行動原理
銀のサモワール(給茶器)から湯気が立っている。
その周囲に、小さめのティーポットが置かれていた。
ティーポットの中には、茶葉を沢山使った濃い目の紅茶が入っていた。
濃い紅茶をティーカップに注ぎ、サモワールのお湯を足し、好みの濃さに調整する。
ロシア皇帝御用達の紅茶『クスミティー』の、ベルガモットの香りが漂って来た。
「暑い日に熱い紅茶も、いい物でしょう」
モノノフ氏はテーブルに置いてあるジャムをスプーンで掬い、それを口に含んでから紅茶を飲む。
なるほど、これがロシア式か。
俺と主馬は彼に倣い、同じ飲み方をする。
それをモノノフ氏は、にこやかに眺めていた。
「……なるほど。相手の流儀に合わせるという配慮をお持ちのようですな」
一挙手一投足を見られている。そして人となりを見極められている。油断できない。
「いや、失礼。別に貴方達を値踏みしようとしているのではありません。ただ感心していたのですよ。お若いのにその様な気遣いが出来るとは、と。殿倉さんは高校三年生、大道寺さんは高校一年生ぐらいですかな」
「主馬が高校三年生というのは合っていますが……。僕は大学一年生です。東京帝国大学生です」
「失礼しました!」
モノノフ氏は『リアリィ?』という目で俺を見つめる。 童顔のせいで、いっつもこうだ!
「それで私どもの貿易販路について学びたいという事でしたが…………」
彼はコホンと咳払いし、話題を変える。
「それで私たちに、どんなメリットが?」
商売人の冷徹な貌になった。
「中央の要人とのコネクションを。農商務省(現在の農林水産省・経済産業省)官僚との橋渡しを」
モノノフ氏は顎に手をやり、『フム』と呟く。
「悪くは無い。だが疑問があります。なぜ、私たちなのですか? もっと他に利益をあげている商会があるでしょう。それだけ中央に太いパイプを持つ貴方達なら、そちらを選ぶのが自然ではないですか?」
この用心深さは見習うべきだ。
だが俺たちは、別に彼らを食い物にしようとしている訳ではない。
「私たちは、東北の人間です」
俺の言葉にモノノフ氏は、『それが?』と怪訝な表情をする。
「東北の民は、常に凶作に苦しんできました。『天明の大飢饉』では餓死者十万二千人を出しました。
そして1905年、今から13年前、『天明の大飢饉』以来といわれる大飢饉がありました。若い女性はその身を売り、幼い子どもは飢えて命絶える……そんな光景を、幼い私や主馬は見てきました」
主馬は唇を噛み、目を瞑る。
「私たちは夢を語り合いました。飢える事のない、こんな理不尽な死など訪れない世界を作ろうと。そう誓い、生きてきました」
俺の声は震えていた。一切の虚飾がなかった。
「少しずつ、よくなって来ました。土地の開墾が進み、寒冷地向けの品種も改良され、収穫量も増えて来ました。未来はきっと良くなる。そう信じていました。……だがそれは、幻想でした」
俺の心は、哀しみから怒りに変わりつつあった。
「いま起きている “米騒動“ 、あれは一体なんですか! あれは “天災“ じゃない、 “人災“ だ!」
思わず声を張り上げる。
「シベリア出兵があるから、軍の糧食が必要となるから、米の値が上がる。ならば買い占めて売りに出さないで、一番高くなった時を見計らって売り抜け、儲けてやろう。そう企んだ下衆な連中が起こした、人災じゃないですか」
モノノフ氏は黙って聞いていた。
「 “天災“ なら、諦めがつく。だが “人災“ は、許せない!」
俺は息をハァハァと吐く。感情が昂ってしまった。
「それで貴方は、どうしたいのです? この現状を、どう変えたいのですか?」
彼は優しく導くように問いかける。
「私に、いえ私たちにそんな力はありません。私たちには、政治を動かせる僅かばかりの力はあります。でもそんな物、役に立ちませんでした。『外米管理令』を公布させ、大手商会七社に外国米の大量輸入させましたが、米価は高止まりしたまま。……ほんと、政治は役立たずです」
いま行われている行為は、法には触れていない。
だが、人倫にもとっている。
「政府は社会不安を抑え込む為に、、巡査採用数を増加させて警察力の増大を図っています。やる事が見当はずれです。原因を解消するのではなく、引き起こされた結果を取り除こうとしている」
モノノフ氏は腕組みをし、指でトントンと自分の腕を叩く。
「お話はよく分かりました。だがそれが私たちにどう繋がるのか、その事が一向に分かりません」
俺は思わず苦笑する。
「あなた達はこの騒動で、見事な手腕を発揮されました。大手商会が足元を見られて高値で米を仕入れ、昨年の何倍もの値で販売する中、あなた達は適正な値で仕入れ、暴利を貪らず適正な値で売られた。あなた達がいなかったら、神戸はもっと酷い状況になっていたでしょう。だから教えて頂きたい。どうすれば、その様な事が出来るのかを。私たちが手に入れられなかった米をどうやって入手し、それを転売して儲けようとする悪徳中間業者を如何に排除し、どの様に売り捌いたのかを!」
どうやらこの人は、自分の功績を自覚してないようだ。
「なんだ、そんな事ですか! てっきり私は、『取引ルートを寄こせ』とか言われるものだと思っていましたよ」
「そんな虫のいい事は言いません。取引先をご紹介頂ければ有り難いですが。それでもあなた達と同じ条件で取引してもらえるとは、思ってもいません」
『よくお分かりで』――彼はにこやかに言った。
「無い物ねだりですな、お互いに」
彼は数舜の沈黙の後、言った。
「私は、『モノノフ』という名ですが、商人でして。頭の天辺から足の爪先まで」
茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべる。
「同じように貴方達も『商会』を名乗っていますが、その中身は『武士』その物でしょう。価値観から行動基準まで」
その見立ては、正しい。
「商人は『利』を第一に考えます。しかし武士は『義』を第一に考えます」
俺は彼の言葉に、耳をそばだてる。
「『義』は短期的には『損』でしょう。だがそれを長く続ければ、『信頼』という果実を得られます」
彼は熱弁する。血をたぎらせて。
「それは今の私に、喉から手が出る程欲しい物です」
彼は叫ぶ。心の底から。
「私たち白系ロシア人は、寄る辺なき身の上。祖国から逃げ出し、異国に身を寄せ、守ってくれる物がなき身。……そして『信頼』してもらう事が能わない」
彼は嘆く。悲哀を込めて。
「だから私は誠実に行動します。裏切らず、食い物にせず、真摯に。『利益』より、『信頼』を求めて。逆境にあり、助けを求める人々にこそ、救いの手を差し伸べました。それは献身と云うより、故国を追われて悲嘆に暮れる身で、身につまされながら行った代償行為みたいな物です」
これは彼の、行動原理。
「それが、返ってきたのです。私が欲しかった『信頼』となって……。それだけの事です、それだけの……。晴れの日に傘を貸し、雨の日に取り上げる様な輩と、誰が組もうと思いますか。そういう、ものです……」
心の、吐露だった。
「私も昔は、こうではありませんでした。純粋に『利』を求める商人でした。……『環境が人を作る』とは、よく云ったものですな」
これまで歩んで来た道のりを思い返すような目をしていた。
「その『信頼』を、貴方達は最初から持っている。私には黄金よりも貴重に見える、それを。しかしながら貴方達は求める、『利』を。……実に、皮肉だ」
神に文句を言うみたいな口調だった。
「分かりました。貴方達の、力となりましょう。私の経験や知識をお伝えする事、信頼出来る筋を紹介する事に、やぶさかではありません」
やった!
「ただし!」
彼は冷や水を浴びせるような声をあげる。
「どれ位のレベルまで提供出来るかは、対価によります。スタンダードになるか、ロイヤルスイートになるかは、貴方達次第です」
冷徹な商人の顔に戻っていた。
「中央への口利きだけでは、不足だと?」
「ええ、足りません。ジャムのない紅茶のように」
商人の顔に、屈託のない子どもの顔が混ざっていた。
「どんな味が、お好みで?」
俺は探るように問いかける。
「レディの笑顔を! とびっきりの!」
それは、予想だにしなかった答えだった。
「ソフィア様のエスコートをお願いします。今日街ではお祭りがあり、それにどうしても行きたいと仰られているのです。ご存知の通り、家の護衛は先程無力化されまして」
糊塗する事なく、あけすけに言う。
「このまま閉じ込めて置くと、爆発しかねません。ガス抜きに、祭りに連れて行ってあげて下さい」
近所の子どもに『うちの子と遊んであげて』と頼む、子育てに疲れた親みたいだった。
「さっき襲われたばかりでしょう。危険すぎます」
俺は真っ当な反論をする。勿論そのその根底にあるのは、『面倒くせー』という気持ちだ。
「だからいいんです。敵もまだ態勢を整えられていない。そしてここに帰るまで、ソフィア様が襲われる事が無かった。ソフィア様の風貌を隠してしていた事もありますが、同年代の日本人の貴方達が一緒なのが、いい目眩ましになった。同じ集団の少年少女と認識された。これまで私たちは信用のおける者という観点から、ロシア人だけでガードしていました。それが、良くなかったみたいです」
これまで戦力的な事以上に、『いつ裏切られるか分からない』という怖れから日本人の護衛を用いなかったのだろう。
「そして私たちは “目立つ“ というのもありますが、考えが読まれやすいという弱点があります。表情や反応で、すぐ悟られてしまう」
襲撃者が日本人なら逆だろうが、同胞相手では筒向けだ。俺たちだって、外国人の感情は読みにくく、日本人なら分かる。
「その点貴方達は、いい! その能面のようなのっぺりとした顔。動いているのかどうか怪しい表情筋。何を言っているか分かりにくい抑揚のない言葉。不気味な、いえミステリアスな存在なのですよ、貴方達は!」
褒めてんだよな、これ……。
いっぺんコイツを、京都のイケズと対決させてみたい。きっといい勝負をするに違いない。
「これは、私からの “お願い“ です。受ける受けないは貴方達の自由。ただ、私の『信頼』が売りに出される機会はそうそう無いとだけ、申し上げておきます」
モノノフ氏は、狸親父みたいな貌をしていた。
彼がその様な顔をした訳ではない。
俺が『やられたっ』と思う気持ちが、そう見せた。
「んふふん、うふふん、るるるるる――――」
鼻歌を奏でながら、少女が街を征く。両横にお伴の二人の少年を連れ、王者の如く。
真夏でありながら手首まで隠す長袖に、足首まで隠す白いワンピース。
ツバが大きくて広くリボンを巻いた帽子 “キャペリン“ ――いわゆる “女優帽“ を被っている。
帽子から零れる髪はサラサラとした黒髪――鬘であった。
そしてその緑の瞳は、ギラギラと反射する眼鏡のレンズにより隠されていた。
祭りに浮かれる、少年少女の一団に見えた。
「さあ直輝、どこから攻めましょう? “金魚すくい“ ? “綿菓子“ ? “りんご飴“ も捨てがたい!」
ソフィアは興奮のあまり、駆けだそうとする。
俺はそんな彼女の右腕をむんずと掴み、引き止める。
「荷物になるものは、後回しです。両手が塞がっていたら、 “金魚すくい“ も “射的“ も出来ませんよ」
無制限に荷物持ちをする気は無いからな。
「まるで暴れ馬ですね」
横で主馬が両手を頭の後ろで組み、他人事のように言う。
なら、てめえがしやがれ! そっちはお前の領分だろうが!
俺は目で主馬に訴える。
主馬は目を逸らし、口笛を吹く。……ちくしょう。
「なんでしょうか、この香ばしい匂い――」
暴れ馬が、暴走を始めた。俺は引きずられ、屋台へと連行される。
「おっちゃん、これなんなん? ばり美味そうやん!」
彼女は屋台の店主に問いかける。
ん? 何か違和感が……。
「おう、嬢ちゃん。 “明石焼き“ を知らへんのか? 小麦粉と沈粉と卵で作った生地を焼いた、この地方の名物や。一個食うてみるか? ほっぺが落ちるでー」
店主は出汁を入れた器に焼き立てを一つ入れ、彼女に差し出す。
彼女はそれを『おおきに』とお礼を言い、頬張る。
彼女の目が、大きく見開かれる。
「なんや、これ。やりこい! ふわふわやー! お陽さんに干した布団みたいや――」
『日本一ガラの悪い方言』と謂われる播州弁を、見事に使いこなしていた。
姫さま……だよな?
「鰹節と煮干しを使った出汁が強い旨味を与え、ええ仕事をしとる。中に入ったコリコリしたモンが、食感のアクセントとなっとる。……おっちゃん、ただ者やないな」
「おう! 元祖の流れを汲む、正統派よ!」
店主は『フン』と鼻を鳴らし、自慢げに胸を張る。
訳の分からん料理勝負が繰り広げられていた。
なんでこうなった?
「よっしゃ、買うた。なんぼや?」
「まいど! 一つ10個入りで、3銭!」
「たっか! おっちゃん、ごじゃ(無茶)言うたらあかへんで。お祭り価格でも、それはないわ。一つ2銭!」
また違う勝負が、始まった。
『2銭9厘!』 『2銭1厘!』 『2銭8厘!』 『2銭2厘!』 ……攻防は、続く。
隣の主馬は、うんざりとした顔をしていた。
「止めさせましょう。軍資金はあるんだ。時間がもったいないし、……目立つのは危険です」
そう言って主馬は割って入ろうとする。
それを俺は彼の肩を掴み、押し留めた。
野暮な事をするんじゃない。
これは、アトラクションなんだ。彼女が楽しみにしてた。
少々の不都合で、取り上げるな。
俺の意は主馬に伝わり、ハアッと溜息を吐く。
そして『今回だけですよ』と呟いた。
ソフィアは楽しそうに、店主とやり合っていた。
「よっしゃ、四つ買うたる。それで一つ2銭4厘でどないや!」
こいつ、ついに禁じ手を出しやがった。その40個は、誰が食うんだ?
「はっは。そんな値段で売ったら、こちとら商売あがったりや」
店主は肩をすくめ、『やれやれ』という表情を見せる。楽しそうに。
それを見てソフィアは、ニヤッと笑う。
「おっちゃん、料理人としての腕はピカイチやけど、商売人としてはイマイチやな」
『なにっ』と店主は気色ばむ。
「 “総額“ で考えなはれ。 “総売上“ から “経費“ を差し引いた、 “純利益“ を!」
は? 祭りの屋台にあまりにも不似合いな単語が、飛び出した。
「ウチがぎょうさん買うて、安うしてもろうたのを皆が見たら、どないなる? 『一つでええか』と思うとった人が、二つ三つと買うてゆく。コストは、ぎょうさん売った方が下がるやろ。一つ当たりの値引き率と、掛かるコストの下落率、どっちが大きいやろな。よー考えてみなはれ」
屋台の店先で、経済学の講義が始まった。
こんな値引き交渉、あり?
「嬢ちゃん、普通の家の子じゃねぇな。……商人の子か?」
さっきまでの、ほんわかとした雰囲気は消え去り、店主も商人の顔となる。
「近江商人が、ウチの師や!」
「『近江商人が通った後にはペンペン草も生えない』と謂われる、アレか!」
大坂商人、伊勢商人と並ぶ日本三大商人の一つ。
その名は、日本中に轟いている。
「えらい言われ様やな。『ペンペン草も生えない』いうのは、物を大切にして、『ペンペン草』さえも無駄にせず有効活用したから言われた言葉や。それがいつの間にか間違って伝わり、業突く張りの代名詞になってしもうた。哀しいことや……」
……ソフィアさん、あなた何を言っているんです?
「師匠から教わったウチのモットーはな、『三方よし』や。『三方』とは売り手・買い手・社会全体のこと。売り手の儲けだけで商いをするのではなく、買い手が満足し、商いを通じて地域社会に貢献する。それが近江商人の心意気や。おっちゃんに、みんなに、得を取らせてやる!」
ホント、なに言ってやがる。
周りから、歓声と拍手が起きた。
「おおきに、おおきに」
ソフィアは片手をあげ、観衆に挨拶する。
……とんだアトラクションだ。
「嬢ちゃん、負けたよ。立派なもんだ。持っていきな。一つ2銭4厘、四つで9銭6厘だ!」
店主はにこやかな顔で、明石焼きを差し出す。包みは、五つあった。
「おっちゃん、一つ多いで」
彼女は戸惑った顔をする。
「おまけだ。熱いうちに食べな」
「おおきに!」
二人は満面の笑顔で見つめ合う。観衆から歓声が、再び上がる。
誰が食べるんでしょうね、それ。
俺と主馬は、顔を見合わせる。
彼女と店主の輝くような笑顔とは対照的に、暗く沈んだ顔で。
店主がソフィアに手渡そうとして近づいた時だった。
店主が思わず声を零す。
「うん? 嬢ちゃん、えらい肌が白いな。それに眼の色が薄い」
まずい! 俺と主馬は、二人の間に割って入ろうと駆け寄る。
「いややわ、おっちゃん。ウチの事を『フランス人形みたい』やて? お上手やな~。そんなに褒めても、何も出えへんで」
彼女は余裕でいなす。
「そうやな、こないに上手に播州弁を話す外国人なんて、おらへんわな」
俺たちの心配は、杞憂に終わった。
「ほな、ツレが待っとるさかい、これでな」
彼女は品を受けとり代金を渡し、屋台を後にする。
『またなー』 店主は何時までも手を振っていた。
俺たちは木陰の、人気のない場所に移動した。
「さあ、熱いうちに食べましょう。美味しいですよ」
ソフィアは明石焼きを二つずつ俺と主馬に手渡し、一つだけを自分に残した。
やっぱりな。 今晩はあまり食べれそうにない。
俺たちは適当な石の上に坐り、彼女の戦果を口にする。
確かに美味かった。
だが彼女は、俺たち以上に美味しそうに食べていた。
それは単なる味覚による物ではないだろう。
「美味しい。とろみが有りながらふわふわとした生地。その中にコリコリとした食感の物が入っている。この中に入っているのは、何という食べ物でしょう?」
俺と主馬は顔を合わせる。
主馬はぷいと横を向く。
こいつ、また逃げやがった。
「……蛸です」
俺は重い気持ちで答える。
「タコ?」
「吸盤の付いた足が八本あって、丸い頭で、危険を感じると墨を吐いて……」
俺は延々と説明する。
しかし彼女の頭には、?マークが浮かんだままだ。
仕方が無い……
「……アシミノーク」
疲れ果て、封印していたロシア語を使う。
「足見の句?」
どんな聞き違えだよ。
ええい、面倒くさい。どうせ何時かはバレるんだ。
開き直り、ネイティブな発音で言う。
「осьминог(蛸)!」
彼女は一瞬キョトンとする。
『ロシア語? まさか? でも待って。それならばこれは……』――そんな顔をする。そして……
「дьявол рыба(悪魔の魚)!」
彼女は青ざめ、絶叫する。
「これはサバトですか! 悪魔崇拝の集いですか! こんな物を振舞うなんて、あの店主は闇の司祭!」
いや地域社会の、健全なお祭りです。
あのおっちゃんも、一介のテキ屋さんです。
「日本で蛸は、普通に食べられているんだよ。別に毒がある訳でもなし、単に見かけがグロテスクなだけ。四方を海に囲まれた日本では、海産物が大切な食料なんだ。逆に陸上の獣の肉が禁忌とされた。宗教上の理由で。毒のあるフグや、もっとグロテスクなナマコだって食べるんだ。蛸ぐらい、軽い軽い!」
彼女は信じられないものを見る目で、俺を見つめる。
カルチャーショックとはこの事か。
「ごちそうさま」
食べ終えたソフィアは両手を合わせ、丁寧に挨拶する。
その姿は、本当に自然だった。
「貴方は、日本で生まれ育ったのですか?」
俺は、彼女に訊ねる。
日本の文化に、違和感なく馴染んでいる。
そしてあんなに上手く、播州弁を話せるものではない。
「いいえ。生まれも育ちもロシアです。日本に来たのは、半年前です」
彼女はさっき迄と打って変わった、優雅な標準語で答えた。
「うそでしょ!」
主馬が驚きの声をあげる。
「私は嘘は申しません。半年前まで、ロシアから出た事はありませんでした。日本語に接した事も」
俺と主馬は呆然とする。
あの近江商人のくだりは、何だったんだ。
「どうやって日本語を覚えたのです、播州弁まで。それに『近江商人が師』というのは……」
俺は聞かずにいられなかった。色々合点がいかない事が多い。
「言葉なんて、沢山の人と沢山話せば自然と覚えるものですよ。幼児が話せるように。播州弁は、モノノフさんの所で働いている方に教えて頂きました。格式ばった言葉だけでなく、フランクな言葉も必要かと思いまして」
その考えは素晴らしいが、チョイスが酷い。何故よりによって播州弁。
モノノフ氏も、何故止めなかった。
「近江商人というのは、モノノフさんの取引相手です。その方に色々教えて頂きました。お会いしたのは三度だけですが」
俺は理解した。彼女は、バケモノだ。
たった半年で、三度で、あそこまで吸収出来るものではない。
彼女の成長曲線は、おかしい。
「僕は今年帝大入試を受けるんですが、英語が苦手でして。……留学すれば、貴方のように話せるようになる物でしょうか」
主馬が暗に、『お前はおかしい』と言って来た。
俺も同じ気持ちだった。
「う~ん、無理だと思いますよ」
彼女は事もなげに答える。
「だって留学したって、どうせ同郷の人とつるむでしょう。そして裕福な貴方は通訳を雇い、大事な席では英語を話さない。失敗はありませんが、成長はありませんよ、それじゃ」
主馬は絶句する。
彼女の言葉は、的を射ていた。
「貴方は、違うと……」
俺は彼女の真意を問い質す。
「置かれた状況が違います。モノノフさんは、仕事で日本中・世界中を飛び回っています。警護の者は、任務に適した距離をとり、無駄口は叩きません。日本語を覚えるまでは、誰も話し相手はいませんでした。日本語どころか、ロシア語も忘れそうでしたよ」
彼女の言葉は、表情が無く平坦だった。
悲しみも憤りも、微塵も見せなかった。
それだけに、一層哀れだった。
長い沈黙のあと、彼女は空を見上げ、語り始める。
「……シンッて静まった夜中に、コトッて音がして、誰かが立てた物音かと思って、『あっ、違うか。誰もいないんだ。私一人だ』。そう思って、その瞬間に感じるやるせない淋しさ、押し潰されそうな寂寥感、そんな物を味わった事が、ありますか?」
彼女の言葉が、色を帯びる。哀しみの灰色が。
これまで蓋をしていた物が、溢れだして来た。
「闇が途轍もなく静かで、重くて、振り払っても振り払っても離れない、あの怖ろしさを感じた事は、ありますか?」
彼女の声は、微かに震えている。
「自分は、独りだ。そう思い知った時、そこから逃げ出したくなるものです」
彼女の心は、いま、ここには、無かった。
世界に一人取り残された、永い夜にあった。
「『言葉』は淋しさを掃き捨ててくれる、魔法の箒です」
『孤独』――そういった物の本質の一端が、貌を覗かせていた。
周囲の空気が、ピンと張りつめていた。
下手に触るとガラガラと崩れる脆さを含んで。
俺は状況を理解し、主馬に目配せする。
主馬は静かに頷く。
「ちょっと、お花を摘みに行ってきますね」
そう言って主馬は席を外す。
察しのいい奴で、助かる。
俺たちはずっと黙っていた。
空気は相変わらず重かった。
俺は意を決して話しかける。
「なぜ貴方は、そんなに孤独なんですか? なぜそんなに人に近づこうとしないのですか?」
俺は訊ねる。答えは、おぼろげに見えている。
これは異国にあって想う望郷の念とかとは、違う。
「それが、許されない立場なのですか? 他人と同じ場所に降りて行けない……」
世界の頂点に立つ、数少ない人間。それが彼女なのではないだろうか。
「貴方はロシア皇帝ニコライ陛下の第四皇女、アナスタシア殿下ですね」
彼女はアナスタシア皇女に、年恰好が似ていた。
皇帝一家全員が処刑された中、同情的な警護兵により救出されたという噂のある、アナスタシア皇女に。
彼女の明るい青い瞳は、ニコライ陛下にそっくりだった。
そしてあのモノノフがここまで忠誠を尽くす相手は、そうはいない。
「違います。私はアナスタシア殿下ではありません!」
彼女は大きな声で、即座に否定する。
「私の母は、アレクサンドラ皇后陛下とは違います……」
続く言葉は、小さかった。
「父君がニコライ皇帝陛下であるという事は、否定されないのですね」
「……私の母は、アレクサンドラ皇后陛下の侍女でした。それ以上申し上げる事は、ございません」
「……なるほど」
彼女は二つの想いに押し潰されていた。
帝国への忠誠と、命の恩人への誠意。
この二つがせめぎ合い、彼女を苦しめていた。
彼女に出来るギリギリの返答が、これだった。
だがそれで分かった、すべての事が。
ここに御座すは、ニコライ二世のご落胤。
ロマノフ王朝、最後の皇女。
皇帝一家全員が処刑された今、帝室直系の血を継ぐ、唯一の御方。
敵にするにしろ味方にするにしろ、厄介な存在であった。
ちょっと長目の話になり、更新が遅れて申し訳ありませんでした。
でもこの話は、ここまで一気に進めたかったので。
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