恋を知らない悪役令嬢1
「黎璃・ナイトレイ公爵令嬢、君との婚約を破棄する」
長年の婚約者から面と向かって婚約破棄を言い渡された黎璃は、眉ひとつ動かさず、手にしていたカップの紅茶をひと口飲んでから、彼を見据えて静かな声音で聞き返す。
「陛下に申し上げます。我が国の王たるお立場とはいえ、陛下が私に対し一方的に宣言されただけで、そんなことが可能だとお思いですか?」
「それはもちろん無理だよね」
あっさり手のひらを返してみせたのは、青みを帯びた銀髪に深緑の瞳、絢爛豪華な純白の衣装を着こなした、怜悧な美貌の男性。
彼の名は、司綺・ヴィ・ラ・キルリア。前王の崩御に伴い二十才で即位し、現在は二十五才になる、魔術大国キルリアの若き国王である。
対するナイトレイ公爵令嬢の黎璃は、漆黒の髪、印象的な琥珀色の瞳をした、清楚な美少女。ほっそりした細身の体を包むのは、司綺の瞳と同じ色をした深緑色のドレス。公女としての優美な所作、落ち着いた雰囲気から大人びて見えるが、実はまだ成人前の十五才だ。
とはいえ、その黎璃も半年後には十六才の誕生日を迎えて成人し、来年の今頃に執り行われる婚礼の儀をもってキルリア国王妃、司綺の正妃となる予定だったのだが――。
ここは王城の上層階、主塔と北塔の間に渡された空中回廊の中央付近に設けられた、石造りの殺風景な休息所。
高所からの展望だけが素晴らしいこの場所に、わざわざテーブルセットを運び入れ、茶会をしようと言い出したのは司綺である。
こんな不便な場所にもかかわらず、護衛どころか給仕係の者まで人払いしたことから、司綺が何か企んでいるとは黎璃も察していたが、まさか婚約破棄を突きつけられるとは思いもしなかった。
円形のテーブルを挟んで黎璃と対峙する司綺は、手元のカップを優雅に持ち上げて続ける。
「キルリア王家の流れを汲む三大公家の筆頭、ナイトレイ公爵家の令嬢にして、魔術師の最高位――賢者メルキオールの称号を持つ君との婚約は、王家と三大公家の約定によって定められたもの。それを一方的に破棄することなど、私にはできない」
「ではなぜそんなことを仰いましたの?」
小首を傾げてみせた黎璃に、司綺は片眉を上げて言葉を返す。
「英邁な君なら察しがつくのではないかな」
「そうですね。ですが、よほどの愚か者でもない限り、どなたでも分かると思われますけれど」
黎璃はカップを受け皿に戻して右手を見やる。
そこには誰も手を付けないのをいいことに、ケーキスタンドごと手元に引き寄せ、四人分のケーキを夢中になって食べている少女がいた。
黎璃と司綺が無言でじっと見つめていると、ようやく注視されていることに気づいた少女が、慌てて背筋を伸ばして黎璃に話しかける。
「ごっ、ごきげんよう! 悪役令嬢さま!」
「……悪役令嬢?」
黎璃が眉をひそめて聞き返すと、ひっと顔を引きつらせた少女は、椅子ごと司綺の隣に移動する。
「司綺さまぁ、黎璃さまは綺麗すぎるから、怒ると怖いですぅ」
擦り寄ってくる少女の頭を優しく撫でながら司綺がなだめる。
「ほらほら落ち着いて、私の可愛い麻里。彼女は怒ったわけじゃない。常日頃からこんな感じの仏頂面なのだよ。婚約者である私に愛らしい笑顔を見せてくれたことなど一度もないくらいに」
「ええっ、ほんとに? 司綺さま、かわいそー」
「慰めてくれるの? 優しいねぇ、私の可愛い麻里は。――おや、麻里の可愛い口にクリームがついているよ」
そう言って司綺は少女の口元についたクリームを指の背ですくって舌で舐めた。司綺の艶めかしい仕草に、少女は頬をバラ色に染める。
真っ赤な面を伏せて恥じらっている少女を、司綺は甘い眼差しで見つめたまま言う。
「さて、ザルグ公国における高位魔物の第一級討伐任務を終え、王都に帰還したばかりの君には紹介が必要かな」
「結構ですわ。私が師団を率いて遠征したすぐ後、異世界からおいでになった聖女を陛下が保護されたことは、王城より報告を受けて存じ上げておりましたから」
「具体的には?」
「聖女の御名は麻里・タケミ、聖国ハルベルの聖教会で正式に認定された異世界の聖女」
黎璃の上品な装いとは対極的ともいえる、リボンとフリルで飾られたピンクのドレスに身を包んだ少女は、子リスのように愛嬌のある童顔で、黎璃よりも年下に見えるが、本人の自己申告によると年は二十才。何でも『チキュウ』という異世界の『ニホン』国から訪れたという。
肩口で切り揃えられた亜麻色の髪、瞳は神力を宿す聖女の証―あざやかな金色をしている。
異世界の聖女と会うのは初めてだが、昔に読んだ文献の通り、異世界で生まれた聖女であっても瞳の色は、こちらの世界で生まれた聖女と同じ金色になるらしい。
黎璃は静かな微笑を浮かべて続ける。
「聖女としての神力は並程度ながら、明るく朗らかで素直な、たいへん愛らしい少女で、昼夜問わず陛下のおそばに侍り、陛下の無聊を慰めておられると聞いております」
「実に的確な報告だ。ちなみに誰から聞いたのかな?」
「それはもちろん、ここで死んだふりをしている我が兄、陛下の忠実なる下僕からですわ」
黎璃が人差し指で差し示したのは、この茶会が始まった当初からテーブルに面を伏せて動かない、司綺の忠実なる下僕。
彼の名は香璃・ナイトレイ。司綺と同年の二十五才。ナイトレイ公爵の長子、黎璃の実兄だ。高位貴族の公子として幼少期に司綺の学友となり、司綺が王太子時代から秘書官を務め、即位後は側近として筆頭政務官の地位にある。
「香璃、大丈夫かい?」
主君の司綺が心配そうな表情で問いかけると、香璃は面を伏せたまま硬い声で答える。
「大丈夫ではありませんので、今すぐ離席をお許し頂きたく存じます」
「それは聞けないなぁ」
「なぜですか」
「ほら。悪役令嬢といえど、味方がひとりもいないのでは、さすがに心細いだろう」
またもや悪役令嬢と称され、黎璃のこめかみがぴくりと動く。同時に香璃の肩もびくっと強張る。
視界に入ってなくても黎璃の怒りを察知できるのはさすが兄妹というべきか。
「我が妹のことを仰っているなら、余計なお世話だと思われますが」
香璃が早口になって訴える。よほどこの場から逃げ出したいらしい。そんな香璃の心情をしっかり汲み取った上で司綺が言う。
「ひどいなぁ、香璃は。私の慈悲を余計なお世話とは」
「そうですよ~、香璃さまったら」
少女が主君との会話に割り込んできたところで、がばっと勢いよく面を上げた香璃は、きつい口調で少女に言いつける。
「麻里嬢、君は黙っててくれないか」
「ええ~、麻里だけ仲間はずれなんてひどいですぅ」
「心配しないで、私の可愛い麻里。仲間はずれになんてするわけがない。そうだろう、香璃?」
「私に話を振らないでください!」
黎璃は白白とした気持ちで三人を見つめる。
ザルグ公国からの魔物討伐要請に応え、ナイトレイ魔術師団の師団長として遠征していたひと月ほどの間に、王城の雰囲気はこの脳天気な聖女のおかげで、すっかり様変わりしてしまったらしい。