おかえりなさい
「――――!」
「……!!」
あれ。
ここは、どこだろう。
目を閉じたまま、じわじわと浮上してくる意識の中で、明日香は考える。
「……ぅ」
とてもまぶしくて、色んな人の声が聞こえる。
聞いたことのあるような声ばかりが、あちこちから、わいのわいのと聞こえてきている。
明日香は、一体何なのだろう、と体を動かそうとしたものの、うまく体が動かせない。
「(何で……?)」
それに、何だか口周りに違和感がある。
どうして、何で、という言葉がぐるぐると回り、ともかく一度目を開けて状況確認をしなければ、と薄ら目を開いた先に見えたのは、長い間見飽きるほどに見続けた無機質な天井。
「…………?」
あれ、と呟きたかったけれど、言葉が出てこない。
「っ……先生を呼んできて!明日香、お母さんがわかる?明日香!!」
「明日香、お父さんもいるからな!」
「あなた、そんなことよりも先生を!!」
「あ、あぁ!」
ばたばたと走り回る両親。
「(あぁ……そうか)」
帰ってきてしまったんだ、と明日香はすぐに察した。
そうだ、あの世界に召喚される直前、ごぼりと吐血をしてしまったのだった。
だから色々点滴やら何やらに繋がれてしまっているけれど、果たしてあの倒れた瞬間からどのくらい時間が経過しているんだろう。
「(ヴィオちゃん……ごめん。もっと……ううん、もう少しだけ、あと五分で良かった。一緒に居られたら……)」
思ったところで、明日香にもヴィオレッタにも、どうしようもなかったことなのだろう。
フルパワーを解放してもなお、あれだけの時間を過ごせたのは恐らくあまりいないのではないか、と推測していたら、先生が走ってきた。
「明日香ちゃん、大丈夫か!?分かるかい!?」
喋ることは出来ない、その代わりと言ってはなんだが明日香はこくん、と首を縦に振った。
「信じられない……」
ボロボロと涙を零している母、母を支えるようにしている父。
一体、いつぶりに見たんだろう、と明日香はまた考える。長い間あの世界にいて、色んなことを駆け巡るように体験していたから、何だか時間の感覚が全く分からなくなってしまっている。
「呼吸は?問題ない?」
「……」
明日香は、こくり、とまた首を縦に振った。ほっと安心したように息を吐いた主治医は、そっと酸素マスクを外してくれて、脈を取ったり、目の下を少し見て貧血の状態だったり、手早く色んなことを確認している。
そして、少ししてから目をまん丸にして、明日香の両親へと向き直った。
「奇跡、かもしれない」
「え……?」
「今まで、明日香さんの脈はとても弱々しかったんです」
「は、はあ」
何が言いたいんだ、と明日香の両親は不思議そうに顔を見合わせた。
「あの、先生?」
「脈が、とてもしっかりしています。それに……酷すぎるほどの貧血だったのに、とてつもなく改善されている」
「え、えぇと?」
明日香の両親は、明日香が吐血をして倒れた、という知らせを受けて急いでやってきた。だが、一体全体どうしていきなり病状が改善しているというのか。意味があまりにも分からなくて、明日香の母は、いつの間にか涙が引っ込んでいたらしく、明日香のところに歩み寄ってそっと手を握った。
「明日香、お母さんが分かる……わよね?」
「……うん」
あ、普通に喋れた、と明日香はほっとした。
あれだけどばどばと血を吐いたのに、本当に何も無いんだなぁ、とあっけらかんとしている娘の様子を見て、両親はまた、わっと泣き出してしまった。
「お、お母さん……お父さん……?」
「良かった……!」
「あなたに何かあったら、わた、私は……っ」
あの子の両親も、こんな人達だったらきっと、もっともっと幸せな日々を過ごせていたんだろうなぁ、と明日香は思う。
いきなり帰ってきてしまったし、まともにさようならだって言えていない。
けれど、明日香の本来在るべき世界は『ここ』なのだ。
「……ただいま」
「明日香?」
母親がどうしたの?と聞いてくれるが、何でもないよ、と微笑みかけておいた。
「ひとまず、体に異常がないかどうか、検査しようか。お父さんとお母さんは、少し待機していてもらえますか?」
「はい」
「わかりました」
あぁそうか、と明日香は納得して看護師が用意してくれた車椅子に乗って、運ばれていく。
きっと、もう何も無い。あるわけがないのだ。
明日香の体の異常は、向こうの世界に呼ばれていたからであって、決して何かの病気の類などではない。役目を果たせたから、もう、明日香は健康そのもの。とはいえ、現代なのだから『異常がない』ことの証明をしなければきっと誰も納得しないだろう。
「(……会いたいなぁ)」
帰ってきてしまった早々に申し訳ない、と心の中でヴィオレッタに謝りながら、検査室へと向かっていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「うーん……」
検査の結果、当たり前だが何も無い。何なら数日中に退院しても良いですよ、と言われた両親は抱き合って喜んだ。
主治医も誰も彼もが、奇跡だ、と喜んだ。
「奇跡、ねぇ」
あんなファンタジーなことを経験するだなんて、恐らく現代ではありえない事なんだと分かっている。分かっているけれど、ヴィオレッタと過ごした短い日々は、本当に楽しかった。
笑いあって、手を繋いで、美味しいものを一緒に食べて、まるで永く付き合いのある友人のようにはしゃいで、辛いことは支え合って。
「……トイレ」
一人って、寂しいよね、と心の中で改めて呟いた明日香は、のそりと起き上がって病室を出てトイレに向かう。
長期入院になってしまって、親には金銭負担をとんでもないくらいにかけてしまった。色んな制度を利用したから大丈夫、と言っていたが、それだとしても負担は相当なものだろう。
少しは返さないといけないなぁ、と思うが、まずは勉強しないことには色々どうにもならない。
「でも……あれが無かったら、私はヴィオちゃんに会えなかった」
自分に言い聞かせるようにして呟き、トイレに入って用を済ませる。
「……お約束よね、こう……病院の夜中のトイレでの心霊現象って」
口に出してしまうと、大変雰囲気もあるし、怖い。
「アホか私は……もー……」
さっさと手を洗って部屋に帰ろう。
そう決意してザバザバと手を洗ってから、ふと顔を上げて鏡を見た先。
「…………へぁ?」
『…………え?』
ヴィオレッタが、目をまん丸にしている。つられるように明日香も目をまん丸にして、あんぐりと口を開けて鏡をガン見した。
「ヴィオ、ちゃん?」
『アスカ……さん?』
二人揃ってとんでもない間抜け顔になったまま、お互いに鏡の中にいる相手を指さして、あんぐりと口を開けたままで少しの間見つめ合ってしまっていたのだった。




