二人三脚(強制)①
いつも、見えている景色は病院の窓からのものだけだった。自分の足で歩いて外に行くことなんて、ここ数年できていない。
ファンタジー小説ならば、病状が悪化して、何かしら特別なことが起きてしまえば、異世界に召喚されて、チート級の能力が付与されて冒険が始まって…というお約束な展開が待っているに違いない。
しかし悲しきかな、ここはあくまでも現実でしかない。
いくら憧れようとも、夢見ようとも、『現実』はあくまで現実でしかないのだ。
「まぁ、そんな都合のいい展開なんか来るわけないんだよなー」
あっはっは、と笑うのは入院生活かれこれ十年目に突入しようとしている橘 明日香。
小学校の頃にいきなり発症した一切の原因が不明であると診断された難病により、最初は通院だけだったものがあれよあれよと症状が悪化。
そしてベッドから起き上がることは出来て、歩くことは多少出来たとしても、長時間ベッドから離れて行動することが出来なくなってしまったのである。
原因不明の難病に、医者もあっという間に匙を投げた。一応、医者の誇りというものにかけてあちこちに問い合わせや相談などをしてくれて、治療方法は探してくれているらしいが果たして見つかるのだろうか?という状況らしい。
「…いっぱい、色んなところを歩いて…あ、そうだ。海とかにも行っちゃったりして! ……良いなぁ、みんな」
外は何処までも明るく、空は青く澄み渡っていて高い。
病室から見える景色の中にいる人たちは、皆、自分の足で歩き回っている。
「…羨ましい、なぁ…」
父も母も、明日香のことを気にかけていてくれるのは分かっている。
発作が起きてしまった時、周りに迷惑をかけたくないという明日香の言うことを尊重して、個室にしてくれたのもとてもありがたい。
けれど、やはり寂しいものは寂しいのだ。
「……駄目だな、今日は」
ぽつり、と呟くと知らない内に涙がぽとりとこぼれ落ちた。
「おっかしいな…涙腺崩壊してるぞ…?」
ぽとぽと落ちる涙は止まらない。
いくら拭っても、止まるような様子は見られなく、どうしたものかと明日香は思わずため息をついた。
と、その時だった。
「へ?」
涙がぼろぼろとこぼれ落ち、しゃくりあげようとしたその時、ひゅう、と奇妙な音が自分の喉から聞こえた。
次いで、痰が絡んだような咳と共に吐き気が込み上げてきたので慌てて口を塞いだが遅く、何かを吐き出してしまった。
「……ぇ」
己が吐き出したもの。もしかして嘔吐したのかと思っていたが全く違っていた。
掌に、血が、べったりと付着していたのだ。
どうしてこんなもの、と思っていたのも束の間。ごほごほと咳き込む度、喉の奥から次から次へと溢れてくる血。
おかしい。だって、今のところ処方されている薬も自分自身にはきちんと合っているはずなのだ。先生もそう言っていたし、ここ最近は症状も安定していたはずなのに、どうして。私、は…。
そこまで考えて、ふっと意識が遠のいた。
うっすらと父と母、そして主治医の悲鳴と怒号と、色々なものが聞こえてきたが、誰がどれを発して、何がどうなっていたのか分からないまま、明日香の意識は暗く、深いところへと落ちていったのである。
「…はて…」
首を傾げ、きょろきょろと周りを周囲を確認する。
「ここどこ?」
何も無い真っ白な空間と、真っ白なノースリーブのワンピースを着ている明日香。
こんなものは着た覚えは全くない。病院にいたんだから、パジャマ、もしくは着替えとして持ってきてもらったスウェットだったり。ついでに言うなら、着替えた記憶なんかあるわけもない。
「いや待って、これは…この、体は…」
はっと気付き、手のひらをぐーぱーして動かし問題ないことを確認する。追加でその場でぴょんぴょんと飛び跳ねてみるが、これも問題ない。
「もしや健康な…体?!やったぜ神様ありがとうー!!!」
渾身のガッツポーズを決め、拳を天にぐっと突き上げた明日香だったのだが、同時にふと我に返った。
今こうして健康な体(だと思われるそれ)を手に入れたということ、イコール、病の完治ではない可能性が高い。
というか、ここ何処だ。はて?と首を傾げているが、恐らく普通の世界ではなさそうだけれど、色々な技術が発展していた日本、もしくは世界でこんな非現実的なことがあってなるものか、と明日香は冷静になっていく。
「まぁ冷静に考えておかしいわ」
ふー、と息を吐いてからはしゃいでしまったことを少しだけ反省する。
けれど、嬉しいものは嬉しいのだ。
ずっと病院での入院生活が続き、ろくに学校にも通えず、持ってきてもらうプリントや課題をこなしたり、幸いにも院内学級があったので勉強は出来ていたが、それでも同じクラスの友達と離れてしまうことが寂しくないわけではない。
「で、ここどこ」
うっかりこのまま考え込んでしまうと気持ちがふさぎ込んでしまう。どうにかして自分のメンタルを良き方向へと導かないと負のスパイラルに陥ってしまうことは目に見えている。
よっし、と己に言い聞かせるように呟く。改めてこの場所が何なのかということを自覚するために口に出したのだが、自分以外の誰かの声なんて聞こえるわけはない。そう、思っていたのだが。
「落ち着いているのかはしゃいでいるのか、どちらかはっきりしてくださいませ」
「え!?」
いきなり聞こえたもう一人の声に明日香は思わず飛び上がる。
「落ち着くか、はしゃぐか。どちからにしてくださいと申し上げましたの。聞こえていて?」
「……は、はい」
何やらとんでもない美少女に叱られてしまった。というか窘められてしまった。
更には気が付くといつの間にか、テーブルと椅子がこの空間に出現している。先ほどまで何もない、真っ白な空間だったのに、だ。
追加でテーブルの上には色とりどりなお菓子がたっぷりと用意され、ティーセットまである。
「…アフタヌーンティーセット?」
「貴女、お茶会に参加したことないの?本気で仰っていて?」
「いや、現代日本でそんなもんないです」
「げ…ゲンダイ、ニホン?」
「…え、ええ?」
何だか妙に会話がかみ合っていない。というか、明日香の目の前の椅子に座っているこの美少女。
明らかに日本人ではないのに、どうしてだか会話が成立しているではないか。明日香自身、英語を喋れるわけではない。入院生活が長いし時間があるからといって特別な勉強をしているというわけでもないので、外国語を話せるというわけでもない。
「すみません…とりあえず、自己紹介とかしませんか?」
「良いことを言うわね。賛成よ」
すい、と右手を挙げて頷いてくれた美少女は椅子から立ち上がり、綺麗にカーテシーを披露する。
「ん?んん?」
そして、優美に微笑んで胸に手を当てて聞き取りやすい速度でその彼女は自己紹介をしてくれた。
「初めまして、異世界の方。私、ヴィオレッタ゠ディルフィアと申します。ディルフィア王国第一王女として生を受けました。今は十五歳。王立学院に通っておりますが、諸事情ございまして少しの間休学しております。復学はもうすぐですわ」
「十五歳でこんな丁寧なあいさつ出来るのすごいね…」
「王女ですもの、当然でしてよ」
「へぇー…」
「貴女は?」
ヴィオレッタは着席し、じっと明日香を見つめた。
先ほどは窘められてしまったが、明日香のことは興味深々といった様子で見ているため、これは早めに自分も自己紹介をしなくてはいけない。
だが、何を言えば良いのだろうか。七歳の頃に入院してからほとんどまともに外にも出られていない。しかも友達は限りなく少ない上にこういう時はどうやって自己紹介をしたものかと悩み、おずおずと口を開いた。
「えーっと…、橘 明日香っていいます。歳は十七歳。ずっと病気で入院してたから…学校にはほとんど行けてない、です。それと、ここに来る前にわたし、は…」
死んでるんですよねー、と続けようとして、明日香の口が止まってしまう。
認めなければいけないであろう己の『死』。それを口にして、自身が死んだことを自覚してしまうことが怖くて、ぎゅっと手を握りしめた。
「…アスカさん、落ち着いてくださいませ」
「ご、ごめんね…えっと」
「ヴィオレッタですわ。長いので、ヴィオ、とお呼びください。皆さまそう呼んでくれております」
「ヴィオちゃん、私は…どうして君と話しているの、かな。そもそも、ここはどこ?私は…死んでるん、だよね?」
「どう、申し上げましょうか…」
言葉を濁すヴィオレッタの様子に、明日香は訝し気な表情になる。
「えぇと…ですね」
「う、うん」
「率直に申し上げますと…まだ、死んではいません」
「まだ?」
「…まだ」
うん、と頷いてヴィオレッタは難しい顔をする。
どうやら何かしら事情があって、明日香はここにいるらしいが、まず分かったこと。
嬉しいやら悲しいやら、だが自分がまだ『死んでいない』ようだ。だが、いきなり血をごぶごぶと吐き出してしまったあれは何だったのだろう。
「ひとまず、生きてる?」
「はい。…ごめんなさい…」
「ま、待って!何でヴィオちゃんが謝るの!?」
深々と頭を下げて謝罪してくるヴィオレッタに、明日香はぎょっと驚いてしまう。自分が血を吐いたことと、ヴィオレッタが何がどう関係しているというのだろうか。
「…その、可能性の一つとして申し上げます。アスカさんのお身体の調子が悪くなってしまっているのは、我らの世界からの影響の、可能性が…」
「……え?」
ゆっくりと顔を上げたヴィオレッタの表情は、先ほどまでのどこか勝気なそれとはすっかり変わっていた。
だが、彼女たちの世界からの影響とはどういうことなのだろう。そもそもこんなファンタジーな出来事、あの技術があれこれ発達している日本であり得る訳がない。あくまで現実は現実。こういった展開なんて、小説の中だけだと明日香は思っていた。この瞬間までは。
「アスカさんは、幼い頃からお身体が弱かったのではございませんか?」
「そ、う。七歳の頃だったかな…いきなり倒れちゃって…」
「十年前、ですわね」
「そうそう、それで…」
「…時期が、一致しますわ…」
時期?と明日香は首を傾げる。
ヴィオレッタの顔色はみるみるうちに悪くなっていく。慌てた明日香はヴィオレッタの元に駆け寄って、そっと背を撫でる。
「ご、ごめんね。いきなり触られるの、嫌かもしれないけど…」
「…申し訳ございません…アスカさん。お見苦しいところを…」
「…駄目だよ、無理しちゃ。あんまり年上っぽくはないけど、一応私はヴィオちゃんより年上だし、あと、初めて会ったけどこんな顔色悪い人を放ってはおけない」
ね、と明日香が微笑みかけるとヴィオレッタの目にじわりと涙が浮かんだ。
「え!?ご、ごめん!えらそうにしちゃったかな!!」
「…いい、え…。申し訳ございません、アスカさん…」
美少女を泣かせてしまった…!と明日香はとても焦っていた。こんな美少女を泣かせたと、しかもこの子王女って言ってたよね!?やっべぇこれ従者の人とかに知られたら殺される!?世が世ならギロチンか!?というくらいには、内心大焦りであった。