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羽衣

月光がほのかに射す暗闇の中、一つの人影が城の石垣を登っていた。

侵入者にありがちな、卑屈な、潜むような雰囲気はなかった。

まるで最高峰の山を攻略する登山者のように、威風堂々とした佇まいだった。




手に鉤爪(かぎづめ)を付け、石垣を登る。

鉤爪を岩の隙間に引っ掛け、慎重に進む。

これが中々の難業だった。

急勾配の武者返し。まったく面倒な物作りやがって、お屋形様は。


敵となって知る 味方の厄介さ


苦心惨憺(くしんさんたん)の末、ようやっと頂上まで辿り着いた。


俺は頂上の石に、左手をかける。

すると石は力も加えないのに、あっさりと剥がれ落ちた。


やばい! これ置いているだけで、固定していない。

ここまで必死に登って来た侵入者を、落として振り出しに戻させる意地の悪い罠だ。

俺は空振りしたのと反対の右手で、落ちないようにしっかりと支える。


なんとか踏ん張る事が出来た。

だが息をつく暇はない。


剥がれ落ちた石が落下して行く。

この下には、水を張った掘がある。

この高さでこの大きさの石が掘に落ちたら、水音はかなりの物だ。

それは即ち、侵入者を存在を告げる警報となる。


冗談じゃない。

俺は右手右足に力を入れ、しっかりと踏ん張る。

そして左足を石垣から離し、勢いをつけて足を振る。


「いちっ!」


左足のつま先で、石を蹴り上げる。

石は俺の胸のあたりまで持ちあがる。


「にいっ!」


左腕で、上にあがる様に力いっぱい叩きつける。

俺の眼前にまで、石は上がった。


「さんっ!」


額を思いっきりぶつけ、頭突きで石を石垣の上まで運んだ。


警報は、鳴らなかった。

俺は固定された石を探り、そこを掴み、登頂を成功させた。


侵入した俺は、勝ち誇る事もなく、達成感に浸る事もなかった。

つま先から、拳から、額から、襲って来る激痛に耐え兼ね、のたうち回っていた。


しまらないな、おい。






暗闇の奥まった部屋で、少女は灯りも付けずにじっと座っていた。

窓から差すか細い月光が、彼女の姿を映し出していた。


昏い顔だった。

希望を失い、すべてを諦めた者の貌だった。

運命に流される、無力感が漂っていた。



「綜馬……さま…………」


還らぬ日を思い起こすように、少女は呟く。


「…………お呼びですか」


暗闇から声がした。

少女は、自分の気が変になったかと思った。幻聴だと思った。


「遅くなり、申し訳ありません」


暗闇から声だけでなく、愛しい人の姿が現れた。

熱も、匂いも、伝わってくるようだった。


これは、夢?

それとも浅ましい私の願望が見せた幻?


「お迎えに参りました」


そう言って、彼は私を抱きしめる。

幻でも、(あやかし)でも構わない。

一瞬の、夢を見させて。


少女は、彼を抱きしめ返した。






綜馬は、小夜の髪を撫でる。何度も何度も愛おしそうに。

その行為は、小夜の心を落ちつかせた。


小夜は理性を取り戻す。

流されそうな甘い誘惑に必死に抗い、愛しい人のことを思い、自分に鞭打った。


「何をなされに来られたのです?」


震える声で、小夜は訊ねる。


「あなたをお迎えに。天下人から取り戻しに」


その言葉に、小夜は歓喜した。その蕩けるような愛に。

そして戦慄した。その幸せの先にある、果てしない地獄に。

この人を、そんな目に遭わせてはいけない。

愛しい人の為に、小夜は心を鬼にした。


「今ならまだ間に合います。このままお帰り下さい。そして私の事は、お忘れ下さい……」


涙を堪え、小夜は言った。

本当はそんな事して欲しくないのに。

このまま抱きしめて欲しいのに。


「父から聞きました。家禄も家格も引き上げられるそうですね。おめでとうございます。きっと素敵な縁談があるでしょう。……その方と、お幸せになって下さい。そしてその方と間に出来た御子を、一度連れて上洛して下さい。そして一度その御子を、私の腕で……抱かせて下さい。……それだけが、私の望みです……」


強がりの中で、ちらりと本音が漏れる。

例え私の子でなくとも、この人の子どもを抱いてみたいと。


「聞けませぬな、その望み」


小夜は我が耳を疑った。

これまで綜馬は、彼女の頼みを断った事がなかった。

その彼が、小夜のたっての願いを拒絶したのだ。

混乱する小夜に、綜馬は言葉を続ける。


「聞けぬと申しました。私はもはや、大道寺の家臣では無いのです」


えっ? 小夜姫は驚きの声を上げる。


「侍は――捨てました。今の私奴(わたくしめ)は、盗人(ぬすびと)でございます」


「ぬす……びと?」


思ってもいない言葉に、小夜姫は問い返す。


「そう。我欲に駆られ、天下の宝石(ほうせき)を搔き集め、それを昏い箱に閉じ込め、その輝きを腐らす輩から奪い取る。そしてその輝きを、在るべき野に放つ。宝石(いし)は、本来大地のもの。悠久の年月を経て育んだ、大地の宝。その輝きは、大地の許でこそ()える。昏い箱の中では、宝の持ち腐れ。私は、在るべきものを在るべき場所に運ぶ “盗人“ 。侍より、よっぽど高尚な生き方です」


そこには武士という支配階級に対する未練も、野に下る事への卑屈な気持ちもなかった。


「小夜姫さま、いえ小夜さま――」


彼女への呼称が変わる。それは、ある決意を顕していた。


「逃げましょう、ここから。身分も、すべてを捨てて――」


綜馬の目には、揺るぎない炎が灯っていた。


蝦夷(えぞ)(北海道)を越え、樺太(からふと)を抜け、オロシャ(ロシア)の地までも……。秀吉の手も、そこまでは及びませぬ」


果てしない逃避行への誘いであった。


「そこで二人で暮らしましょう。あなたの為に家を建てます。小さく粗末ながらも、寒さから、敵から、あなたを守る家を。そこで必ず、幸せにします。約束します!」


真摯な目で、綜馬は訴えかける。

約束は守られるだろう。この人はそれを違えたりしない。彼女はそれを、疑わなかった。

そして彼女は語り始める。


「晴れた日にはあなたは狩りに出掛け、私は凍えて帰って来るあなたの為に温かい料理を作って待っている。吹雪く日には家に籠り、暖炉の前で子供たちにお話を聞かせる。あなたは優しい目で、それをじっと眺める。幸せでしょうね、とても……」


綜馬の顔が、喜色に満ちる。

望んで止まなかった幸福が、目の前にある。



「ですが――」


小夜の続く言葉に、幸せな空気は霧散する。

まるで悪魔が忌むべき幸せを、手を振ってを(はた)き出すかのように。

彼女は沈んだ面持ちで、続ける。


「出来ませぬ――。私の心は、あなたの物です。ですがこの身は、私一人だけの物ではありません。大道寺の、いえこの津軽の物なのです。私がここで逃げ出せば、その責は津軽の民に及ぶでしょう。そういう身なのです、私は。……お許しください」


涙を流し、唇を噛み、軋むような声を出す。


彼女の言う通りだろう。

天下目前の秀吉は、舐められる訳にはいかない。

服従しない者に甘い顔を見せれば、タガが外れる。

見せしめが、必要だ。

しかし今の秀吉に、正面切って喧嘩を仕掛ける馬鹿はいない。

ならばこれは、 “丁度いい規模“ の反乱だ。


小夜さまを救うには、津軽全体を救わなければならない。

それは、無理だ。それが出来るのならば、天下が取れる。


「素敵な夢を、見させて頂きました。あなたのお嫁さんになるという夢を。この半年、本当に幸せでした。私の心は、あなたに嫁いでいました。お礼を、申し上げます。その夢と、これまであなたと過ごして来た三年の思い出で、私はこれから生きてゆけます。……ありがとうございました」


俺は、涙を流した。

自分不甲斐なさに。彼女のいじらしさに、哀しさに。

ここで無理矢理(さら)っても、彼女は自分の罪の意識に(さいなま)まれるだろう。

人々を見捨てて逃げたという罪悪感に。



俺は、神を呪った。

己の、無力を呪った。



夜が、沈黙に包まれる。

無情な、静けさだった。

涙が落ちる音だけが、響いた。






沈黙を破り、外から騒がしい音がしてきた。

馬の(いなな)き、鎧の擦れる音、刀がガシャガシャとぶつかる音。

殺伐とした空気が流れて来た。


ドタドタと大勢の足音が近づいて来る。

襖が問いかけもなく、不作法に開けられる。

武装した侍の一団が、押し入って来た。


「大道寺殿、拙者の言った通りであったろう。やはりこの二人は逢引きをしておった。どう申し開きをするおつもりか、秀吉公に!」


一団の先頭にいた男が、後ろで侍たちを押し留めようとしていた直英(なおひで)様に、非難の声を浴びせる。その声の主は、兼平(かねひら) 綱則(つなのり)であった。



兼平(かねひら) 綱則(つなのり)――大浦三老の一人で、古参の譜代家臣の中心人物。

新参家臣の中心である大道寺(だいどうじ) 直英(なおひで)様とは対立していた。

厄介な奴が、現れた。



「これは異なことを。突然押しかけて来て何を言うかと思えば、たわけた事を。上洛にあたって、湖月の事を綜馬から色々教えて貰っていた所です。当家から出した宝について『何も知りません』では、私が恥をかきますからね」


小夜は先程までの涙を拭い去り、気丈に反論する。



「では何故二人きりなのか! いかがわしい事をしていたに決まっておる!」


「ご自分を基準にしないで下さいませ。『湖月の事』というのは、その秘密も含まれているのです。それを余人に聞かせろと? ああ兼平殿は、衆人環視の中で極秘の軍議をされるような御方でしたか。その豪胆さは羨ましいですね。悩みが少なさそうで――」


二人は、火花を散らす。


「父上、もう結構です。話は済みました」


彼女は兼平を歯牙にもかけない様子で、後方の父親に呼び掛ける。

そして余裕の表情で、兼平に向かい合う。


「で、どうなされるのですか、兼平殿? 不義密通の罪で私を斬られるのですか? それならば結構、お好きにどうぞ。ですがその報告は、それをなされた貴方の口からして下さい、秀吉公に。『お気の毒でしたな、若造に寝取られて。不届き者は拙者が成敗致しました。証拠? そんな物はございません。二人きりで会っていたと云うのが、動かぬ証拠です。それ以外にありません』とでも。……生きて帰れたら、いいですね」


兼平 綱則は顔を青ざめる。

その通りだ。もし自分が誅殺の当事者になれば、その説明が求められるのは必然だ。

そんな貧乏くじは、真っ平御免だ。


「お分かり頂けたようで、幸いです」


小夜は、にこやかに笑う。

ここに居る者は、呉越同舟なのだ。誰かを沈めようとすると、自分も沈む。

だから見逃せと、目を瞑れと、彼女は言うのだ。

誰もその言葉に抗えなかった。




「私は、秀吉公の許へ参ります。この津軽のために、この津軽を背負い――」


そう語る彼女の眼は、俺が愛した眼だった。

限りなく澄み、ぴんと張り詰めた、強く美しい眼だった。

何者もが侵しがたい、崇高な眼だった。


みんなその眼に、気圧(けお)された。



「世迷い言は、それだけか」


その中で唯一人、その眼に抗う者がいた。兼平 綱則であった。


「不忠は、許されぬ。裏切り、寝返り、叛逆が許された戦国の世は、秀吉公によって終わりを告げようとしている。これからは、法と秩序の世となる。そんな中、法を定める秀吉公に逆らう事は、許されぬ。たとえ隠そうとしても、悪事は必ず露見する。ならばこの不忠は、(ただ)さねばならぬ!」


この人は、愚かではない。時流を見極め、自己保身ではなく集団の為に振る舞おうとしている。

そういう人間に、損得勘定は通じない。


みんな小夜さまと兼平 綱則の言い分は、それぞれよく分かった。

だから、動けずにいた。自分の正義がどこに在るかを掴みかねて。



膠着する中、俺だけが動けた。

俺の正義は、はっきりとしていたから。

俺の正義は、小夜さまだった。彼女の幸せこそが、俺の正義だった。

だから俺は行動した。彼女の幸せの為に、俺の出来る事を。




「やあやあ皆さま方、とんだ思い違いをされておられる」


俺は飄々(ひょうひょう)とした口調で、声を上げる。皆の視線が、俺に集まった。


「皆さま、一度生を受けたなら、その名を後世に残したいと思いませんか?」


そこに居る一同が、怪訝な顔をする。俺の意を掴みかねている。


「自分が存在した痕跡を残したい。そう思うのは、自然なこと」


皆の顔が、さらに困惑する。


「それが名声であろうと、悪名であろうと……。生憎と某は生まれが卑しゅうござってな、好き嫌いは許されずに育ちました。喰えるのなら、贅沢は申さぬ」


皆の表情が、気色ばむ。誇りも何も無い言いぶりだった。


「『天下人の愛妾を寝取る』――最高ではござらんか。秀吉公の光が強ければ、その闇として某の名も轟く。後世に名を残す、またとない機会でござる」


唾棄すべき考え方であった。


「残念ながら不発に終わりましたがな。まっこと兼平殿には参りました。とんだ邪魔をなされる」


唖然とする者達を尻目に、俺は言葉を繋げる。


「事に及ぶのは叶いませんでしたが、それはもうどうでもいい。肉体的な穢れは出来ずとも、天下人の権威を穢した。それだけで十分でございます」


周囲に怒りが充満した。『こいつは許せない』――それが皆の総意だった。




「この痴れ者が――――!」


憤怒の炎を燃やし、兼平 綱則が刀を抜く。

彼は俺に襲い掛かって来た。




◇◇◇◇◇




兼平 綱則は刀を振るう。

それは正義の刃だった。

この世の悪行を滅する剣であった。

彼はそれを誇りに思っていた。


目の前にあるのは、この世に存在してはならぬ “悪“ 。

彼が最も忌み嫌うものであった。

彼が求める “光り輝く善“ とは対極に位置するものだった


彼には、自信があった。

これまで積み重ねられてきた自分の努力に。先祖から受け継がれてきた技に。

誇りを持って研鑽してきた。


我が剣は、(じゃ)を祓う剣。

正道を、光の道を歩む我が剣が、穢れし剣に後れを取る道理なし。

絶対の自信を持って、剣を振った。


だが現実は、綱則の予想を超えた。


敵の太刀筋は、鋭く速い。自分の剣は、到底及ばない。

その現実を叩きつけられた。

馬番の若造が、何故こんな剣を振える?

納得がいかなかった。

自分の人生が、無意味なものだったと否定された気がした。



綱則は死を覚悟した。

呪いながら、悔やみながら、最期の時を迎える。そう思っていた。

だが綜馬の剣筋は、そんな気持ちも切り裂いた。



美しかった。綜馬の剣は、例えようもなく美しかった。その美しさに、見蕩れた。

ああ、この剣に斬られるなら本望だ。強がりではなく、素直にそう思った。

この剣の歴史に、斬られ役としてでも存在出来る。そう思うと、誇らしい気がした。

それ程迄に、この剣に魅了された。


だが綱則の願いは、叶わなかった。

彼の躰を切り裂くはずの剣は、軌道を逸れ、彼の横を素通りする。

彼は、この美しい剣と交わる事が能わなかった。


綱則は、絶望した。




◇◇◇◇◇




兼平 綱則の剣は、鋭かった。

だが俺の剣とは、非常に相性が悪かった。


彼の剣は、非常に洗練された理に適った剣。

逆に言うと、予測しやすい剣だった。


もちろん彼も読まれないようにしている。

予備動作を慎み、狙いを単純化させず、心を悟られないようにしている。


だがそういう問題ではない。

悟る悟られないではなく、そう攻める様に、俺が仕向けているのだ。


これは俺の今までの経験から、可能となった事だった。


馬に言う事を聞かすのは、非常に難しい。

あいつ等は基本的に従順だが、中には人間を馬鹿にして指示に従わない奴もいる。

(たち)が悪い事に、そういう奴に限って高い身体能力を持ってたりする。

困った事だが、そんな奴に言う事を聞かすのが、飼育者の能力と見做(みな)されてしまうのだ。


上下の違いを叩きこみ、力尽くで言う事を聞かせるのは容易い。

しかしそうすると、馬が十全に力を発揮できなくなる。


俺が辿り着いた最良の方法は、『俺のしたい事と、馬のしたい事を一致させる』だった。

つまり馬の思考を誘導し、俺の望む事をさせると云う事だ。


馬は、賢い。

あからさまな誘導は、すぐに見抜かれてしまう。

彼らの潜在意識に、誘導すべき場所に向かう欲求を植え付けるのだ。気が付かれない様に。


これは中々骨が折れた。最初はすぐ見抜かれ、へそを曲げられてしまった。

だが数多の失敗の末、コツを掴んだ。無意識下に訴えるコツを。


枝分かれする数手先まで読み、その道筋にエサを撒く。

覚えるとこれは、大変重宝した。

馬だけでなく、人間にも使えるのだ。


陽動(フェイント)とか、そう云う物ではない。

人には、『こう勝ちたい』という理想形がある。

その理想形における敗者の役を演じれば、ホイホイと乗って来る。


これは大変な優位(アドバンテージ)となる。

反応速度が違うのだ。

なにしろ相手が行動を起こす前から、こちらは迎え撃っている。一呼吸も二呼吸も違う。


そして相手の技量が洗練されればされる程、こちらの正確性も速度も高まる。

つまり兼平 綱則は、俺のいい “カモ“ だった。




兼平 綱則は下段突きで攻めて来た。

剣は上、横からの攻撃よりも、下からの攻撃への防御が難しい。

だが敢えて俺は、上段からの攻撃を警戒する素振(そぶ)りを見せた。

『格下と見下し圧倒的勝利を得るのに、兼平は上段で攻めて来る』と俺が予測していると思わせる為だ。

俺の狙いを誤認した兼平は、思惑通り下段から攻めて来た。


俺は流れる動きで剣を下段の防御に回す。

兼平が攻撃の一歩を踏み出す前から、既にその助走は出来ていた。

小刻みに動かしていた剣はその速度を減速する事無く、却って加速して兼平の剣を迎え打った。

最短距離を、力を無駄にする事なく、剣を移動させる。

そして兼平の力を受け流す最適な角度で、彼の剣を弾き返した。


兼平は仰天していた。

何故そこに剣があるのか。何故そんな速度や力があるのか。合点がいかない様だった。

種明かしをすれば単なる先出し(フライング)なのだが、彼はそんな考えに至らなかった様だ。

まるで神業みたいに、俺の剣を見ていた。


ここまで来たら、もう俺の手の内だ。

最後の仕上げにかかる。

彼には彼の役割を演じてもらう。


俺の上段の構えに対応し、兼平は平青眼(ひらせいがん)の構えをとる。

優等生的な解答だ。返し技を狙っているのだろう。


全てを承知の上で、俺は上段から振り下ろす。

彼の呼吸の合間、隙を縫っての斬撃だ。こちらが一拍速い。


兼平の躰に近づいた瞬間、俺の打ち下ろしは軌道を変える。彼の躰から、剣が逸れた。

死を覚悟していた兼平は、唖然(あぜん)としていた。


剣を振う勢いのまま、俺は躰を投げ出す。兼平の突きの延長線上に。

俺の躰に、兼平の剣が突き刺さる。

肉が(えぐ)れ、血が吹き出す。

兼平は唖然(あぜん)を通り越して愕然(がくぜん)としていた。自分の勝利が信じられない様相だった。

俺は彼に声を掛ける。



「誇られよ……。貴殿は逆賊を成敗なされたのだ。慮外者から姫を守ったのだ。胸を張られい。……そうでなくば、某も斬られる甲斐がござらん」


俺は笑っていた。心から。


「殿鞍……貴様……」


兼平は理解出来ない様だった。この勝利に、俺の考える事に。


「悪名は……某が頂く。……名声は……貴殿が……得られよ……」


血を吐きながら、笑いながら、俺は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

満足そうな顔で、床に倒れて行く。


小夜さまの名誉を、未来を守った。そんな充実感に満ちていた。

俺が出来るのは、これくらい。そんな(にが)みも、少し混じっていた。




「いや――――――――っ――――――――」


小夜の鋭い叫びが、闇を走る。いつまでも、いつまでも、いつまでも…………。






◇◇◇◇◇






小夜姫かどわかし未遂のあった五日後、家臣たちは庭に集められていた。

これからお屋形様――大浦(おおうら) 為信(ためのぶ)の養女となった小夜姫の、義父母へのお別れの舞が奉納されるのだ。


神仏への奉納と云う事で、家臣に酒が振る舞われていた。

自分たちが仕える家から天下人へ嫁ぐ者が出るという事で、みな浮かれていた。

その中で暗い顔をしている一団があった。五日前、姫の救助にあたった侍たちであった。



集団の中に、兼平 綱則の姿があった。

彼は、不機嫌そうにしていた。



「兼平殿、まあ一献(いっこん)。なにしろ兼平殿は、今回の救出劇の立役者なのですからな。いや、お見事でござった。悪漢から姫をお守りするお働き。是非詳しくお聞かせ下さい」


媚びへつらう様に、一人の侍がすり寄って来た。

今回の件で名を上げた兼平 綱則にあやかろうとして。


「うるさい! 失せろ!」


綱則はそんな男を一喝する。男は吃驚して、その場を逃げる。

周りの者たちはそんな綱則を咎める事なく、哀しそうな目で見ていた。


誰も綱則に近づかない。彼の周りに、ぽっかりと穴が空いていた。


綱則はくいっと杯をあおる。そして誰に聞かせるでもなく、呟く。


「……儂は、阿呆だ。馬鹿だ。大馬鹿者だ。…………儂は、阿呆だ。馬鹿だ…………」


同じ台詞を、呟いていた。何度も何度も……。




ざわめきが、波を引いたように静まり始める。

舞台に、ワキ(主役(シテ)の相手方)とツレ(シテ・ワキを助演する者)が現れた。

今回の演目は『羽衣(はごろも)』。

天に昇り下界を離れる天女の話は、現状に相応しい演目かもしれない。




ワキとツレの掛け合いの後、主役(シテ)である小夜姫が登場する。


「かなしやな 羽衣なくては飛行の道も絶え。天上にかへらんことも 叶ふまじ。さりとては返したび給へ」


羽衣を奪われた天女が、どうか返してくれと訴える。

切々と、悲しい気持ちを込めて。




(あま)の “馬“  ふりさけ見れば霞立つ  “恋路“ (まど)ひて 行方(ゆくへ)知らずも」


会場がざわつく。

聞き違えか? 『天の “原“  ふりさけ見えば霞立つ  “雲路“ まどひて 行方(ゆくへ)知らずも』ではなかったのか?


皆の戸惑いを他所に、物語は進む。



天女と、羽衣を奪った男が言い争っている。

舞を見せるのに羽衣を渡したら、そのまま飛び去って逃げるのではないか。

それでは羽衣は渡せんと男は言い張る。

それに対して天女は、『そんな真似はしません。信じて下さい』と訴える。


『いや疑ひは人間にあり。天に偽りなき物を』と語る場面だ。



「いや “(うれ)い“ は人間にあり。 “恋“ に偽りなき物を」


小夜姫は、そう言った。


台詞が、変わっていた。

“疑ひ“ が “愁い“ に。 “天“ が “恋“ に。

これは、姫の心の吐露なのか。

みんな、気が付かない振りをした。…………あまりにも哀れで。



天女が――小夜姫が、羽衣を手にする。

彼女は愛しそうに、それを握りしめる。

そしてそれと一体とならんとする。

羽衣をふわりと広げ、肩にかけ、垂れた衣を身体に巻き付けた。



姫が持つ羽衣に、皆の注目が集まる。

そして驚愕した。今になって、その正体を知った。


それは布ではなかった。皮であった。薄く(なめ)した、皮であった。

中央に、大きな、一文字の切り傷があった。

皆その傷に、見覚えがあった。

三年前小夜姫を庇い、斬りつけられた勇者が負った傷痕だった。



殿鞍(とのくら) 綜馬(そうま)!」



ざわつく中、そんな言葉があちこちから漏れ聞こえる。

場内は異様な雰囲気に包まれた。

あの羽衣は、殿鞍 綜馬の皮なのか。

困惑と(おぞ)ましさが広がってゆく。




みんなの注意が逸れた。

小夜姫は、開いていた扇を閉じる。

そして扇の両端を、左右の手でぐっと握りしめ、勢いよく両手を横にやった。

扇は二つに別れる。そして接合部から、ある物が現れた。

白刃(はくじん)であった。鋭く、長く伸びる、細い刃だった。

彼女はそれを、しっかと握りしめる。



舞台のすぐ近くには、実の父である大道寺 直英の姿が、そして仇である兼平 綱則の姿があった。




兼平 綱則は、覚悟した。

『ああ、儂はここで死ぬのだな。姫に誅され、死ぬのだな』と。


綱則は、得心したように笑う。

『この愚か者には、相応しい最期だ。真意を解さず、盲目的に振る舞った、馬鹿者らしい死に方だ。……姫さま、どうぞお望みを果たしなされませ。それでこそ自分の罪も、少しは減じられる』


綱則は微動だにしなかった。

来るべきものを、受け入れようとしていた。

あの日の綜馬のように。

それが救いだと思った。




「よせっ! やめろ、小夜っ――!」


大道寺 直英が絶叫する。

周りの家臣は、大道寺 直英、兼平 綱則の前に出る。

二人を小夜姫の凶刃から守る為に。

それが小夜姫を守る事になると信じて。

……みな、心を斬り裂かれたような貌をしていた。



小夜姫と大道寺 直英・兼平 綱則の間に、分厚い人垣が出来る。

みな、ほっと安堵した。これで悲劇は避けられると。



小夜姫は、笑っていた。

舞っていた場所から一歩も動かず、悠然と笑っていた。


小夜姫は羽織っていた羽衣を手に取り、愛しそうに頬ずりする。

その目は濁りなく清らかで、復讐とか怨念とか、一切見受けられなかった。

そして魂を振り絞るように呟く。


「……いま、御許(おんもと)へ……」


その瞬間、そこに居並ぶ者達は理解した。

自分たちの思い違いに。情念の深さに。


自分たちが駆け寄るのは、この二人ではなく、姫さまであった、と。

心の底から、後悔した。




小夜姫はゆっくりと、刃を自分の喉に突き刺す。

恐れも迷いも無く、まるで儀式のように、厳かに。


惨事にも関わらず、みな見蕩れた。その動きの、あまりの美しさに。

まるで、神話を見ているようだった。




血霞(ちがすみ)が、あがる。

辺りに、死の芳香が漂う。



紅い世界の中で、小夜姫は子どものように微笑んでいた。

すべての呪縛から解放され、無邪気に愛するものを求める幼子(おさなご)のように。



彼女は倒れる、崩れるように。

羽衣がひらひらと舞い落ち、そっと彼女を包み込む。




彼女は優しく満足気に笑っていた。まるで天女のような顔で。

羽衣はそんな彼女を天に導くように、はためいていた。

数話前のコミカルな流れから、こんな結末になろうとは……。

この戦国編は、悲劇です。まぎれもなく。ですが単純な悲しみで終わらせたくはありません。

まだあと一話あります。最後までお付き合い下さい。


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