで、アレクサンドラの祖母・ヴィクトリア英女王はアレクサンドル皇帝が大嫌いであった。
それでも二人はなんとか結婚した。
だがアレクサンドラ皇后は、ロシア宮廷で孤立した。
ロシア宮廷ではロシア語とフランス語が用いられていて、英語とドイツ語しか話せない彼女は味方を作る事が出来なかった。
そういう状況下で国民が望む皇太子が誕生しない事は、彼らにとって途轍もないプレッシャーとなっていた。
そんな中で産まれた4人目の子どもが、また女児だった。
彼らは、藁にも縋ったのだろう。
皇后に仕える侍女を贄として。
洋の東西を問わず、よくある話だ。
俺たちも300年前、似たような事があった。
実に反吐が出そうな事だっだ。
「あなたが何を考えているか想像がつくけど、これでも私は幸運だったのよ」
パンドラはあらゆる災厄をぶちまけた後、希望と云う最後のよすがに縋った。
そんな、貌をしていた。
「産まれた瞬間、私はその生を終えるところだった……」
まるで『外れクジを捨てるのは当然でしょう』と言わんばかり口調で、彼女は話す。
「それを止めてくれたのが、アレクサンドラ皇后陛下。『この子を殺してはならぬ』と仰られて」
それは、慈悲ではないだろう。自己正当化であったに違いない。
「ヤクーツクに行ったのも、ご配慮から。その方が安心して育てられるだろうと」
厄介者を追い払う言い訳にしか、聞こえない。
「お母さまは、その後……」
「私が7歳の時、亡くなったわ。それからは養父母に育てられた」
2回目の拝謁があった、その時か。
「その養父母は、今どうしてる?」
「……亡くなったわ。今年5月、エカテリンブルクで」
「……なるほど」
『エカテリンブルク』――皇帝一家が幽閉され、処刑された場所。
一家の救出作戦も行われ、失敗に終わったとの噂もある。
「亡くなる前に養父母は、私をモノノフさんに託した。そして私たちは日本へとやって来た……」
それが半年前か。
すべてが、繋がった。
彼女は、保険なのだ。ロマノフの血を絶やさぬ為の。
彼女の肉体は、器なのだ。高貴な血を入れる為の。
個人の尊厳を無視した、冷徹な意思を感じた。
「私の躰は、私だけの物では無いの。……理解して」
全てを諦め、全てを捧げた、生贄みたいな貌をしていた。
やるせなかった。
彼女は皇室を恨んでないのだろう。忠誠を誓っているのだろう。
それが、不憫だった。
「お花を摘みに、行ってくる……」
そう言って彼女は、お手洗いに行った。
『もうこれ以上は話したくはない』とばかりに。
周りが、静寂に包まれる。
海の底みたいだった。
俺は壁にもたれ掛かり、倒れそうな躰を支える。
疲れが、どっと押し寄せて来た。
細めた目に、人影が写る。
明後日の方向から、主馬がお花摘みから戻って来た。
俺は重い気持ちを吹き飛ばすように、明るく話しかける。
「長かったな。いっぱい出たのか?」
白々しく、品の無い言い方をする。
「このくらい……」
主馬は右手を差し出す。
そして俺の掌に、コインの様な物をジャラジャラと落とした。
バッジだった。 “金色の鎌と槌“ が描かれたバッジが12個、渡された。戦利品として。
「やはりボリシェヴィキ(ソビエト共産党)か……」
先程の刺すような殺気は、気のせいではなかった。
主馬も俺の意図をくみ取り、よくやってくれた。
きな臭くなってきた。
「所詮モノノフ氏も、商人ですね。金の匂いには敏くとも、血の匂いには疎い」
主馬はモノノフの迂闊さをなじる。
その目は、戦士の眼だった。
「そう言うな。お陰でエサを貸してもらい、実態を掴めたんだからな」
俺は偽悪的な口を叩く。
善人として生きるには、この世界は厳しすぎる。
「どうします? 引き揚げますか? 父上たちも怒りゃしませんよ、こんな状況では」
『貿易について情報収集し、あわよくばそのルートを確保せよ』――それが父からの指令だった。
だがそれは、『ソビエトと喧嘩してでも』という訳ではない。
ここで手を引くのが、賢い選択なのかもしれない。
だが…………。
「いや、ここに残る。彼女を警護する」
「なぜ?」
俺の返答に、主馬は『意外だ』という顔をする
「俺たちが一番恐れるのは、奴らが南下してくる事だ。いま満州では、日本とソビエトが戦っている。緩衝地帯での戦争だから、日本への被害は少ない。だが業を煮やした奴らが、大陸経由ではなく直接日本本土を狙って来たらどうなる? 最前線は、樺太、北海道、……もしかしたら本州北端・蒼森を、津軽海峡を越えて狙うかもしれない」
俺は客観的な言葉を吐く。本心を棚上げして。
「隣の家に押し込み強盗が入るのは、まだ見て見ぬ振りが出来る。しかし我が家に入られるとなると、そうもいかんだろう」
俺は『いかにも』といった例を出す。
「だから我が家を目標にさせない様に、敵を用意する。奴らが決して無視出来ない敵を!」
小さな目的を、大きな目的にすり替える。
「それが白軍であり、ロマノフ王朝の忘れ形見、という訳ですか」
主馬は、胡散臭そうに問いかける。俺の本心を見透かすかのように。
「蒼森が白軍に味方していると捉えられたら、どうするんです? やぶ蛇ですよ」
主馬の意見は、もっともだ。
「だから、蒼森が関与していないと思わせる様にする。色香に惑わされたバカ息子が、とち狂ってロシア美人に入れあげている様に見せる」
しょうがない。大石 内蔵助を演じるか。
「端的に言うと?」
冷めた目付きで、主馬が問いかける。
「デートをしまくる! ――ロマンティックな夜景、お洒落なカフェ、女の子が好きそうな小物屋に行きまくる。二人で一つのジュースをストローで飲み干し、煎餅を両端から二人で食べ、唇が触れ合う直前まで啄む。おい、他に何かいいアイデアはないか? お前も考えろ!」
主馬は額に掌を当てる。その顔は、うんざりとしていた。
「知りませんよ、そんな悍ましい事! 考えたくも無い! 何の拷問ですか!」
こいつにしては珍しく、激昂した。
うまい具合に疑念が逸らせた。
……なんでだ?
それから俺たちは、遊びまくった。
今日は六甲、明日は宝塚と。ありとあらゆる遊びを楽しんだ。
すべて会計はモノノフ氏持ちで。
時には京都から舞子さんを呼び付け、モノノフ氏をスポンサーにお座敷遊びをした。
絵に描いたような放蕩息子だった。
「いつまでこんな馬鹿騒ぎを続けるんです? 偽装工作は、もう十分でしょう」
主馬が渋い顔で睨みつけて来る。
仕方ない、少し言い訳をするか。
「今日のお座敷に同席した、髭面の男を知っているか? ……ユダヤ系金融機関の頭取だ。彼の口添えが無ければ、燃料の確保も儘ならない。前の戦争ではロシアは彼の支持を得られず、良質な石炭の調達が能わなかった。そしてバルチック艦隊は、日本連合艦隊に敗れた」
「あのネクタイを頭に巻いて、裸踊りをしていた男が?」
主馬が目を見開いて驚く。
「人は見かけによらないだろう。たまたま来日しているとの情報を得て、モノノフ氏を通じて席を設けて貰った。いや、あんなにノリがいい人とは、思わなかった!」
「……貴方も楽しそうに、横で “野球拳“ を踊っていましたね」
「『アメージング!』と喜んでいた。お陰で仲良くなれて、『また今度一緒に遊ぼう』と連絡先を渡された」
俺は名刺をピッと出す。
「それ、どれだけお金を出しても手に入らないお宝ですよ。垂涎の的ですよ。それを他人の奢りのお座敷で貰いますか……」
主馬は呆れた顔をする。人の褌で相撲を取りやがってと。
「お座敷にはな、金が埋まっているんだ」
俺は悪戯っぽく笑う。
「銀のシャベルで掘り起こす、ですか?」
主馬の言いたい事は、分かる。
あの頭取が心を開いたのは、ソフィアのお陰だ。
彼女の着物を着て舞う姿は、美しかった。
伝説で聞いた『小夜姫の羽衣』も斯くの如しだった。
月光をとかしたような銀の髪。
雪のように透き通る白い肌。
翡翠のような緑色の瞳。
それが極彩色の艶やかな着物を纏い、優雅に舞う。
西洋の美と、東洋の美が、見事に融合していた。
そしてその美しさは、外見だけではなかった。
“しな“ や “足さばき“ 、すべての所作が完璧だった。
腕のちょっとした動き……、そんな物に全神経を研ぎ澄ませ、すべての動作を洗練された美に昇華させていた。
それは、一つの芸術品だった……。
「椿姉さんの、首のかしげ方や。紗月姉さんの、足の踏み方や……」
同席していた舞子さんが呻く。
そうか。ソフィアは見て、学んだのだ、このお座敷で。
俺は感動とも恐怖とも分からぬものに、浸されていた。
「シャベルの取り扱いには、ご注意を…………」
主馬はそれだけを言い、黙りこくった。
◇◇◇◇◇
「……飽きた!」
俺はいつものお座敷遊びをする旅館で寝転び、両手両足を投げ出し大の字になって、言った。
「そりゃ飽きるでしょう。毎晩毎晩遊びまくっていたら」
腕組みをして、寝転ぶ俺を見下ろしながら、ソフィアは呆れたように言葉を投げつける。
「なんか、面白い遊び知らないか?」
何とはなしに、彼女に尋ねる。
「ツルゲーネフの『初恋』に出てた、『罰金ごっこ』とかどう?」
かの文豪のお勧めか。
「いいね。格調高くて、甘酸っぱい香りがして、面白そうだ」
「少し日本風にローカライズするけど」
ソフィアの中では、もう形になっているようだ。
「任す! 好きにやってくれ!」
「本当に、いいのね……」
「武士に二言はない」
内容については聞かなかった。
まあ、彼女のやる事だ。間違いはないだろう。
暫くして、モノノフ氏と今日の同席者が到着した。
同席者は、農商務省(現在の農林水産省・経済産業省)の官僚だ。
今日は俺からの紹介による、顔合わせだ。
橋渡しをした後、俺は席を外すことにした。
「ちょっと、野暮用をしてくる」
俺は主馬に声をかけ、退室する。
「……程々に」
主馬の声は、心なしか冷たかった。
俺は長い廊下を抜け、大勢の人が居る玄関ホールへと向かう。
千鳥足で、フラフラと、着物もはだけて歩く。
すれ違う人たちは、避けるように横にずれる。
俺は廊下の中央に立ち止まり、手を口に添え、叫んだ。
「アーニャた~ん! だーいしゅきぃ――!」
呂律のまわらない声で、叫ぶ。
突然の絶叫に、皆こちらを振り返る。
だが中には、『ああ、またか』と苦虫を嚙み潰したような顔をする常連客もいた。
よしよし、だいぶ広まって来たな、バカ息子の評判も。
俺は成果に満足する。
『身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ』――俺は心の中でそう呟く。
だが中々理解は得られないようだ。
『アーニャって誰よ……』――この醜態を見られた時、ソフィアはお冠だった。
まあ騎士道からは程遠いから、仕方ないか。
仕方ないから、『アーニャってのは、今読んでいる小説の登場人物だよ』と説明した。
嘘ではない、1ミリも心惹かれてないが。
『今度 “忠臣蔵“ を読み聞かせよう』――俺の現状を察してもらう為、そう提案した。
するとソフィアは『知っとるわ!』とさらに激昂した。
『だからそこは何でソフィアじゃないの』とブツブツ言いながら。
……解せぬ。
今日のお努めを終え、部屋に戻って来た。
「……皇帝は…………だれだ…………」
部屋から途切れ途切れ、そんな言葉が漏れ聞こえる。
しまった! 敵襲か。
だがそんな前兆は無かった。
いつ、どうやって侵入した。
俺は焦る心を抑えつつ、全力で駆け、部屋の襖を勢いよく開けた。
そこに待っていたのは、地獄だった。
「は――い!」
一番若い舞子さんが元気な声を張り上げ、ニコニコしながら右手を高く上げていた。
その手には、割りばしが握られている。
『皇帝』と書かれた割りばしが。
そして彼女は立ちあがり、告げる。
「え~と~ぉ。3番が5番の後ろから抱きついて――、ふーって耳に息を吹きかける――!」
……は?………………
「皇帝の言う事は~」
皇帝の割りばしを持つ舞子さんは、ぐるりと皆を見回しながら言う。まるで何かを促すように。
「「「ぜったい――!」」」
他の舞子さんたちの、鈴の音を転がすような声が唱和される。
なんじゃ、これ!
笑顔の美女の中に、青い顔をして頬を引き攣らせている二人の人間がいた。
3番と書かれた割りばしを持つモノノフ氏と、5番の割りばしを持つ官僚の男だった。
モノノフ氏が、まるで亡者のように虚ろな目で、官僚の後ろに廻る。
目を瞑り、泣きそうな顔で、官僚の背にその胸を押し付け、強く抱きしめる。
そして官僚の耳に触れる程に、口を近づけ、震える唇から、熱い吐息を、ふっと吹きかける。
キャッーという喚声が、舞子さんたちから上がる。
どうやら彼女たちは、こういうのが大好物みたいだ。
「そこで3番は『愛してる。もう離さない』と囁く。 はいっ! リピートアフターミー!」
『皇帝』の割りばしを持つ舞子さんが、さらなる試練を与える。
鬼か、貴様っ!
『愛してる。もう離さない』――そう囁くモノノフ氏の目は、もう死んでいた。
そして怖ろしい事に、官僚はポッと顔を赤らめている。
……俺は、なにを見せられているんだ。
「いや、舐めてたわ。プロよ、あの娘たち」
ソフィアが頭を掻きながらやって来た。
「本来は舞子さんたちとキャッキャウフフするイベントだったのよ、これ。けど彼女たち、見事な回避行動をした」
彼女は両手を組み、難しい顔をする。
「どうやっているのかは分らないけど、確実に彼女たちは自分の番号を『皇帝』に伝えている。多分お座敷で自分の身を守る為に作った、符牒みたいな物を使っているんでしょう。そして『皇帝』は知らされた番号以外に罰ゲームを下す。すなわち男性陣だけに。見て、三連チャンを喰らった、憐れな男の末路を」
彼女の指差す先に、白目をむいて倒れている主馬の姿があった。
俺は戦慄した。これは、数分後の俺の姿だ。
「あら、美少年はんのお帰りどすえ――。さあさ旦那はん、一緒に遊びまひょう――」
一番年かさの舞子さんの声に、全員がばっと俺の方を振り返る。
その目は、爛々と赤く燃えていた。
じりじりと、彼女たちはにじり寄って来る。
獲物を狙う『舞子ゾンビ』が迫って来た。
彼女たちからは、腐臭が漂っていた。
狩る事が出来るのは、狩られる覚悟のある者だけです。
皆さんも、セクハラだけは絶対に止めましょうね。
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