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リファトが熱を出して寝込んだのは、開花を喜び合った矢先のことである。肌寒い日が続いたので彼は体調を崩してしまった。本人の言い分によれば、悪天候が続くと時たまこうなるらしい。微熱が数日続いて終わっていくだけなので放っておけば治る、との事だった。しかしそう聞いたエイレーネが、はいそうですかと納得するはずもなかった。
彼女はすぐさま使用人達に、リファトの侍医を呼んできてほしいと頼んだ。必要であれば自分も共に行くからと。ところが彼らは顔を見合わせた後、肩をすくめただけで一歩も動こうとしなかった。エイレーネはさらに頼み込もうとしたのだが、使用人達が棘を含んだ声を使って牽制しにかかる。
「遠くからいらっしゃった姫君はご存知ないでしょうが、王子が熱を出されるのはいつもの事ですよ」
「微熱くらいでいちいち駆り出されていたら、きりがありません」
「姫君は我々をこんな土砂降りのなか走らせるんですか?今度はこっちが熱を出す羽目になりますよ」
余所者は引っ込んでいろとばかりの勢いに気圧され、エイレーネは俯いた。彼女だって出来るものなら己の足で侍医を呼んでくる所存だ。けれども、近辺の地理すら頭に入っていない状態では、口頭で場所を告げられたところで、目的地に辿り着くのは至難の業。だから地の理がある者に案内をお願いしたかったのだ。
落胆しながらリファトが休んでいる寝室に戻る途中で、エイレーネはせめて毛布を持っていこうと思い立つ。確か寝室の隣は衣装部屋のような扱いになっていた。自分達が着る衣装は、毎朝そこから持ってきているようだし、毛布の一枚くらいはあるに違いない。
エイレーネは衣装部屋に入り、毛布を探した。有り難いことに分かり易い場所に収納してあったので、さほど時間も掛からなかった。なるべく荒らさないよう注意は払ったが、後で非難を聞くことになるかもしれない。でも今は早く戻るのが先決だ。毛布を脇に抱えて部屋を出ようとした時、エイレーネは室内の様相にふと引っ掛かりを感じた。具体的に何がと問われると返答に困るのだが、きゅうと胸が疼くような違和感がある。だが結局、妙な感覚の正体は突き止められず、その場は小首を傾げるだけに終わった。
駆け足気味に廊下を戻り、寝室のドアノブに手をかけた直後、くぐもった咳の音が聞こえてきた。エイレーネが勢いよく扉を開けると、半身を起こしたリファトが背を丸めて咳いているところだった。
「殿下っ」
「ごほっ…だい、じょうぶです。心配しないで…けほっ」
熱が上がり悪寒がするのだろうか、口元を押さえる手先が小刻みに震えている。何とも苦しげな姿を前に、エイレーネはただおろおろすることしかできない。彼女には下の兄弟達を看病した経験があることにはある。だが、弟達にしたのと同じ看病を、持病のあるリファトにして大丈夫なのか判断がつかない。絞った手拭いでさえ、皮膚病が重症な額に置けば害となるかもしれないのだ。何の知識も無いエイレーネでは、彼の傍らで無力に手をこまねくのが関の山であった。
「…エイレーネ」
「は、はいっ。何でしょうか」
「どうぞ…貴女は、いつも通りに…過ごしてください」
思いも寄らぬリファトの言葉に、エイレーネは目を見開く。いつも通りに、とはどういう意味だろう。平時のようにのんびり読書をしていろと…?
それを、臥せっている殿下が仰るのですか?
喉の奥から込み上げるものを感じつつ、エイレーネは彼を見つめた。
リファトは患っている皮膚病ゆえに、顔色というのが読みにくいはずである。分かるとすれば血色が悪い、程度だった。けれど顔色なんか読めなくとも、彼の眼差しからはこちらを気遣おうとする心がひしひしと伝わってきた。エイレーネは、こんなにも優しい瞳を持つ人を他に知らない。
「…皆を怖がらせているのは、自分でもわかっています。貴女も我慢なんてしなくて良いんですよ。心配してくださっただけで充分過ぎるくらいですから」
「そのような、ことは…」
「良いんです。こんな見目の人間は不気味でしょう」
そう言いながらリファトは目尻を下げる。困ったように微笑むのを、エイレーネは息を凝らして見守っていた。しかし一つ瞬いた瞬間に、彼女の大きな瞳から透明な雫が流れ落ちたのだった。エイレーネの涙は止まる事なく、次々に頬を伝っていく。
それに仰天し、慌てふためいたのはリファトである。今し方まで在った穏やか面持ちはどこかへ行き、今度は彼がおろおろする番であった。
「…っ、いいえ。違います…違うのです」
リファトの指摘は尤もだ。結婚してからの数ヶ月間、彼と真正面から向き合おうとしなかったのはエイレーネである。胸に巣食う漠然とした恐怖に怯え、逃げ続けていた。
「確かにわたしは、怖さを感じていました。ですが、それは殿下に対してではなかったんです。わたしは…周囲の人々を恐れていたに過ぎませんでした」
使用人に笑われないため、国王の顰蹙を買わないため、国民から歓迎されるため。他人の目を気にするのも時には必要な事だけれど、その事ばかりに気を取られてはいけなかった。人の噂に雁字搦めにされ、己を見失う事こそ、恐れなければならなかったのだ。"皆が言うから"それが何だというのか。所詮は他人の目が見て感じた、単なる一つの意見だ。エイレーネが自分の目で確かめた事ではない。そんな単純で当たり前の事を疎かにしたせいで、リファトに哀しい言葉を言わせてしまった。
ああ、そうだ。つい先刻覗いた隣の部屋。あそこには寝具が無かった。体を横たえるような場所など無いのに、リファトは初めての夜に何と言っていたか。一つしか無い寝台をエイレーネに譲ろうとしてくれたではないか。惜しみなく示される優しさから逃げるだけのエイレーネに、一度として腹を立てる事もなく。エイレーネを最優先にすることだけを、ひたすらに考えて……。
彼が怖いかという問いに、エイレーネは否と即答しよう。見目なんて瑣末な事。老いて皺だらけになれば、誰だって同じようなものなのだから。変わっていく外面より、変わらぬ内面の輝きの方が、遥かに価値のあるものだ。
「……殿下。今しばらくご辛抱くださいませ」
「エイレーネ…?あの、何を…」
やや雑に涙を拭ったかと思えば、エイレーネはスッと椅子から立ち上がり、そのまま颯爽と寝室を出て行ってしまった。それこそリファトが引き止める暇すら無かったのだった。
適当にあしらって追い払ったはずの姫君が舞い戻り、使用人達は腰を抜かしかけた。休憩室で駄弁っている彼らをぐるりと見渡したエイレーネは、凛とした声で命じる。
「もう一度言います。殿下の侍医を連れて来てください」
「いやしかし先程も申し上げた通り…」
半笑いで反論しようとした使用人だが、言い終わる前にエイレーネの言葉が被さる。
「あなた方の雇い主は誰ですか?リファト殿下ではありませんか。主人に然るべき敬意を払うのは、雇われているあなた方の義務です」
聞こえよがしに悪口を言っても、仕事を放棄しても、黙って俯くだけだった少女が、この数分の間で別人のように変わった。小柄な少女らしからぬ毅然とした態度に、使用人達はたじろぐしかない。
「殿下が熱で苦しんでおられるのですよ。"いつものことだから"などと軽視して良い理由はありません。あなた方の返答は『かしこまりました』だけであるべきでしょう。分かりましたか」
いかに齢十六の少女であろうと、エイレーネは生まれながらの王女。成長と共に磨き抜かれた気品と威厳は本物だ。使用人達を閉口させるだけの力がある。物言いこそ変わらず丁寧だったが、おどおどと頼み込んでいた姫君は、もうどこにも見当たらない。彼らは命令を遂行すべく、重い腰を上げざるをえなかった。
不承不承という感じは否めなかったものの、使用人達は侍医を連れて来た。リファトが生まれた頃からの主治医であるという彼は、ギヨームと名乗った。大勢の患者と接する仕事を生業にしている割に、他人を寄せ付けない気難しげな雰囲気を纏っていた。エイレーネが名乗り、寝室へ案内した時もかなり無愛想だった。しかしそれがギヨームの常のようで、リファトに対してもなかなか辛辣な言葉をぶつけていた。
「殿下がこちらへ移られてから、お呼びが掛かるのをお待ちしておりましたのに。定期的な診察をさせてほしいと、お願いしたではありせんか。まさかお忘れになったのではありますまい」
ぶつぶつ苦言を呈しながらも、診察を進める手つきは淀みない。そして止まるところを知らない文句も、聞いていればリファトを案ずる内容であると分かったので、エイレーネも口を挟まなかった。
「…面目ない」
「そうお思いになるのでしたら、しっかり養生なさってください。お薬を煎じますが、飲み切るまで見張っていますよ。あと、完治するまで毎日監視に来ますのでお覚悟を」
捲し立てるギヨームに、リファトは苦笑しながら頷いていた。
薬を煎じるなら厨房を使うだろうと、エイレーネは案内役を買って出た。小さな屋敷で案内もへったくれもないが、彼女にはギヨームに聞きたい事があったのだ。
「厨房はこちらになります」
「どうも、ありがとうございます」
「あの…ギヨーム先生。お薬を煎じている間、近くで見ていても良いでしょうか?決してお邪魔にならないようにしますので…」
「それに何の益があるのですか?」
ギヨームは冷ややかに返した。向けられる視線には疑念が含まれていた。
「先生のご都合がつかない時は、わたしが先生の代わりを務められるようにと、考えた次第です」
何もできないままでいたくない、エイレーネはその一心だった。熱意に燃える彼女であったが、ギヨームは取り付く島もなく突き放した。
「無礼を承知で申し訳ますが、医者の仕事は人命に関わるものです。軽々しく代わりを務めるなどと仰るのは、お止めください。私はそんな事に手を貸したくはございません」
「も、申し訳ありません…」
ギヨームは意地悪で言っているのではない。彼なりにリファトを気遣っている事は、エイレーネにも分かっていた。
「なにぶん私は暇な身でしてね。都合が悪い日は無いので、姫君のご心配は無用です」
「…分かりました。出過ぎた真似をして、申し訳ありませんでした」
エイレーネはしつこく食い下がる真似はせず、一礼してからその場を去ったのだった。