名馬
昏い部屋の中に、二人の侍がいた。
一人は杯で酒をあおり、気だるそうに、遠くを見つめていた。
酒を、水みたいに流し込んでいる。
まるで喉に張り付いた不安を拭い去るように。
かたわらの男は、それを物言わず眺めていた。
じっと静かに、観察していた。
「秋田 実季との話はついた。今回の上洛は、邪魔せんそうだ。……土産を持って天下人・秀吉に謁見し、所領安堵を確約させよ!」
「はっ!」
主君・大浦 為信(のちの津軽 為信)は杯を置き、家臣に下命する。それを家臣は、厳かに拝命する。
「道が開けたのも、お主の働きがあってこそじゃ。昨年あれほど “秋田口“ で我らを阻んだあやつが、まさか和睦に応じるとはの」
これまで主君は中央に何度も使者を送ろうとした。
だがその度に近隣大名の妨害に遭い、頓挫した。
それが遂に今回、達成されようとしている。
「秋田殿も、従姉妹の安東 通季殿の反乱には手を焼いていたようでして。その敵の背後にいるのは、殿の仇敵・南部 信直。中央で秀吉公の支配が固まる中、隣同士で争っている場合ではない。仇は仇として、全方位に喧嘩を売っていたら、立ち行かなくなりますぞと諭しましたら、存外簡単に乗って参りました。彼の方にとっても、渡りに船だったのでしょう」
主君の賛辞を頂戴した家臣は、苦笑いをしながら謙遜する。決して自分の功績を誇らない。
「謙遜せずともよい。お互いの面子を保ち、話しを纏めるのが如何に困難か、儂は知っておる。お主はそれをやってのけた。誇れ、直英」
大道寺 直英は平伏する。自分の働きを正当に認めてくれたのが、嬉しかった。
「して、土産は如何いたしましょう」
直英は緊張した面持ちで訊ねる。
これは、戦だ。天下人 “秀吉“ の信頼を得る。
戦働きと、なんら変わらない。
その働きにより、所領安堵が認められる。
「まず、鷹じゃな。日向鷹と並び、陸奥松前・津軽の鷹は有名じゃ。それを献上せよ。そして……」
主君・大浦 為信はごくっと唾を飲む。
「馬じゃ。馬を用意しろ。とびっきりの名馬を。『あれが奥羽の名馬か』と、諸大名が腰を抜かすようなやつを!」
この時代、馬は武力の象徴である。
より立派な馬を揃える事が、より強い武力を保持している事の証左となる。
秀吉へのアピールだけでなく、諸大名への牽制となる。
「……かしこまりました。天下に、末代までに、語り継がれる名馬を用意致します!」
これは、城攻めよりも遥かに困難な任務であった。
「……頼んだ」
主家である南部氏に反乱を起こし、津軽地方を切り取り、支配権が固まっていない大浦 為信にとって、これは生き残れるかどうかの瀬戸際だった。
◇◇◇◇◇
屋敷に帰った大道寺 直英は、一人の家臣を呼びつける。
命を下して時を置かず、襖の向こうから参上を告げる声がした。
「殿、仰せにより罷り越しました」
外にいる二人の侍従により、襖が左右に開けられる。
一人の若侍が、畳に膝を着け、首を垂れ、入室して来た。
「苦しゅうない。近う寄れ」
すでに人払いは済ませている。室内は直英と若侍だけの、二人きりだ。
直英の言葉に若侍は戸惑いながら、にじり寄る。
六尺(182㎝)はある長身を縮めながら。
囁き声が聞こえる距離にまで近づいた。
「本日、お屋形様よりご下命を賜った。……上洛し、秀吉公にご拝謁せよとの仰せじゃ」
直英は声が漏れないよう、小さな声で囁く。
「おお! 何というご大任を! おめでとうございます! 秋田とのお話を纏められた甲斐がございましたな!」
若侍は興奮のあまり、思わず大声となる。
直英は苦笑する。若侍はハッと我に返り、口を塞ぐ。
「申し訳ございません。殿のこれまでのご苦心を思い、つい……」
「よい。ただこれから先は、気をつけよ。この事、絶対他言無用じゃ」
直英は悪い気がしなかった。
主君に自分の働きを認めてもらうのは、嬉しい。しかし家臣からそう思ってもらえるのも、格別だ。
「して、本題じゃ。お屋形様から仰せつかった。『天下一の名馬を用意し、秀吉公に献上せよ』とな」
「天下一ですか…………」
若侍の顔は青ざめる。
「そうじゃ。天下人に献上するのだ、天下一の名馬でなくてはならぬ。いや、歴史上誰も成し得なかった、天下統一をなされるお方じゃ。史上最高の名馬でなくてはならぬ。源 義経の “太夫黒“ や、曹操 孟徳の “絶影“ に肩を並べるような馬でなくては」
「それは――――」
若侍は絶句する。それはあまりに無謀な、だが当然とも云える要求だった。
秀吉はこれから、それらの過去の英雄と肩を並べるのだから。
「儂は、お主なら出来ると思っておる。お主の馬を見る目、育てる腕は、天下一じゃ。ならばお主の推挙する馬が、天下一でない道理がなかろう」
若侍は感動に打ち震えた。そこまで言ってくれるのか。ならばこれに応えなければ、漢ではない。
「恐れながら申し上げます。某の育てた馬に、そこまでの名馬はおりませぬ」
直英は落胆の表情を見せる。
「しかし――――!」
若侍は声を張り上げる。先程注意された事を失念する程、昂っていた。
「あては、ございます!」
その声に、直英は喜色を取り戻す。
「岩鬼山の中腹に、馬の群れが住んでいると聞きます。険しい山を闊歩し、神山の恩寵を受けた馬は、隆々とした体躯で、その動きは神馬の如くと聞きます。それを……手に入れます」
その言葉は、直英に希望と共に、絶望を与えた。
「その話は、儂も聞いた事がある。『まさに神馬よ』と。だがこの話も聞いた。これまで何人もの強者が挑み、望み叶える事能わず、その命を散らしていったと……」
この若侍を失うのは、惜しい。直英はそう思った。
「もとより承知! 命が惜しうて、戦は出来ますまい」
事もなげに若侍は言う。
お馬番として働いてきた彼にとって、これは晴れの “戦場“ なのだ。
「お主のその働きに、儂はどう報いればよいのかの……」
命を賭ける男に、それに釣り合う報酬を用意しなければならない。
「殿のお褒めの言葉だけで、十分でございます」
その答えに、直英は笑う。
「そういう訳にもゆくまい。これまで誰も成し得なかった御業じゃ。褒美を惜しんだら、儂の名がすたるわ!」
器量の大きさも、立派な武将の資質だ。
「何でも申してみよ。この働きに相応しき褒美を。この働きを貶める事は、儂のこれから行う戦いを卑下する事になると、心得よ!」
秀吉に献上する宝物が、安い仕入れ値では困るのだ。
若侍は、直英の意を汲み取った。
「では、申し上げます!」
若侍は、唾をごくっと飲み込む。
言っていいのか、逡巡する。
数舜の間が空く。
若侍は意を決し、言上する。
「三の姫さまとの結婚を……お許し下さい」
言葉を、勇気を振り絞り、畳に額をつけて、懇願する。
「…………小夜との?」
直英の表情は、固まった。
どれほど高額な金子でも、高い身分でも、与えるつもりだった。
だがこれは、想定外だった。
「貴様、小夜と恋仲だというのか!」
怒髪天を突いた。
父としてではない。武将として。
この時代の女性は、同盟を結ぶ道具であり、赤心を示す証であった。
云わば “戦略物資“ である。
それを穢されたのだ。怒るのも当然である。
「滅相もございません。ただ某が、一方的にお慕い申し上げているだけでございます。大日如来さまを、崇めるように」
震える若侍の言葉に、偽りは無かった。
こいつは、そんな真似をする奴ではない。
そもそも三の姫は厳重に警護されていて、二人きりで会う機会なぞ無い。
「時折、厩を訪れられる事がございました。あ、もちろん家臣の方々を引き連れてでございます」
慎重に、言葉を選びながら、若侍は説明する。
「あの方は、素晴らしい方でございます。臭い厩を気にも止めず、馬の涎を厭わず、馬をすべて撫でて回られました。そして『よくぞここまで立派に育てられました。父に代わり、御礼申し上げます』と仰られました。……その言葉、沁みました」
彼の言葉には、気持ちがこもっていた。
それは敬慕と云うよりも、崇拝に近いものだった。
「もっとも侍女の方々は、あまりの臭さに鼻をつまんでおられましたが」
若侍は笑いながら、楽しそうに語る。
人間誰しも、自分の行いに価値を見いだしてくれる人に、弱いものだ。
周囲の人間が、それに鼻をつまむのなら、余計に。
彼女は彼にとって、幸せを与えてくれる神さまだった。
「もちろん添い遂げようなど、身の程知らずの事など思いも寄りませんでした。ですが某の働きに価値があり、称えられるのならば、思いつく褒美はそれしかございません。ご不快に思われるのならば、無礼討ちにして下さいませ!」
直英は眉を顰める。
そんな事、出来る訳がない。
こいつより馬に精通している人間は、いないのだから。
今こいつを、失う訳にはいかない。
殺す事も、出奔さす事も許されない。
「……考えておく。だが、小夜の気持ちに反する事はせん。儂は、あいつが可愛い。あいつの意に染まぬ事は、したくない」
それは本心でもあり、望むべくもない事だった。
この戦国の世では、許されない事であった。
直英にとっても、小夜にとっても。
すべては、 “大道寺“ が優先された。
「だが、叶えられぬ望みではない。もし天下一の馬を手に入れれば、お主の名声も高まる。小夜と添い遂げる事も、夢ではない」
直英は考えた。
もしこの男が名馬を手に入れたら、諸大名からの誘いがあるだろう。
名馬と一緒に逃げ出されては敵わん。
三の姫と番わせれば、そんな気も起きんだろう。
女性が道具と云うなら、そんな使い方もあるのではないか、と。
「ははっ! この殿鞍 綜馬、身命に代えても、このお役目成し遂げてみせます! 大道寺家の礎となる所存でございます!」
直英の考えには思いも到らず、殿鞍 綜馬は忠誠を誓う。
この時その心に、一点の曇りもなかった。
そう、この時までは…………。
一部史実と違う点がございます。大道寺 直英が津軽氏(大浦氏)に仕えるのは、 “大坂の陣“ の後です。この時はまだ北条氏に仕えています。フィクション、またはパラレルワールドという事で、お許し下さい。
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