時代
「あらいらっしゃい。早かったわね」
次の日おべ爺の家を訪れた俺を、千多ばあちゃんは優しく迎えてくれた。
「うん、これお土産。おべ爺これ好きだったよね」
俺は和菓子の入った紙袋を手渡す。
「まあ、ありがとう。あの駄々っ子がこんな気の利いた真似をするようになるなんて、私も年を取る訳よね」
そんな大層なことではないんだが……。この人の前では、俺は何時までも小さな子どもなんだろう。
「おべ爺はどこ?」
「あの人は今、隣の工場にいるわ。すぐ帰って来るから、ここで待ってて」
千多ばあちゃんはそう言うと奥に入ってゆく。
もうじき昼どきだ。俺たちの昼食を用意しているんだろう。
「工場か。ちょっと見てくか」
手持ち無沙汰になった俺は、隣接する工場へと向かった。
工場は俺の思い出にある姿と少し変わっていた。全体的に荒れた感じだった。
トタンの壁は雨垂れの跡みたいな錆を浮かべ、屋根はちょっと傾いていた。
『しっかりしたモンを作るには、しっかりした環境が必要だ』と何時も言っていたおべ爺らしくなかった。
「――それでは引き渡し予定は――と云うことで――」
奥から話し声が聴こえる。来客中か。
「こんにちは――」
俺は『盗み聞きしてませんよ』と云う意を込め、元気よく挨拶する。
おべ爺と、スーツ姿の中年の男がいた。
「こんにちは」と男は俺を見ながら、にこやかに返事を返す。
再びおべ爺を見て「お孫さんですか」と訊ねる。
「いや、孫は女の子だ。まあこいつも将来、孫になるかもしれんが」と意味不明な事をのたまう。
男も「それはそれは」と訳の分からん事をほざき、笑顔を浮かべ帰っていった。
解せぬ。
「ごめん、来客中だったんだね。邪魔しちゃったかな」
「いや、構わねえ。それよりちょっといいか。鈴が来る前に、話しときたい事がある」
いつにない真剣な口調で、おべ爺は俺を見つめ、言った。
「ユマくん、おいしいよ――この最中。ユマくんも食べなよ」
家に戻ると、鈴が俺が持ってきたお土産をちゃっかりと食べていた。
「こらっ、鈴。食事前にお菓子を食べちゃいけませんと云っているでしょう。ホントにこの子はもうっ」
千多ばあちゃんの叱責に、鈴はてへっと舌をだす。
千多ばあちゃんが作ってくれたご馳走が机の上に並べられる。
『いただきます』の合掌のあと、俺は久しぶりに千多ばあちゃんの手料理を堪能した。
懐かしく、ほろ苦く、切ない味がした。
食事のあと、お茶が注がれ、俺と鈴はおべ爺と向かい合った。千多ばあちゃんはおべ爺の横に座っている。
「鈴、落ち着いて聞いてくれ」
おべ爺が重い口を開く。
「この工場を、閉めようと思っている…………」
鈴の表情が、凍りついた。
「なんで、なんでなの? なんで閉めるの? 身体がきついの? なら私が手伝う。大学なんて行かなくてもいい。ううん、高校を辞めてもいい。だから閉めるなんて言わないで――」
涙を湛え、おべ爺にすがりつく。
「そういうことじゃねえんだ。もう、やっていけねえんだ。時代が、変わっちまったんだよ」
おべ爺は哀しそうに言い放つ。
「もう、個人が細々とやっていける時代じゃねえんだよ。いい物を作れば買ってくれる、そんな時代じゃないんだ」
悔しそうに宙を見ながら言う。
「原材料・燃料費は円安・物価高で高騰している。競争相手は人件費の安い中国・東南アジアだ。それなりに売値も抑えなければならねえ。儲けは雀の涙だ。……それにこの辺りの地価はうなぎ登り、固定資産税も馬鹿にならねえ。工場潰してマンション建てたほうが、よっぽど儲かる。もう……やっていけねえんだよ」
刀折れ矢尽きる。そんな言葉がおべ爺の声から滲んでいた。
「でも、でも、おじいちゃんは儲けなんて考えてないでしょう。『いいモンが作れれば幸せだ』って云ってたじゃない!」
鈴は説得を諦めない。
「……茅崎大空襲って知っているか」
遠い昔を思い返すようにおべ爺は言った。
「俺が国民小学校に入ったばかりのことだ。1945年4月15日午後10時半、空襲警報が鳴った。そして唸るような不気味な音が近づいて来た。Bー29の編隊が低空飛行する音だ。俺たちは防空壕に走った。灯火管制で真っ暗なはずの外が、紅く光っていた。焼夷弾による火災だ。火は、近くの帝京航空計器の工場から燃え広がっていた。……お前が昨日パックと出かけた、平和公園に当たる所だ。あの公園は工場の跡地に作られたものだ。……だから平和公園と名付けられている」
あの公園か、確かに平和に関するモニュメントが沢山あった。
「そのあとの事は……地獄だった」
苦痛に歪んだ顔でおべ爺は言った。
「油脂焼夷弾だから、飛び散った火の玉が勢いが弱まること無く新たな発火点となり、次々と燃え広がってゆく。火の玉が頭につき、消すことも出来ずに黒焦げになる奴もいた。火は風を呼び、炎の竜巻が吹き荒れた。……世界全体がまるごと地獄に堕ちた。そう思ったよ」
おべ爺が語るのは物語ではない。彼が体験した現実だ。彼はそこに身を置いていたのだ。
「地獄の夜が明け、朝が来た。……露れたのは瓦礫と化した街だった。昨日までの平穏は、もはや何処にもなかった。焼きだされ茫然としている人。黒焦げの亡骸を抱えて泣き叫ぶ人。新しい地獄の日々が始まっていた」
語る口調は、淡々としたものに変わっていった。激情ではない、それ以上に辛い、諦観したものに。
「俺たちは必死に頑張った。壊された昔を取り戻そう、幸せだったあの日を。そう思い、戦後の焼け野原で歯を食いしばって生きてきた。……街は少しずつ昔の姿を取り戻していった」
あの時代の人たちは、そうやって生きてきたのだろう。
押し潰されそうな現実に耐え、それでも未来を信じて、希望に賭けて、それに縋って生きてきたのだろう。
「仲間と作った工場も軌道に乗り、支えてくれてたばあさんとも所帯を持つことも出来た。息子も生まれた。幸せだった。こいつらの為にも頑張ろう。これまでと違う気持ちで生きることが出来た」
おべ爺の表情が少し柔らかなものになる。
「だが、本当に時代はつかみどころがない。豊かになった、幸せになった。しかしそれが仇となった」
再び目つきが鋭いものとなる。
「品質の良い物を作る事だけを追い求めていた。そうすれば認めてもらえると信じて。だがそうじゃなかった。技術の進歩は加速度的に進んでいった。もはや何十年も使えるものは求められてなかった。豊かになると、幸せになると――人は更なる刺激を変化を求める。『生きる』ことではなく『楽しむ』ことに生き方が変わっていった。使い捨ての時代になっていった」
高度成長期からバブルに移る時か。
「それなりに使えて、それなりにもつもの、そしてそれなりに安価なもの。それが市場のニーズだった。不本意だが従うしかない。それが時代の流れなんだから。だが俺の胸の内で、チリチリとするものが生まれていた」
おべ爺はぐっと喉を鳴らす。何かがおべ爺の中で蠢いている。
「お前はなにをやりたいんだ。あの瓦礫の上に築きたかったものは、そんなものなのか。そう問いかける声が日増しに大きくなっていった」
自分自身でもどうしょうもない、内なる感情だった。
「職人としての俺と、商売人としての俺が、折り合いつかなくなっちまったんだよ。もう潮時だ。ここらで店じまいとする……」
目を瞑り、息を吐き、何かから解放されたように、静かに言葉を終えた。
沈黙が世界を支配していた。
誰もがそれを崩すことが出来なかった。
静かに時が流れてゆく。
「話は、終わりだ。……俺の物語も」
沈黙を破ったのは、おべ爺らしからぬ、か細い消え入りそうな声だった。
「NC旋盤の機械も、高く引き取ってくれる所を見つけた。今受けている注文が出来次第、引き渡すことになる。……悪いな、鈴。お前にやることが出来なくなっちまった」
鈴は涙を浮かべている。それでも気丈に、『そんなことない』とおべ爺を思いやって首を振る。
「……今日は、もう帰れ。ユマ、悪いが鈴を家まで送って行ってくれ。……頼む」
優しい、祖父の目で俺に呼びかける。
俺は黙って頷いた。
サワサワとそよぐ木々の下、俺たちはゆっくりと歩いていた。
二人とも視線は、どこか遠くを見つめていた。
よろよろと歩いていた鈴が限界に達し、ペタンと道路脇のベンチに腰かけた。
俺も何も言わず、その横に腰かける。
二人は無言で風に吹かれていた。
「なんとなく、解ってはいたんだ。こうなるんじゃないかって。けど認めたくなかったんだ。おじいちゃんが作ってきた世界が、無くなってしまう事を」
鈴は空を見つめ、力なく零す。
鈴にとっては進むべき未来だったのだろう。
このまま成長し、祖父のように物作りをし、日々の糧として生きてゆく。
そんな未来を描いていたに違いない。
だが今その道は閉ざされた。
「私……これから、どうすればいいのかな」
迷子のように、頼りない目をしていた。
何かに縋るような目だった。
知らない世界に放り出された子猫のようだった。
「その答えを、俺は持っていない。お前に伝えられるような答えを。だが、それを持っている人を知っている。……これからちょっと付き合ってくれるか。その人の所に案内する」
俺はそう言うと鈴の手を掴み、ぐっと引き寄せる。
鈴は何の抵抗もせず、黙って流れに身を任した。
「行こう」
俺は鈴の手を引き、駅前のバスロータリーへと向かう。
停車中のバスへの中で、ひときわ賑わうバスがあった。
俺たちはそれに乗りこむ。
「……このバスは、兎弩呂木競技場行きシャトルバスです……」
機械音のアナウンスが流れる。
俺たちはバスに乗り、地元プロサッカークラブ『茅崎アズーリ』のホームスタジアム、『兎弩呂木競技場』へと向かった。
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