すまん……
天正18年(1590年)1月。
主君・大道寺 直英様が、京より帰還なされた。
俺たち殿鞍兄弟が津軽に帰ってから、20日後の事であった。
俺たちが京を立った後、殿は秀吉公と折衝を行っていた。そして見事成果を勝ち得られたようだ。
「秀吉公より、津軽三郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)・合浦一円の所領安堵の朱印状を賜ったそうだ」
「先ずはお屋形様・大浦 為信様の許に向かわれ、ご報告なされる」
「明日にはこの城にお帰りあそばれる。やれ、目出たや」
城内は色々な噂が飛び交っていた。
俺はそのような噂を耳にしながら、家路を急いだ。
家では、弟たちが待ち構えていた。
「お帰りなさいませ、兄上。見てください、凄いでしょう!」
晴明が、声を弾ませ出迎えた。食卓には、鯛の尾頭付きが鎮座していた。
「どうしたんだ。随分と豪勢じゃないか」
貧しい我が家では、滅多にない事だった。
「吝嗇な忠継が珍しいな。明日は槍が降るのか?」
俺は笑いながら家計を握る次男を見る。
「失礼な。私は吝嗇とは違います。不必要な出費を許さないだけです。そんな事をしていたら、我が家の財布はあっという間にすっからかんになりますからな」
口を膨らませながらしまり屋の弟は反論する。
「これは、前祝いです。明日降るのは、 “槍“ ではなく “良縁“ ですからな」
満面の笑みで、忠継は言った。
「まだ、……決まった訳ではない」
俺は慎重な姿勢を崩さなかった。
何か、落とし穴があるような気がして。
「今さら何を。明日、殿ご帰還の挨拶の席に呼ばれたのでしょう。これまで我が家が、その様な場に立ち入る事はありませんでした。そんな身分ではありませんでしたから。……ならば、これはそういう事です!」
本当にそうなのだろうか。
俺は夢見心地の気分で、その夜を過ごした。
「殿より皆に、お言葉がある!」
ご家老の言葉に、居並ぶ者すべてが平伏する。
城内の主だった者が揃っている。俺もその末席に居た。
「顔を上げよ。留守中、大儀であった。皆の働きにより、儂は大浦 為信様の名代として秀吉公に拝謁し、この津軽の所領安堵のお許しを得た」
その言葉に、『おおっ』とのどよめきが起きる。
みな噂では聞いていたが、正式に殿の口から聞かされると、改めて嬉しさがこみ上げて来た。
「これも皆のお陰だ。儂に従い上洛した者だけではない。それを支えてくれた、お主たち全ての力あってのものじゃ。改めて礼を申す。大義であった! 少し遅い正月じゃ。振る舞い酒も用意した。飲めぃ――!」
殿のお言葉に、『うおっ――』という歓喜の声が上がる。
皆、嬉しかったのだ。これまでの苦労が報われた事に。自分たちの働きが認められた事に。
「殿鞍 綜馬は付いて参れ。……話がある」
殿はそう言って席を立った。
場は、ざわつき始めた。
これまでこの様な場所に立ち入る事が許されなかった者が、何事だろうと。
俺はそのざわめきの中、殿の後を追った。
殿に付き従うのは重臣の古強者・美作様。そして城内屈指の強力を誇る黒木殿のお二人。そして俺の三人だけであった。三人は城の奥へ奥へと向かう。そして殿の居室まで来た。俺はここに来るのは初めてだった。
先行する美作様が部屋の襖を開ける。
そこに、天女様がおられた。俺の愛しい小夜姫さまだった。
姫は奥の方に座しておられた。
お会いするのは久しぶりだった。
京から帰って来たのが年末で、新年の慌ただしさで中々お会いする機会がなかった。
殿は姫さまの前を通り、一番奥の一段高い上座に座られる。
俺は一番下座の入口付近に坐る。
すると、美作様と黒木殿が俺の左右に坐られた。
このお二人ならば、もっと上座に坐られる筈なのに何故?
俺は不審に思った。
「すでに述べたが、我等は秀吉公から所領安堵のお許しを得た。綜馬、これもお前のお陰じゃ。お前が神馬を得たのが、決め手となった。改めて礼を申す」
殿が深々と頭を下げる。勿体ないお言葉であった。
「だが!」
殿は震える大きな声を上げる。
「儂は、お前に詫びねばならぬ。お前の働きに報いれぬ事に。そしてお前に謝らねばならぬ。お前との約束を破る事に……」
殿の震えの震源は、怒りではなかった。深い哀しみから、起きていた。
「すまん!」
殿は畳に両手を突き、額までも畳に突く程に頭を下げられた。
俺は狼狽した。言葉もそうだが、殿のその態度は決して家臣にしていい物ではなかった。
お止めしなければ。俺は左右の方々を見る。
だが美作様も黒木殿も、一向にお止めする素振りを見せなかった。
「殿、お止め下さい。その様な事は、なされてはなりませぬ!」
俺は必死に呼びかける。
「……足りぬ。こんな物では、お前への侘びには足りぬ!」
殿は血を吐くような声を上げられた。一体、何があったというのだ。
「神馬を獲得すれば、小夜を与えると約束した。それが、叶える事が出来なくなった。……小夜は、秀吉公に嫁ぐ事となった」
「えっ…………?」
意味が、解らなかった。言葉が、素通りした。
「小夜は、秀吉公の側室となる。秀吉公の子を産む。……公が、そう望まれた」
意味は分かった。だが、飲み込めなかった。
「いくつ齢が離れていると思っているんですか。それに身分だって。大道寺家の身分が低いとは申しませんが、それでも豊臣家とは格が違う。つり合いが取れませぬ」
殿はふぅと溜息を吐く。
「小夜は、大浦 為信様の養女となる。大浦家の娘として、豊臣家に嫁ぐ。それで、つり合いは取る」
確かにそれで形式は整う。だが納得がいかない。
「何故、小夜姫さまなのですか? 秀吉公ならば、天下の美女も思うままでしょう。何故、会った事も無い姫さまなのですか?」
そこまで固執する理由が分らなかった。
「……湖月、じゃよ」
ぼそっと殿は呟いた。
「湖月が現れたのは、天正17年(1589年)5月27日、秀吉公の一粒種・鶴松さまがお生まれになった日じゃ。よって秀吉公は、湖月の出現を吉兆、天の祝意として捉えられた。そして公は、再び天の祝意を得、次の御子を得ようとしている。その為にも神馬・湖月と誼を通じている小夜を求められた。小夜となら天意に通じ、御子を授かれるかもしれないと信じておられる」
怒りが込み上げて来た。惚れた腫れたでは無く、姫を子を作る道具として扱うなどと。
「そんな物、何の根拠も無いではありませんか。迷信、験担ぎ、神頼みの域を出ません。天下人ともあろう御方が、そんな愚かしい真似をなされるのですか!」
俺は思いっきり不敬な言葉を吐く。そのくらい俺の心は、昂っていた。
「……秀吉公は、お若い頃から多くの女性と交わってきた。だがその誰とも子をなす事が能わなかった。公もお年だ、焦っておられる。溺れる者は、 “藁“ にでも “神“ にでも縋るものだ」
全てを手にした天下人が、匹夫でも持つものを得られぬとは。
「許せとは言わぬ。だが、受け入れて欲しい。……家禄は十倍にする。家格も引き上げる。それで……我慢してくれ」
そんな物、欲しくはない。そんな物、望んじゃいない。
そんな物の為に命を掛けた訳じゃない。
「殿、某は褒美などは要りませぬ。ですが姫さまの婚儀の件だけは、何卒お考え直し下さい。私は姫さまと添い遂げようと思いませぬ。ただ、幸せな結婚をして頂きたく思います。嫁いだ後、心を通じ合えるような結婚を。この様な子を産む道具として召し抱えられ、魑魅魍魎が跋扈する権力闘争に投げ込まれるのは、あまりにも不憫でございます。某の今回の働きの代償として、何卒お聞き届け下さい!」
俺は心からの叫びを上げる。
俺が欲しいのは、鯛の尾頭付きじゃない。それを祝ってくれる心だ。
それを姫さまと、分かち合いたかった……。
「……それは、出来ぬ。今回の事は、もはや儂の力の及ばぬ事となった。もし秀吉公の勘気を蒙れば、その怒りは津軽全体に及ぶであろう。謀反を起こすよりも許されぬ。お世継ぎ誕生を阻む行いだからだ」
人はどれだけ理不尽に耐えなければならないのだろう。
俺は思わず小夜姫さまを見る。
彼女は、死んだような貌をしていた。
その貌に、見覚えがあった。
3年前に、刺客に襲われた時に見せた貌だった。
すべてを諦め、納得した、死すら受け入れた貌だった。
二度と見たくない貌だった。
「殿、お考え直しを!」
俺は堪えかねたように叫び声を上げる。
「話は、終わりだ。……美作、黒木、連れて行け」
殿の言葉に、俺の横に座っていた両名が立ち上がる。
そして俺の左右の腕を掴み、引きずるように外へ連れ出した。
「殿、お考え直しを――」
俺はなおも叫び続ける。
『すまん……』 そんな声が、部屋から聴こえた気がした。
自分の非力を恨み、護れぬ事への申し訳なさに潰されそうな、そんな声だった。
悪人は滅多にいません。人の哀しい願いが、歪みを作っていきます。
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