かくも恐るべき不在
主馬が俺に背を向け、壁に歩いて行く。
あまりにも無防備で、何かの罠かと思った。
彼は壁に手を合わせ、拝み、語りかける。
そこには、父の写真が飾られていた。
「貴方の息子を弑する事を、お許し下さい。貴方の理想を理解させられなかった事を、お許し下さい。この責は、そちらに参った後、償わさせて頂きます」
その言葉に迷いは無く、決然としていた。
二、三秒の黙祷の後、主馬はくるりと振り返り、俺の方を向く。
その目には、これまで見せていた敬意とか、情愛とかは、一切無かった。
ただ赤い目が、氷のように冷たく光っていた。
彼は、悠々と近づいて来る。
そぞろ歩きするみたいに、ゆっくりと、あてもなく、彷徨うかのように。
手足は、弛緩していた。
目は、燃えるような殺意に満ちていた。
「舐めているんですか? 構えもせずに、距離を詰めてきて」
俺は思わず口走る。そうあって欲しいと願いながら。
意思と動作の、ちぐはぐさに戸惑いながら。
油断であって欲しい。慢心であって欲しい。
……でなければ、ここを切り抜けるのは、……難しい。
「舐めているのは、君の方だろう」
苛立つように、主馬は言い放つ。
「馬が、駆けるのに構えるかね? 人が、知恵を絞るのに構えるかね? 武器は皆それぞれ、独自の物を持っている。進化の果てに得た武器を。戦う手段が自分が持つ物だけだと思うのは、傲慢だよ。そしてそれを本能として持つ者は、何時でもそれを振う準備は出来ている。自分の物差しだけで測るのは、あまりにも浅はかだ!」
その目に、油断も驕りも無かった。
真っすぐに目的地を見据え、真摯に戦いに臨む者の目だった。
主馬は、ゆっくりと近づいて来る。
「注意して! あいつは何かを持っている。そしてそれに、絶対の自信を持っている」
明日香の悲鳴みたいな警鐘が響く。
「悠真を守って、赤龍!」
彼女は勇気を振り絞るように声を上げる。
躰中から赤い靄が噴き出す。
靄は密集し、気体から液体に、そして固体へと変貌する。
赤い龍が、俺の躰にぴたりと纏いついた。
「あなたは私が守る。この命に代えても……」
明日香の言葉は、俺に対する誓いであり、彼女自身に対する決意であった。
それは、もう一人の使命感を掻き立てた。
「盾は、あんたに任せる。黄龍よ、彼の人の矛となれ!」
鈴の声が鳴る。
その命に従い、顕現した黄龍は姿を変える。
その身を砕き、無数の 両刃の矛と化す。
「この空間にも、多くの鉄分が存在する。それを電磁波によって高速運動させた刃」
矛はどんどんと数を増やす。そしてそれは周りを埋め尽くしてゆく。
「とくと味わい、正体を晒すがよい!」
数え切れぬ矛が、主馬の周囲を包囲する。
「いっけぇ――――」
鈴の合図と共に、矛が一斉に襲い掛かる。
「ふむ。上下左右どこにも隙間の無い、見事な密集隊形だ」
主馬は顎に手を当て、感嘆の声を漏らす。
「だが、そこまでだね。そこが君たちの限界だ。精神体になろうと、決して超える事の出来ない壁だ」
矛が主馬に迫ってゆく。彼はピクリとも動かない。
どういうつもりだ。防御壁を築き、撥ね返すつもりか。
ならば見極めてやる、お前の力を。
例え防がれたとしても、分析さえ出来れば、対応は不可能ではない。
俺は集中して、観察する。
世界が、スローモーションとなった。
集中力が極限まで高まると生じると云う、アレだろう。
1秒が、10分にも思えた。
矛が突き刺さるまで後1センチ。主馬は身動ぎもしない。
あと5ミリ。まだ動かない。
あと1ミリ。どういうつもりだ。振り払うどころか、防御壁を張る素振りもない。
0ミリ。何もしない。何も見てないようだった。その瞳には、何も映っていなかった。
次に目に入るのは、串刺しにされた主馬の姿の筈だった。
俺は陰惨な光景を覚悟した。
どんなに憎い人間でも、内蔵が飛び出し、肉が引き千切られるの見せられるは、悍ましいものだ。
だがそこで俺が味合ったのは、吐き気を催す嫌悪ではなく、理解の及ばぬ驚愕だった。
矛が主馬に突き刺さったと思った瞬間、その穂先はことごとく床に突き立っていた。
主馬は1ミリたりとも動いていない。
矛が主馬をすり抜けて行った。
「空間断裂?」
真っ先に思いついたのがそれだった。
地下に入る時に遭った異常空間。あれを発生させているのか。
「ちがう! ちがうよ、ユマ。そうじゃない!」
鈴が震えながら声を張り上げる。
「それは私も警戒してた。歪みを感知したら、そこに第二陣の矛をぶち込むつもりだった。けれど空間座標に、歪みは無かった。主馬はどこかに移動したり、違う空間を繋げたりはしていなかった。空間は、正しく存在した」
俺は主馬に視線を向ける。こいつは、何をやったんだ。
主馬の目は、冷たく細く、光っていた。
彼の瞳に映る俺たちは、獲物ではなく、解くべき方程式の数字だった。
如何にして分解し、合格点を獲得する素材のように。
「所詮、その程度か……」
主馬は蔑むように吐く。
「でも、あいつが何をしたのかは分かったよ」
主馬の眉が、ピクリと上がる。『ほうっ』と声が漏れる。
「時間だよ。あいつは矛が到達した瞬間、数舜だけ時間を飛ばした。パラパラ漫画を何枚か飛ばすみたいに。そうするとどうなるか。あいつに矛が突き刺さったと云う事実は消え、矛はあいつの躰を飛び越して、次の空間へと向かう。あいつと矛は、交わる事はない!」
地下室は、沈黙が支配した。
絶望と畏れが色濃くなった。
「なかなか面白い仮説だね。だが、立証は不可能だろう」
煽るように主馬は言う。事実が確定出来なければ、全面的にその可能性に賭ける訳にはいかない。
「別に『学術論文じゃないんだし、立証の必要は無い!』と突っぱねてもいいんだけどね……。生憎と立証は終っているよ」
鈴の言葉に、主馬は頬を引き攣らす。流石にその答えは予想外だったようだ。
そんな主馬に目もくれず、鈴はスタスタと主馬の近くに歩いて行く。
そして床に刺さった、一本の矛を手に取った。
「この矛、赤い物が付いているのが分る? これ、なんでしょう?」
刃先に赤黒いシミがあった。おい、まさか。
「じゃーん、正解はこれです!」
鈴は隠し持っていた物を前に突き出す。
同じ様にシミが付いた、もう一本の矛だった。
「正解は『ユマの血』でした~。ドンドンパフパフ~」
いつの間に付けやがった!
自分の身体をよく見ると、左腕に浅い切り傷があった。
人の身体を勝手に使いやがって。
でもまあ、あいつの身体では血は出ないから、仕方ないか。
「この二つは、同時に付けられた血。構造変化から、時間経過を算出する事が出来る。……そしてこの二つには、僅かな時間のズレが見受けられる」
「……誤差の範囲内だろう。そこまで正確に計算出来る筈がない!」
主馬は認めようとしない。
「……出来るよ。私なら、出来る」
自信満々に鈴は返す。
「この下、地下二階に『集積回路』――大規模な演算装置を作った貴方なら理解出来るでしょう。私はアレと同じ様な事が出来るの。私の両親が、その分野の第一人者でね。知識だけはしっかり有るの。そしてここは特別なエネルギーが充満していて、そのシステムに干渉出来る様だし。『Wi-Fi使い放題』と云うヤツ?」
一気に俗っぽくなりやがった。
そう言えばこいつのご両親、世界一位のスパコンの開発者だったな。
その仕事の関係で、小さい頃は神戸で育ったと言っていた。
「貴方が信じる信じないは、関係ない。私たちが信じるかどうかなの。私たちがどう対応するかの問題なの。貴方の是認は、必要ありません」
鈴はピシッと言い放つ。
主馬は観念したように上を見上げる。
「成程、大した分析力だ。それは認めよう。だが、この先はどうする? 時間の壁を、どう突破する?」
痛いところを突いて来た。
「人類が月に到達する様に、いずれは可能かもしれない。だがそれは、今日は叶わない。撤退し、出直すというのなら、それはそれでけっこう。お帰りはあちらだ、追いはしない。もっとも再び訪れても、その時ここに私達は居ないがね」
明日香と鈴が、不安そうに俺を見つめる。
静さんは言った。『自分の命を犠牲にして、メアを助ける事は許さない』と。
紬は言った。『いつまでも待っている』と。
多分、ここで退くのが正しいのだろう。
けどごめん。俺は、メアを、助けたい。
いま逃げたら、永遠に彼女を失ってしまう。
俺は一歩、前に出た。
それが俺の答えだった。
「愚かな……」
静かに、悼むように、主馬は呟く。
恐らく俺は、死ぬのだろう。
覚悟と云うより、確信した。
だが何度時を繰り返しても、同じ選択を俺はするだろう。
運命の天秤に俺とメアの命を乗せ、傾くのが何時も決まっているように。
後悔は、なかった。
「ま――そうするでしょうね。あなたなら」
俺の右横に、明日香が足を踏み出し、並んだ。
「逆にこれで尻尾撒いて逃げたら、それこそユマじゃないよ」
左横に、晴れ晴れとした顔の鈴が並ぶ。
「…………二人とも」
言葉が無かった。
感謝と感銘と、溢れる涙だけが在った。
勝てるかもしれない、こいつらがいれば。
理由のない希望が、厚い雲の切れ間から射す一筋の光のように、俺の前に輝いていた。
絶望的状況での味方ほど、心打つものはありません。
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