君は騙されているんだ
こんなこと、ありえない。小さく呟くものの現実は変わらない。
目の前で扉はきっちり閉まり、開くような気配は一切ない。
「なぜ……」
アレクシスの口から出た言葉を聞いたメイドは、双方顔を見合わせる。
確かに、ここ最近の王女殿下の様子がおかしいと聞いていたが、ここまでおかしいだなんて思っていなかった。
前は皆に好かれたいとあれほど必死になっていたのに。そう思うと何なんだ、という怒りが湧いてきてしまう。
しかし、彼女──ヴィオレッタの様子はまるで。
「私たちが、見捨てられたみたい」
ぽつりとメイドが呟けば、ぎょっとしてアレクシスが視線をやってくる。慌てて『違うんです! つい!』と弁明したものの、そうとしか思えない行動の数々があるのだから、否定はどうやったってできない。
「見捨てる……? あのハズレが、……この俺を……?」
見捨てるのはこちらの方だ、と叫びたかったが、ヴィオレッタの無関心だけが光る目が、怖かった。
アレクシス様、とまるで縋るようにしてこちらへ声をかけてきていた様子。適当に選んだ花束を嬉しそうに抱える様子。色々な様子が思い起こされてくるのだが、ふとあの無機質な目が過ぎっていく。
「……っ」
本当に、ヴィオレッタに見捨てられたのか。見捨てるほどのことをしたのか、と思うが思い当たることしかないではないか。
どうしたものかと再び大きな溜息を吐いていると、こちらへとぼとぼと歩いてくる小さな影があった。
「……あ」
ヴィオレッタの弟、リカルドだった。
将来のお兄様だね!とアレクシスに随分と懐いてくれているのだが、こちらの姿を見つけても以前のようにぱっと顔を輝かせて駆けて来てくれる様子は見られない。
「リカルド殿下」
「あ……アレクシス、さま」
ぺこりと頭を下げられ、アレクシスもつられて頭を下げた。ふと視線が合うものの、表情はどこまでも暗い。
「どうかしたのかい?」
「アレクシス様こそ、どうしたんですか? もしかして…姉様に、会いに?」
あれ、と思う。
確かリカルドはヴィオレッタのことをお前だのハズレだの、散々な言いようだったのにな、と考える。そもそも姉をそう呼ぶのはどうなんだ、と注意したこともあるのだが、注意した張本人がしれっとハズレと呼び続けているのだからタチが悪い。
「リカルド殿下、どうして彼女のことを姉様、と……」
「呼んでは、いけませんか」
「え?」
「たった一人の、大好きな姉様をそう呼んではいけないのですか!」
「大好きな、って……」
その先はきっと言ってはならないと判断し、アレクシスは口を閉じる。リカルドも察しているのか、ぐっと押し黙って涙が零れそうになるのを必死に堪えている。
「殿下は、その……ヴィオレッタのことを、お好きで、いらっしゃったの、ですか」
「そうだよ。悪い?」
「あ、いえ。ですが、あの」
「父上も母上も、……あなたも!」
「え?」
ぎくりと条件反射でアレクシスの体が強ばってしまう。
「皆が姉様を役立たずとか言うから、っ、……姉様は、役立たず、なんかじゃない、のに」
我慢しきれなくなったのか、ぼろぼろと涙が溢れてくるが拭わないままリカルドは叫ぶようにして言い続けた。
「皆が! 姉様を傷付けたんだ!」
一番ストレートに、その場にいた全員に突き刺さるその言葉。
そうだ、使用人たちもリカルドも、父や母、アレクシスも、皆揃って彼女を役立たずと罵った。
魔法が使えないことを『無能』だと指さして笑った。
風邪を引いても心配なんかしなかったし、寝ておけば治ると言ってから見舞いの品も贈らずに無視した。
存在そのものをなかったことにして、自由になってしまいたかった。そう願ったのはアレクシスなのだが、いざヴィオレッタから突き放されると途端に怖くなったのだ。
「だ、が……彼女との婚約関係はまだ破綻していない! 殿下だって、きっとヴィオレッタを諦めていないのだから、こうして部屋の近くに来たのでしょう?!」
「……近付くと、吐き気がするって拒絶されたよ。この前ね」
泣きながら絞り出すように言われた言葉に、アレクシスは愕然とした。
あのヴィオレッタが、そんなことを……?と呟けば、緩く首を横に振るリカルド。
「違う。姉様が召喚した聖女だかいう奴に言われた。……姉様が、僕を拒絶してるって。近寄るだけで吐き気がするって」
「は……?」
何だそれは、とアレクシスは思う。
もしやその聖女とかいう存在に操られているのではなかろうか。そうだとしたら辻褄が合うのでは。
そう思い、口を開こうとした矢先に部屋から出てきたヴィオレッタと、メイドたち、アレクシス、リカルド、それぞれ視線がばっちり合ってしまった。
「ヴィオレッタ!」
「……まだ帰られていなかったのですか」
「ね、姉様!」
「……」
何も言わないし、何も気にかけない。
無関心な眼差しを向けて、はぁ、と聞こえるように溜息を吐いたヴィオレッタに対して、アレクシスは必死に言葉をかける。
「ヴィオレッタ、お前は騙されているんだ! 聖女とやらに!」
その言葉に、ぴくりと反応をしたヴィオレッタは、心底嫌そうに先程よりも大きな溜息を吐いたのだった。
「……そうだとしてもあなた方には何の関係もございません。大体、アレクシス様はわたくしとの婚約をたいそう嫌がっておいででしたし、解消しても良いのでは?」
「ま、まて、まってくれ、どうしてそうなる」
「……都合のよろしい記憶喪失ですこと。アレクシス様、あれほどわたくしのことを嫌って、遠ざけていたのをお忘れですか?」
冷たく言って、その場にいる全員の間をするりするりとぬって、ヴィオレッタは歩いていく。昔のように背中を丸めることなく、真っ直ぐに。
その様子はどうやって見ても、王族そのもの。いや、これまでも王族だったのだが、あまりの自信のなさに萎縮したように縮こまって歩いていたから、王族として見えなかったのだ。
『都合のいい記憶喪失』という言葉は思いきりアレクシスの心に突き刺さった。
彼女を遠ざけにかかったのは、彼自身。そして周りはそれを面白がり、煽った。
「ヴィオレッタ!!」
思いきり叫ぶと、ぴたりとヴィオレッタは立ち止まる。
そして振り返った彼女は変わらず興味無さそうな表情しか浮かべていない。
ぐ、とアレクシスは表情を引き締めて改めて叫んだ。
「いいか、お前に宿った聖女とやらはまがい物だ! 騙されないでくれ、心優しいヴィオレッタに戻っておくれ……!」
まるで演劇の主役のように、跪いてヴィオレッタに手を差し出すアレクシスを見てメイドたちはぼろぼろと涙を零す。何と綺麗なんだろうと感激して。
それが、明日香ではなくヴィオレッタの地雷を思いきり踏み抜いたなど、その場の誰も想像しなかった。