割れ鍋に綴じ蓋
殿鞍 綜馬は疲れた身体を引きずり、夕日を浴びる我が家へと帰って来た。
自宅は、いつも通りだ。
粗末な板の塀、雨漏りのする茅葺きの屋根、ひび割れた門扉。
いつも通りの貧しく、温かい家だ。
先程まで殿と話していた事は、夢ではなかったのか。
こんな家に住む自分が、天下人・秀吉に関わる事案に携わるなどと。
姫さまと添い遂げられるかもしれないなどと。
現実感が麻痺した心で、門の戸を開ける。
「兄上、お帰りなさいませ! 殿のお召し、何でございましたか?」
二人の弟が、庭先で待ち構えていた。
ああ、あれは幻ではなかったのだ。
俺は殿の命を受けたのだ。
綜馬は平穏な日常が終わりを告げた事を知った。
弟たちは動揺していた。
無理もない。下級武士である殿鞍家では、主君にお目通り出来る機会などそうそう無いのだから。
「奥で話そう。ここで話す事ではない。他言……無用だぞ」
温厚な綜馬には珍しく、脅すような口調だった。
弟たちは悟った。兄は、途轍もなく重い物を背負わされたと。
三人の兄弟は無言のまま、家へと入って行った。
「殿――大道寺 直英様は、お屋形様――大浦 為信様の御下命を受けた。お屋形様の名代として上洛し、秀吉公に拝謁せよと!」
弟たちは当惑した。
なぜ兄がそのような事を知っているのか。
それが自分たちのような下級武士に、何の関わりがあるのか。
繋がりが、一切見えなかった。
「殿は、お屋形様より秀吉様への献上品の調達を仰せつかった。史上最高の名馬を! 源 義経の “太夫黒“ 、曹操 孟徳の “絶影“ に匹敵する名馬を!」
弟たちは驚愕した。その余りに無茶な要求に。
そして納得した。家中でこの難題を達成出来るとしたら、兄以外には考えられないだろうと。
最期に、絶望した。弟たちも兄を手伝い、軍馬の育成にも携わっている。だからこそ解る。これは、実現不可能だと。
兄は、受けたのだろう、この命令を。断るという事は出来ない。
成功すれば、出世は間違いない。
だが失敗すれば、殿鞍家は取り潰しとなるだろう。
自分たちが腹を切るのは構わない。
だが身分が低いとはいえ、歴史が浅いとはいえ、父祖が守ってきた家を潰すのは、忍びなかった。
部屋に、沈黙が降りた。
「お前ら、なにを沈んでおるのじゃ。そんな暇があったら、お役目を果たす知恵を出せ!」
兄の叱責が飛ぶ。
それを聞き、次男の忠継が反論する。
「ですが兄上。兄上が育てた馬は、確かに “名馬“ といって差し支えございません。けれどそれは、 “一級品の名馬“ です。“伝説に謳われる神馬“ ではありません。今からどんなに鍛えようと、その領域には到りません」
『無理です』――その言葉だけは、言い留まった。それを言うと、全てが終わる気がして。
「俺の育てた馬は、神馬に到らん。それは百も承知だ」
弟と兄は、同じ言葉を語る。だがその意味する所は、まるで違っていた。
「ならば、神馬を捕まえるまでよ。神山に行ってな!」
弟たちは、今度こそ本当に絶望した。
おとぎ話を語っているのなら、まだマシだ。
だが兄が語っているのは、架空の山ではない。あの山だ。幾人もの強者の命を奪った、あの山だ。
「岩鬼山に行くと、言われるのですか……」
三男の晴明が、悲鳴のような声を上げる。
兄が言ったのは『富士の樹海に行く』のと同じ、自死の同義語だったから。
弟たちの泣きそうな目を眺めながら、綜馬は無言で近づき、にっこりと笑い、そして二人を抱き寄せた。そして囁く。
「俺は、馬の専門家だ。別に喧嘩しに行く訳じゃない。ちょっとお願いに行くだけだ。『人間の世界で、全ての頂上に立った奴がいます。何百年か振りの事です。ちょっと見物に行きませんか。いや、ほんのちょっとだけ。飽きたらお帰りになられて結構ですから』ってな。……献上した後で逃げられても、それはこっちの知った事ではない」
あまりの言い様に、弟たちは目を丸くする。
「……それは、詐欺ではないのですか」
綜馬の耳元で、忠継は思わず溢す。余りのあこぎさに、不遜さに。
天下人を、あまりにぞんざいに扱いすぎる。まるで見世物小屋の猿だ。
「どこに詐欺の要素がある? 俺は殿を通じて、秀吉公に神馬を引き渡すだけ。秀吉公はそれを受け取り、責任を持って育て、乗るだけ。神馬はお気に召せばそこに留まり、気に入らなければ去るだけ。契約は、そこまでだ」
武士というより、商人の言い分だ。
「動物も、人間も、神さまも、それぞれの自由意思をもって動いている。力があるからといって、思い通りに動かせる訳ではない。言う事を聞かせたいなら、その条件を整えなければならない。『話が違う』と言って文句をつけるのは、怠慢だ」
兄はあっけらかんとのたまう。
だがその内容は手厳しい。身分による優劣を以て、道理を曲げる事を許さない。
「……兄上は、相変わらず兄上ですね。天下人も、神馬も、へったくれもない」
そんな兄が、弟たちは大好きだった。
「それで、いつ出立されるのです?」
忠継は訊ねる。通常ならば、準備に10日はかかる。だがこの兄ならば、もしかして……。
「明日、明け方。握り飯を用意しておいてくれ」
やっぱりか。身一つで行くつもりだ。呆れて物も言えない。
「ところで兄上、成功報酬は何なのですか?」
晴明が無邪気に問う。
これ程の大仕事だ。振る舞う人参も、豪勢だろう。
兄はそんな物には興味ないかもしれないが。
「それは……、その……、つまり…………」
珍しく兄が口ごもる。
あれ? これはもしかして。
「三の姫さまとの……結婚…………」
両手の人差し指をモジモジと擦りあわせ、顔を赤らめ、恥かしそうに呟く。
六尺(182㎝)の大男が身を縮めて。
気持ち悪い! こんな兄上、初めて見た!
でも、当然といえば当然かもしれない。
三の姫さまは、時折厩舎を訪れる。
忙しい中、兄は時間を作り、一生懸命姫さまにご説明した。
姫さまは、それを嬉しそうに聞いていた。
なんか、いいなと思った。
そんな日の兄の晩酌は、何時もより多く、長く、嬉しそうで、切なさそうだった。
まるで、覚める夢を惜しむかのように。
何事にも執着しない兄が、滅多に見せない貌だった。
◇◇◇◇◇
「殿鞍 綜馬という男を知っているか?」
大道寺 直英は、三の姫――大道寺 小夜に訊ねる。この答えの如何によって、大道寺の行末は決まるかもしれないのだ。
「お馬番の、殿鞍殿の事でしょうか? もちろん存じ上げています。我が家の騎馬が勇名を轟かせたのも、あの方のお力による物と聞き及んでおります」
顔をほころばせ、小夜は答える。
頬にうっすら紅がさしている。
「そうか……」
直英は全てを察した。
「奴の事を、どう思う……」
それでも聞かずにいられなかった。父として……。
「とても可愛らしい方かと――」
うん? 聞き違いか? ……ああ、そうか、そういう事か。
「どうやら勘違いしているようだな。儂が言っているのは、長男の綜馬の方だ。お前が言っているのは、三男の晴明であろう。15歳で、五尺四寸(163㎝)程の背丈の」
まだ15歳の晴明の背は低く、 “紅顔の美少年“ として名を馳せている。多分そちらと間違えたのだろう。
「いえ。六尺(182㎝)の背丈で、年は20歳です。間違いございません」
間違えてなかった! あれが……可愛い?
「お疑いのようですね、確認します。……その方は、右の眉が左より少し上にあって、つむじが左巻きで、奥二重で、薬指が中指ぐらい長くて、笑うとエクボがあって、猫舌で熱い物を飲む時はフーフー冷まして、頷く時はいつも力いっぱい頭を振って、怒る時は頬を膨らませて、私を見つけるとチョコチョコお辞儀をして、私と目が合うとすぐ視線を逸らして、私が『また、お会いしましょう』と言って帰ろうとすると捨てられた子犬みたいな顔をして、去って行く私に『お待ちしています』と縋るような声をかけて、歩き出す時はいつも右足からで、考える時はいつも口に指を添えて、…………とても可愛らしい方。どうです? 合ってますか?」
そこまで知らんわ。なに、この子。――怖い!
「お前、家臣すべてをそこまで詳しく見ているのか!」
「そんな訳ないでしょう! 綜馬殿だけです! 人を尻軽みたいに言わないでください!」
いや、それは尻軽というより、偏執狂だ。
「それじゃあ、お前が厩に通っていたのは……」
「もちろん綜馬殿に会うためです! でなければ、あんな所に通いません。綜馬殿がいれば、臭いなぞ気になりません。私にとって、あそこは聖地です!」
えらい安い聖地があったもんだ。
「そういえば父上、今日綜馬殿とお会いになられたんですよね。何をお話になられたんです? 綜馬殿の様子はどうでした? どんなお着物をお召しになされてました? どんな匂いがしてました? 私の事、何か言ってました?」
矢継ぎ早に質問をかぶせて来る。
もう、いやだ。
どうやらこいつは、綜馬に押し付けるのが一番のような気がして来た。
綜馬! 絶対に任務を果たして帰って来てくれ!
直英は当初と違う意味で、彼の成功を祈った。
すいません。書いている内に、小夜姫暴走してしまいました。筆者にも止められませんでした。この言動が頭にこびり付いて、剥がす事が出来ませんでした。こんな子にするつもりは無かったのですが……。