夢のまた夢
天正18年(1590年)3月 小田原
全国の大名たちが集結していた。
天下統一の最後の仕上げ、小田原征伐である。
関東の雄、北条を滅ぼせば、もう逆らう有力大名はいない。豊臣の天下だ。
みな恭順の意を示す為に、馳せ参じた。
その中に津軽の大名・大浦 為信、そしてその家臣・大道寺 直英の姿があった。
「遅かったの、大浦殿、大道寺殿」
「はっ! 上様の神速の行軍に追いつけず、面目至極もございません」
大浦 為信は平伏し、謝罪と追従を織り交ぜる。
本来ならば謝る筋合いは無い。彼の参陣は、他の大名に比べて早かった方なのだから。
「そっちではない。昨年申した筈だな、『大道寺の三の姫を寄こせ。なるべく早く』と。もう三か月経った。それがお主たちの答えかっ!」
鷹の目で、大浦 為信の後ろで平伏する大道寺 直英を睨めつける。
「恐れながら申し上げます。娘・小夜は病を得まして、津軽を出立する事が困難な状況となっておりました」
「ほおほお、都合のいい時に病になるもんじゃて。どこか北の地にでも、旅に出ておるのではないのか」
秀吉は脇息に肘を掛け、顎を手の平に当てて不機嫌そうに言う。
居並ぶ諸大名は息をひそめる。
天下人に逆らうと、どうなるか。同情と関心を持って、見守っていた。
「……娘は上様にお仕えする事を、殊の外楽しみにしておりました。父として、娘の願いを叶える為、今回連れて参りました。お目通りを、お許し頂けますでしょうか」
「連れて……?」
直英の言葉に、秀吉は戸惑う。
今年1月、大道寺 小夜は奉納舞の最中に自害を図った。
その後1か月に渡り、見慣れない者達が姫の部屋に頻繁に出入りするのを確認している。
恐らく在野の医師であろう。回復したかは不明。
ただ姫の姿を城内で見かけない現状を鑑みると、動ける状態ではないと推察される。
草の者から、そう報告を受けていた。
その姫が、奥羽からここまで旅をして来たのか? ありえん。
秀吉は考え込む。
その反応を直英はお目通りの了承と捉え、家臣に指示を出す。
「小夜をここに!」
直英の言葉に、控えの間にいた大道寺の家臣達が入室する。
四名の家臣が四隅を持ち、大きな葛籠を運んで来た。
「お納め下さい」
直英が蓋を開ける。すると、中から一人の少女が出て来た。
薄い羽衣一枚だけを身に纏い、ほとんど裸身であった。
しなやかに伸びた両手は指の先までピンと張り、張り詰めた弓の様だった。
軽やかに蹴り上がった両脚は躍動感に溢れ、まるで天に昇るかの様だった。
だが彼女は、ピクリとも動かない。
時が凍った様に静止していた。
心臓の鼓動も、息も、止まっていた。
謁見の間は、ざわつく。
そしてあちこちから言葉が漏れる。
『剥製……』と。
「これはどういう事だ、大道寺!」
秀吉は動揺する心を抑えつつ、真意を問い質す。
直英は平然として答える。
「……先ほど申し上げた通りでございます。娘は病を得まして、今年1月冥府に旅立ちました。ですが娘は生前、『上様にお仕えしたい』と強く願っておりました。その遺志に従い、この様な形で連れて参りました。……ここに娘の遺書がございます。失礼ながら、読み上げさせて頂きます」
直英は懐から書状を取り出す。
『父上へ』と表に書かれていた。小夜の字だった。
「『父上。先立つ不孝をお許し下さい。私はこれ以上生きる事は、出来ぬようです。これが私の限界でした。私の命はここまででした。お受けしたご恩をお返し出来ず、申し訳ございません。死ぬ事は怖くありません。ただ私が亡くなった後の事が、気掛かりです。生前、豊臣 秀吉公からお仕えするようにとご下命を賜った事が、この世への未練です。お願いがございます。私が亡くなりましたら、その躰から臓腑・肉を取り出し、剥製にして下さい。そしてそれを豊臣 秀吉公に献上して下さい。さすれば、公へお仕えするという生前の約束も果たせる事となります。かえってその方が、よかったかもしれません。剥製となった私は老いる事も無く、永遠に若い姿でお仕え出来るのですから。願わくば、私が最後に舞った『羽衣』の出で立ちで献上して頂けないでしょうか。あれは私の命をかけた舞でした。あの姿で永遠の時を経たいと思います。あの羽衣を身に纏い、悠久の時を過ごしたい。それだけが私の望みです』…………以上でございます」
読み終わった直英は、丁寧に遺書を畳む。そして近習の者を通じ、秀吉にそれを渡す。
居並ぶ者たちの、背筋が凍った。
これは、人として越えてはいけない一線を越えた行いだ。
戦でも、敵味方問わず死者は弔う。
晒し首になった大罪人でも、その後首は返され、弔われる。
そのような不文律に生きる彼らにとって、これは悪魔の所業だった。
これでは、死者の霊は浮かばれない。
すべての視線が、大道寺 直英に集まる。
悪魔の心情は如何なるものかと、怖いもの見たさに。
直英の心は、凪いでいた。
全ての感情が死に絶え、凍っていた。
絶望が、悪魔を生んだのだ。
みな、理解した。
そして共感した。
彼の苦悩を、悲しみを。
それは、耐え難いものだった。
「わかった。大儀であった。下がってよい!」
秀吉の声に大浦 為信と大道寺 直英は再び平伏し、退席した。
「皆の者もそれぞれの陣に戻り、戦の準備をせよ。北条の息の根を止める!」
諸大名も散会する。
彼等の顔も、直英と同じ様に凍っていた。
「やられましたな」
自室に引き上げた秀吉に、唯一人付き従う石田 治部少輔 三成が下座から話しかける。
「ああ、丸っきりこっちが悪者じゃ」
上座に坐る秀吉が、足を投げ出し、頬杖を突き、悔しそうに答える。
「これで大道寺を処罰したら、大名たちは付いて来んでしょうな」
これまで首を送ってくる例はあった。だがあの様なうら若い娘を、あの様な姿で送ってくるのは、前代未聞だ。そこまでして恭順の意を示す相手を処罰すると、怖れよりも不信が生じる。何時自分もあの様な災禍に見舞われるかと怯える。
「どうします? あの人形」
始末に困る献上品だ。突き返したり捨てる訳にもいかないし、飾ったり諸侯に下賜する訳にもいかない。
「宝物庫にでもしまっておけ。戒めとなる。人の心を読み誤った儂へのな」
今回の事は、自分の失態である。
自分には力がある。だがそれを無理押しすると、追い詰められた者は思わぬ行動をとる。
慎まねばならぬ。本能寺は、真っ平だ。
「のう、佐吉よ」
しばらくの沈黙のあと、秀吉は三成に呼び掛ける。
懐かしい呼ばれ方であった。その名で呼ばれるのは、久しぶりだった。
「鶴松は、儂の子と思うか?」
その問いに、三成は口ごもる。
必要なのは、観測により証明される “事実“ ではない。主観に基づき、その貌を変える “真実“ だ。
「鶴松様は秀吉様の御子に相違ございませんっ!」
声を張り上げ、三成は答える。
「間が、空いたな。そしていつもより、声が大きい……」
『しまった!』 三成は自分の迂闊さを後悔する。
「……そうか」
秀吉は静かに事実を受け入れた。
「佐吉よ。儂は、助平じゃ」
『はっ』とだけ三成は答える。それ以外に答えようが無かった。
「若い頃から、見境が無かった。今日はこの家の娘、明日はあの家の後家と、手当たり次第じゃった。それでよう寧々(秀吉の正室)に怒られたもんじゃ」
三成は黙っている。それは紛れもない事実だ。三成も傍で見ていてよく知っている。
「不思議でならなかった。儂は何でこんなに助平なんだろうと。寧々を悲しませるつもりは無いのに、何でこんな事をするのだろうと。じゃが、止めれなかった。儂の躰が、突き動かして止まないのじゃ」
秀吉の言いたい事が、分って来た。
「種が無い事を、知っておったんじゃろうな、儂の躰は。だから餓える者が貪るように、求めたんじゃろう」
三成は何も言えなかった。否定も、慰めも。
「愚かな事じゃ……」
神は、悪意に満ちている。
天下を与えた男に、子を与えないとは。それで釣り合いを取っているつもりか。
神の天秤は、壊れている。
再び沈黙が降りる。
しかし言葉は無くとも、色々な思いが行き交っていた。
嘆き、悲しみ、憐憫、慈愛……言葉に乗らずとも、伝わっていた。
そして秀吉が、重い口を開く。
「豊臣は、儂が、藤吉郎が産んだ華じゃ。戦国の世に咲いた、大輪の華じゃ。泥沼の卑しい身分から咲かせた華じゃ。儂はそれを、枯らしとうはない」
それは、彼の生きる “よすが“ だった。
「秀次様が、いらっしゃるではありませんか」
甥である秀次の出自は、ハッキリとしている。ならば彼に継がす事も可能である。
「あれは、枝じゃ。幹にはなれぬ。幹は、儂の子でなくてはならぬ。例えそれが、寄生木であろうとも」
彼が繋げたいのは、『秀吉』という大きな街道に連なる道なのだ。それを迂回して『秀吉』を素通りする道には、意味がないのだ。
「豊臣を、儂が築き上げたものを、守ってくれ。儂の人生は、儂が築いたものは、幻ではなかったと証明してくれ」
秀吉は縋るように懇願する。
老いを、感じさせた。
これまで、このような事をおっしゃられる方ではなかった。
常に前を、上を向いておられる方だった。
夢を、明日を語られる方だった。
むさぼる様に生きられる方だった。
守りに入られた。そうも感じた。
天下取りも、あと一歩だ。
その先は、どうされるのだろう。
かっての秀吉のように、『ついてこい、佐吉! 天下を取るぞ!』 そう言って、導いてくれるのだろうか。
黄金の日々が、終わるような気がした。
しばらくの時間が過ぎた。
感情を爆発させた秀吉は、落ち着きを取り戻した。
「天下を取るというのも、いい事だけではありませんね」
天下取りを目前に不謹慎な台詞を、三成は吐く。
だが秀吉は咎めず、笑っていた。
「確かにな。長浜城にいた頃の方が、よっぽど気楽でよかったわ。いらん気を回さんで済んだ」
「まったく、同感です」
三成は出会った頃を思い出す。
あの頃は、未来が無限にあった。
「よう言うわ。三種の茶を煎れて、儂に取り入った茶坊主が」
秀吉は高らかに笑う。懐かしい笑い方だった。
「少なくとも、自分が望まぬ事はしませんでしたよ。今はそれが許されない。秀吉様が信長公の草履を懐に入れた時も、取り入ろうとかよりも、喜んで貰おう、吃驚させてやろうという気持ちの方が強かったでしょう」
「まぁな」
「お互い、遠くまで来ましたね」
二人は目を細め、遠い目をする。
「あと一息じゃ。あと少しで頂上じゃ」
「……お供します、どこまでも」
ああ、私はこの人に惚れているんだなぁ。
三成は、改めて思い知った。
◇◇◇◇◇
「千姫の救出へ向かえ! 助け出した者には、姫を与える」
天下の名城が、いま焼け落ちようとしている。
ひとつの時代が、終わろうとしていた。
栄華と没落。
その相反しながらも同質の物が、いま目の前にあった。
絢爛とそびえる黒漆の城。
紅く燃え盛る破滅の炎。
それらが絡み合い、崩れ落ちてゆく。
「大道寺、お主も行くがよい……」
新たな天下人が、天幕内にいた男に呼び掛ける。
周囲の者は訝しむ。
何故この老人に千姫救出を任せるのか。
燃える城に侵入させるには、力が衰えてはいるのではないか。
姫を与えるには、齢を取り過ぎているのではないか。
この男、大道寺 直英は。
「其方の娘を、迎えに」
天下人が続けた言葉で、皆は『ああ』と納得した。
25年前の小田原の件は、皆覚えていた。
あの悍ましさは、拭いようもなかった。
「ははっ」
直英は短く返事をする。
まるでこの言葉を、何十年も待っていたかのようだった。
老人に似つかわしくない俊敏さで、彼は放たれた矢のように飛んで行く。
「忠継、晴明、行くぞ!」
直英のすぐ後ろに、二人の侍が続く。
一人は “殿鞍 忠継“ 。亡くなった兄の跡を継ぎ、殿鞍家の当主となった。
もう一人は “相馬 晴明“ 。忠継の弟で、遠縁の “齋藤家“ の養子となり、その当主を継承した。そして家名を、 “相馬“ と改めた。
彼ら三人を、みなが見送っていた。
まるで彼らを佑ける事を、神に祈るように。
「……よろしいので?」
家康の横で、家臣が問う。
あまりにも私情を優先させている様に思えて。
「だれも、文句を言う者などおらぬよ。……人の親ならばな」
周囲の者は、みな頷く。
命のやり取りを日常とする彼らでも、あれは衝撃的な事だった。
誰もが後味の悪い気持ちを引きずっていた。
目的の宝物庫に辿り着いた。
宝物庫と言っても、ここは予備の予備の予備で、価値の低い物しか置かれていない。
ここに、彼の娘が眠っている。
直英は緊張した表情で扉に手をかける。
ギィ―という軋む音を立て、扉が開く。
開けられた扉から射す光が、宙に舞う埃を映し出す。
かび臭い匂いがした。
「ようやっと来たか、待ち侘びたぞ」
奥の闇の中から、聞き覚えのある声が呼び掛けて来た。
それは意外でもあり、納得もさせられた。
「…………湖月か」
黄金の鬣を持つ白馬だった。
彼はゆっくりと直英に近づく。
「綜馬の、主君だったな。昔見た記憶がある」
湖月は古い記憶を探るように、遠い目をする。
「後ろにいるのは、忠継と晴明か!」
驚き、懐かしみ、湖月は彼らをまじまじと見る。
「老けたな……」
感慨深げに湖月は呟く。
その言葉に、晴明は反応する。
「25年経ったからな。お前も、年をとった」
昔なら、これで喧嘩を始める二人であった。
だが今は、そんな昔も懐かしむ様であった。
「……我も30を越えた。並の馬なら、もうとっくに天寿を全うしてる齢だ」
人間の年齢に換算すると、100歳は越えている。
それだけの年月を、湖月は過ごして来たのだ、ここで。
「ずっと……付いていていてくれたのか。兄上たちに」
忠継が、感謝と感動の気持ちを溢れさせながら問い掛ける。
「他に行く所もなかったのでな。こいつの居る所が、我の居る場所だ」
事もなげに湖月は答える。
それは忠継と晴明には、この上なく有難い事だった。
こんな薄暗い、埃だらけの中に閉じ込められた二人に、一緒に居てくれた友がいた。
それは、救いとも言えた。
「感謝する! 心から!」
忠継は自然に頭を下げていた。
湖月はそれを優しそうに見ていた。
「来い。こっちだ」
湖月は三人を奥へ奥へと案内する。
最奥へと辿り着いた。
そこに暗闇の中、朧気に見える、人肌のような物が見えて来た。
その姿が、段々と露わになる。
細くしなやかな腕を伸ばし、天に昇らんとばかりに足を蹴りだした少女の姿があった。
少女は、羽衣を纏っていた。
直英は魂を抜かれたように、よろよろと、それに近づいて行く。
足元は覚束なく、だらりと口を開け、それでも目だけは一点を見つめ、真っすぐにそれに向かって行く。
そして辿り着いた直英は、それにしがみ付き、吠えるように泣き始めた。
「小夜、小夜、さよ――――――っ」
ただそれだけを、叫び続けた。
堰を切ったように、涙が流れていた。
何十年も溜めた想いが、溢れ出していた。
忠継と晴明はその横で、少女に掛けられた羽衣の端を握り締め、泣いていた。
暗い部屋には、哀しみと愛しさが満ちていた。
「二人を、連れて帰ってくれ…………」
悲しみを吐き出し、少し落ち着きを取り戻した三人に、湖月は語りかけた。
「津軽の地に、還してやってくれ」
それは、みんなの願いだった。
三人は、深く頷く。
湖月は、安堵した顔をする。
「これで、心残りなく逝ける。間に合って、よかった」
その湖月の言葉は、心から漏れた本心だった。
それを痛いほど理解した晴明は、彼に言う。
「一緒に……津軽に帰らないか?」
こいつはもう長くはない。ならば最期は生まれた場所で――そう思った。
「我は、ここで眠る。故郷に帰りたい気はあるが、ここで過ごした年月も、我には大切な月日だ。例え返事がなかろうと、こいつらに掛けた言葉は、我の思い出だ」
彼もここで、年月を重ねたのだ。それは、彼にとっての宝物だ。
「そうか」
それ以上は、もう何も言えなかった。
「最期に、これを持って行け」
湖月はそう言うと、頭を下ろし、右脚の蹄を顔に近づけた。
そしてそれを自分の右眼に突き刺し、眼球を抉り出す。
目から、滝のように血が流れ出した。
右脚を晴明の前に突き出し、抉った眼球を手渡す。
渡された晴明は、呆然としていた。
「我の右の眼の玉には、 “シラ様と繋がる力“ が宿っている」
そう言うと、今度は左眼の眼球を抉り、それを忠継に手渡す。
「左の眼の玉には、 “未来を見通す力“ が宿っている。どちらも、我が子に移す事が出来る。忠継、晴明、お主らが使え。我にはもう、不要な物だ」
二人は血塗れの眼球を手にし、愕然としていた。
「喰え!」
湖月の、強い意志の籠った声が響く。
彼の激しい想いに呑まれ、二人は眼球を口に入れ、噛み千切り、己の躰へと取り入れた。
「それでよい」
湖月は満足そうに笑った。
「これでやっと、休む事が出来る。こいつらのお守りも、大変だったわ。……楽しかったがな」
湖月は血塗れの、眼球を失った目を二人に向ける。
ひざを折り、胴体を地に着け、長い首をゆっくりと降ろしてゆく。
「……楽しかった」
それっきり彼は、動かなくなった。
悲劇は、終幕した。
そして次なる悲劇が、幕を開ける。
慶長20年(1615年)5月8日 大坂城 落城。
そのとき紅蓮の炎の中、一頭の白馬が、一組の男女を乗せて、天に昇って行ったと、記録に残っている。
『彼らはとても幸せそうな顔であった』と書かれていた。
これにて戦国編は終了です。
本来自分はハッピーエンドが好きなのですが、こればかりはそういう訳にはいきませんでした。
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