ホトトギス
「驕るな! 我が軍は敵の三倍と雖も、慢心するな! “黒溝台会戦“ を思い出せ。10倍もの “コサック騎兵“ を、ワシらは押し返した。如何に強く膨大な力と云えど、使いどころを間違えれば、宝の持ち腐れじゃ。死力を尽くせ。但し体だけでなく、頭も使え。火力を分散させるな! 戦力を集中させよ!」
指揮刀を振るい、ケンタウロスと化した秋山 好古が叫ぶ。
可愛くない。その考え方、可愛くない。
ちょっとぐらい隙を見せる方が、モテるんだよ、オジサン。
敵は横陣を取る。
正面に広く、縦に浅い、火力を発揮するのに最適な陣形だ。
弱点といえば側面が脆弱で、背後に回り込まれたら脆いという点があるが、騎兵の機動力がそれを補う。
手堅い作戦だ。
彼らは一糸乱れず進軍する。
お互いの距離が800メートルまで近づいた。
「全軍停止!」
秋山兄の指示が飛ぶ。
敵の武器が “M249軽機関銃モドキ“ ならば、有効射程距離は肩撃ち・点標的で600 m。肩撃ち・面標的ならば800 m。そろそろ敵の腕の中だ。
私も自分の鉄馬軍団に合図をし、停止させる。
アクセルターンを見事に決め、敵軍に対峙するように睨み合う。
さて、探りを入れてみるか。
「随分と慎重な戦い方だね。ありふれた、面白みの無い陣形。秋山 好古ともあろう御方が、こんな月並みな戦法を採るの?」
少し煽ってみた。
こんな事で狙いを暴露するとも思えないが、彼の考えの一端は垣間見えるかもしれない。
私は秋山兄の反応を、目を皿のようにして見つめた。
彼は怒りも憤りも見せなかった。
ただキョトンとして、無の表情を顕していた。
数舜の沈黙の後、彼は口角をあげ、目を細め、愉快そうに笑い始めた。
その笑いは邪気も駆け引きも無く、幼子の笑いのようだった。
「いや、悪ぃ。。別にアンタのことを笑うたんやない。ただワシの知人が創った言葉を、アンタみたいな若い娘さんが普通に使っているのが、何やら可笑しゅうてな、つい」
その反応は、私の意表を突いた。
「『月並み』いうのは、 “のぼ“ が作った言葉や。あいつは毎月行う俳句の月例会―― “月並会“ を、嫌うとってな、そこで詠まれた俳句を “月並調“ って言って馬鹿にしよった。そっから『ありきたりで平凡なもの』を指す言葉として生まれたのが、『月並み』という言葉や」
“のぼ“ ? 誰のことだ。
「ああ、 “のぼ“ って言うても分らんか。 あいつの幼名が “升“ やからワシらはそう呼んどった。本名は “正岡 常規“ ――俳号の “正岡 子規“ って言うた方が、通りがええか。弟の “真之の小さい頃からの親友で、よう家に遊びに来よった」
“正岡子規“ ――松尾 芭蕉と並ぶ俳聖じゃない。
こいつら、幼なじみ?
「それもあって真之の文才は磨かれ、一端の物になりよった。お陰でこっちはええ迷惑じゃ。女房の奴に『真之さんに比べて、あなたは本当に手紙が下手ねえ』と、いっつも小言を言われよったがな。あいつ等と比べるな。こっちは一介の軍人じゃ」
秋山 真之が起草した日本海海戦出撃の報告電報『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』は、それがあっての事か。そりゃ名文にもなるわ。
「そうか、 “のぼ“ は後世に言葉を遺したか。……本望じゃろう。死ぬまで詩を詠い続けた、子規の名に恥じぬ生き様じゃ」
好古の目には、うっすらと涙が滲んでいた。
時間が、凍ったように止まっていた。
敵も攻めて来る気配が無く、私たちも友を想い天を仰ぎ見る指揮官につけ込むような真似は戸惑われた。
明日香には、『甘い』と怒られるかもしれない。
でも、出来なかった。
「悪かったの、待たせた。さあ、戦るとするか。お互いの、守るものをかけて!」
吹っ切れた表情で、秋山兄は叫ぶ。
お互いの正義の是非は問わぬ。
ただ己が力で、大切なものを守る。
そう言っていた。
上等! 私はエンジンを吹かし、先頭となって突進を始める。
「総員、前へ!」
秋山兄の指示が轟く。
ケンタウロスたちは一斉に跳躍する。
美しい姿だった。
前脚で天に蹴り上がり、後脚で前へと突き進む。
300もの伝説の生き物が、空高く舞い上がる。
そしてゆっくりと大地にその足を着ける。
否! 彼らはその足を着ける事なく、その躰を地面に潜らさせてゆく。
そして、その姿を消した。
なにが起きたの?
私は一瞬狼狽えた。そしてすぐ理解した。
敵が消えたその場所に、長い塹壕が掘られていた。
そしてそこから敵兵が顔を出し、機関銃を構えていた。
「実戦経験の差が出たな。この戦法の有効性は、日露戦争で実証済や。そしてその練度も折り紙付き。相手が……悪かったな」
いつの間に掘ったんだ。
いや、予め用意されていた? だとしたら誘い込まれた?
色んな考えが頭を過る。
だが私はそれを払拭する。
問題ない。作戦に支障はない。
「全軍、進撃! 恐れるな。勝利の方程式は、我にあり!」
私のかけ声に励まされる様に、鉄騎兵は速度を加速させる。
敵の雨あられと投げかけられる銃弾に、少しも怯まない。
距離は300メートルとなった。
フルスロットルで突っ込む。
足もとの大地が、隆起している。湾曲し、空に向かっている。
砂鉄を操って作ったジャンプ台だ。
「いっけぇ――! ウィ・キャン・フラ――イ!」
100台のモトクロスバイクが、一斉にジャンプする。
青い空に、色鮮やかなライムグリーンが舞う。
「バイクが――飛ぶだと?」
秋山兄が驚愕の声を上げる。
そりゃあ昔の概念なら、あり得ないでしょう。
けど未来のバイクは、飛ぶんです。
「だが所詮子供騙し。射角を上げろ! 遮る物が無い空中なら、格好の的だ!」
さすが秋山兄。状況判断の正確さと、意思決定の早さは尋常じゃない。
けどね、そうじゃないんだよね。
モトクロス軍団は、次の技を披露する。
バイクを地面と水平に寝かせ、高さを抑える技―― “ウィップ“ を使い、それぞれの高さが一律にならないようにして、敵の射線を定めさせない。
飛び出すタイミングで身体を仰け反らせ、スロットルを少し開いて空中で後方一回転する技―― “バックフリップ“ で素早く動き、敵の的を絞らせない。
バイクごと空中で横方向に360°スピンする技―― “スリーシックスティー / 360“ で上下の的を狭めさせる。
多彩な技が披露された。
その動きは千変万化。容易に予測出来ない。
秋山兄は目を引ん剝く。
初めてサーカスを見る子どものように。
「まだや。まだ負けとらん。……飛ぶのが、早すぎたの。その高さでは、ここまで届かん。必ず手前で落ちる。そこを狙えば、一溜りもない」
相変わらず冷静な分析をする。
だが、前提条件が間違っている。それは “馬“ の場合だ。生憎とこれは “鉄馬“ なんですよね。
空を駆けるバイクが、アクセルを吹かす。
そしてそれは仲間のバイクに近づき、回転するタイヤが接触し、跳ね上がり、勢いを増して飛んで行く。
そんな光景が、次々と繰り広げられた。ピンボールみたいにバイクが飛んで行く。
「いえ~い。軌道計算もバッチリ。これで距離も稼げます」
私の言葉に、秋山兄はポカンとして、虚ろな目をしていた。
『それはないだろう』という顔をしている。
勝利は、目前だった。
私たちは塹壕の上空まで辿り着く。
ライダーたちは銃を構える。
撃ち下ろす攻撃は、圧倒的に有利だ。
最後の仕上げだ。私たちは照準を絞る。
だが私たちは愕然とした。
そこに、敵の姿は無かった。
無人の壕が在るだけだった。
どこに消えた?
私は周りを見渡す。
すると先程まで陣取っていた塹壕に垂直に、多数の壕が繋がっていた。
敵はそこを逃走していた。
どういう事? さっきまであんな物は無かった筈だ。
一瞬で掘ったというの? あり得ない。
「ふ~。あぶない、あぶない。ヒヤッとしたわい。まさかこの手を使うとはの」
離れた場所から、秋山兄の声が聞こえて来た。
「何を驚いとる。まさかこの塹壕を、えっちらおっちら掘り進んどったと思うとったんやないやろ。ここは残された思いが実体化する場所や。ならば無念に散って逝ったこいつ等の、思いが詰まった塹壕が呼び寄せられん道理は無い。掘られ、埋められ、歴史に埋もれた舞台が、ここには幾つもある」
成程ね。このケンタウロスたちも、塹壕も、残留思念みたいなもんか。
「……アンタ、本物の戦争を経験した事ないやろ」
これまでの秋山兄の明るい声ではなく、湿った暗い声がした。
「ヒュルルーという砲弾が飛んで来る音、雨音みたいに降る銃声、剣が肉に食い込む音、そして断末魔の悲鳴、……そんな音、聴いた事がないやろ」
哀しいと云うより、感情が死んだような声だった。
「こいつら、死ぬ事を怖れとらんかった。国が、家族が、滅びる事を怖れとった。清が列強に食い物にされ、領土を、誇りを奪われるのを見て、そうはさせじと身命を賭した。……憐れやろ。もうじき日本はアメリカに負ける。こいつらが必死になって守ったものは、40年しか持たなんだ」
恨むでなく、嘆くでなく、諦観した声であった。
「だからワシは連れて行く。新たな世界に、命を掛けるに値する世界に。神か悪魔かは知らん。だがワシは、その誘いに乗った。乗った以上、全力を尽くす!」
武人の決意が、そこに在った。
「この壕は、みんなの執念で紡がれた希望の糸や。それを使い、ワシらは勝つ!」
胸が圧し潰されるみたいだった。
彼らの想いに、哀しみに。
私はふぅっと溜息をつく。
そして腕いっぱいに手を広げ、それを力を込めて引き戻し、パァンと大きく手を叩く。
音が、平原中に鳴り響いた。
「……なんの真似や」
低く咎めるような声がした。
「邪っ気払い~。ああ、やだ、やだ、湿っぽいの。……想いがどうのこうの、そんなの私には関係ない。クレームなら、当事者に入れて。当時の関係者か、少なくともそれを引き継いだ人に。無関係の人に不満をぶつけても、それは “八つ当たり“ というんですぅ~」
秋山兄の姿は見えない。だが目を丸くしているのが、ありありと感じられた。
「……人の情けという物が、お前には無いのか」
信じられないものを見るような目を、今の彼はしているに違いない。
「関わる者が激増した未来では、一つ一つの事情を慮っていたら、立ち行かないのよ。何しろ80億の人間が、電脳世界で井戸端会議するような世の中なの。大切な人を、譲れない正義を、取捨選択して、守る事が求められるの。同情はするけど、流されない」
「……イヤな世の中やな」
まったく、その通りです。
広くなった分、肩身が狭い思いをする事が多くなった。
沈黙が周囲に蔓延った。
ケンタウロスたちは、自分の動きを悟らせないように。
私たちは、彼らが立てる物音を聞き洩らさないように。
お互い、準備が整った。
「では、参る!」
秋山兄の合図で、一斉射撃が始まった。
正面からだけではなく、横からも発砲する十字砲火であった。
これ、登場は第一次世界大戦じゃなかったっけ。やってくれるね、このオッサン。
銃弾が雨のように降り注ぐ。私たちは身を屈め、やり過ごす。
「5秒後、攻撃を開始する。5、4、……」
私は指示を出す。カウントダウンは進んでゆく。敵にも聞こえているが、構わない。
「……2、1。ゴ――」
カウントダウン終了と同時に、私たちの前に黒いカーテンが現れた。砂鉄のカーテンだ。砂鉄は回転し、銃弾を弾き返す。敵に動揺が走る。
「そのまま撃て! 盾は薄い。長くは持たん!」
秋山兄の声に敵兵は落ち着きを取り戻し、射撃を続ける。
そんな事は先刻承知。数秒だけ持てばいい。
銃弾が、砂鉄のカーテンを剥ぎ取ってゆく。
そして私たちの軍の姿が露わとなった。
私たちは “浮いて“ いた。 “飛んで“ いるのではなく、 “浮いて“ いた。
上空から見下ろす私に、『理解しがたい』といった表情を浮べる秋山兄の顔が見えた。
「どういうカラクリだ……」
彼は思わずそんな言葉を洩らす。
「 “磁気浮上“ っていうのよ、これ。磁力による反発力や吸引力を利用してるの。いわゆるリニアモーターカー。さっき飛んでた時、派手にグルグル回っていたのは、これが狙いだったの。磁気を帯びた物質を撒き散らし、ここら一体を磁界で覆ったわ。最早ここは私のワンダーランド。 “鈴ちゃんサーカス“ の開幕でぇーす。楽しんでってね~」
秋山兄は、目をグルグル回している。
無理もない。流石に想像が及ばないのだろう。
「いっけー、ミサイル一斉発射!」
私の号令に、バイクたちが一斉に飛び出す。
その軌道は一律ではない。直線、楕円、ジグザグ、色々な軌道を描いている。
「どう? 伝説の職人に倣い、バイク――は免許が無いから代わりに自転車に、ロケット花火を取り付けて、走行しながら打ち出して研究した、三次元感覚の攻撃方法。標的へ一直線に飛ぶ “優等生タイプ“ 、標的の軌道を予測して先回りする “秀才タイプ“ 、目立とうとジグザグに飛ぶ “劣等生タイプ“ 、いろんな娘を取り揃えていますぜ、ダンナ」
色々な軌道を描きながら、バイクたちが飛んで行く。
敵は的を絞る事が出来ない。
敵の銃弾は、虚しく天に上る。
バイクは塹壕の上を滑空する。
逃げ場のない塹壕に、銃弾を浴びせ、爆弾を投下する。
戦いではなく、殺戮が繰り広げられた。
バタバタと、ケンタウロスたちが斃れてゆく。
壕に、血の川が流れた。断末魔の合唱が奏でられる
「……撃ち方、止め」
私の合図に、銃声が止む。
先程までの耳をつんざく様な轟音は消え、周りに何も音がしなくなった。
私は黄龍の変化である彼らを、我が身へと還した。
生きとし生ける者の音が、消え失せた。
死の雨音だけが、ピタピタと滴り落ちていた。
死の世界の中で、一つだけ蠢くものがいた。
私はそこに足を向ける。
一体のケンタウロスが、仰向けに倒れていた。
両手を広げ、四本の足を投げ出し、空を見上げていた。
「いや~完敗、完敗。言い訳の仕様も無い。完膚なきまでにぶちのめされた!」
明るく朗らかに、彼は言う。
そこには敗北による卑屈さも悔しさも、微塵も無かった。
「……教えてくれんか。何故ワシは負けたんじゃ? 何が足りなかったんじゃ?」
澄んだ瞳で、問いかけて来た。
「 “好きな事をやった“ のと、 “やった事を好きになった“ の違いじゃない?」
上手くは言えない。ただ感じたままに答えた。
「私は機械いじりが好き。化学が好き。自然が起こす反応が好き。だから私は、それを活かす。可能性を信じ、それを伸ばす。私の選んだ “好き“ だから。……貴方の “好き“ は、私のそれより狭い様に見える」
素直に、飾らず、自分を伝える。
「だから私は馬と騎手を一つにするような、安易な真似はしない。騎手はその動きで、馬単独では成し得ない技をさせる事が出来る。見たでしょう、さっきの技。あんな事、貴方たちに出来る?」
生き物である以上、その動きには限界がある。
だがそれをカバーし合えば、限界は超えられる。
私の拙い主張は届いたのだろうか。
秋山 好古は、黙ってそれを聞いていた。
「納得した。ワシは上に立つ者として、一番してはいけない事をした。……すべてを自分一人でやろうとした」
彼は自分の生き方を振り返る。
だがそうなったのも、やむを得ない事情もある。
彼は先達者だった。
彼以前に日本には騎兵は存在せず、留学し、西洋の知識を取り入れ、手探りで騎兵を作っていった。
独立不羈となるのも仕方がない。
私は素朴な疑問を感じた。捉えようによっては、彼の根幹に関わる事だ。
訊ねずにはいられなかった。
「なんで貴方は、軍に入ったの? 騎兵になったの?」
数多ある道の中で、何故それを選んだのか。それを知りたかった。
「……食うためじゃ。家族を養うためじゃ」
それは高尚さの欠片もない、俗な理由だった。
「下世話な話やろ。けど生きるためには、食わないけん。これは真理や。覆すことの出来ぬ、業や」
そこには卑屈さの微塵もない、清々しさがあった。
「わしら伊予松山藩は、賊軍じゃった。戊辰戦争で官軍の敵となり、追討された」
ピンとこなかった。
秋山 好古は日露戦争の英雄。
それが幕末と繋がらなかった。
「ワシが10歳の時や。鳥羽伏見の戦いで幕府に味方した松山藩は、朝敵と見做され、征討軍が進軍して来た。戦力的にも敵わず、朝廷に逆らう訳にもいかず、降伏するしか無かった。松山藩は、土佐藩の保護領となった。あらゆる場所に『土州下陣』のはり紙が貼られ、『ここは土佐藩の管轄下。なんびとも侵すべからず』との主張がされた……」
江戸の無血開城や、会津の白虎隊が有名だが、各地で様々な諍いがあった時期だ。
「けどな、それは侵略やない、助け船やったんや。近隣でもあり、親戚でもあった土佐藩が垂らした蜘蛛の糸やったんや」
侵略が、救い?
「松山藩は長州に恨まれとった。長州征討で周防大島を占領し、住民への略奪・暴行・虐殺を行ったのが原因や。まあ自業自得といえばそうなんやけど、一方的には責められん。当時長州は民衆に蜂起を促し征討軍へ抗戦するよう呼び掛けとった。その争いの延長線上で起きた事や。けんどやられた長州にとっては、そんな理屈は通用せんわな。長州が復讐にやって来る。そういって怯えとった時に、長州に『待った』をかけてくれたのが、土佐の占領やったんや」
助けるにも、色々な形があるんだ。
「けどな、ありがたいと云うより悔しかった。そんな状況を招いた迂闊さも、そんな状況になって何も出来ない身内の情けなさも、悔しかった。負けるという事は、敗れるという事は、こういう事なんだと身に染みたよ」
支配者が変わるという事は、それまでの正義が変わるという事だ。
彼は幼い身で、それを肌で感じたのだろう。
「そしてそれ以上につらかったのが、 “貧しい“ という事や。松山藩は十五万両を献上させられる事になった。藩歳入の二年分や。たちまち藩の財政は立ち行かんようになった。藩士はみんな困窮した」
彼らは武士でありながら貧しかった。そう語られる理由が、よく分かった。
「食べるのと同じように大切なのが、 “教育“ や。知識は貧しさから這い出る為の、世に出る為の武器や。けどその武器は、無料で貰える様なもんやない。それなりの金が掛かる。ワシにはそんな金は無かった。ワシは諦めたくなかった。捜した。そして見つけた、無料で教育を受けられる所を。それが明治5年に出来た “師範学校“ やった。騎兵科を選んだのは、他より1年早く卒業でき、給金が貰えるようになるからや」
切実な、身につまされるような上昇志向だった。
「ワシに、そんな贅沢は許されなかった。 “好きな事をやる“ ような……。アンタの時代では、それは当たり前に出来るのか?」
羨ましそうに秋山兄は訊ねる。
「ええ。みんながみんなと云う訳にはいかないけれど、大抵の人はそれは可能。難しい人でも、奨学金などの支援システムがあるわ」
「……そうか、いい時代になったんやの」
彼は目を細め、優しそうな声で笑顔を溢す。
その慈愛に溢れる顔を見て、ある事を思い出した。
「貴方、退役して中学の校長先生をしてたんじゃないの?」
「……よく知っとるな。単なる名誉職や、そんな立派なもんやない」
卑下するみたいに彼は答える。
「一つ誇れる事があるとすれば、ワシが赴任して遅刻や無断欠勤が無くなった事かな」
無断欠勤? 遅刻は分かるけど、中学で無断欠勤?
「当時は生徒だけでなく、教師の遅刻や無断欠勤は普通でね。ワシが赴任した中学で、それがほぼゼロになった」
「どうやったの」
鉄拳制裁でも加えたのだろうか。それとも日露戦争の英雄の威光を活かしたのだろうか。
「何もしていない。怒鳴ってもいないし、罰則も設けていない。ただ遅刻や欠勤した先生の代わりに、彼らが到着するまでワシが授業しただけだ。だって可哀想だろう、学ぶ機会を奪うのは。……不思議とその後そのクラスでは、先生は遅刻・欠勤しなくなったし、生徒もしなくなったがな」
それは! ……可哀想に。
先生も、いっそ怒鳴られ殴られた方が楽だっただろう。
生徒もそれを見て、『絶対に遅刻はしない』と思っただろう。
けど、なんかいいな。そんいう風に背中で教えるというのは。
「貴方は立派な教育者だよ」
私は心の底からそう思った。
「そうか。そう言われるのは、武勲を褒められるより嬉しいかもしれん。……ワシは “のぼ“ のように、人の心に何かを遺せたのかな」
彼は遠い目をしていた。
その目は遠い過去も見ているのか。これから赴く常世を見ているのか。
「最期に、アンタと話せてよかった…………」
彼はそう言い、瞳を閉じた。
故国の滅亡を嘆き悲しみ、血を吐きながら鳴くホトトギスのように、彼の声は哀しかった。
青い光が、彼の躰から立ち昇ってゆく。
それは霞となり、ある光景を映し出した。
上空からの風景だった。
視界の端に翼が見える。鳥の視座のようだ。
広い平地の真ん中に、小高い山があった。
山は、満開の桜に彩られていた。
視界が、山をどんどんと昇ってゆく。
頂上に建物があった。
山頂よりも高く舞い上がり、それを眼下に見下ろす。
高い石垣の上に建てられた、白亜の美しい城だった。
悠然と、時の流れにその身を浸すように、その城は建っていた。
その城を、桜を見ようと、やって来た三つの人影が目に留まる。
二人の少年が桜の木の下に茣蓙を敷き、重箱を開け、嬉しそうに御萩を頬張っていた。
その横で一人の青年が桜の木にもたれかかり、幸せそうに酒を呷っていた。
のどかな、春の一場面であった。
「春や昔 十五万石の 城下かな」
風に乗り、桜の花びらと一緒に、そんな声が聞こえて来た。
それは美しい句の形をした、魂の歓喜であった。
秋山 好古が晩年に校長を務めた北予中学校(現在の愛媛県立松山北高等学校)の校長室には、彼直筆の「荒怠相誡」(荒んだ心や怠け心を互いに戒め合う)が掲げられているそうです。彼の教えは今だなお、生き続けています。
『ブックマーク』、『星評価』、『いいね』をお願いします。下段のマークをポチっとして頂くだけです。それが執筆の何よりの糧となります。……筆者の切なるお願いです。