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上洛

俺と湖月(こげつ)は向かい合い、睨み合い、火花を散らしていた。


「鬱陶しい! なんでこんな物を付けなばならぬのだ! こんな物、何の役にも立たぬではないか!」


湖月は自分の首をぶんぶんと振る。

ポトッと、地面に落ちる物があった。

(くつわ)であった。馬の口に含ませる馬具である。

これは手綱(たづな)に繋げ、指示を馬の口へと刺激として伝える事が出来る道具だ。


確かに馬の能力向上には役立たない。

だが騎乗する者には必須の道具だ。これ無しでは細かな指示が出せない。手綱を引く事が出来ない。


「口に出して言えばよいではないか。我にも耳はある」


湖月はそう言うが、そんな訳にはいかない。

戦場でいちいち声で指示を出していたら忙しくて敵わんし、敵にこちらの動きが駄々洩れだ。

第一騎馬隊全部が声を出していたら、あちこちから聞こえる違う指示に馬が混乱するし、そんな絵面(えづら)異様(シュール)だ。


盲点であった。

神馬であるが故に、自分の躰をいじられるのを極端に嫌う。

騎乗馴致(きじょうじゅんち)はある程度した事があるが、ここまで抵抗する馬は初めてだ。

時間をかければ出来るのだろうが、上洛が迫っている。残された時間は少ない。


俺と湖月はお互いの主張を譲らず、緊迫した空気が流れていた。




「こんにちは――。来ちゃいました――。てへっ!」


そんな空気を物ともしない、鋼の精神(メンタル)を持つ人物が現れた。


騎乗馴致(きじょうじゅんち)順調(じゅんちょう)にお進みですか――。なんちゃって」


駄洒落もかましてきた。そんなポンコツ具合も、いと可愛い。


「……また来たのか、この姫さまは。 帰れっ! 邪魔だっ!」


湖月がお城の厩舎に来て以来、小夜姫さまは日参している。

最初は脅し透かして追い払おうとしていた湖月も、まったくめげない小夜姫さまに、今では苦手意識を持っている。さすが小夜姫さまだ。


「つれないですね――、湖月さまは。そんな事言ってると、いい物あげませんよ――」


小夜姫さまは不敵な笑みを浮かべる。


「フンッ。貴様の言う、いい物などと…………」


湖月の言葉が途中で止まる。

代わりに、口から(よだれ)がダラダラと垂れてきた。

周りには香ばしい匂いが漂っている。


「おい! なんだ! この美味そうな匂いは!」


湖月の叫びに、小夜姫さまはニヤリと笑う。


「ふっふー。これぞ南蛮渡来の玉蜀黍(なんばんきび)(トウモロコシ)! 茹でてよし、焼いてよし。その甘味は甘露のごとく! さあ汝、これを求めるか――っ」


「くれ、くれ、何でもする! よこせ――」


……騎乗馴致(きじょうじゅんち)順調(じゅんちょう)に進んだ。小夜姫さまの駄洒落どおりに。






秋も深まり、少し肌寒い季節となった。

上洛の日が近づいて来た。

あれだけ拒否反応を示していたくつわも、手綱も、鞍も、なんとか付ける事が出来るようになった。俺以外も、背に人を乗せる事が出来るようになった。


「……頑張ったな」


俺は湖月の背を優しく撫でる。


「フンッ。 我を誰だと思っている。我に出来ぬ事などないわっ」


不遜な口ぶりとは裏腹に、湖月はその身を素直に俺に委ねる。


「……京とは、どのような所なのだ?」


月光の射しこむ厩舎の中、頼りなげな小さい声で、湖月は聞いてきた。


「さあな、俺もよくは知らん。お前の目で、確かめるといい。他の誰でもない、お前の目で。そのためにお前は山を降りたのだろう」


俺の答えに、彼は小さく頷いた。


「……そうだな」


言葉は、それ以上発せられなかった。必要なかった。

目が、息が、鼓動が、お互いの存在が、何かを語っていた。

それを映し出す月光だけが、あればよかった。




秋の透明な朝の中、俺たちは京に向けて出立した。

派手な見送りはない。奥羽の大名に、この動きを知られる訳にはいかないから。

殿に従い上洛するのは、15騎の騎馬武者、30人の足軽、総勢45人の少数だった。

その中には湖月の世話係として、弟の忠継(ただつぐ)晴明(はるあき)の姿があった。


出発の直前、小夜姫さまがこっそりと見送りにやって来た。

茂みの間を縫うように、小走りで、隠れながら進んで来る。

丸見えであった、もろバレであった。しかしみんな、気が付かない振りをする。

みんな全てを心得ていた。

俺はみんなの許を離れ、人目のつかない場所に移動する。



「よかった。お会いできた……」


小夜姫さまが、息を切らし、俺の所へやって来た。

俺は愛おしさに、思わず目を細める。


「御守りを……お渡ししに……参りました……」


冷たい朝の中、小夜姫さまは汗びっしょりになって言った。

どれだけ急いで走られたのだろう。それを思うだけで、俺の心に光が射した。


「ありがたく頂戴いたします」


俺はうやうやしく、右手を伸ばす。

小夜姫さまから頂けるなら、鰯の頭でもありがたく頂く。


小夜姫さまはニコッと笑い、ご自分の右手を差し出された。

彼女の手が、俺の手に段々と近づいて来る。

幸せな、時間だった。彼女と一つになれる気がして。


小夜姫さまの手が、俺の手に触れる。彼女の体温が、俺に伝わって来た。

二人に間に、遮るものは何も無かった。

そう、なにも……。

彼女の手には、何もなかった。


小夜姫さまは俺の手を握り、ぐいっと俺を引き寄せる。

二人はなおも近づく。これまで体験した事のない距離にまで。

彼女はつま先立ちとなる。顔が、触れるまでに伸びて来た。

俺の唇に、温かく湿ったものが触れた。

それは電流を発し、俺の脳天まで貫いた。


俺の目の前に、彼女の瞳があった。あまりにも近く、瞳以外見えなかった。

瞳が、少しずつ遠ざかってゆく。熱い唇にも、風が吹いて来た。


「これが、今の私の精一杯です。貴方にさし上げられる、全てです」


彼女は潤んだ瞳でそう言った。


「残りは、お帰りなられてお受け取りください。躰はここに残りますが、心は貴方と一緒です。それが私が貴方にさし上げられる、最高の “御護り“ です」


最高の笑顔で、彼女は言った。


「頂きました、貴方の想いを。これ以上のものは、ありません!」


二人は涙を流し、抱き合った。

人生最高の瞬間だった。






奥州を抜け、中立勢力の領土に入った。

ここから先は、激しい妨害行為も無いだろう。

俺たちは少し警戒を緩めた。

季節は寒くなっているのに、周りの空気は暖かくなっていった。



「なんだ、この(わら)は! 湿っているではないか。こんなものに我を寝かせようというのか。もっとパリッパリッのものを用意しろ!」


例によって、暴君が我が儘を言っていた。


「うるさい! 長雨でみんな湿気(しけ)っているんだよ。文句があるなら雨を止ませ、お天道様を引っ張ってこい! それが出来んのなら、グチグチぬかすな!」


言われた(うち)の三男坊も負けてはいない。神馬に一歩も引かない。


雨止み(あまやみ)は我の専門外だ。見当違いの部署に請願するな!」


神さまにも部署分けとかあるんだ。

全体会議とか、窓口案内とかあるんだろうか。


「とにかくこんな寝床では休む事もままならん。休めん以上、明日はここから一歩も動かんからな」


まるで店先で座り込む子どものようだった。


「……それならば僕にも考えがある。明日からの食事は――(しな)びた草だ!」


晴明(はるあき)は伝家の宝刀を抜いた。


「なっ! 卑怯な! 食い物を(しち)にとるとは」


自分の痛いところを突かれた湖月は、焦る。


「ふふん。船乗りの間では『料理人だけは怒らすな。あいつ等を怒らしたら、何もない海の上で、不味い飯に耐えねばならぬ』って言われているのを知らねぇのか。相手を見て喧嘩を売りな。喧嘩ってのは、力が全てじゃねぇんだよ」


ぐぬぬぬぬ~と湖月は唸る。


「ははっ。愉快、愉快!」


忠継(ただつぐ)は腹を抱えて笑っている。


「♪岩鬼の~おやまの~神馬さま――。だ~だ~をこーねられ~め~し~を食わず。あ~れも食えん、こ~れも食えん。(わらし)のよう~な駄々っ子で~。こーれがホントの “駄馬さま“ ――――」


自作の唄を、忠継は朗々と唄う。


「……おい、なんだ、その唄は」


湖月の標的が、こっちに変わった。


「いやなに、宿の子どもに『神馬さまって、どんなお方なの?」って訊ねられましてな。どう伝えたものかと思案しておった。折よくいいネタが入りまして、早速子どもらに聴かせてやりましょう」


「……なんで我が “駄馬“ なのじゃ」


「語呂がよかろう。いや、思ったよりよい唄が出来た。京に行くまで、街道中(かいどうじゅう)に広めて参りましょう!」


「やめろ――――」


おい、あんまり湖月で遊ぶな。

京に行くまでに逃げられたら、元も子もないんだからな。



俺の心配をよそに、湖月は忠継と晴明に懐いた。

他の人間は湖月を畏れ敬い、神仏のように扱った。

だが彼はそんな奴らを、『フンッ』と鼻であしらい、歯牙にもかけなかった。

それに対して何かと突っかかる二人には、『ただじゃ済ませんからな――』と捨て台詞を吐きながら、何かと絡んでいった。他の者には近づかせもしなかったのに。


二人に、『お前らの関係って、どうなってるの?』と訊ねた。


すると忠継は笑いながら答えた。


「女性の気を引くのと、一緒ですよ。ただ『美しい、好きだ』では、伝わるのは言われる人の素晴らしさだけ。言う者の魅力は伝わりません。ちょっとぐらい刺激(スパイス)を入れて、こちらに注目をさせなければ。見て貰わなければ、何も始まりませんからね。勿論その後、 “優しさ“ とか “思いの丈“ とかを伝えなければ、単なる嫌がらせで終わりますが」


……そうのたまった。

城下で浮名を流しているだけの事はある。

その道では、こいつはとっくに俺を追い越していた。



「へえ~。忠継兄さまは、そんな事を考えていたんですね。僕はいっつも面倒を見ている、近所の末吉や平蔵と同じつもりで接してました」


こっちは天然だった。何の考えも無かった。

だがそれだけに、湖月との壁は無かったのだろう。



俺たち三人と一頭は、楽しく喧嘩しながら、怒鳴りながら、笑いながら、旅を続けた。






季節は、秋から冬に変わろうとしていた。

冬の京は底冷えすると謂う。陸奥(みちのく)とは違う冬が、ここにあった。

そして俺たちも、違う季節を迎えようとしていた。


「それじゃあこれで、お別れだな。ここの厩舎の人には、お前の事をしっかりと伝えておいた。毛並みの整え方とか、(ひづめ)の裏の汚れの取り方とか、苦手な食べ物とか……。粗略に扱ったら、ただじゃおかんとも脅しておいた」


京に着き、石田(いしだ) 治部少輔(じぶのしょうふ) 三成(みつなり) 殿の屋敷を訪ねた。

彼を頼り、秀吉公に取り次いでもらう為だ。

そして全ての貢ぎ物を彼に預けた。湖月も含めて。


「まだ、ここにおるのだろう。会いに来るのだろう。お主たちはまだ、ここに逗留すると聞いた」


湖月は、縋るような目をしていた。


「殿や重臣の方々は、まだいらっしゃる。だが俺たちは、これで引き揚げだ。もうやる事もないし、津軽の仕事も残っている。無駄飯食わせる余裕は無いと言われた」


本当は、『褒美として京見物をして行け』と言われた。

だがそれだと、未練が残る。お互いに。


「そうか。(しば)しの別れだな、我が帰るまでの」


俺の顔は引き攣る。確かに『帰りたくなったら、帰ってもいい』と言ったような。


「心配するな、三年は居てやる。お主の顔を立ててな。我は “貢ぎ物“ なのだろう、天下人への」


俺は言葉を失う。


「分かっておるよ、それぐらい。お主の考えぐらいはな」


いつになく、優しい口調だった。


「別に、どうでもよかった、形式などは。我が知識を得られれば、下賤のものがどう思おうと、なんら痛痒(つうよう)を感じなかった。人間の頂点と云う者を理解し、対抗手段を見つけれれば、それでよかった」


どうやらこいつは俺の悪だくみを見抜いた上で、その思惑に乗っかかっていたようだ。


「だがな、どうやらお主に毒されたようだ。お主や、忠継や、晴明といる時間が、楽しくなってしまった。そして、お主らが悲しむ顔を見とうないと思ってしまった」


湖月は『困ったもんだ』という顔をする。


「だからな、三年は居てやる。場合によっては、その天下人やらが亡くなるまで。……長くはないのだろう、その男。高齢だと聞いた」


「……いま53歳。せいぜいあと10年かそこらかな」


聞かれたら一族郎党根切りとなる会話を、彼の腹心である石田邸で、俺たちはする。


「その間、一度ぐらいは顔を見せに来い。それぐらいは、よかろう」


『ああ』と俺は答える。この約束は、絶対守るつもりで。


「出来れば、あの姫も連れて来い。あの姫は見ていて飽きん。それと、姫とお主との子も……」


ニカッと湖月は笑う。


「聞いたぞ、晴明から。『神馬獲得の報酬として、姫との結婚を所望した』と」


あのお喋りめ!


「……殿からは『考えておく』と言われただけだ。確約を頂いた訳じゃない」


まだ決まった訳ではない。与えられたお役目は、まだ完遂していない。


「『姫の気持ちに反する事はしない』だったかな。……決まりではないか! あの姫の様子を見るに、お主にベタ惚れではないか。そして我は逃げる気がない。この縁談を阻害する要因が、どこにある?」


そう――なのか。夢が、叶うのか?

考え込む俺を、湖月は優しい顔で微笑んでいた。


「早く子どもを作って、連れて来い。我の背に乗せるのを、楽しみにしている」


冬の寒さを吹き飛ばす、温かい風が吹いていた。

とても幸せだった。

それが俺と湖月の、最後の会話だった。




◇◇◇◇◇




治部(じぶ)殿、今回のお力添え、誠にかたじけのうござった」


大道寺(だいどうじ) 直英(なおひで)は拳を畳に付け、頭を深く下げ、横に座る男に礼を述べる。


「なんのなんの。諸侯の願いを上様にお伝えするのが、(それがし)のお役目。それを果たしただけの事。こちらこそ、あんな立派な津軽鷹を頂戴し、ありがとうございました。今回のお礼は、それで相殺(チャラ)という事で」


そんな訳にはいかない。つり合いが取れぬ。

天下人目前の秀吉と(よしみ)を結びたい武将は、ごまんといる。

直接接触する事は難しく、みんな伝手(つて)を探っている。

この石田 三成という男は、その中でも有力な腹心だ。その価値は、そんなに安くない。


「それでは私奴(わたくしめ)の気が済みませぬ。この恩義には、報いとうございます」


それは、直英の本心であった。

主君・大浦(おおうら) 為信(ためのぶ)の仇敵――南部(なんぶ) 信直(のぶなお)が、前田 利家を通じて大浦 為信を逆徒として認定させ、討伐対象にしようと画策しているとの情報を得ていた。

そうなれば、すべて終わりだ。日の本六十余州を相手に戦える筈がない。一国の命運を鷹数羽では、つり合いが取れぬ。


「ははっ、困りましたな。余りに過分な謝礼を頂くと、『治部は(まいない)を得ている』との(そし)りを受けます。恥ずかしながら、某には人望がございませんでしてな。これ以上の悪評は、御免被りたい所でして」


明るく笑いながら三成は受け流す。

だが直英の瞳に、一歩も引かぬ決意が灯っている事を見逃さなかった。


「ふむ、ではこうしましょう。某に何かあれば、この三成の子の面倒を見てくだされ。側室でも家臣でも、何でも構いません。働きが悪ければ、放逐して頂いて結構!」


三成はパンと手を叩く。

これで手打ちにしよう。将来の手形で、手を打とうと。


「よろしいので? 私どものような、最果ての地で」


自分はあの地を愛している。

だが他所者(よそもの)には、凍てつく最北の地だ。


「かえって好都合でございます。某の身に何かあると云う事は、中央に身の置き所が無くなると云う事。ならば京より遠く離れれば離れるほど、すごし易いかと存じます」


直英は苦笑する。

わが故郷は義経公以来、逃亡の地と認識されているのだな、と。


「かしこまりました。この大道寺 直英、治部殿のお子様方をお受入れする事、お誓い申し上げます!」


直英は心から、そう誓った。


「やれ、嬉しや。これで後顧の憂いなく、好きなだけ皆に嫌われる事が出来まする」


「ほどほどに」


直英と三成は笑い合った。

そんな日が来るとは夢にも思わずに。






廊下が騒がしくなってきた。

大勢の人が近づく気配がする。

二人は頭を下げ、来訪者を待つ。



(ふすま)がお付きの者により、大きく開け放たれる。

小柄な男が入って来た。

身体は小さいが、そこから発せられる威圧感は並々ならぬものがあった。

鷹のように鋭い眼。老齢ながら機敏な身のこなし。

何より衰えぬ筋肉の盛り上がりが、彼が現役の戦士である事を物語っていた。

直英は、その気に呑まれた。



「よう参ったの、直英殿。遠路はるばる大義であった。為信殿は、息災かの」


上座に座した天下人が、人懐っこい笑顔で呼びかけて来た。

まるで親戚の爺さまのように。


先程までの緊張感が、嘘のように消え去った。

吹雪が、小春日和となった。

魂が弛緩するようだった。

それ故に、なお一層恐怖を感じた。

この人の心を操る化物に。


心が粟立った。


「献上の鷹、見事であった。さすが天下に名高き津軽鷹よ!」


秀吉は喜色満面であった。声も弾んでいた。


「だがそれ以上に驚嘆したのは、あの馬よ。……あれは神馬の(たぐい)ではないのか?」


上ずっていた高い声が、低くなった。警戒の色が滲んでいた。


「あのような馬を、まだ他に所持しているのか? それはあれより優れているのか? どの位いるのじゃ?」


それは尋問の様相を呈していた。嘘偽りは、許されなかった。


「恐れながら申し上げます。あの様な馬は、あれ一頭です。後にも先にもございません。これまで数多の強者(つわもの)が、あれを得ようとして命を落としました。今回も、私どもが捕獲した訳ではございません。上様の噂をあの馬が聞きつけ、是非お目通りしたいと申し出て来た次第でございます。言わば上様の御威光に引き寄せられて来ただけ。私どもはその道案内をしただけでございます!」


直英は冷たい汗をかきながら奏上する。

脅威になってはいけない。優秀過ぎる猟犬は、始末される。

『ふむっ』と言いながら、秀吉は閉じた扇で手を叩く。


「その神馬が現れたのは、何時の事じゃ? 何年何月何日の事じゃ?」


何故その様な事を聞くのだろう。戸惑いながら、直英は答える。


「今年、五月、二十七日の事でございます!」


それを聞いた瞬間、秀吉の表情が変わった。


「そうか…………。そうか、そうか、そうか――――!」


秀吉は声を張り上げる。

まるで幼子のように。


「治部よ、これは吉兆ではないのか?」


落ち着いた秀吉は、直英の隣にいる三成に問いかける。

吉兆? 天下統一の瑞相(ずいそう)とでも言うのか。


「はっ! 天も祝意を示しているものかと存じます」


三成は深く頭を下げ、慎重に答えていた。

それは媚びへつらうと謂うより、虎の尾を踏まぬようにする必死さがあった。


三成は、秀吉にも忌憚なく進言すると聞く。

その彼がこんなに怯えている。一体どうして?


「直英よ。そなたの献上した品、見事であった。まさに天下に誇る宝物(ほうもつ)よ」


直英は平伏する。お褒めの言葉だが、心のざわつきは治まらなかった。


「じゃがっ!」


雷鳴のような声が轟く。

人の意思など一顧だにしないような声だった。


「儂は今年、至上の宝物(ほうもつ)を得た」


秀吉はすくっと立ち上がる。


「鶴松じゃ! 儂の跡を継ぎ、次の天下人となる嫡男じゃ!」


ああ、と直英は納得する。

『鶴松さまがお誕生あそばされたのが、五月二十七日なのです』――横で三成がそう呟いていた。


これは、慎重にならざぬを得ない。

一歩間違えれば、奥州自体がぶっ飛ぶ。


「儂も53となった。信長公が亡くなられた齢を、とうに超えた。もう先は、長うない」


遠い目で、天下人は先代の天下人を想う。その胸の内は、窺い知れない。


「じゃが神の恩寵か、この齢になって初めての子を授かった。……子は、可愛いのう」


好々爺の顔となる。慈愛に満ちた菩薩のような眼をする。


「だが一人得ると、更に欲がでる。もっと子が欲しいと……」


秀吉はじっと直英の顔を見る。その目は、猛禽の眼に変わっていた。


「お主にも娘がおったな。噂は都にも届いておる。『大道寺の三の姫は、三国一の美少女で、舞う姿は天女の如く』とな」


狙いを定めたその目は、猛々しかった。


「そして大道寺は、多産の家系と聞く」


常ならば心和む称賛の言葉が、獲物を追い立てる猟犬の叫びに聴こえる。


「羨ましい限りじゃ。成り上がりの儂には、心許せる親族が少ない。一族繁栄には、多くの子が必要じゃからな」


包囲網は狭まる。直英の逃げ場はない。


「お主の娘、三の姫を、上洛させよ!」


銃弾が、放たれた。避けようのない、魔弾の射手の。


「儂の子を、産んでもらう」


見たくもない光景が、頭に浮かぶ。17歳の愛する娘が、53歳の老人に凌辱されるさまを。


直英は隣の男に救いを求める。縋るような目で。


救いを求められた男は、感情を捨てていた。

先程までの人の好い笑顔は消え去り、能面のような貌をしていた。

全ての感情が、死んでいた。

救いの手は、差し伸べられなかった。


ああ、天下の(いただき)に近づくというのは、こういう事かと直英は理解した。


「これは、政治的な話じゃ。儂は近衛(このえ) 前久(さきひさ)様の猶子(ゆうし)となり、 “豊臣“ 姓を賜り、関白となった。お主の主君・大浦(おおうら) 為信(ためのぶ)殿も同じであろう。近衛(このえ) 前久(さきひさ)様の猶子(ゆうし)となって “藤原“ 姓を賜る見込みと聞く。同じ御方を義父(ちち)とする身。謂わば儂と為信(ためのぶ)殿は、義兄弟。(よしみ)を結ぶのに、何の不都合があろうか」


頂から、暴風が吹き荒れる。自分の周りの者全てを吹き飛ばす、暴風が。


「それとも成り上がりの豊臣家とは、縁を結びたくないと申すか。それならば、それでもよい。お主らの考えは、よう分かった」


断るのも自由、受けるのも自由。だがその判断には、責任を負わなければならない。


「滅相も……ございません。……ただ過分な……身に余るお話に……言葉を……失っておりました」


畳に額を押し付け平伏し、途切れ途切れに言葉を発する。

それ以外に、道は無かった。



秀吉は満足そうに、笑顔で近寄って来る。

そして膝を着き、直英の肩を優しくポンと叩く。


「のう直英殿、こう考えられよ。お主の孫は、武家総領の弟となるのじゃ。もし嫡男に何事かあれば、天下人も夢ではない。想像してみよ。お主の子孫が、日の本を治めるさまを」


それは、抗い難い誘惑であった。

武人であれば、必ず夢見る未来であった。

『鞭のあとの飴』――秀吉の “人たらし“ と呼ばれる所以(ゆえん)を、垣間見た。


「謹んで……お受けさせて頂きます」


無意識に、そう答えていた。




許せ、綜馬! お前との約束は守れなんだ。

すまん、小夜! 父は大道寺を守らなければならぬのだ。




「そうか、受けてくれるか。やれ良かった。これで義兄弟喧嘩(きょうだいげんか)をせずに済むわ」


カカッと秀吉は笑い、立ち上がり歩き出す。


「なるべく早く寄こすように。儂には時間も、無駄弾を撃つ余裕も無いのだからな」


秀吉はゆっくりと去って行く。

襖が開けられ秀吉が退室する。三成も付き従う。再び襖が閉じられる。

直英は一人、部屋に取り残された。



直英は拳を握り畳に押し付け、顔を俯け、平伏したままだった。

肩が、小刻みに震えている。

目は、潰れんばかりに固く閉じられてている。

口が、これまでもかと言わんばかりに吊り上がっている。

上下の歯が、下唇をを強く噛みしめる。


(にぶ)い音をあげ、唇が千切れる。

ポタポタっと、液体が滴り落ちる。

畳が、赤く染まってゆく。



「すまん…………」


血と共に、謝りの言葉が落ちて来る。

目からも、ポロポロと涙が零れていた。

外に聴こえぬように、歯を食いしばって泣いていた。



欄間(らんま)から、冬の冷たい光が射して来る。

一人の哀れな男の姿が浮き上がっていた。

家に対する “忠“ と、人に対する “義“ に、引き裂かれる男の姿が、そこにあった。

石田 三成の娘・ “辰姫たつひめ“ は、関ヶ原の戦いの後、大浦(津軽) 為信の息子・津軽 信枚のぶひらに嫁ぎます。二人の間の子は、弘前藩主となります。また三成の次男・石田 重成しげなりは津軽家に仕え、その子孫は代々津軽家家老となったそうです。


ギャグストーリーが、一転してシリアスになりました。

最初からこの内容が用意されていたから、救いとして明るい話を求めていたのかもしれません。


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