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 程なくして『"呪われた王子"と小国の姫君が仲睦まじく過ごしている』との噂が囁かれ始めた。噂の出どころは新婚夫婦に仕える、口の軽い使用人達だ。彼らは休暇や買い出しの為に外へ行っては、出会った元同僚や友人に見てきた光景について報告し、それが王宮にも拡がったのである。急に態度を変えたエイレーネを悪し様に言う者もいたが、言葉をどう選んでも最後にはリファトとの仲は良好という所に行き着くしかない。

 噂を聞いた人々の反応はほぼ決まっていた。皆、一様に耳を疑い、信じようとはしなかった。より顕著だったのは第三王子のアンジェロだろう。国王に謁見した日、回廊ですれ違ったリファトのすぐ上の兄だ。彼は話しを耳にするなり「おかしな幻でも見たのだ」と一笑に付して、歯牙にもかけなかった。

 しかし、後になってから妙に気になり始めたアンジェロは、出先から戻るついでに弟夫婦が暮らす古城へ立ち寄ってみる事にした。そこで彼は、噂話が真実であると認めざるをえなくなった。

 朽ちた壁から覗き見た先では、年相応に笑う義妹と、幸せそうに目尻を下げる弟が、仲良く寄り添っていたのである。庭の隅を指差し、何やら相談している二人は内容など聞かなくても心底楽しそうだった。

 穏やかで微笑ましい光景なのに、アンジェロが感じたのは激しい怒り。それは最早、憎悪に近かった。彼の弟虐めは兄弟の中でも突出しており、王宮では皆が知るところである。嬉々として弟をいたぶっていた事から、残忍な性格が窺えよう。アンジェロにとって醜い弟を下等の人間と見なすのは、生きがいの一部ですらあった。そんな、絶対に底辺でなくてはならない弟が、兄を差し置いて幸せを振り撒く事などあってはならなかった。許し難い罪だとさえ思った。


 アレは化け物らしく、惨めな姿を晒しておけばいいものを。ああそうだ、あの少女を奪ったらどんな顔をするのだろう?絶望に満ちた顔なら見ものだ。悲壮に暮れる背中はさぞかし愉快に違いない。


 弟の無様を想像し、少しだけ気を良くしたアンジェロは揚々と二人の前に躍り出るのだった。

 当然ながら、予想だにしない闖入者にリファトとエイレーネは目を丸くする。


「兄上…!?急にどうなさったのですか?」

「やあ。この間は挨拶もせずに失礼した。僕はアンジェロだ。以後よろしく、可愛い義妹」


 アンジェロは弟を視界にも入れず、居ない者のように無視した。彼がにんまりしながら話かけたのは、びっくりしすぎて固まったエイレーネのみだった。曖昧に会釈するのがやっとの彼女へ、畳み掛けるような台詞が続く。


「こんな陰気な場所に病人と引きこもっていては、君まで病気になってしまう。まったくこの愚弟は酷いことをする。僕と一緒に出掛けないか?歌劇場なんてどうだろう。君に似合う美しいドレスも贈るよ」


 歯の浮くような台詞を語るアンジェロだが、彼にも妻がいる。リファトよりずっと早く婚約が決まり、派手な挙式を経て夫婦となった。だが、歪んだ性根の彼が夫では円満な結婚生活が望める訳もなく、破綻は目前である。だからこそ余計に弟が許せなかったのだろう。

 眉目秀麗の王子だと称賛を受けるアンジェロに、甘く囁かれれば靡かぬ女はいなかった。だがしかし、その逸話も今日で終わりのようだ。エイレーネは義兄の誘いをきっぱり退けたのである。


「申し訳ありませんが、謹んでお断りさせていただきます」


 迷い無く一刀両断されたアンジェロは、虚を突かれたように目を剥く。更には弟の背後へ下がろうとする挙動もかなり気に入らなかった。何故エイレーネが拒むのか、彼女は醜い弟を選ぶのか、アンジェロには理解できない。彼はエイレーネの手首を無遠慮に掴んで退路を断つ。こちらへ引っ張ろうと力を込めるが、彼女は抵抗してきた。嫌がる素振りがアンジェロの憤りを煽り、加虐心に火をつける。


「此奴との初夜は失敗したそうじゃないか。可哀想に。恥をかかされて辛かっただろう?でももう大丈夫だ。僕の愛人にしてあげよう!」

「………」

「ん?愛人は嫌だったかい?君が望むなら、今の妃と離婚してもいい。嬉しいだろう。化け物の住処から君を救ってあげるんだからさ」


 エイレーネは生まれて初めて、怒りで頭が真っ白になる感覚を味わった。立場も敬意も投げ捨てて、ふざけるなと叫びたかった。化け物の住処だなんて、侮辱も甚だしい。ここの庭は、リファトがエイレーネのためだけに用意してくれた場所。小さくとも、世界でたった一つしかない庭園なのだ。彼の優しさを、彼の真心が詰まった場所を、侮辱されるのは耐えれない。

 怒る事に関して淡白なエイレーネが憤慨している傍ら、彼女の上を行く、本気の怒りを覚えている者が居た。


「いい加減にしてください。兄上」


 それは低く、唸るような声だった。いつもの優しい顔つきを消し去ったリファトは、エイレーネを捕らえる無粋な手を引き剥がしにかかる。黒い手袋の下には骨の浮き出た細い指しかないはずなのに、兄の腕を掴む力には目を見張るものがあった。


「僕に触るな!!汚らしい!!僕まで呪われたらどうしてくれる!!」


 リファトが触れた途端、アンジェロは勢いよく手を振り払い、憎々しげに顔を顰めた。大声で怒鳴り散らす姿には威厳も何も無い。この兄弟は見目も、激情の表し方も正反対であった。


「仰る通りですよ。問題は全て私にあります。エイレーネには何の落ち度も無いのですから、彼女を辱めるのは兄上であろうと許さない」

「化け物風情が偉そうに吠えるな!お前が必死に庇う女も僕を選ぶに決まっている!それがこの世の理なんだ!お前はみっともなく指を咥えて見ていればいい!さあ、僕と来い。エイレーネ姫。君だって本当はそう思っているんだろう」


 目の前に差し伸べられた手には当然、黒い手袋なんて無い。傷一つ見当たらない、健康的な肌。爪の先まで手入れの行き届いた綺麗な掌だった。リファトはそれを羨ましいと思った。憂いを感じる必要もなく触れられる事が、心の底から羨ましい。

 しかしエイレーネはそれを綺麗とは思わなかった。その手を取ることは義兄の言い分を認めると同義であり、絶対にしたくない事であった。


「わたしが神の御前で永遠の愛を誓ったのは、リファト殿下ただお一人です!」


 エイレーネは義兄には目もくれず、リファトだけを見つめて言い放つ。彼女の言葉は一瞬にして怒りの均衡を崩した。よりにもよって下等な弟の前で面目を潰されたアンジェロは更なる憤怒に燃え。心から愛しむ女性に情熱的な台詞を言われたリファトは狂喜乱舞しそうな心地であった。

 その後、アンジェロは悪態の限りを喚き散らしていたが、汚すぎる単語の数々に二人の耳は音を拾うのをやめた。呪詛を吐き切るとそのまま帰っていったが、怒涛の数分間はまるで嵐が到来したかのようだった。


 ようやく静けさが戻り、遅まきながらエイレーネは己が何を口走ったかを認識する。鳩尾のあたりから噴き出てきた想いのまま声を出してしまった。頬が異様に火照り始めるのがわかり、尚のこと感情を持て余した。


「……エイレーネ」

「は、い。殿下……」


 口籠もりながら返事はしたものの、エイレーネの視線は落ち着きなく彷徨っている。そっと呼ばれた声が、すこぶる優しいのもいけない。羞恥ゆえに目を瞑りたくなる彼女は気付かなかったが、リファトの青白い頬にも赤みが差していた。彼はエイレーネが放った言葉の意味を噛み締め、胸を満たしてゆく多幸感に涙ぐみそうになっていたのだ。


「…誓いの言葉は本来『死によって引き離されるまで愛することを誓う』なんですよ」

「はい…?えっ?」


 脈絡が無いようで有るようなリファトの切り出しに、エイレーネは首を捻った。結婚式での宣誓に関してだろうか。覚える事が山積みだったエイレーネは、結婚式に一夜漬けと変わらぬ浅い知識で臨んでいた。だから、宣誓の言葉が違うだなんて聞かされても、正直ちんぷんかんぷんである。それでもエイレーネは数ヶ月前からの記憶を掘り起こしてみる。彼は確か──永遠に変わることのない愛を誓います──と宣誓していた。


「あれは、私の本心から出た言葉です」


 リファトの想いを言い表すのに、型通りの宣誓では全然足りなかった。つまり、エイレーネが淡々と復唱しただけの台詞は、決して"三度目の永遠"などではなかったのだ。そう理解が追いついた刹那、心臓から熱をもった血潮が全身を駆け抜ける。ひときわ大きな心音が鼓膜を叩く内なる衝撃は、純情な彼女を当惑させるのだった。


「私はずっと貴女に懸想していました。気持ちの悪い話ですが…婚約した時からずっとです。だから先程の言葉は本当に嬉しかった。もう何に喩えて良いかわかりません。今、一生分の幸運を使い果たしたのだとしても、悔いは残らないでしょう」


 感情の整理が間に合わないエイレーネは、優しくも熱烈な調べに翻弄されっぱなしだ。


「私にできる事は殆ど何もないのに、貴女から返ってくるものは十倍にも二十倍にもなっているので、釣り合いがとれませんね」


 幸せすぎて困った、というように破顔するリファトであるが、対するエイレーネは胸が詰まるだけで笑い返せなかった。


「私は非力な男ですが、矢面に立つ事はできます。それくらいしか貴女を守る手立てがありませんので、その役目はどうか私に譲ってください。戦う剣にはなれなくとも、エイレーネを守る盾でありたいのです」


 彼はどこまで己を犠牲にすれば気が済むのだろうか。献身的な愛にエイレーネの心は揺り動かされるも、溢れたのは哀しみの涙であった。濡れるエメラルドグリーンの瞳に、リファトは一変して狼狽える。


「っ!?すみませんっ、気に障る事でしたか…?」

「…殿下がわたしを大切にしてくださるのは嬉しいです。ですがそれ以上に、ご自分のことも顧みていただきたいです」


 エイレーネはぽろぽろと落ちる雫をそのままに、震える声でひと言ひと言を紡いでいく。


「自分のことなら何でも後回しにして良いと殿下が微笑むたび、私は哀しい気持ちになります。もっとご自分にも優しくなってください。どうして…どうして殿下は他人にばかりお優しいのですか…っ」

「エイレーネ…それは買い被りというものです。優先順位の先頭が貴女であるだけで、私は存外、欲深い人間なんですよ。今すぐにでも、この口で告げた約束を反故にして貴女に触れたい、などと考えていますから」


 リファトの蒼い瞳に葛藤が生じるのを、エイレーネは見た。どこまでも優しい彼のことだから、泣いている人間を前にしてただ立っているだけなのは辛い事に違いない。しかしリファトはどんな時でもエイレーネを尊重するのを忘れない。彼はきっと「貴女が良いと思えるまで」という言葉を完遂する。許しが出るまでその場から動こうとしないだろう。許されなければ動けないとは、なんて哀しいことか。己を抑圧することに慣れてしまったと言わんばかりの苦笑に、エイレーネはますます涙があふれた。


「…わたしの……涙を、止めてください。殿下の手で…」


 涙声で嘆願されて漸く、リファトはエイレーネとの距離を詰める。懐から取り出したハンカチを使い、止めどなく流れる涙を拭ったのだが、リファトは弱ったように眉を下げた。


「…困りました。どうすればエイレーネの涙は止まるのでしょうか」

「もっと、ちゃんと…触れてほしいです」


 エイレーネにしてはかなり大胆な言い方だった。けれど、はっきり伝えなければリファトは直ぐに手を引いてしまう。優しい微笑みの奥に、何もかも押し込めてしまうだろう。実際、エイレーネがここまで言っても、彼はまだ葛藤と闘っている。


「……不快に思うはずです。綺麗なものではありませんから…」


 今度はエイレーネが一歩、距離を詰めた。二人の間隔がグッと近くなり、リファトは咄嗟に半歩退こうとする。だがそれ以上、後退することは叶わなかった。エイレーネが彼の右手を両手で包み込み、引き留めていたからである。


「エ、エイレーネ…ッ」

「わたしがっ、愛を誓った方の手です!そんな風に仰らないで…」


 尻窄みになっていく語勢と、見据えられた双眼に、勝つ術など無かった。リファトはありがとう、と短い感謝を述べた後、ゆっくりと手袋を外す。

 初めて間近で見る彼の手は、痛々しい様相を呈していた。顔と同様に変色の度合いが強く、爪も歪に変形してしまっている。それでもエイレーネは気持ち悪いとも怖いとも思わない。これが彼の手なのだと認めただけである。

リファトはおずおずとエイレーネの手を握ってきた。とはいえ彼女の体感としては、羽毛が指先に触れたも同然であり、およそ手を握るという感覚ではなかった。


「……貴女は…どこまで、許してくれますか…?」


 それは、虫の羽音よりも小さな声で問われた。彼が己に許せたのは、微かに触れ合う指先のみ。消え入りそうな声音から、エイレーネは彼の精一杯を悟った。なんていじらしく、無垢なひとなのだろう。その瞬間に、エイレーネの心は決まった。


「全部…どうぞ」


 エイレーネから指を絡ませにいけば、同じくらいの力で握り返される。軟膏が塗られた彼の手は少ししっとりしていた。

 無言で見つめ合うこと数秒、リファトは空いていた手を伸ばし、エイレーネの頬に添えた。ほのかな薬の匂いが鼻を掠めたかと思えば、不意に彼の顔が近付いてくる。接吻されると直感したエイレーネは思いがけず目を瞑った。しかし、彼女の予想に反して、彼の唇は眦に残る涙を掬い取っただけであった。ゆっくりと目を開けたエイレーネが見たのは、蕩けるような甘い甘い笑顔を浮かべるリファトだ。


「ありがとう、エイレーネ。ですが、全部を受け取るのはもう少し先にします」

「な…何故です?」


 勇気を出して純潔を捧げる旨を告白したのに、これでは肩透かしもいいところである。恥ずかしさも忘れてにじり寄る彼女へ、リファトは言い聞かせるように説明した。

 初潮が訪れた女性なら子を持つ事が可能だが、早すぎる妊娠は母体に危険が及ぶ。性急に後継ぎを作れと迫られ、命を落とした女性をリファトは知っている。彼の従姉妹はそうして亡くなった。丁度エイレーネと同じ年頃だった。故にリファトは初めから、少なくとも三年は性交渉を避けるつもりでいた。


「この件に関しては、我を通させてもらいます」

「…わかりました。殿下の御心のままに」


 誰が何と口出ししようと貴女が大切だと真剣に言われてしまえば、エイレーネは頷くしかない。


「あの、では…一つだけ、お願いしたいことがあるのですが…」

「!貴女の我儘なら大歓迎ですよ。何でしょうか」

「あ、ありがとうございます…」


 弾むようなリファトの物言いが、エイレーネを更に赤面させた。もう心臓が壊れてしまいそうだった。


「わたし、祖国では家族から"レーネ"と呼ばれていたんです。殿下にもそう呼んでいただきたいのですが、お願いできますか?」

「……良いのでしょうか。大切な、呼び名なのでは…」


 彼の言う通り"レーネ"という愛称は、とても特別なものだった。エイレーネの家族だけが使っていた呼び名、すなわち彼女にとっては幸福の象徴そのものなのである。


「はい。今までお伝えする機会を逃していたのですが…夫となる方にもそう呼んでいただくのが、密かな夢でしたので…」


 慎ましい願い事にリファトは相好を崩した。


「そう、ですか。では……レーネ」

「!はいっ」


 エイレーネは花が綻ぶように笑う。彼女の頬は花弁よりも可愛らしく染まっていた。

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