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行動原理

銀のサモワール(給茶器)から湯気が立っている。

その周囲に、小さめのティーポットが置かれていた。

ティーポットの中には、茶葉を沢山使った濃い目の紅茶が入っていた。

濃い紅茶をティーカップに注ぎ、サモワールのお湯を足し、好みの濃さに調整する。

ロシア皇帝御用達の紅茶『クスミティー』の、ベルガモットの香りが漂って来た。


「暑い日に熱い紅茶も、いい物でしょう」


モノノフ氏はテーブルに置いてあるジャムをスプーンで掬い、それを口に含んでから紅茶を飲む。

なるほど、これがロシア式か。

俺と主馬(かずま)は彼に(なら)い、同じ飲み方をする。

それをモノノフ氏は、にこやかに眺めていた。


「……なるほど。相手の流儀に合わせるという配慮をお持ちのようですな」


一挙手一投足を見られている。そして人となりを見極められている。油断できない。


「いや、失礼。別に貴方達を値踏みしようとしているのではありません。ただ感心していたのですよ。お若いのにその様な気遣いが出来るとは、と。殿倉(とのくら)さんは高校三年生、大道寺(だいどうじ)さんは高校一年生ぐらいですかな」


主馬(かずま)が高校三年生というのは合っていますが……。僕は大学一年生です。東京帝国大学生です」


「失礼しました!」


モノノフ氏は『リアリィ?』という目で俺を見つめる。  童顔のせいで、いっつもこうだ!



「それで私どもの貿易販路について学びたいという事でしたが…………」


彼はコホンと咳払いし、話題を変える。


「それで私たちに、どんなメリットが?」


商売人の冷徹な貌になった。


「中央の要人とのコネクションを。農商務省(現在の農林水産省・経済産業省)官僚との橋渡しを」


モノノフ氏は顎に手をやり、『フム』と呟く。


「悪くは無い。だが疑問があります。なぜ、私たちなのですか? もっと他に利益をあげている商会があるでしょう。それだけ中央に太いパイプを持つ貴方達なら、そちらを選ぶのが自然ではないですか?」


この用心深さは見習うべきだ。

だが俺たちは、別に彼らを食い物にしようとしている訳ではない。


「私たちは、東北の人間です」


俺の言葉にモノノフ氏は、『それが?』と怪訝な表情をする。


「東北の民は、常に凶作に苦しんできました。『天明の大飢饉』では餓死者十万二千人を出しました。

そして1905年、今から13年前、『天明の大飢饉』以来といわれる大飢饉がありました。若い女性はその身を売り、幼い子どもは飢えて命絶える……そんな光景を、幼い私や主馬は見てきました」


主馬は唇を噛み、目を瞑る。


「私たちは夢を語り合いました。飢える事のない、こんな理不尽な死など訪れない世界を作ろうと。そう誓い、生きてきました」


俺の声は震えていた。一切の虚飾がなかった。


「少しずつ、よくなって来ました。土地の開墾が進み、寒冷地向けの品種も改良され、収穫量も増えて来ました。未来はきっと良くなる。そう信じていました。……だがそれは、幻想でした」


俺の心は、哀しみから怒りに変わりつつあった。


「いま起きている “米騒動“ 、あれは一体なんですか! あれは “天災“ じゃない、 “人災“ だ!」


思わず声を張り上げる。


「シベリア出兵があるから、軍の糧食が必要となるから、米の値が上がる。ならば買い占めて売りに出さないで、一番高くなった時を見計らって売り抜け、儲けてやろう。そう企んだ下衆な連中が起こした、人災じゃないですか」


モノノフ氏は黙って聞いていた。


「 “天災“ なら、諦めがつく。だが “人災“ は、許せない!」


俺は息をハァハァと吐く。感情が昂ってしまった。


「それで貴方は、どうしたいのです? この現状を、どう変えたいのですか?」


彼は優しく導くように問いかける。


「私に、いえ私たちにそんな力はありません。私たちには、政治を動かせる僅かばかりの力はあります。でもそんな物、役に立ちませんでした。『外米管理令』を公布させ、大手商会七社に外国米の大量輸入させましたが、米価は高止まりしたまま。……ほんと、政治は役立たずです」


いま行われている行為は、法には触れていない。

だが、人倫にもとっている。


「政府は社会不安を抑え込む為に、、巡査採用数を増加させて警察力の増大を図っています。やる事が見当はずれです。原因を解消するのではなく、引き起こされた結果を取り除こうとしている」


モノノフ氏は腕組みをし、指でトントンと自分の腕を叩く。


「お話はよく分かりました。だがそれが私たちにどう繋がるのか、その事が一向に分かりません」


俺は思わず苦笑する。


「あなた達はこの騒動で、見事な手腕を発揮されました。大手商会が足元を見られて高値で米を仕入れ、昨年の何倍もの値で販売する中、あなた達は適正な値で仕入れ、暴利を貪らず適正な値で売られた。あなた達がいなかったら、神戸はもっと酷い状況になっていたでしょう。だから教えて頂きたい。どうすれば、その様な事が出来るのかを。私たちが手に入れられなかった米をどうやって入手し、それを転売して儲けようとする悪徳中間業者を如何に排除し、どの様に売り捌いたのかを!」


どうやらこの人は、自分の功績を自覚してないようだ。


「なんだ、そんな事ですか! てっきり私は、『取引ルートを寄こせ』とか言われるものだと思っていましたよ」


「そんな虫のいい事は言いません。取引先をご紹介頂ければ有り難いですが。それでもあなた達と同じ条件で取引してもらえるとは、思ってもいません」


『よくお分かりで』――彼はにこやかに言った。




「無い物ねだりですな、お互いに」


彼は数舜の沈黙の後、言った。


「私は、『モノノフ(武士)』という名ですが、商人でして。頭の天辺(てっぺん)から足の爪先(つまさき)まで」


茶目っ気たっぷりの笑顔を浮かべる。


「同じように貴方達も『商会』を名乗っていますが、その中身は『武士』その物でしょう。価値観から行動基準まで」


その見立ては、正しい。


「商人は『利』を第一に考えます。しかし武士は『義』を第一に考えます」


俺は彼の言葉に、耳をそばだてる。


「『義』は短期的には『損』でしょう。だがそれを長く続ければ、『信頼』という果実を得られます」


彼は熱弁する。血をたぎらせて。


「それは今の私に、喉から手が出る程欲しい物です」


彼は叫ぶ。心の底から。


「私たち白系ロシア人は、寄る辺(よるべ)なき身の上。祖国から逃げ出し、異国に身を寄せ、守ってくれる物がなき身。……そして『信頼』してもらう事が(あた)わない」


彼は嘆く。悲哀を込めて。


「だから私は誠実に行動します。裏切らず、食い物にせず、真摯に。『利益』より、『信頼』を求めて。逆境にあり、助けを求める人々にこそ、救いの手を差し伸べました。それは献身と云うより、故国を追われて悲嘆に暮れる身で、身につまされながら行った代償行為みたいな物です」


これは彼の、行動原理。


「それが、返ってきたのです。私が欲しかった『信頼』となって……。それだけの事です、それだけの……。晴れの日に傘を貸し、雨の日に取り上げる様な輩と、誰が組もうと思いますか。そういう、ものです……」


心の、吐露だった。


「私も昔は、こうではありませんでした。純粋に『利』を求める商人でした。……『環境が人を作る』とは、よく云ったものですな」


これまで歩んで来た道のりを思い返すような目をしていた。


「その『信頼』を、貴方達は最初から持っている。私には黄金よりも貴重に見える、それを。しかしながら貴方達は求める、『利』を。……実に、皮肉だ」


神に文句を言うみたいな口調だった。


「分かりました。貴方達の、力となりましょう。私の経験や知識をお伝えする事、信頼出来る筋を紹介する事に、やぶさかではありません」


やった!


「ただし!」


彼は冷や水を浴びせるような声をあげる。


「どれ位のレベルまで提供出来るかは、対価によります。スタンダードになるか、ロイヤルスイートになるかは、貴方達次第です」


冷徹な商人の顔に戻っていた。


「中央への口利きだけでは、不足だと?」


「ええ、足りません。ジャムのない紅茶のように」


商人の顔に、屈託のない子どもの顔が混ざっていた。


「どんな味が、お好みで?」


俺は探るように問いかける。


「レディの笑顔を! とびっきりの!」


それは、予想だにしなかった答えだった。


「ソフィア様のエスコートをお願いします。今日街ではお祭りがあり、それにどうしても行きたいと仰られているのです。ご存知の通り、(うち)の護衛は先程無力化されまして」


糊塗(こと)する事なく、あけすけに言う。


「このまま閉じ込めて置くと、爆発しかねません。ガス抜きに、祭りに連れて行ってあげて下さい」


近所の子どもに『うちの子と遊んであげて』と頼む、子育てに疲れた親みたいだった。


「さっき襲われたばかりでしょう。危険すぎます」


俺は真っ当な反論をする。勿論そのその根底にあるのは、『面倒くせー』という気持ちだ。


「だからいいんです。敵もまだ態勢を整えられていない。そしてここに帰るまで、ソフィア様が襲われる事が無かった。ソフィア様の風貌を隠してしていた事もありますが、同年代の日本人の貴方達が一緒なのが、いい目眩ましになった。同じ集団の少年少女と認識された。これまで私たちは信用のおける者という観点から、ロシア人だけでガードしていました。それが、良くなかったみたいです」


これまで戦力的な事以上に、『いつ裏切られるか分からない』という怖れから日本人の護衛を用いなかったのだろう。


「そして私たちは “目立つ“ というのもありますが、考えが読まれやすいという弱点があります。表情や反応で、すぐ悟られてしまう」


襲撃者が日本人なら逆だろうが、同胞相手では筒向けだ。俺たちだって、外国人の感情は読みにくく、日本人なら分かる。


「その点貴方達は、いい! その能面のようなのっぺりとした顔。動いているのかどうか怪しい表情筋。何を言っているか分かりにくい抑揚のない言葉。不気味な、いえミステリアスな存在なのですよ、貴方達は!」


褒めてんだよな、これ……。

いっぺんコイツを、京都のイケズと対決させてみたい。きっといい勝負をするに違いない。


「これは、私からの “お願い“ です。受ける受けないは貴方達の自由。ただ、私の『信頼』が売りに出される機会はそうそう無いとだけ、申し上げておきます」


モノノフ氏は、狸親父みたいな貌をしていた。

彼がその様な顔をした訳ではない。

俺が『やられたっ』と思う気持ちが、そう見せた。






「んふふん、うふふん、るるるるる――――」


鼻歌を奏でながら、少女が街を征く。両横にお伴の二人の少年を連れ、王者の如く。

真夏でありながら手首まで隠す長袖に、足首まで隠す白いワンピース。

ツバが大きくて広くリボンを巻いた帽子 “キャペリン“ ――いわゆる “女優帽“ を被っている。

帽子から零れる髪はサラサラとした黒髪――(ウィッグ)であった。

そしてその緑の瞳は、ギラギラと反射する眼鏡のレンズにより隠されていた。


祭りに浮かれる、少年少女の一団に見えた。


「さあ直輝(なおき)、どこから攻めましょう?  “金魚すくい“ ?  “綿菓子(わたあめ)“ ?  “りんご飴“ も捨てがたい!」


ソフィアは興奮のあまり、駆けだそうとする。

俺はそんな彼女の右腕をむんずと掴み、引き止める。


「荷物になるものは、後回しです。両手が塞がっていたら、 “金魚すくい“ も “射的“ も出来ませんよ」


無制限に荷物持ちをする気は無いからな。


「まるで暴れ馬ですね」


横で主馬が両手を頭の後ろで組み、他人事のように言う。

なら、てめえがしやがれ! そっちはお前の領分だろうが!

俺は目で主馬に訴える。

主馬は目を逸らし、口笛を吹く。……ちくしょう。



「なんでしょうか、この香ばしい匂い――」


暴れ馬が、暴走を始めた。俺は引きずられ、屋台へと連行される。



「おっちゃん、これなんなん? ばり(すごく)美味そうやん!」


彼女は屋台の店主に問いかける。

ん? 何か違和感が……。


「おう、嬢ちゃん。 “明石焼き“ を知らへんのか? 小麦粉と沈粉(じんこ)と卵で作った生地を焼いた、この地方の名物や。一個食うてみるか? ほっぺが落ちるでー」


店主は出汁を入れた器に焼き立てを一つ入れ、彼女に差し出す。

彼女はそれを『おおきに』とお礼を言い、頬張る。

彼女の目が、大きく見開かれる。


「なんや、これ。やりこい(やわらかい)! ふわふわやー! お陽さんに干した布団みたいや――」



『日本一ガラの悪い方言』と謂われる播州弁(ばんしゅうべん)を、見事に使いこなしていた。

姫さま……だよな?


「鰹節と煮干しを使った出汁が強い旨味を与え、ええ仕事をしとる。中に入ったコリコリしたモンが、食感のアクセントとなっとる。……おっちゃん、ただ者やないな」


「おう! 元祖の流れを汲む、正統派よ!」


店主は『フン』と鼻を鳴らし、自慢げに胸を張る。

訳の分からん料理勝負が繰り広げられていた。

なんでこうなった?



「よっしゃ、買うた。なんぼや?」


「まいど! 一つ10個入りで、3銭!」


「たっか! おっちゃん、ごじゃ(無茶)言うたらあかへんで。お祭り価格でも、それはないわ。一つ2銭!」


また違う勝負が、始まった。


『2銭9(りん)!』 『2銭1厘!』 『2銭8厘!』 『2銭2厘!』 ……攻防は、続く。


隣の主馬は、うんざりとした顔をしていた。


「止めさせましょう。軍資金はあるんだ。時間がもったいないし、……目立つのは危険です」


そう言って主馬は割って入ろうとする。

それを俺は彼の肩を掴み、押し留めた。


野暮な事をするんじゃない。

これは、アトラクションなんだ。彼女が楽しみにしてた。

少々の不都合で、取り上げるな。


俺の意は主馬に伝わり、ハアッと溜息を()く。

そして『今回だけですよ』と呟いた。


ソフィアは楽しそうに、店主とやり合っていた。




「よっしゃ、四つ買うたる。それで一つ2銭4厘でどないや!」


こいつ、ついに禁じ手を出しやがった。その40個は、誰が食うんだ?


「はっは。そんな値段で売ったら、こちとら商売あがったりや」


店主は肩をすくめ、『やれやれ』という表情を見せる。楽しそうに。

それを見てソフィアは、ニヤッと笑う。



「おっちゃん、料理人としての腕はピカイチやけど、商売人としてはイマイチやな」


『なにっ』と店主は気色ばむ。


「 “総額(グロス)“ で考えなはれ。 “総売上“ から “経費“ を差し引いた、 “純利益“ を!」


は?  祭りの屋台にあまりにも不似合いな単語が、飛び出した。


「ウチがぎょうさん(たくさん)買うて、安うしてもろうたのを皆が見たら、どないなる? 『一つでええか』と思うとった人が、二つ三つと買うてゆく。コストは、ぎょうさん(たくさん)売った方が下がるやろ。一つ当たりの値引き率と、掛かるコストの下落率、どっちが大きいやろな。よー考えてみなはれ」


屋台の店先で、経済学の講義が始まった。

こんな値引き交渉、あり?



「嬢ちゃん、普通の家の子じゃねぇな。……商人の子か?」


さっきまでの、ほんわかとした雰囲気は消え去り、店主も商人の顔となる。


近江(おうみ)商人が、ウチの師や!」


「『近江商人が通った後にはペンペン草も生えない』と謂われる、アレか!」


大坂商人、伊勢商人と並ぶ日本三大商人の一つ。

その名は、日本中に轟いている。


「えらい言われ様やな。『ペンペン草も生えない』いうのは、物を大切にして、『ペンペン(ナズナ)草』さえも無駄にせず有効活用したから言われた言葉や。それがいつの間にか間違って伝わり、業突く張り(ごうつくばり)の代名詞になってしもうた。哀しいことや……」


……ソフィアさん、あなた何を言っているんです?


「師匠から教わったウチのモットーはな、『三方よし』や。『三方』とは売り手・買い手・社会全体のこと。売り手の儲けだけで商いをするのではなく、買い手が満足し、商いを通じて地域社会に貢献する。それが近江商人の心意気や。おっちゃんに、みんなに、得を取らせてやる!」


ホント、なに言ってやがる。


周りから、歓声と拍手が起きた。


「おおきに、おおきに」


ソフィアは片手をあげ、観衆に挨拶する。

……とんだアトラクションだ。


「嬢ちゃん、負けたよ。立派なもんだ。持っていきな。一つ2銭4厘、四つで9銭6厘だ!」


店主はにこやかな顔で、明石焼きを差し出す。包みは、五つあった。


「おっちゃん、一つ多いで」


彼女は戸惑った顔をする。


「おまけだ。熱いうちに食べな」


「おおきに!」


二人は満面の笑顔で見つめ合う。観衆(オーディエンス)から歓声が、再び上がる。


誰が食べるんでしょうね、それ。

俺と主馬は、顔を見合わせる。

彼女と店主の輝くような笑顔とは対照的に、暗く沈んだ顔で。


店主がソフィアに手渡そうとして近づいた時だった。

店主が思わず声を零す。


「うん? 嬢ちゃん、えらい肌が白いな。それに眼の色が薄い」


まずい! 俺と主馬は、二人の間に割って入ろうと駆け寄る。


「いややわ、おっちゃん。ウチの事を『フランス人形みたい』やて? お上手やな~。そんなに褒めても、何も出えへんで」


彼女は余裕でいなす。


「そうやな、こないに上手に播州弁を話す外国人なんて、おらへんわな」


俺たちの心配は、杞憂に終わった。


「ほな、ツレが待っとるさかい、これでな」


彼女は品を受けとり代金を渡し、屋台を後にする。

『またなー』 店主は何時までも手を振っていた。




俺たちは木陰の、人気のない場所に移動した。



「さあ、熱いうちに食べましょう。美味しいですよ」


ソフィアは明石焼きを二つずつ俺と主馬に手渡し、一つだけを自分に残した。

やっぱりな。 今晩はあまり食べれそうにない。


俺たちは適当な石の上に坐り、彼女の戦果を口にする。

確かに美味かった。

だが彼女は、俺たち以上に美味しそうに食べていた。

それは単なる味覚による物ではないだろう。




「美味しい。とろみが有りながらふわふわとした生地。その中にコリコリとした食感の物が入っている。この中に入っているのは、何という食べ物でしょう?」


俺と主馬は顔を合わせる。

主馬はぷいと横を向く。

こいつ、また逃げやがった。


「……(たこ)です」


俺は重い気持ちで答える。


「タコ?」


「吸盤の付いた足が八本あって、丸い頭で、危険を感じると墨を吐いて……」


俺は延々と説明する。

しかし彼女の頭には、?マークが浮かんだままだ。

仕方が無い……


「……アシミノーク」


疲れ果て、封印していたロシア語を使う。


「足見の句?」


どんな聞き違えだよ。

ええい、面倒くさい。どうせ何時かはバレるんだ。

開き直り、ネイティブな発音で言う。


осьминог(アスィミノーク)(蛸)!」


彼女は一瞬キョトンとする。

『ロシア語? まさか? でも待って。それならばこれは……』――そんな顔をする。そして……


дьявол(ジヤヴォール) рыба(ルィバ)(悪魔の魚)!」


彼女は青ざめ、絶叫する。


「これはサバトですか! 悪魔崇拝の集いですか! こんな物を振舞うなんて、あの店主は闇の司祭!」


いや地域社会の、健全なお祭りです。

あのおっちゃんも、一介のテキ屋さんです。


「日本で蛸は、普通に食べられているんだよ。別に毒がある訳でもなし、単に見かけがグロテスクなだけ。四方を海に囲まれた日本では、海産物が大切な食料なんだ。逆に陸上の獣の肉が禁忌とされた。宗教上の理由で。毒のあるフグや、もっとグロテスクなナマコだって食べるんだ。蛸ぐらい、軽い軽い!」


彼女は信じられないものを見る目で、俺を見つめる。

カルチャーショックとはこの事か。






「ごちそうさま」


食べ終えたソフィアは両手を合わせ、丁寧に挨拶する。

その姿は、本当に自然だった。


「貴方は、日本で生まれ育ったのですか?」


俺は、彼女に訊ねる。

日本の文化に、違和感なく馴染んでいる。

そしてあんなに上手く、播州弁を話せるものではない。


「いいえ。生まれも育ちもロシアです。日本に来たのは、半年前です」


彼女はさっき迄と打って変わった、優雅な標準語で答えた。


「うそでしょ!」


主馬が驚きの声をあげる。


「私は嘘は申しません。半年前まで、ロシアから出た事はありませんでした。日本語に接した事も」


俺と主馬は呆然とする。

あの近江商人のくだりは、何だったんだ。


「どうやって日本語を覚えたのです、播州弁まで。それに『近江商人が師』というのは……」


俺は聞かずにいられなかった。色々合点がいかない事が多い。


「言葉なんて、沢山の人と沢山話せば自然と覚えるものですよ。幼児が話せるように。播州弁は、モノノフさんの所で働いている方に教えて頂きました。格式ばった言葉だけでなく、フランクな言葉も必要かと思いまして」


その考えは素晴らしいが、チョイスが(ひど)い。何故よりによって播州弁。

モノノフ氏も、何故止めなかった。


「近江商人というのは、モノノフさんの取引相手です。その方に色々教えて頂きました。お会いしたのは三度だけですが」


俺は理解した。彼女は、バケモノだ。

たった半年で、三度で、あそこまで吸収出来るものではない。

彼女の成長曲線は、おかしい。


「僕は今年帝大入試を受けるんですが、英語が苦手でして。……留学すれば、貴方のように話せるようになる物でしょうか」


主馬が暗に、『お前はおかしい』と言って来た。

俺も同じ気持ちだった。


「う~ん、無理だと思いますよ」


彼女は事もなげに答える。


「だって留学したって、どうせ同郷の人とつるむでしょう。そして裕福な貴方は通訳を雇い、大事な席では英語を話さない。失敗はありませんが、成長はありませんよ、それじゃ」


主馬は絶句する。

彼女の言葉は、的を射ていた。


「貴方は、違うと……」


俺は彼女の真意を問い質す。


「置かれた状況が違います。モノノフさんは、仕事で日本中・世界中を飛び回っています。警護の者は、任務に適した距離をとり、無駄口は叩きません。日本語を覚えるまでは、誰も話し相手はいませんでした。日本語どころか、ロシア語も忘れそうでしたよ」


彼女の言葉は、表情が無く平坦だった。

悲しみも(いきどお)りも、微塵も見せなかった。

それだけに、一層哀れだった。


長い沈黙のあと、彼女は空を見上げ、語り始める。


「……シンッて静まった夜中に、コトッて音がして、誰かが立てた物音かと思って、『あっ、違うか。誰もいないんだ。私一人だ』。そう思って、その瞬間に感じるやるせない淋しさ、押し潰されそうな寂寥感、そんな物を味わった事が、ありますか?」


彼女の言葉が、色を帯びる。哀しみの灰色が。

これまで蓋をしていた物が、溢れだして来た。


「闇が途轍もなく静かで、重くて、振り払っても振り払っても離れない、あの怖ろしさを感じた事は、ありますか?」


彼女の声は、微かに震えている。


「自分は、独りだ。そう思い知った時、そこから逃げ出したくなるものです」


彼女の心は、いま、ここには、無かった。

世界に一人取り残された、永い夜にあった。



「『言葉』は淋しさを掃き捨ててくれる、魔法の(ほうき)です」


『孤独』――そういった物の本質の一端が、貌を(のぞ)かせていた。




周囲の空気が、ピンと張りつめていた。

下手に触るとガラガラと崩れる脆さを含んで。


俺は状況を理解し、主馬に目配せする。

主馬は静かに頷く。


「ちょっと、お花を摘みに行ってきますね」


そう言って主馬は席を外す。

察しのいい奴で、助かる。



俺たちはずっと黙っていた。

空気は相変わらず重かった。


俺は意を決して話しかける。


「なぜ貴方は、そんなに孤独なんですか? なぜそんなに人に近づこうとしないのですか?」


俺は訊ねる。答えは、おぼろげに見えている。

これは異国にあって想う望郷の念とかとは、違う。


「それが、許されない立場なのですか? 他人と同じ場所に降りて行けない……」


世界の頂点に立つ、数少ない人間。それが彼女なのではないだろうか。


「貴方はロシア皇帝ニコライ陛下の第四皇女、アナスタシア殿下ですね」


彼女はアナスタシア皇女に、年恰好が似ていた。

皇帝一家全員が処刑された中、同情的な警護兵により救出されたという噂のある、アナスタシア皇女に。

彼女の明るい青い瞳は、ニコライ陛下にそっくりだった。

そしてあのモノノフがここまで忠誠を尽くす相手は、そうはいない。



「違います。私はアナスタシア殿下ではありません!」


彼女は大きな声で、即座に否定する。


「私の母は、アレクサンドラ皇后陛下とは違います……」


続く言葉は、小さかった。


「父君がニコライ皇帝陛下であるという事は、否定されないのですね」


「……私の母は、アレクサンドラ皇后陛下の侍女でした。それ以上申し上げる事は、ございません」


「……なるほど」



彼女は二つの想いに押し潰されていた。

帝国への忠誠と、命の恩人への誠意。

この二つがせめぎ合い、彼女を苦しめていた。


彼女に出来るギリギリの返答が、これだった。

だがそれで分かった、すべての事が。



ここに御座(おわ)すは、ニコライ二世のご落胤(らくいん)

ロマノフ王朝、最後の皇女。

皇帝一家全員が処刑された今、帝室直系の血を継ぐ、唯一の御方。



敵にするにしろ味方にするにしろ、厄介な存在であった。

ちょっと長目の話になり、更新が遅れて申し訳ありませんでした。

でもこの話は、ここまで一気に進めたかったので。


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