悪役令嬢とお兄様
キルリア国の王都東側にそびえ立つ、険しい岩肌をあらわにしたイトナ山。
国王の居城はイトナ山を後背にして建てられているため、王都の街並みは城の裾から西に向け、扇の形に広がるようにして形成されていた。
西には遮るような山がなく日暮れがとても長いため、黄昏の都とも呼ばれているキルリア王国の王都。
城の高層にある空中回廊の端、北塔の石壁に背を預けながら、城下の街並みをぼんやり眺めていた棃璃は、北塔の階段を上がってくる気配に気づき、上体を起こして振り返る。
「――ここは主塔の影に入るから寒いだろう」
しばらくして回廊に姿を現したのは、棃璃の兄、香璃だ。
会談の途中で聖女を強制退場させたあと、棃璃の留学準備に奔走していたらしく、会談時に着用していた公爵子息の装いのままである。
最低最悪な婚約者(一応主君)のせいで、忌々しいとしか思えない深緑色のドレスだが、今の役どころにはむしろぴったりだと、すっかり開き直った棃璃は、口元に手の甲を当て仰け反りながら応える。
「あ~ら、この程度でお寒いですって? おーっほほほ、浅はかなお兄様! お花畑聖女さま主催のお茶会に出席した方が凍えるような寒さを味わえてよ!」
心得の図解通りに実践してみたが。
棃璃が仰け反ったまま様子を窺うと、香璃は何とも表現のしようがない顔で、ひとつ咳払いをしてから口を開く。
「まず、麻里嬢の茶会はまさしくその通りだと伝えておこう。ついでに陛下が一緒だと、さらに身体の芯まで凍りつく極寒の冷えを味わえる」
ふたりきりの兄妹として「教えてもらってありがとう」とお礼を言うべきか。それともキルリア国王に仕える同じ家臣として「日常的に凍りついてお疲れ様です」と労うべきか。
とりあえず、今後は誰から誘われても王城での茶会には参加しないでおこうと、棃璃は心の中で固く決意する。
「で、聞くが、陛下から何かもらったな」
続く香璃からの言葉は問いかけではなく断定である。
棃璃は姿勢を元に戻し、空間の隙間に隠していた羊皮紙を、メルキオールの指輪を使って取り出す。
「兄様の仰るとおり、陛下から頂戴しました。お花畑聖女さまお手製の『悪役令嬢心得五箇条』だそうです」
ひったくるようにして棃璃の手から奪い取った香璃が、怒りで肩を震わせながら羊皮紙に記された内容を確認しているが、思いのほか時間がかかる。
司綺に命じられて聖女の教育係を務めている香璃ですら、聖女の書いた文章を読み取るのはそう簡単ではないらしい。
決死の形相で解読している香璃を眺めながら棃璃が言う。
「今のままの私では、婚約破棄の根拠となる悪役令嬢としての罪状が不足しているそうです。なので、留学先でもこの心得を胸に刻み、悪役令嬢として精進するようにと、陛下から仰せつかりました。ですから私、立派な悪役令嬢になれるよう、力いっぱい頑張りますね」
お花畑聖女さま作『悪役令嬢心得五箇条』を解読したせいか、面を上げた香璃はげっそりやつれ果てている。
「……棃璃、真剣な顔で言うのはやめてくれ」
「では、悪役令嬢らしく派手に高笑いしながら申し上げた方がよろしいですか」
「違う! こんなことで頑張る必要はないと言っているんだ!」
深い溜息をついた香璃は羊皮紙を丸めて上着のポケットに突っ込む。没収されるとは思わなかった。
「兄様、お返しいただけないのですか」
「返すわけがないだろう」
「そうですか。まあ、全部覚えてしまったので結構ですけど」
「相変わらず無駄に頭が良い」
「そんなお褒めいただくほどでも」
「違う! 嫌みだ!」
香璃は前髪を掻き毟りながら、上着の内ポケットから取り出した一通の封筒を、棃璃の前に突き出す。
受け取った封筒の裏を見ると封蠟はされていなかった。今すぐ中を開けて見ろ、ということらしい。
封筒の中に入っていたのは三つ折りの紙。最上質の紙で作られたのは、キルリア国王の印章が押された公文書。留学先の国へ提出する棃璃の身分証明書だ。
クライン子爵家令嬢、リリアナ・クライン。
棃璃は首を傾げる。
偽名はともかく、クライン子爵家は聞き覚えがない。
「私が不在の間に叙勲された家ですか?」
「そうじゃない。お前の留学のために用意した架空の家柄で、王宮魔術師団の正団員に任じられて一代限りの子爵位を得た当主のひとり娘、という設定だ。我が国の公女を他国の王立学院に留学させるのだから、最低でも伯爵位を用意できれば良かったんだが、一代限りの伯爵は慣例上あり得ないし、今の状況下でどこかの家から名を借りるのは危険だからな。子爵位が限界だと思って諦めてくれ」
他国での扱いは身分で決まるため、本来の身分である公爵令嬢と、一代限りの子爵令嬢では、留学先での待遇は雲泥の差だろう。だが、師団を率いて他国へ遠征し慣れている棃璃にとっては、身分による待遇の違いなどはどうでもよかった。気になるのは香璃が口にした、危険という言葉の真意だ。
「――危険、ですか」
棃璃がじっと見つめると、香璃は諦めたように肩を落とし、周囲を気にしながら声をひそめて言う。
「分かっているんだろう。お前を留学させる本当の理由は」
「陛下が本気になられたということですね」
司綺が即位して五年。マギ・バルタザールの地位と優れた政治手腕で、数々の功績をあげてきた司綺。国民からは前王を超える名君だと讃えられ、三大公家のエスタ公爵家とサラザール公爵家の当主らを含む高位貴族たちも、今や司綺に忠誠を誓っている。
そう、残るはナイトレイ公爵家当主、棃璃たちの父親である可衣・ディ・ナイトレイだけ。しかし父にとっての司綺は主君ではなく、いつまで経っても経験不足の若造でしかないようだ。
司綺を軽んじるような発言や態度を、誰から諫められても一向に変えようとせず、国の重臣としての職務は棃璃たちに丸投げ状態。国王主催の行事にも代理を立て、司綺の呼び出しにも応じない。王城には諜報の役目を与えた子飼いの使用人を送り込み、様々な噂話を集めては、自分に有益だと判断したときだけ大公としての権を行使する。
そうして即位五年を経て、自身の足場を固めた司綺は、可衣・ディ・ナイトレイを政敵と見なし、彼を国政から排除するために動き出した。
「陛下の目的は王城から父の影響力を払拭することだ」
狙いはナイトレイ公爵家ではなく大公自身。だが、大公は現当主としてナイトレイ公爵家の実権を掌握している。司綺の目論みに気づいた大公が、どんな手を打ってくるのかは分からない。最悪は武力を行使してくることだが、その際、司綺にとって最大の脅威となり得るのが、棃璃だった。
「陛下の先手が、我が師団の無力化ですか」
「ああ、師団の要である棃璃を留学という名目で遠ざける。父がお前を令嬢として王城へ寄越したのは渡りに船だった」
棃璃という最強の切り札を、大公はそうと知らず司綺に差し出した。棃璃の攻略をどうすべきか、考えあぐねていた司綺にとっては、この上ない好機だったといえるだろう。
そう、これは避けられない政争なのだ。
司綺と可衣・ディ・ナイトレイとの。
香璃は真摯な目を棃璃に向けて聞いてくる。
「私は陛下の臣だ。父に何を言われようと陛下のご意志に従うと決めている。――棃璃、お前はどうなんだ?」
司綺につくのか、父親につくのか。
どちらを選ぶのかと兄に問われた棃璃は、少し考えてから正直に答える。
「私には分かりません」
「だろうな。お前が選択する意思を持っていたら、陛下はもっと早くに動いていただろう」
「ならば、今このときに陛下が動き出されたのは、お花畑聖女さまがきっかけですか」
「信じがたいことに、陛下は本気で恋をされているからな」
――恋。
何でもないことのように口にした香璃。恋がきっかけならば、どんなことでも起こり得る。それが当然だといわんばかりの顔で。
棃璃はすっと鋭く目を眇める。
「恋。――そう、恋ですか」
「――ん、ん!? 急にどうしたんだ!?」
香璃がぎょっとした表情で聞き返してくる。棃璃の全身から立ち上る殺気を察知したらしい。
棃璃はにっこり微笑んで言う。
「要するに、本気の恋をされた陛下によって、お花畑聖女さまの悪役令嬢に仕立て上げられた私は、父と事を構えるに当たって邪魔だからと、かの国へ留学させられるわけですね」
「だから、その物騒な気配は何なんだと」
「で、兄様もこれ幸いと陛下の案に乗ったと」
「これ幸いというわけでは」
「私とお花畑聖女さま、どちらが王妃となっても苦労させられそうだけれど、陛下の幸せを第一に考えて、あと思っていることが分かりやすいお花畑聖女さまの方が扱いやすいだけまだましだと、兄様はご判断されたのでしょう?」
「いや、だから、その」
「ですよね。お兄様」
「……まあ、端的にいえばそういうことだが」
殺気を込めた笑顔で脅したら、香璃は馬鹿正直に認めてみせた。
棃璃は「うふふ」と意味深に微笑む。
「そうでしょうね。だってお兄様は、たったひとりの妹よりも、陛下のことがだ~い好きなんですから」
「誤解を招くような言い方をするんじゃない」
「誤解? 事実でしょう。陛下の笑顔が可愛くて悶絶してらしたのに」
「だから誤解だと言っている! それは幼い頃の話だ! というか、なぜお前がそれを知っている?」
「陛下が教えてくれました」
「あのひとは~っ!?」
司綺にとって幼年期に過ごした香璃との記憶は、皆に語ってあげたいバラ色の思い出だが、香璃にとってのそれは、記憶から根絶したい黒歴史に他ならない。
香璃はわざとらしく咳払いをしてやや視線を逸らせて言う。
「言っておくが、私にだって想うひとはいるんだ」
「男ですか?」
「女に決まっている!」
「初恋が陛下だったのに」
「なぜお前がそれを知っている!? ――ああ、わかっている。わかっているとも。陛下だな、陛下しかないが、それはもういい。昔の話だ。今の私には恋しい女性がいるんだからな!」
司綺にいい様に振り回されて日々苦労している兄だが、ちゃんと好きな女性を見つける余裕はあったようだ。
恋。誰もかれもが人生観を変えるような恋をする。
恋を知らない自分にはちっとも分からないけれど。
黙り込んだ棃璃を見つめ、香璃は深い息を吐いて言う。
「陛下が恋をしなければ、政略結婚もやむなしだと思っていた。だが、陛下が恋をした以上、陛下に対して何の恋情も持たないお前が王妃となるのは、双方にとって不幸にしかならないだろう。父の思惑も、公爵家の栄誉も関係ない。私はお前の幸せのためにも、陛下の案に乗ることを決めたんだ」
香璃の真摯な眼差しを受けて、棃璃は居住まいを正し、キルリア王国最強の魔術師団を率いる師団長として、厳しい口調で兄に問う。
「――ナイトレイ公爵家の嫡流継嗣はキルリア王国の要。嫡流たる父と兄様と私、三人全員に何かあれば、王国の結界は崩壊する。キルリア王国の結界崩壊は、王国の滅亡を意味し、世界の終焉を招くでしょう。陛下はそれを察して手を引きました。それでも兄様は私の幸せのために、この賭けに乗られますか?」
「乗る」
迷いのない兄の宣言。兄の覚悟。
棃璃は静かに視線を下げて答える。
「分かりました。では、私は兄様たちの邪魔にならぬよう旅立ちます」
「そうか。こちらのことは私と陛下に任せて、お前は普通の令嬢として留学生活を楽しんで来い。留学先で素敵な出会いがあることを祈っている」
香璃に笑顔で告げられて、棃璃は「え?」と怪訝そうに聞き返す。
「素敵な出会いとは?」
「は? いや、だから留学の目的だろう。素敵な男性と出会って恋をして――ええと、確か、『婚活』とか言っていたな」
ここにもお花畑聖女さまの信者がいた。
棃璃は冷ややかに笑んで言う。
「兄様、恋とはどうやってするものなのか、ご教授いただきたいのですが」
「何を言ってるんだ。お前だって恋のひとつやふたつ――え、まさか、お前、初恋もまだ何て言わないよな」
香璃が軽く笑いながら言ったが、話の途中、圧のある棃璃の微笑で真実を察したようだ。
香璃は目を見開いて叫ぶ。
「はあ!? 貴族令嬢はもちろん市井の娘たちからもキャーキャー言われる、ナイトレイ魔術師団の男たちに囲まれている立場で、初恋もしたことがない!?」
「うちの師団員は誰もかれも手のかかる面倒な男ばかりですよ。どこに恋する要素があるのかはなはだ疑問です」
肩をすくめる棃璃。香璃は頭を抱えて呻くように言う。
「あり得ない。お前の情緒はどうなってる」
「恋を知らないことがそんなにおかしいことですか?」
「おかしいに決まっている。まったく、お前が恋した男を連れ帰ってくると思って根回しを始めていたというのに。そうならないなら、麻里嬢の腹案しかないが――お前、本気で悪役令嬢になるつもりか?」
兄から疑わし気に問われ、棃璃の腹は決まった。
棃璃は両手を腰に当てて胸を張り、意気揚々と宣言してみせる。
「そうですね。わたくし、陛下やお花畑聖女さま、そしてお兄様のご期待に添えるよう、かの国で精進を重ね、必ずや世界最強の悪役令嬢になって舞い戻って参りますわ」
「は!? 世界最強!? 待て! そんな期待はしていない!」
慌てて止めてくる香璃に、棃璃は口元に手を当てて「あら、そうですの?」と笑みを深めて返す。
「陛下には心待ちにしていると仰っていただけましたのに」
「陛下が心待ち? お前を悪役令嬢として断罪して婚約破棄するのを?」
「いいえ。わたくしが悪役令嬢として陛下を断罪して婚約破棄するのを、ですわ」
「ちょっと待て。誰が、誰を、断罪すると?」
「このわたくしが、陛下を」
「冗談じゃない!」
香璃が血相を変えて「落ち着いて考え直せ!」と懇願してくるが、棃璃の知ったことではない。棃璃は生き生きとした表情で高笑いして言う。
「おーっほっほっほ。父を始めとした重臣の方々が立ち並ぶ謁見の間で、あの救いようのない根性悪の、腹黒陛下を断罪できるだなんて」
「本気か!?」
「もちろん。と~っても楽しみですわ。おほほほほ」
「頼むからやめてくれーっ!!」
香璃の情けない叫び声が背後のイトナ山に谺して王城内に響き渡る。
最低最悪な婚約者(一応主君)は今頃、忠実なる下僕の叫びを耳にし、愉快そうに笑っているに違いない。




