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奈落

神の降臨。今その神話が、俺の前で繰り広げられていた。


大空から舞い降りた神は、斑紋(はんもん)一つない、白毛(しろげ)の馬の姿をしていた。

すべてが白で包まれる中、瞳だけが青く輝いていた。


体躯は、そこに居並ぶ神馬たちより少し小さかった。

だが太陽の如く内側から光を放つその姿は、周りの神馬より何倍も(おお)きく見えた。

神馬というより、まさしく神そのものだった。


彼は俺の正面に立つ。

俺は気圧されないようにするのが、精一杯だった。


『人の子よ。お主の言い分は、良く分かった。だが吾はその言葉の是非を断ずるに、 “語られる言葉の正しさ “は勿論、 “語る者の高潔さ“ を重視する。その者の身分や力ではない。その者がどれだけ強く崇高な意思を持っているかだ。吾に言葉を届けたくば、それを示さねばならぬ』


彼の考え方は、清廉であった。従うのに、是非はなかった。


「なにをすれば、よろしいのでしょうか?」


俺は恐る恐る訊ねる。

これまで、数多の強者(つわもの)が命を落としたと聞く。

この試練が、甘い筈がない。


『簡単な事だ。吾らの誰かの背に乗り、最後まで降りなければ、お前の勝ちだ』


「振り落とさなければよい、と云う事ですか」


暴れ馬を乗りこなすのには、自信がある。


『違う! お前が “もう降ろしてくれ、頼む“ と言わなければ、それでよい。振り落とす様な真似はせん』


それだけ? 俺は拍子抜けする。


『誓って、それだけだ。だが、困難だぞ。お前が想像しているより、遥かに』


見くびってはならない。これまで誰も成し遂げた事のない難業なのだから。

だが怖れてはならない。怯えは目を曇らせ、決断を遅らせ、動きを鈍らせる。


『それでは、この者を誰が乗せて走るかだが……』


周囲に緊張感が走る。皆うずうずと、走りたがりそうにしていた。

恐らくこれは、名誉な事なのだろう。戦士としての腕の見せ所みたいなもんだ。


「我に、お任せ頂けないでしょうか」


先頭に立ち、先程まで俺と会話をしていた神馬が名乗り出る。


『ほう。珍しいな、其方(そなた)が名乗り出るなどと。人間が嫌いで、背に乗せるのは真っ平だと申しておったではないか』


面白そうに、シラは話す。


「今でも嫌いです、人間は。しかしそれだけに、こいつの吠え面を間近で見たくなりまして。さぞ痛快な事でしょう。『降ろしてくれ』と、泣き叫ぶさまを眺めるのは」


それを聞いてシラは愉快そうに笑った。


『其方らしい。よかろう、他に名乗り出る者はおらんか」


シラの問い掛けに、誰も名乗り出なかった。

恐らくあの馬は、この群れの中でも実力者なのだろう。だから遠慮して誰も名乗り出なかった。


俺の相手は決まった。

俺は名乗り出た馬の許へ向かう。


「それではよろしく。私は殿鞍(とのくら) 綜馬(そうま)と申します。貴方のお名前は?」


俺は極力友好的に接触した。


「フン! これから消え行く人間の名など、覚える気もせん。我が名を教えるにも値せん」


極めて挑発的に、返してきた。


「そっか。名前を覚える容量が、オツムに無いのか。悪かったな、 “よわよわオツム“ さん」


「おい、ちょっと待て。その “よわよわオツム“ とやらは、誰の事だ。まさかとは思うが、我の事ではなかろうな」


俺の安い挑発に乗って来た。やはりこいつは、堪え性が無い。


「だって名前を教えて貰えないんだから、しょうがないだろう。こっちで勝手に付けさせてもらう。呼びかけるのに必要だからな。『右に何かいるぞ “よわよわオツム“ 』『がけ崩れだ “よわよわオツム“ 』とかな。いい加減な仕事でお茶を濁すつもりなら、それはそれで構わんが」


“よわよわオツム“ は『ぐぬぬぬぬ』と唸り声を上げる。 あー気持ちいい!


湖月(こげつ)…………」


神馬はボソッと呟く。


「え? なんだって?」


俺は聞こえない振りをする。


「 “湖月(こげつ)“ と言ったんだ!  “(みずうみ)“ の “(つき)“ と書いて “湖月(こげつ)“ 。覚えておけ!」


湖月はフゥフゥ言いながら息を切らす。


「いい名じゃないか」


少し、歩み寄る。


「我らにとって、名など意味は無い。我らは皆、シラ様の影。シラ様に創られた命。この草原の土くれ一つ一つに名を付けるなど、意味がなかろう」


今までと違って、感情を殺したような声で湖月は囁いた。


「それでも、さ。名前には意味があると思う。そいつの、この世界での、足跡(あしあと)っていうか、係わりっていうか、生きていた証というか。うまく言えないんだけど、生まれた以上、ちっぽけでも、そいつは世界に影響を及ぼした訳じゃないか。それは歴史に小さな変化を起こした。その変化の指標みたいな物を考えるのに、名前は必要だと思う。例えそれが、たった一人の心の中で起こした変化でも」


俺は乏しい語彙力を総動員し、気持ちを伝えた。

彼が寂しそうだったから。


「なにを訳の分からん事を」


湖月はそう言いながら離れて行った。

彼の後ろ姿から、寂しさが少し消えていた。




『少しは相方と、打ち解けられたか?』


独り取り残された俺に、シラが近づいて来た。


「相方……ですか? 敵じゃないんですか」


『相方じゃよ、長い人生を俯瞰してみれば。どんな敵でも……』


「自分はまだ、そこまでの悟りを開けません」


『開くよ。この戦いを通じて、少しは。そして友も、ぶつからずに得られるものではない』


その言葉に、俺の中に疑問がニョキニョキ芽生えて来た。


「貴方は、未来を見通す事が出来るのですか? 時の支配者なのですか?」


俺は、不躾な質問をする。

シラは『ふむ』と少し考え込む。


『未来のう……。未来とは、時間とは、一体なんであろうな』


質問の、根底を問われた。

シラは遥か地平を見る目で、再び問い掛ける。


『ここに来る前に、川を渡ったろう。大きな川を』


俺は記憶を呼び覚ます。広大な、原風景が浮かんだ。


「弘前川のことですか。白神山より発し、津軽平野を経て、日本海に到る」


『その “弘前川“ とは、どこからどこまでを指すのだ?』


「それは水源の白神山から、河口の十三湖まで」


『随分と大雑把な捉え方じゃな。上流のサラサラと流れる清流も、海近くの凪いだ湖も、同じ “弘前川“ か? それらは同じ貌をしておるのか? そうではあるまい。時間とは、未来とは、その様に流れゆく川のような物じゃ。吾はその川に流れる木の葉に過ぎぬ』


時間の観念が、何となく朧気に見えて来た。


『吾は流れる。滔々(とうとう)と流れる水に乗って。周りの水は、皆等しき速さで流れる。だが吾は時に速く、時に遅く、そして時には風に吹かれて川辺に乗り上げ、その場に留まり、流れゆく同胞(はらから)を見送る。吾は時を操っている訳ではない。ただの傍観者じゃよ』


神は森羅万象の支配者ではない。ただその身を天地万物から距離を置き、冷厳な観察者で在るのだ。

それは少し、淋しい存在に思えた。


『お主の健闘を祈る』


そう言ってシラは去って行った。

彼の背中には、冷たい風が吹いていた。






直径1町(110メートル)の漏斗状(ろうとじょう)の穴が開いていた。底は暗くて見通せない。

その外縁を、神馬たちが囲み、眺めていた。ここが、舞台だった。



『それでは開始する。これから綜馬は湖月の背に乗り、穴の最下層まで降りる。最後まで乗り続ければ、綜馬の勝ち。途中で綜馬が飛び降りたり、 “降ろしてくれ“ と言ったら、湖月の勝ち。振り落とすような真似は禁止――――』


シラから勝負の説明がなされる。

ルールは単純明快、俺が最後まで乗る事が出来るか否か、それだけだ。

手綱や鞍がない裸馬(はだかうま)とはいえ、圧倒的に俺が有利だ。


なのに神馬たちは、余裕の笑みを浮かべる。まるで無謀な挑戦をする者を眺めるように、俺を見ていた。



『では、騎乗!』


シラの声に従い、俺はひょいと湖月に飛び乗る。

両脚で彼の胴を締め、(たてがみ)をしっかりと掴む。


「少しは持ち堪えろよ。あっという間に終わったら、貴様の悲鳴を反芻(はんすう)する時間もない」


湖月は敵意を剥き出しにしていた。

俺は何も反応しなかった。

こいつは、敵ではない。真の敵は、これから現れる、恐怖を具現化した何かだ。

俺は、そう理解した。


「チッ」 反応を示さぬ俺に、湖月は舌打ちをする。


『進め!』


シラの号令に、湖月は穴に向かって駆け出した。

速度はどんどん上昇する。

これから穴に飛び込むというのに、減速する気配がまったく無い。


湖月は、跳んだ。穴に向かって、躊躇(ためら)いもせずに。

股間が、ひゅっと冷える。馬に不慣れな者ならば、これだけで降参だろう。


「微動だにせずか……」


湖月は忌々しそうに呟く。馬の専門家の俺にとって、この位は問題ではない。

だが俺は、勝ち誇る余裕などなかった。

それどころでは無かった。


穴は果てしなく深く、地平線を縦に傾けたように、その底が見えなかった。

馬鹿な! 直径1町(110メートル)の穴が、こんなに深い訳がない!


俺は上を見上げる。

穴の直径は、3里(12キロメートル)にまで広がっていた。


どうやらここは、物理法則が通じない世界らしい。


「驚いたようだな。だが本当に驚くのは、これからだ!」


湖月は急斜面を、落ちるように駆け降りて行く。

走っているのか落ちているのか分からない。

ぞわっとした感覚に襲われ、軽い眩暈がする。

だがすぐ平衡感覚を取り戻し、バランスをしっかりと取る。


「勘違いするなよ。さっき我が言ったのは、これではない。貴様を打ち据えるのは、これだっ!」


斜面が、終わった。

穴の外周が大きな平地となり、その幅は1里(4キロメートル)にも及んでいた。

俺たちはその広い場所に降り立つ。


「さあ、ゆっくりと見て行け」


湖月は、嗤う。

俺は周囲を見渡す。

そこには、大勢の人間がいた。

何千という数だった。

そして彼らは何かに追い立てられ、逃げ惑っていた。

追跡者たちが姿を現す。


仔牛ほどの大きさの、三つの頭を持つ犬たちであった。

猟犬たちは獲物を捕らえ、その三つの(あぎと)で食い千切っていた。

腕が、足が、はらわたが、血煙の中で乱れ飛ぶ。

大地は、引き千切られた肉片の泥沼となっていた。


「どうだ、絶景であろう。第一の環――欲に駆られ、貪るように奪い合った者たちの処刑場だ。こいつ等は永劫に、ここで肉体を切り刻まれる」


助けを求める絶叫の中、湖月は愉快そうに言う。

亡者の悲鳴と、血の芳香が漂っていた。

彼はその地獄を、ゆっくりと回る。

俺は、何も言わなかった。



「さて、次に行くぞ」


しばらく見物して、飽きたかのようになった湖月は再び崖を降る。

また、平地が見えた。

そこにも大勢の人間がいた。


「第二の環――裏切りを行ない、信を蔑ろにした者たちの処刑場。追尾する火焔に追い立てられ、地には劫火と化す毒を持つ蛇が(うごめ)き、煮え立つ血の川が流れている。いずれもその身を焼き焦がすが、すぐ再生させ、その苦しみは終る事はない」


焼き焦げる肉の臭いが、悲鳴に塗れ、流れて来た。


「言っておくが、これは虐殺ではない。ここの亡者たちは、それ相応の罪を犯し、ここに送られて来た。因果応報だ。獄卒たちも、自分の愉悦のために亡者たちを甚振っているのではない。正義の代行だ」


湖月は、何ら恥じることなく、胸を張って言う。


「だが、怖ろしかろう。己が罪を犯してないと、誰が言えようか」


静かに毒を、垂らしてゆく。


「人は知らぬ内に、罪を犯す。自覚はない。何故なら人の罪も正義も、定まっていないのだから。時と場所で、簡単に裏返る。今日の正義の使者が、明日の悪魔の化身だ。我らのように、 “シラ様“ という絶対の正義を(いただ)くものと違う。これまでこの儀に挑戦した者も、皆泣き叫び許しを請うた。『ここから出してくれ』と。貴様は、どんな声で鳴くのかな」


勝ち誇った声で、嵩にかかかって来た。

俺は俯き、黙り込む。

それを横目で見て、湖月は溜飲が下がる思いだった。




「これが……地獄?」


俺は小さな声を溢す。

湖月は満足そうな顔をする。


「こんなものが、地獄だと言うのか!」


俺の声は怒りに震えている。

それを聞いた湖月は当惑の表情を浮べる。


「こんな上っ面をなぞっただけの、底の浅い、肉の痛みを喚き散らすだけの、心の叫びを一切感じさせない、縁日のお化け屋敷みたいなのが、地獄だと!」


俺の声に、怯えや怖れはない。ただ憤りだけがあった。


「本当の悲鳴は、声など出ない!」


俺の全否定に、湖月は戸惑う。


「救いを求めて泣き叫ぶような余裕がある内は、本当の地獄じゃねぇ! 希望を打ち砕かれ、絶望に支配され、心を殺されるのが、本当の地獄だ! こんな生ぬるい地獄、俺にはちっとも響かねえ!」


湖月は確信した。こいつは折れてない。これっぽっちも(ひる)んでない。なぜだ――?


湖月は綜馬を観察する。

すると綜馬は、自分の胸を、神仏を撫でるように、厳かに擦っていた。

そこに在ったのは、御守り。そして縦一文字に刻まれた、深い斬り傷であった。


「その傷は?」


湖月は聞かずにいられなかった。そこに自分の求める答えが有るような気がして。


(いまし)めさ。昔の、愚かだった俺の。そしてその報いとして受けた物だ」


それは苦い、後悔の匂いがする声だった。


「何があった……」


湖月の興味は、最早それだけに注がれていた。

他の事など、もうどうでもよかった。






「三年前の事だ。俺は父を亡くし、家督を継ぎ、お馬番としてお勤めを始めた。当時の俺は十七歳。厩舎で一番の若造で、一番の下っ端だった」


嘆くでなく、気負うでもなく、綜馬は淡々と説明を続ける。まだここは、彼の闇ではない。


「厩舎の掃除、餌の準備、……来る日も来る日もこき使われた」


声が、段々と震え始めた。核心に近付きつつある。


「そしてそんな俺に、一つの仕事が追加された。……小夜姫さまの、乗馬の教練だ」


綜馬の説明に、腑に落ちない点があった。湖月はそれを質す。


「身分の高い者に教えを施すのは、上位者の仕事なのでないのか?」


「普通ならばな……」


どうやら事情がありそうだ。


「小夜姫さまの母君は側室で、身分も低かった。……そして姉君であられる “二の姫さま“ の母君、 “お牧の方様“ に疎まれていた」


よくある話だ。感心出来る話ではないが。


「お牧の方様は、側室でありながら大変身分の高い方で、日頃から小夜姫さまの母君に対して『あの様な下賤な者と同じ側室であるのは我慢ならん』と公言して(はばか)らなかった」


自分の人間の質ではなく、身分によって上位に立とうとする。人間の最も愚かしい性質の一つだ。


「みんな、お牧の方様の不興を怖れ、小夜姫さまに関わろうとせず、一番の下っ端の俺に押し付けたという訳さ」


「……気分のいい話ではないな」


「胸糞悪くなるのは、これからだ。……俺はな、適当にするつもりだったんだ。そんな厄介な事に関わりたくなかった。平穏無事に過ごしたかった。最低な奴だろう」


それは生き物が持つ、自己防衛の一つだ。美徳とは言えないが、否定されるものでもない。


「大過なく、平穏無事に勤め上げればいい、そう思っていた。だが、そうも行かなくなった」


感情の起伏が激しくなった。本題に近づいて来た。


「『お手間を取らせて、申し訳ありません。貴方のお仕事のお邪魔にならない様に致します』ってのが姫さまの第一声だった。それから馬場の片隅で、まるで居候が縮こまるみたいに、ひっそりと、目に留まらぬように、肩をすくめて鍛錬した」


綜馬の声は、湿り気を帯びる。


「笑うんだよ、小夜姫さまは。折檻を受けて蚯蚓腫れ(みみずばれ)した体で、爪を剝がされた指で、死んだような顔で、笑うんだよ。『こんな事、大したことありません』って、痛みを隠しながら。――見ていられなかった」


悲しみの嵐が、吹き荒れた。たぶん天が見ても、同じ様に嘆き悲しんだだろう。

それは神馬である湖月も一緒だった。


「その娘の父親は、主君なんだろう。何をしておったのだ! 実の娘がそんな目に遭っていたというのに!」


湖月の声も、怒りに染まっていた。

綜馬にあてられたのか、会った事もないのに憤りを覚えていた。


「殿は、新たな城を築くようにお屋形様から命を受けていた。敵対する大名に対抗する為に、早急に築かなければならなかった。殿はそっちに掛かり切りで、ほとんど城を留守にしていた。留守を任された城代家老が、お牧の方様の父親だ」


本当に救いようのない話だ。


「みんなが、悪かったんだ。……最初は、ちょっとした鞭打ちだったらしい。罰として、教育の一環としてな。だからみんな容認した。虐待する方は、『これで大丈夫なら、もう少し酷くしてもいいだろう』と、より強い虐待を加える。赤く腫れるぐらいの鞭打ちから、肉の裂ける鞭打ちに、そして爪はぎに。悪意はどんどんと膨らんでいった」


人の、最も醜い面である。自分の安全圏なら、どこまでも残酷になれる。


「そして遂に、その日が訪れた。小夜姫さまに、刺客が差し向けられた」


増長する悪意は、とどまる事を知らない。


「城内で、馬の稽古をしている時だった。信じられるか、城内だぞ、それも真っ昼間。……小夜姫さまには、守ってくれる者はいなかった」


絶望の空気が、周りを覆う。


「刺客が迫る中、小夜姫さまは周囲に助けを求めた。縋るような声で。……みんな聞こえない振りをした」


それで、何を守るというのだろう。誇りを捨て、拾った命で。


「するとな、小夜姫さまの顔が、すっと変わったんだよ。諦めたような、納得したような、――死を覚悟した貌だった。…………決して14の女の子がしていい貌じゃない」


言葉だけだが、その様子が見て取れた。

それは全てを、希望まで失った者の貌だ。


「そして小夜姫さまは、何も言わなくなった。逃げる事を止めた。すべてを、受け入れた」


もしこの地獄で、亡者たちが何も言わずにただ嬲られる事になれば、どうなるのだろう。

それは今以上に、鳥肌の立つ光景だろう。


「それを見た瞬間、俺の中の何かが、壊れたんだ。忠義とか、正義とか、そんな綺麗なお題目とかで飾られたものが。それが、醜く見えた。こんな小さな女の子を犠牲にして、偉そうな顔をすんなと思った」


湖月はもう何も綜馬に言わなかった。語るべき言葉が無かった。


「そして気が付いたら、小夜姫さまの前に出て、刺客に正面から立ちはだかっていた。……丸腰で」


ははっと、綜馬は力なく笑う。

無謀な事をした。重々承知している。だが、後悔はしていない。そういう貌だった。


「俺に使える武器は、この躰しか無かった。城内での帯刀は、禁じられていたから」


俺は、自分の出来る限りの事をした。

そう言う彼の顔は、誇りに輝いていた。


「刃が、胸に食い込むのを感じた。肉が、熱く焼けるようだった。だが俺の胸を一番刺したのは、感情を取り戻し、驚きに目を見開き、信じられないといった面持ちで俺を見る姫さまの眼と、『ごめんなさい!』と濁流のように押し寄せる姫さまの声だった。……あれは、堪えた。彼女には傷付いて欲しくなかった」


綜馬は彼女の命だけでなく、心も救いたかったのだ。


「そして流石にもう見て見ぬ振りが出来なくなった同僚が、刺客を取り押さえ始めた。それを見て、『ああ、俺の生きていた意味はあったんだな』と思った。同時に、後悔した。『なんであんな見て見ぬ振りをしたんだろう。誇りを捨てて。愚かだった。もう二度としない』――そう思いながら、意識が遠のいた。これは、その時の傷だ。 “愚かな殿鞍 綜馬“ の墓標でもある」






沈黙が降りた。

彼は、確かに地獄を味わった。


「俺は三日三晩、死の縁にいた。そして目覚めて聞いた、今回の顛末を。俺が目覚めた時、全ては終わり、解決していた」


それを聞き、湖月はフンと鼻を鳴らす。


「その娘の父親、 “殿“ とやらが出張って来て、一件落着か?」


湖月はつまらなそうに言う。

それが一番有り得る話だ。

そしてそれで解決したからといって、決して褒められる話ではない。

そこまで放置していた(とが)が、問われる事案だ。


「いや。カタをつけたのは、小夜姫さまだ。彼女が、一人でやった」


『…………は?』 湖月は間の抜けた声を上げる。

『何を言っているのか分からない』、そんな顔をしていた。


「小夜姫さまが、刺客を遣わした者の所に、殴り込み(カチコミ)をかけた。薙刀(なぎなた)持って、腰紐(こしひも)襷掛(たすきが)けして、目を吊り上げて、『わりゃ、なに仕出かしやがった! 自分のやった事の意味が、分かっとんのか!』と叫びながら、主謀者であるお牧の方様の側近を、お牧の方様の眼前で、何度も何度も打ち据えて、半殺しにした。お牧の方様をはじめ周囲に居た者は、みな呆気にとられ、夢か(うつつ)かといった面持ちで、何もする事が出来なかった」


「ちょっと待て!」


湖月は頭を抱え、うんうん唸っている。情報の整理が追いついていない。


絶対歯向かわないと思っていた者から逆襲を受けると、人は脆い。動けなくなる。今の湖月のように。

そして冷静に考えてみると、生母の身分が低いといえども、相手は城主の娘。

裏でコソコソ嫌がらせをする位ならともかく、大っぴらに喧嘩を売るなど、論外だ。父親である主君を蔑ろにする行為に等しい。今更ながら、彼らは自分たちが危険な火遊びをしていた事を知った。


「そして、それ以来、小夜姫さまはこう呼ばれている。―― “夜叉姫さま“ と」


とんでもないオチだ。


「それは――さっきまで話していた姫と、同一人物なのか? 同名の別人とかではなく?」


(なお)も納得いかないようだ。先程までの健気に耐え忍んでおられた小夜姫さまと、殴り込み(カチコミ)をかけた小夜姫さまが、どうしても結び付かないのだろう。無理もない。俺も、初めて聞いた時はそうだった。


「小夜姫さまは、激しく、お優しいお方だ。多分斬られたのがご自分だったら、この様な真似はされなかっただろう。俺だったから、した。その激しさと優しさが、己の内に向かって責め立てるか、外に向かって責め立てるか、それによって在り方が変わる」


『う~む』と湖月は唸る。『やはり理解出来ない』といった顔をしている。


「まあ、こればっかりは実際に会ってみないと分からないだろうな。一つの方向から見ているだけでは、その実体は掴みづらい」


湖月はなおも納得いかない顔をしている。


「まあ、そんな姫さまを見てきた俺にとって、この地獄は絶望を味あわすには役者不足なんだよ」


「本物の地獄を味わってきた。だから、この地獄にも耐えられると言いたいのか」


「そんなんじゃない。人間は、そんな単純な生き物ではない」


「?」


どう言ったものかな。説明が難しい。俺は適切な言葉を探る。



「お前、惚れた女はいるか?」


俺が探し当てた言葉は、脈絡のないものだった。案の定、湖月は怪訝な表情を浮べる。


(つがい)となり、子を設けようとする(めす)か? ……いるぞ、それがどうかしたのか」


彼は(いぶか)しそうに答える。


「そいつの為なら、命を投げ出してもいい。そいつが美味しい物を食べるのを見るのは、自分がそれを食べるより美味しく感じる。そいつが寒さに震えているのなら、自分の服を掛けてあげて温まってもらう方が、よっぽどポカポカする。……そんな相手なのか、それは?」


「お前は何を言っているのだ? 他者の感覚を共有出来る訳がないだろう。己は己だ。別個の存在だ。確かに群れ全体で見れば、幼き者に分け与える事はある。だがそれは、種の保存だ。種を未来に残そうとする本能だ。決して個別の存在に向けられる感情ではない。我が番に向けるのは、我の命をより良きものにし、未来に繋げて欲しいと云う気持ち。それだけだ」


湖月は、心底『解らない』といった顔をする。


「つまんねー奴だな、お前!」


「なにっ!」


別に煽った訳ではない。ただ、心からそう思った。


「あーもったいねぇ。生きる醍醐味、捨ててやがる。人生の素晴らしさを味わっていない。死ぬとき後悔するぞ、お前!」


湖月は目を丸くする。


「そんな惚れた相手がいるとな、生きるのが、一人でいるより何倍も輝いて、鮮やかで、美味しくて、感動して、愛おしくて、……世界のすべてに感謝したくなるんだ。それがあるとな、堪えられるんだ、どんな辛い事も、地獄も。この苦しみの後には、あの幸せが待っていると思うとな」


苦しみを堪えるのには、限界がある。だが幸せを待ち望む気持ちは、どんな苦しみよりも大きい。


「そんな気持ちに、なった事があるか。……ねぇんだろうな、可哀想に」


湖月はピタリと歩みを止める。


「どうした、怒ったのか。悔しかったら、何か言い返してみろ」


俺は子どものような煽りを入れる。



彼は何も言わなかった。ただじっと、佇んでいた。




「これ迄です、シラ様――」


湖月は空に向かい、呼び掛ける。


「この馬鹿に理屈は通用しません。これ以上やっても、――無駄です!」


天から光が射して来た。湖月の訴えに応えるように。


『そのようだな。こ奴には、 “すぷらったー“ よりも “すりらー“ で攻めるべきであった』


シラの声が聞こえた。言ってる意味が、さっぱり分からなかった。



周りの風景が、段々と霞み始める。

周りに神馬の群れが現れた。

風景が、最初の草原に戻った。あの地獄は、幻だったのか。


『幻ではないぞ。確かに存在する空間であった。精神世界の小宇宙とでも云うべきかな」


シラは説明する。よく分らんが、幻影ではなかったようだ。



「お前の理屈は、丸っきり解らん。実に非合理的だ。だが、お前がその様な道理で動いている事は理解した」


敵意を持っているのか、好意的なのか、判別に苦しむ言い方だ。


「シラ様、我はこの男に付いて行ってみたいと思います。そして、この馬鹿馬鹿しい道理を解析したく存じます」


『好きにしろ』


シラは笑いながら返答する。姿は見えないが、声で笑っているのが分かった。



それは、この試練の終わりを告げる言葉だった。

俺は、彼らに認められたのだ。

お役目を果たせたという達成感よりも、その嬉しさが、じわじわとこみ上げて来た。



「まったく。これまで四年間生きて来て、こんな考え方に出会ったのは初めてだ」


「うん? 四年? お前、何歳だ?」


「満で四歳、数えで五歳だが」


幼児かよ! いや馬の年齢でいうならば、俺と同い年くらいか。

でもその理屈でいうなら、来年にはこいつの方がお兄さん、再来年ぐらいには小父さんになるのか。

神馬って、普通の馬の年齢換算が適用出来るのかな。 う~ん。






「ではシラ様、みんな、見聞を見聞を広げる旅に、行って参ります」


湖月は皆に別れを告げる。


『其方は吾の、愛すべき息子だ。忘れるな、吾らはいつも繋がっておる』


シラは湖月に手向けの言葉を掛ける。

湖月はくるっと振り向き、シラに背を向ける。涙を我慢しているように見えた。

彼はそれ以上何も言わず、急ぎ足で前に進む。

俺は必死に走り、湖月に追いつく。


「神山を出るのは、初めてか?」


俺は彼に問い掛ける。


「ああ、最初で最後の旅だ。この旅が終わったら、もう二度と神山を降りん」


「そうか……」


俺は何も聞かなかった。

二つの影は、無言で山を降りる。

そして半刻(1時間)過ぎた頃、俺は湖月に呼び掛けた。


「今晩は、一緒に寝てやろう……」


はぁ? と湖月は、信じられないものを見る顔をする。


「いや、人間の世界ではな、五歳までは親と一緒に寝るもんなんだ。だから今晩は俺が親代わりになって一緒に寝てやるから、元気をだせ」


湖月の顔は、みるみる赤く染まる。


「ふざけるな! 我は立派な大人ぞ! 子ども扱いするでない!」


声を張り上げ、怒りを巻き散らす。

プンプンしながら、それでも足取りは少し軽やかになった。




なるべくいい旅にしてやろう。

俺は彼の背をぽんと叩き、心にそう誓った。

小夜姫の前日譚でした。そりゃヤンデレにもなりますわ。


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