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 一連の騒動に興奮していた民衆も、首謀者がいなくなれば徐々に沈静していった。しかし王宮の中はというと、ひと段落するまでに少々時間を要した。というのもアンジェロ派の貴族が一気に抜けた席の補填やら、東部の領土分配やら、アンジェロの代わりにエイレーネが合同摂政となるのか否か等々、議論することが山積みだったのだ。

 それに加えて、二人の王子が取り合うほどの"傾国の妃"なる王太后を見てみたいと、好奇心旺盛で余計な客人が増えたのも多忙に拍車をかけた。今はまだ前王の喪が開けていないので、これでも大人しいほうだが、偲ぶ期間が終わったら一体どうなるのか。リファトは今から気を揉んでいる。


「年はとりたくないものです。視野が狭くなっていけない」


 とは、クレヴァリー公爵の最近の口癖だった。第四王子に対する風当たりが強く、指揮を取る立場になっても貴族達からの支持が得られないでいた事は、公爵の懸念材料であった。

 しかしながらリファトはエイレーネ共々、貴族を遥かに凌ぐ大勢の国民に慕われ、支えられていた。これはクレヴァリー公爵の予想を良い意味で裏切る、素晴らしい強みだ。カルム王国そのものが味方についたようなものである。第四王子夫妻の人気ぶりが明らかになり、反抗的だった貴族達の目を覚まさせたことだろう。


───呪われた王子と小国の姫。


 そう嘲られ、捨て置かれ、顧みられなかった二人が、民に望まれて輝かしい地位に君臨している。そこへ至るまでの道程は、途方もなく険しかったことであろう。吹き荒ぶ逆風の中を二人がいかようにして歩んできたのか、それを己が眼で見届けられなかった事が、クレヴァリー公爵は口惜しく思えるのだった。


「果てはあのマティアス殿下まで突き動かしまうとは…亡き陛下がご覧になったら、さぞ驚かれたでしょうな」




 さて、噂の夫妻であるが、彼らは旅支度に追われていた。リファトが上の息子と娘を連れて遠出するのだ。これは「いつまでも会議室の机に齧り付いているのは宜しくない」との判断を下したクレヴァリー公爵の計らいであった。

 忙しく働いたのはエイレーネも同じだったが、今回は留守番だ。乳飲み児の双子がいるし、次男のレフィナードもまだ本調子とは言えないので、王宮を離れることはできなかった。ここでリファトが渋り出すのは想定内であり、もろもろ心得ているエイレーネに丸め込まれていたのも想定の範囲内だった。

 旅先はカルム王国の北部、第二王子マティアスの屋敷がある街だ。辺鄙な所に屋敷を構えている為、旅の日程は一週間に及ぶ。


「うーん…手土産はこれで良いのだろうか」

「もうお包みしましたから中身は変更できません」


 初めて二番目の兄を訪うとあって、リファトは意味もなくそわそわと歩き回っている。律儀に付き合っているユカルにも、若干の呆れが見え始めた。

 その横でエイレーネは父に付いて行く子供達の準備を手伝っていたのだった。


「きちんとご挨拶をして、失礼のないようにするのですよ。お義兄様は足を悪くされていますから、思い遣りと気配りを忘れずに。良いですね?ライファン、ステファナ」

「はい。母上」

「わかりましたっ」


 二人とも素直で賢い子だが、数日がかりの旅路に母として不安は尽きない。エイレーネはいつもより語気を強めて言い聞かせていた。


「それから、絶対に一人で行動してはいけません。約束できますか?」

「はい。約束します」

「お父さまとお兄さまと、ずっといっしょにいます!」


 どたばたしつつも準備を終え、出立の朝がやって来る。

 エイレーネは宮殿の外まで見送りに出てきた。


「道中お気をつけていってらっしゃいませ。お義兄様とたくさんお話して、ゆっくり過ごしてきてくださいね」


 とても嬉しそうにエイレーネが勧めるものだから「下の子供達を任せきりにして申し訳ない」とか「自分だけ旅行に出てすみません」みたいな、消極的な台詞はリファトの喉の奥に吸い込まれていった。リファト自身も知らないうちに張っていた肩の力が抜けていく。笑顔で手を振ってくれるエイレーネをしっかり目に焼き付けてから、彼は馬車に乗り込むのだった。




 子供達にとって遠出と言えば、日帰りで海辺へ行く程度であった為、初めての長旅にはしゃぎ気味だった。常ならば明朗な妹を収める役目のライファンが、母譲りの瞳を輝かせていたくらいである。

 子供達が羽目を外しすぎないか冷や冷やしていた間は良かったものの、いざ兄の屋敷の前に立つとリファトは緊張を思い出した。

 あれから諸々の報告を兼ねて数度マティアスに手紙を出したのだが、相変わらず本人からの返事は無く……代わりにワルターが返事を出してくれるようになったので、訪問の目処が立った訳だ。ここまで来て躊躇しても仕方ないと頭では分かっている。しかし顔を合わせるのは幼年期以来というか、ざっと三十年ぶりなのでどうしたって当惑してしまう。

 でもこういう時、エイレーネならきっと───


『殿下が心配なさっていることは、絶対に起きませんから。大丈夫ですよ』


 なんて優しく励ましてくれるのだろう。リファトはそうやって想像力を使い、己を奮い立たせるのだった。


 まだ少し強張った面持ちのリファトを出迎えたのは家令のワルターだった。


「ようこそおいで下さいました。我々一同、心より歓迎致します。さあさあ、お入りください。マティアス様が首を長くしてお待ちですよ」


 マティアスの屋敷は、当初の古城を彷彿とさせる静けさがあった。余分な物が無くて、調度品も素朴な造りだ。使用人も必要最低限しか置いていないらしい。そんなリファトの視線に気付いたのかは分からないが、ワルターがわけを教えてくれた。


「マティアス様はもとから偏屈な方でしたが、落馬なさった直後の荒れようは何と申し上げたら良いのか…乗馬はあの方の生き甲斐でしたから。とにかく塞ぎ込んでは当たり散らすの毎日で、耐えられなくなった使用人が次から次へと辞めていったのです。いやはや一時はどうなる事かと思いましたが、リファト殿下のおかげで立ち直ってくださり、本当に感謝しています。私は勿論マティアス様も…おっと、そろそろ着きますのでお喋りは控えますね」


 いよいよ兄との対面である。リファトは緊張するあまり、掌だけでなく背中にも汗をかいていた。


「マティアス様。リファト殿下がお見えになりました。入っても宜しいですか」

「……入れ」


 扉の向こうから聞こえた声が思いのほか不機嫌そうな響きであったので、リファトは無意識に生唾を呑み込んだ。しかしワルターはまるで気にした様子もなく扉を開けて、入室を促した。リファトは恐る恐る一歩を踏み出す。

 兄マティアスは、車椅子に座っていた。

 眼光が鋭い人だった。乗馬が趣味だったからだろう、多少は衰えたかもしれないが、歳の割にがっしりした体躯をしている。むすっとした口元に、黒子があるのが見えた。

 顔の造りはこういう風なのだな、と。そう思ったのは多分リファトだけではなかろう。


「…あ、あの……」


 マティアスの眼光に怯み、リファトはあれほど熟慮した挨拶の台詞が出てこなくなってしまった。だが、あわや冷や汗が一筋落ちる寸前。


『リファト殿下のお気持ちを、そのままお伝えしてください。飾らない言葉で良いのですよ』


 耳の奥でエイレーネの声がした。幻聴でも何でも、彼女の言葉はいつだってリファトを力付けてくれる。おかげでリファトは深呼吸する余裕ができた。


「…兄上。兄上のお言葉は本当に…本当に嬉しかったです。兄上の弟になれて、私は幸せです」

「………」

「こうやってお会いできる日を夢に見ていました。伺うお許しをくださって、ありがとうございます」


 リファトは微笑をたたえながら言葉を重ねたが、マティアスは口を噤んだままだった。


「兄上のお加減はいかがでしょう」

「………」

「はあ…いつまでだんまりを決め込むのです?マティアス様。鬱蒼とした森しかない田舎までわざわざ来てくださったのに、感じが悪すぎですよ。最低です」


 つい先程、お喋りを控えると言っていたのは何だったのか。ワルターがいきなり辛辣に捲し立てるので、リファトのほうがぎょっとしてしまう。


「挨拶もまともに返せないなんて、小さなお子様方の前で恥ずかしくないんですか」

「う、うううるさいっ!!」


 家令から一方的に責められて、マティアスは漸く声を発した。ただしその顔は羞恥で真っ赤であった。


「会えて嬉しいくらい仰ったら宜しいでしょう。まったく素直じゃないんですから。良い歳して大人げないですね」

「お前こそ家令の分際で生意気だ!口の聞き方がなってない!クビにするぞ!」

「やれるものならどうぞ?私が居なくなって困るのはマティアス様でしょうに。古参の使用人が私しかいなくなった原因、まさかご存知ないとは言わせませんよ」

「口ばかり回る奴め…」

「それはどうも。ほら早く、リファト殿下にご挨拶してください」

「………」

「重症ですねこれは…」


 ワルターがわざとらしく肩を竦めるも、マティアスは口をもごもごさせるだけで、やっぱり何も言わなかった。

 二人の喧しい応酬を唖然としながら聞いていたリファトだが、終いには顔を綻ばせていた。そして父の横でぽかんとしていた子供達に「ご挨拶を」と促すのだった。心得たとばかりに頷いたライファンとステファナは、未だ家令に叱られている王子の近くへ、とことこ歩いていく。

 まずはライファンが折り目正しく自己紹介をした。


「伯父上。初めまして。私はライファンといいます。父上と母上を助けてくださったとききました。ありがとうございます」


 初々しさもありながら、模範的な挨拶だった。

 兄に倣い、ステファナが可愛らしくお辞儀をする。


「ステファナです。よろしくおねがいします。おじ様」


 厳ついおじさんを前にしても、ステファナは物怖じしなかった。それどころか、にこにこ笑って側に寄ってくるので、マティアスの方がかちんこちんに固まっている。


「お母さまは来られないので、お花をあずかってきました。わたしもお手伝いして、いっしょにつんできたんですよ。おじ様、うけとってください!」

「…う、うむ」


 人懐こい笑みと一緒に差し出された花束を、マティアスは非常にぎこちない動作で受け取っていた。その油の切れた歯車みたいな挙動に、ワルターはおや?と思う。

 伯父の様子のおかしい事に気付かないステファナは、無邪気にお喋りを続けた。


「わたし、お庭で一番きれいにさいてるお花を、つんでこようと思ったんです。そうしたらお母さまが、ここへ来るまでに一番きれいな時がおわってしまいますよって。あぶなかったです!おじ様に一番が渡せなくなるところでした!きれいにさくか、馬車にのっているあいだも見張っていたんですけど…あの、でも…窓のそとをみてて、ちょっとだけ見張るの忘れてしまったんです。けど、だいじょうぶだと思います!お母さまがおせわしたお花はみんな、ながもちするんです!」


 親が聞けばただただ微笑ましい報告であるが、果たしてマティアスは幼な子特有の目まぐるしいお喋りについていけるのだろうか。申し訳ないが、幼い子供と戯れる兄の姿が微塵も思い描けないのだ。リファトがちらりと兄を見遣ってみる。すると、マティアスは瞬きすらせずに硬直していた。


「ステファナッ。いっぺんにたくさんお話ししては、兄上が困ってしまう」


 大いに焦ったリファトは、尚も喋ろうとする娘を引っ込めようとした。家令に言い負かされているところを見るに、マティアスは口が達者ではない。父親であるリファトでも、子供達の話に頭がくらくらする時があるのだから、マティアスなら尚更だろう。未知との邂逅は兄の負担になってしまうかもしれない。だがしかし、リファトの不安は杞憂に終わるのだった。


「……べ、別に、構わん。好きにさせろ」


 マティアスの台詞はとても意外なものだったらしく、ワルターが驚愕の表情を隠しきれないでいた。


「…そっちのお前も。何でも喋ったらいい」


 マティアスはそう言って、礼儀正しく佇んでいたライファンにも声をかけた。声の調子こそぶっきらぼうであったが、気に掛けてもらえたと分かったライファンは、ぱっと表情を明るくする。

 子供達の他愛ない話を、マティアスは時折相槌をうつだけで、にこりともせず聞いていた。リファトには兄が眉間に皺を寄せて怒っているように見えたのだが、どうやら違うらしい。長らくマティアスを見てきたワルターに言わせると「可愛らしい甥と姪にでれでれですよ」との事だった。どのあたりが「でれでれ」してるのか、リファトには皆目見当がつかないが。


「まあ…その、なんだ……よく来た」


 でも、話の締め括りにマティアスがそう呟いた時、リファトにも「でれでれ」の意味がちょっとだけ理解できた気がした。




 予定では外泊を三日以内に留めるとしていた。マティアスが嫌がれば、顔をちらりと見て帰るつもりだったのだ。しかしながらワルターに強く引き止められ、滞在する日数を少し伸ばす事が決まった。彼曰く「もうお帰りになるの知ったらマティアス様が拗ねて面倒くさいことになります。このお屋敷は殆どが空き部屋同然なのですから、何の遠慮も要りません。どうぞどうぞ、お寛ぎくださいませ」だった。

 滞在期間の長さでマティアスが拗ねるかどうかは半信半疑だが、子供達は伯父にすっかり懐いた様子だったので、すぐに引き離すのも可哀想だろう。リファトはお言葉に甘えることにした。

 そして夕食の時間になり、子供達と共に席についたはいいが、一向にマティアスがやって来ない。


「おじ様はいっしょじゃないんですか?」


 食事は家族揃ってするのが当たり前に育ってきたステファナは小首を傾げた。無垢な瞳に見上げられ、ワルターは困ったように眉を下げるしかない。


「申し訳ございません。必ず連れて参りますので、しばしお待ちください」

「無理強いはしない方が…兄上のお気持ちもありますし」

「いえいえ。少しばかり強引に引っ張って差し上げた方が、マティアス様には丁度良いのです」


 流石、熟練の成せる業というか、年の功と言うべきか、ワルターはものの数分で主人を連れてきた。マティアスが見るからに不貞腐れているのでリファトははらはらしたが、家令はどこ吹く風である。唐突に「おい」と低い声で呼ばれ、リファトは返事を吃ってしまう。


「は、はい。兄上」

「…俺は堅苦しいのが嫌いだ。礼儀作法でごちゃごちゃ言われるのは大嫌いだ」

「と、いうのが当主のご意見ですので、皆様、無礼講で宜しくお願いします。別に誰も気にしませんと申し上げたのですがねぇ。しかし『おじ様がいなくて寂しそうですよ』とお伝えしただけで、」

「おい!ワルター!余計なことを言うな!!黙っていろ!!」

「私が黙っていたら誤解が生まれるだけじゃないですか。マティアス語の翻訳代を給金に上乗せしていただきたいくらいです」

「伯父上も、使用人の皆さんと仲良しなんですね」

「じゃあお母さまとおんなじです!」

「そっ…んな訳……」


 マティアスは否定したかったようだが、純粋無垢な瞳を前にすると強く出られないらしい。急激に勢いを無くして、口籠もってしまった。

 やたらと礼儀作法を気にしている彼の様子は、結婚したばかりの頃のエイレーネを想起させた。彼女は周囲から小馬鹿にされてもめげずに、一日でも早く習得しようと頑張っていた。それでリファトも一緒になって練習したものだ。


「…何を笑ってる」

「すみません。昔のことを思い出してしまって」


 実は、とリファトは思い出話を語った。ここでも子供達の時と同じく、マティアスは話を途中で遮ったりしなかった。不貞腐れた顔つきのままであったが、耳を傾けてくれる姿にリファトは嬉しくなって、つい話し過ぎてしまうのだった。


 食後、リファトは用意された客室で子供達の遊び相手をしていた。しかし慣れない場所ではしゃぎ疲れたのだろうか。就寝時刻にはまだ早いが、眠そうに目を擦っている。これは早めに眠ったほうが良さそうだ。

 二人を寝かしつけている最中、ワルターがリファトを呼びにきた。リファトは子供達をユカルに任せて、部屋の扉を閉める。


「マティアス様が晩酌すると仰るので、宜しければリファト殿下もいかがですか」

「私は構いませんが…」


 あまり晩酌をしないリファトは、気の抜けた返事をした。というのもエイレーネがそこまで酒を好むたちではないのだ。リファトも特別酒が好きな訳ではないし、男同士で呑み交わすのは正真正銘初めてであった。けれど貴重な機会を無駄にしたくはない。

 緊張を覚えつつ行ってみるとマティアスは先に始めていて、既に何杯か飲んだ後らしかった。


「兄上。私もご一緒させていただきます」

「……ん」


 リファトも反対側の長椅子に腰を下ろす。ワルターは給仕を終えると下がっていった。兄弟二人、月と星を眺めながら静かにワインを味わう。


「……体の調子は良いのか」


 静寂の中、マティアスの声がぽつりと落とされた。


「はい。見かけはこんな風ですが、昔に比べたらずっと健康になりました。兄上こそ、足は痛みませんか」

「フン。痛みなんぞ感じない。憎たらしい足だがもう慣れた」

「…すみません。兄上が一番大変な時に、力をお貸しできなくて」

「……それを言うなら俺も…」

「兄上?」

「…別に」


 そして再びやってくる静寂。

 リファトはあまり飲まなかったが、マティアスは結構ペースが速い。心なしか、目も据わってきたような。蝋燭と月明かりしかないのでわかり辛いが、顔も赤らんでいそうである。


「あまり深酒なさらない方が…」

「…ほっとけ。お前はしつこいな」

「す…すみませ、」

「お前がしつこく手紙を送ってくるから、全員の名前を覚えちまっただろう。だから責任をとって、今度はみんな纏めて連れて来い。顔と名前が一致しないままなのは気持ちが悪くて敵わん」

「はい…っ!エイレーネ達も喜びます。しかし兄上。今は次男の体調が思わしくなく、下の双子も乳飲み児ですので、直ぐにとはいかないかもしれません」

「………」

「兄上も是非遊びに来てください。お見せしたい場所があるんです」

「…俺は王宮が好かん……」


 そこまで話して、マティアスは糸が切れたようにがくりと首を垂れた。何の予兆も無かったのでリファトは一瞬慌てたものの、単なる寝落ちであった。


「やれやれ。大して強くないのに、たくさんお召しになるから」


 肘掛けに手をついて船を漕ぐマティアスを見下ろし、いつの間にか後ろに立っていたワルターが溜め息を吐く。


「…とはいえお酒の力を借りないと話せない事もありますしね。マティアス様のことはお任せください。リファト殿下はまだお飲みになりますか?」

「いや。私も部屋に戻るよ」

「かしこまりました。お送りできず申し訳ございま……ん?何ですか、マティアス様」


 半分寝入っているマティアスが、何かごにょごにょ言っていた。しかしよく聞こえないので、リファトは近付いて耳を寄せる。


「…手紙…書けな……悪かった…」


 辛うじて聞き取れたのはこれだけだった。だがリファトの胸を温めるには、これでも充分すぎるくらいであった。


「良いんですよ。これ以上ないお返事を、頂きましたから」


 気のせいかもしれないが、リファトがそう返すと薄っすら笑った気配がした。




 あっという間に五日が過ぎ、王都へ帰る日となった。マティアスは朝から背中に哀愁を漂わせている、とは家令の談である。リファトの目には先日と大差ないように見えた。

 そのマティアスだが、彼は子供達と共に外へ出ている。外と言っても屋敷の敷地内だ。王宮にあるような庭園は無いものの、マティアスの屋敷には広い牧草地があった。怪我をする前は馬で存分に駆けていたのだろう。現在でも馬小屋はそのまま残してあるので、時折馬達の運動がてら放しているそうだ。今日は子供達が馬を見たいと言ったので、わざわざ叶えてくれたのだ。


「やはりお子様がいらっしゃると賑やかで良いですね」

「兄上が子供好きとは知らなかったな」

「どうでしょう。子供好きとは少し違う気がいたします」


 車椅子に引っ付く小さな二つの背中を、遠くから観察していたリファトとワルターは、マティアスの事を話題に上げた。


「マティアス様は子供に泣かれる風貌ですので、懐いてもらえて嬉しかったのは確かでしょう。ですが、可愛い弟の子というのが重要なのですよ。赤の他人の子供なんて論外でしょうし、自分の子だと存分に甘やかして可愛がることができませんからね。まあ、あのマティアス様が父親をやっている姿なんて想像すら浮かびませんけど」

「間違っても私は可愛くないと思うが…」

「お年や見た目は関係ない事ですよ」


 その時、子供達が頬を上気させながら走ってきた。リファトがどうしたのか尋ねると、マティアスが二人に馬を譲渡する旨の発言をしたと言うではないか。まさかまさかの展開である。人間嫌いのマティアスにとって、馬は友人と呼んでも差し支えないくらい、大切な相棒だった。それをまだ馬に乗れる年齢ではない子供に贈るなんて!リファトとワルターは揃ってびっくり仰天した。


「…ほ、本当に宜しいのですか?兄上…」

「良いと言ってる。しつこいぞ。もう乗れん俺に飼われているのも哀れだ。背に乗せて走らせてくれる人間の所にいる方が、馬も幸せだろう」

「ありがとうございます。伯父上。大切におせわします」

「おじ様、おじ様。どのお馬さんがおすすめですか、おしえてください」

「私も、伯父上がえらんでくださった馬がいいです」

「…良いだろう」


 さり気なくリファトもどうかと勧められたが、リファトには自分の馬がもういる。嫉妬させるのも可哀想だから、と理由をつけて丁重にお断りした。そうしたら、じゃあ下の子達にやるなんて言い始め、流石にワルターから諫められていた。


「こいつはどうだ。性格も穏やかで賢い。…お前に似てる」

「伯父上がそうおっしゃるなら、この馬にします。ありがとうございます」

「わあ!おじ様、この子は赤ちゃんですか?」

「ん、そうだ。気に入ったか?」

「はい!かわいいです!」

「こいつはまだ母親から離せん。連れてくなら、もう少し大きくなってからだな」

「じゃあ、また見にきてもいいですか?」

「…うむ」

「馬に乗れるようになったら、一番に伯父上へ会いにいきますね」

「…うむ」


 後にワルターはこの時の様子を「こんなに浮き浮きしているマティアス様は、怪我をする前でも見た事がなかったですよ」とリファトに耳打ちしたのだった。


 帰り際、マティアスは不慣れな手つきで、子供達の頭をひと撫でした。弟には蚊の鳴くような声で「…またな」と言った。もちろんリファト達は全力の笑顔で応える。


「はい。兄上にまたお会いできるのを楽しみにしています。次こそ家族全員そろって会いに行きますから。引き続き手紙も送りますね」

「あっ、私も伯父上に書きたいです」

「わたしもかきます!おじ様、よんでもらえますか?」

「…読むのは構わんが、返事は書かんからなっ」

「ああご心配なく。お返事なら今後は私が書きますので。どしどし送ってくださいね」

「ワルターッ!!勝手なことを言うな!!だいたいお前はいっつも有る事無い事べらべらと…」

「はいはい、もうじき馬車が出ますよ。お見送りしてくださいね、おじ様?」

「くそっ…覚えてやがれ…」


 マティアスは家令に悪態をつき、そっぽを向きながらも、手だけは子供達に小さく振り返していたのだった。

【補足】

結局、甥や姪から手紙がきてもマティアスは返事が書けませんでした。小さな子供より字が下手だったからです。どうでもいい相手には汚い字を見られても気にしませんが、どうでもよくない相手だとすごく気になってしまうみたいです。

手紙の返事はワルターが無断で書いてます。当然怒られますが、ワルターは右から左へ聞き流しています。

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