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会議室に篭りきりとなって、幾日が過ぎただろうか。日付けの確認を疎かにしているせいで、時間の感覚が曖昧になりつつある。大詰めの段階に入ったことは皆がわかっていた。ここのところリファトも早朝から夜遅くまで、報告と会議の繰り返しだった。内廷に戻れず、長椅子で仮眠をとるだけの日が続き、リファトの疲労は蓄積していた。
「国境で新たな動きはなかったか」
「今のところ検問所からの報告はございません」
「東部突入の目処は?」
「すでに部隊は整い、待機しております。あとはリファト殿下のご指示を待つのみです」
クレヴァリー公爵が右腕となって迅速に動いてくれるので幾分やりやすいが、アンジェロの往生際の悪さには閉口する。敗色濃厚、しかも余命幾許もない体で、降参する兆しすら見せない。
「この状況をひっくり返す秘策でも隠しているのだろうか…」
「万が一そうであっても、アンジェロ殿下が動く前に阻止するだけでございます」
「…ご尤もだ」
かくいうリファトも、四肢を捥がれたくらいでエイレーネを諦めるつもりは毛頭無いあたり、狂人の血縁なのだと実感させられる。
リファトはひと呼吸置いた後、クレヴァリー公爵に決断を伝えるのであった。
「本日をもって騎士団は東部へ入り、第三王子の屋敷を制圧。捕え次第、塔へ幽閉とする。民間人から被害を出さぬよう、突入の際は周辺に規制をかけるように」
「承知致しました。万事、リファト殿下の仰せのままに。急ぎ騎士団へ伝達して参ります」
兄を捕えろと命じたリファトは、自嘲の笑みを浮かべていた。エイレーネとアーロン、ライファンとレフィナード達のような絆は、己には縁遠いものだった。ずっと昔から知っていた事を再確認しただけの話だ。
「………」
「休憩なさった方が良いのでは…」
「いや、まだ大丈夫だ」
顰めっ面で眉間を揉むリファトをユカルは案じた。だが返ってきたのは説得力に欠ける返答だった。
「妃殿下とお茶でもなさったらいかがです?お呼びしてまいりますよ」
「……君、彼女の名前を出せば良いと思っていないか」
「否定はいたしません」
正直なところ、リファト自身も否定できない。
「優秀すぎるのも考えものだな」
「恐れ入ります」
なんて軽口を叩いていたら、まさかの本人が登場した。噂をすれば何とやら、である。
「リファト殿下っ!」
「レーネ!?」
手出し無用というリファトの意志を尊重し、エイレーネは会議室に近寄らなかった。決闘に関して一切の口出しもせず、摂政の代役に徹していた。だから彼女が慌てた様子で入って来るのを見た時、リファトは一気に不安が押し寄せてきた。
しかし、エイレーネは慌てていたのではなく、息を弾ませていただけであった。彼女の頬がほのかに上気しているのを見つけ、リファトはほっと胸を撫で下ろす。幾らか和らいだ声色で「どうしました?」と彼女に問うた。
「会っていただきたい方がいるのです」
「私に?」
「はい。殿下にです」
「構いませんが…」
客人の応対はエイレーネがしていたはずだ。彼女の手に余る来訪者なんて誰がいるのだろうか。リファトは首を傾げた。どうにも彼女が浮き足立っているように見えて、それもまた謎だった。
「どうぞ、お入りください」
エイレーネに促され、姿を表したのは……リファトの知らない男であった。男の齢は六十間近と見受ける。だが不躾にまじまじと観察しても、知らぬ顔なのは変わらない。
「リファト殿下、こちらは…」
「ああ、お構いなく、妃殿下。自分でいたしますので。突然のご無礼をお許しください。私はワルターと申す者でございます」
ワルターという名前に引っかかりを覚えなくもないが、やはり今一つぴんとこない。しかし次の台詞を耳にした途端に、リファトは勢いよく立ち上がっていた。
「長年、マティアス様のお屋敷で家令を務めております」
「っ!兄上に何かあったのか!?まさか足の怪我が悪化して…」
「ご安心くださいませ。怪我が治った訳ではございませんが、マティアス様はすこぶる元気にしておられます」
「そうか…ならば良かった」
家令がわざわざ王宮に出向かなければならない程、具合を悪くしたのかとリファトは肝を冷やした。でも思っていたような事ではなくて安心する。
そんなリファトの様子を見ていたワルターは、どこか嬉しそうだった。
「マティアス様よりリファト殿下へ、伝言を預かってまいりましたので、急ぎ参上した次第にございます」
「兄上が伝言を…?何だろうか」
「一字一句、間違えることなくお伝えせよとの厳命でございました故、言葉が乱れることをご容赦いただきたく」
「構わない。兄上は何と仰せだった」
リファトは己の鼓動が速く、又、心音が大きくなっていくのを感じていた。握り締めた手はじわりと汗をかいているのに、小さく震えていた。
「それではお伝え致します…」
ワルターは咳払いを一つしてから、部屋の外まで聞こえるくらいの声量で、マティアスが言い放った言葉をなぞるのだった。
───俺の弟は一人だけだ。リファトはたった一人の弟だ。覚えておけ、リファトに仇なす輩はこのマティアスの敵であるっ!
その言葉の意味を、初めから終わりまで理解した時。つう、と。一筋の涙がリファトの頬を伝っていた。
「…一昨日、アンジェロ殿下の遣いと名乗る貴族が屋敷を訪れました。北方に駐在する親衛隊を寄越せと言われたのです。それを聞いたマティアス様は大層お怒りのまま、私に先の伝言を託されました」
「………っ、」
「リファト殿下…」
目元を押さえ、唇を戦慄かせるリファトに、エイレーネはそっと近寄った。微かに震える背中を優しく撫でていると、不意にリファトが顔を上げ、エイレーネを抱き込んできた。いつも躊躇いがちだった彼らしからぬ、力いっぱいの抱擁だった。エイレーネの背骨が軋むくらい、容赦が無かった。でも、一瞬息が止まるほどの苦しさは、リファトが喜びを噛み締めている証だから、エイレーネはちっとも痛いとは思わなかった。
「……貴女のおかげです。何もかも、全部…っ。レーネがいたからだ!」
「それはおかしいですよ。お手紙を書き続けたのは、リファト殿下ですのに」
「違う。レーネがいたからできたんです。貴女が勇気をくれなければ、私は一通目の手紙を書くことさえできなかった…!」
初め、リファトは手紙を出すかどうかで悩んだ。次は、返事が無かったことで筆を置きかけた。次第に、手紙を送り続ける意味を見出せなくなった。
その都度、言葉を変え根気強く励ましてくれたのはエイレーネだった。彼女がそこまで言うなら、と筆をとる気になった。彼女が大丈夫と後押ししてくれると、本当に大丈夫な気がした。そうして、一方通行の自己満足にすぎない手紙でも、今日に至るまで途切れることはなかったのである。
今日初めて、出し続けた手紙の返答が返ってきた。文字の形ではなかったけれど、待ちに待ち侘びた便りは、涙が止まらなくなるほど嬉しい内容だった。
「…良かったですね、殿下。本当に…良かった。わたしも自分のことのように嬉しいです…っ」
気が付けばエイレーネも、リファトの涙に誘われて泣き笑いを浮かべていた。
マティアスからの返事にどれだけの価値があるのか。これは第二王子が加勢してくれたという単純な話ではないのだ。リファトが一縷の望みを捨てずに待ち続けた十年越しの返事であり、筋金入りの頑固者を変えた驚異であるなんて、ぽかんと成り行きを見ていただけの貴族達には分かるまい。
だけどマティアスに長年仕えてきたワルターは真価を理解していた。彼もまた、喜悦に涙する夫妻を前にして、密かに鼻を啜っていたのだった。
「まずはマティアス様をずっと気遣ってくださった事、本人に代わって感謝申し上げます」
リファト達は会議室から場所を移し、応接室にて腰を落ち着けると、ワルターはこの十年間の出来事を色々語ってくれた。
「お手紙が届き始めた頃は一瞥もされず、手付かずのまま山積みになっていました。勝手に処分する訳にもいきませんのでそのままにしておきましたら、いつだったか開封された形跡を見つけましてね。それからは欠かさず読んでおられますよ。開けていなかったお手紙も全部ご覧になったようです。近頃では私に『何か届いてないのか』なんて催促なさる具合でしてね。私はぴしゃりと申し上げてやりました。『リファト殿下はお忙しい身の上になったのですから、惰眠を貪って家令をこき使う人間に構う時間はありません。寂しいから手紙を送ってくれとマティアス様が一筆書けば宜しいでしょう』と。その時のマティアス様ときたら見ものでしたよ。お顔を真っ赤にされて、お前なんか解雇だと連呼しておられました」
どうやらマティアスとワルターは長い時間を共に過ごしているせいもあって、随分と遠慮の無い関係のようである。解雇を連呼されても家令を続け、あっけらかんと笑っているあたり、決して剣呑な雰囲気にはなっていないのだろう。
「マティアス様はとにかく意地っ張りで、全くもって素直になれない方なのです。リファト殿下のお手紙が途切れてしまうのを恐れているくせに、絶対にそうとは口に出しません。かと言って私が代筆すると提案しても、お前は余計な事を書くだろうと拒否なさいますし…本当に面倒くさい頑固者です」
「はあ…マティアス兄上が…」
マティアスとは顔の造りだってまともに覚えていない、その程度の間柄だった為、リファトは誰か知らない人物の物語を聞かされているような心地であった。
「これはあくまで私の憶測ですが…生まれて初めて家族らしく扱ってもらえた事が、相当嬉しかったのだと思いますよ。最初は猜疑心のほうが強かったようですけどね。気遣いに溢れたお手紙が何通も何通も積み重なっていく光景が、凝り固まったお心を溶かしたのでしょう。今の今までお返事を出さなかった事、どうかお許しください。ご趣味以外には無頓着だったマティアス様も、ようやく人並みの羞恥心を学んだようでして」
「…?」
「両殿下から届くお手紙が、お手本のように美しい字で書かれているものですから、マティアス様はご自分の字が恥ずかしくなってしまったのですよ」
まさか手紙が届かなかった理由が、そんな可愛らしい悩みだったとは。リファトとエイレーネは顔を見合わせる。じわじわと口角が持ち上がっていくのを止められなかった。
「…事が落ち着いたら、兄上のお屋敷へ伺っても良いだろうか」
それは、一度尋ねたきり臆してしまって、二度は聞けなかった質問だった。
「勿論でございます。何にも無くて退屈なお屋敷ですが是非、皆様でいらしてください。マティアス様は鬱陶しいくらいそわそわしながら待っておられますから。ご本人は頑なに認めないと思いますけどね」
ワルターの明け透けな物言いに、二人は笑いを堪え切れず、小さく吹き出してしまうのだった。
実を言えばマティアスが出した便りはもう一つあり、王宮とは別の場所にも届いていた。
だがしかし、中身は真逆のものであったという。
時は夕刻。地平線に見える陽は残り僅かだ。
仄暗い屋敷の真ん中にアンジェロは立っていた。彼は銀の甲冑を纏う騎士に包囲された。
アンジェロは増援が来たと思い「遅かったな」などと鼻で笑っていたが、騎士達は無表情であった。そのうちの一人が進み出て、アンジェロに紙切れを差し出した。
「何だこの汚い字は……」
紙切れを受け取った彼の渋面が、次第に激怒へと変わっていく。書かれていた文章は非常に簡潔かつ、これ以上無い拒絶だった。
『俺にアンジェロなんて弟はいない。都合が悪くなった時だけ家族面をするな。リファトに敵対するお前を、俺は許さない。───マティアス』
アンジェロは紙切れをぐしゃぐしゃにして、力任せに床へ叩きつけた。
「どうしてだ…っ、どうしてあの愚弟ばかり…!!」
順当な帰結であろう。身体の自由を失い、暗く沈んでいたマティアスを案じ、遠く離れた街から思い遣りを示し続けたのはリファトだ。己が不利になった時だけ存在を思い出し、都合よく利用しようとする魂胆に、マティアスが乗じると期待するほうが可笑しい。
「アンジェロ殿下。ご同行願います」
「下衆が僕に触るな!僕に触れていいのはエイレーネ姫だけだ!!」
アンジェロは最後の悪足掻きをみせたが、騎士達によりあえなく鎮圧される。
彼を守ろうとする者はいない。誰一人として、いなかったのである。
アンジェロがリファトに仕掛けた決闘は、何とも惨めな終幕を迎えた。
挙兵して妃を奪うと豪語していたアンジェロは配下全員に見捨てられ、東部の街から一歩出る事さえ実現しなかった。決闘の体裁すら整わなかったのだから、進軍が聞いて呆れる。リファトと圧倒的な権威の差があることを露見させただけだった。味方してくれる者がいなかったのはアンジェロのほうだったのだ。
アンジェロが捕縛される直前、アンジェロ派の貴族達は自分達だけでも助かろうと考えた。甘い囁きに誘き出されていた過激派を一網打尽にして騎士団へ突き出し、恩赦を乞うたのである。叛逆罪は処刑と決まっている。貴族達は死を恐れ、主人をいともあっさり裏切った。
しかし何より皮肉だったのは、政治にも家族にも一切の関わりを持とうとしなかった第二王子の介入により、この決闘の終止符が打たれた事であろう。
カルム王国の幽閉塔はニムラも含め、過去に幾人もの有力者を収容してきた。ここに入る者を見るのはこれが最後であってほしい、リファトはそう願いながら塔の階段を一段一段昇る。その途中でギヨームとすれ違った。第三王子の容態を確認するよう依頼してあったのだ。けれどギヨームは、アンジェロのことについて特に触れなかった。恐らくそれが答えだ。
「今だから白状しますが私はね、今代で真っ先に看取る方はリファト殿下だと思っていました。私が侍医になったばかりの頃の殿下ときたら、生きる気力がまるで感じられませんでしたから。病があろうとなかろうと、そういう人間はとても弱いのです」
「…そうだろうな」
「今日死んでも良い、とでもお考えだったのではないですか?」
「ああ、その通りだ」
「いくらくどくど叱っても駄目でしたがね。考えを改めてくださって良かったですよ。ええ本当に」
「苦労をかけてすまなかった」
「…私はこの塔での仕事を最後に引退したいと思います。歳も歳ですからね」
「そうか…今度は本気なんだな」
「今度こそ本気ですよ。なに、腕の良い後任をきちんと用意しておきますので」
「長きに渡る働き、ご苦労だった。いざ小言が聞けなくなると寂しいな。いつも私を心配し、叱ってくれてありがとう」
「…お礼を申し上げたいのは私ですよ。医者として患者の死を見るより嫌な事はありません。そういう職業と言えばそれまでですがね。だからこそ殿下の元気なお姿を最後に、侍医を辞する事ができるのは僥倖です。どうか妃殿下と末永く、息災にお過ごしください」
階段を下る音が遠ざかってから、リファトは再び塔を昇り始めた。
一つ歳上の兄は、厳重な鉄格子の向こう側にいた。アンジェロは簡素な寝床に横たわっていたが、弟がやって来たことに気付くと首を回し、口元を歪ませて笑うのだった。
「…見てみろ。この穢らわしい手。不気味な顔を。お前と同じだ」
億劫そうに持ち上げた腕にはびっしりと赤黒い発疹が浮き出ており、元の肌色をわからなくしていた。美形だと持て囃された顔は腫瘍のせいで歪に変貌してしまっている。診断書によれば内臓にまで腫瘍が及んでいるらしい。痩せ衰えた姿は、結婚する前のリファトよりも余程酷かった。
「僕もお前と同じ化け物になった。なのにどうして、僕は愛してもらえない?僕とお前の何が違う?」
「…違ったでしょう。何もかも」
「過去の話だ」
「ですが私はいつも兄上が羨ましかった。兄上は健康で、顔立ちも肌も美しく、周りにはいつも誰かがいた。家族と普通に言葉を交わしていた。私はまともに名を呼んでもらったこともありません」
「だからなんだ?不幸自慢か。だったら僕の不幸も聞かせてやろう。僕が恵まれて見えたならお前の目は節穴だ。僕は兄弟一不幸だった!誰からも愛されなかったんだからな!!」
「………」
「知ってたか?僕は父上から不貞の子だと思われ疎まれていた。女狂いの父上が笑わせてくれる。母上だって同じようなものだ。あの女が母親の真似事をするか?あんなのは親の皮を被った害獣だ。僕は所詮あの女の言いなりで動く駒でしかなかった。僕が出会った女は全員、アンジェロじゃなくて第三王子という便利な道具を求めていたんだっ!!」
吠えていたかと思えば突如、アンジェロが吐血した。リファトは僅かに目を見開いたが、当の本人は床にびしゃりと広がる血には目もくれず、口元を赤く染めたまま弟を睨む。
「体の健康?見た目の美しさ?普通の家族?名前を呼ばれたからなんだ?そんなもの必要ない!そんなものが無くても、お前は愛されたじゃないか!!僕だってただ愛されたかった!!誰か一人でいいから本気で愛してもらいたかったんだ!!」
アンジェロはどこまでも貪欲だった。リファトに言わせれば喜ぶべき幸せがあったのに。それらを当たり前だと考え、有り難みを噛み締めなかった。
昔はひたすら兄が羨ましかった。でも今はただ、哀れに思う。
「どれだけ望んでも得られなかったものを!なんでよりにも寄ってお前が手に入れてるんだ!?僕だって彼女を心から愛してるのに!」
何故、と問われてもリファトには答えようがなかった。エイレーネとの結婚を自ら決めた訳でも、彼女が望んだ訳でもない。ましてや彼女に愛してくれと懇願した事は一度も無い。エイレーネと巡り逢い、心を通わせることができたのは、リファトに与えられた奇跡なのだろう。
「やはり最初が肝心だった、優しい彼女は暴力を嫌うから、ああやり直したい、彼女に馬鹿げた嫌がらせなんてするんじゃなかった」等とアンジェロはぶつぶつ呟くが、出会った日に関してはリファトとて良かったとは思えない。リファト自身は肖像画に恋した相手と会えて舞い上がっていたが、結婚式と呼ぶのも憚られるお粗末な儀式の後、エイレーネが連れて行かれたのは朽ちかけの古城だった。更には、使用人から陰口を叩かれ、着替えや食事の用意も放棄され、舞踏会に着ていくドレスもなくて……彼女は泣き言の一つも言わなかったが、幾度も辛酸をなめたことだろう。
それでも。どんな困難が立ちはだかっても、無理やり引き離されても。エイレーネはリファトに誓った愛を貫き通した。
どうしてこんな惨めで醜い人間が愛してもらえたのか。やはりリファトには答えようがなかった。
「…お前のその汚くて穢らわしい手を、エイレーネ姫は少しも厭うことなく触れていたなぁ。だからきっと、僕のこんな手でも優しく握ってくれるはずだ。お前みたいな化け物が愛されたんだ。だったら僕だって愛されないと不平等じゃないか。…なあ、頼むよ。エイレーネ姫に会わせてくれ。僕はもう長くない。今夜にも死んでいるかもしれない。最後に一度くらい、彼女と話がしたい。最後に見るのは彼女の笑顔が良い」
「……」
「同じ化け物のお前になら、僕の気持ちが分かるだろう?愛されない虚しさが、愛されたい渇望が、お前には分かるはずだ。頼む。今までのことは謝るよ。僕の財産は全部お前にやる。だからお願いだ、リファト」
未だかつて、アンジェロがここまで下手に出て懇願してきた事はない。だが、心に響くものも無かった。リファトは浅く息を吸い込む。
「…兄上ならば分かるでしょう。ずっと渇望していた最愛を得たとして。ほんの僅かな欠片でも誰かに渡す気持ちになれますか?私は到底できません。嫉妬で気が狂いそうになる」
「待て…っ!待ってくれっ!!」
「私は宣言したはずですよ。死んでも手離さないと」
その台詞で結び、リファトは踵を返す。後はどんな言葉を掛けられようとも、絶対に振り返らなかった。
リファトを引き止める声は次第に狂った笑い声へと変わり、やがて何も聞こえなくなった。兄は泣いていたかもしれないが、背を向けたリファトには分からない。
王宮へ戻ってもリファトの足取りは重たかった。俯き加減のまま回廊を進んでいく。
「お帰りなさいませ。リファト殿下」
不意に愛しい人の声が聞こえ、彼ははっとなって面を上げていた。回廊の途中で、エイレーネが彼の帰りを待っていたようだ。
彼女の顔を見るなり、リファトは己の心が解けていくのを感じた。いつもの彼らしい柔和な微笑が、自ずと口元に浮かんでくる。けれども今日のそれは、少しばかり切なさを滲ませていた。
「……終わりましたよ」
エイレーネへの報告は一言で終わった。簡潔すぎるにも程があるが、彼女はゆっくり頷くだけだった。それからとびきり優しい声で、リファトに語りかけるのであった。
「わたしのことを守ってくださり、ありがとうございます」
結果をみると、リファトひとりの力で成せた事は多くない。精々、エイレーネに指一本触れさせなかった程度ではなかろうか。サリド皇国から応援が駆けつけてくれたのも、民衆が味方についてくれたのも、もとを辿ればエイレーネが引き寄せた縁だ。手出し無用と言い張っておきながら、例によって彼女の助け無しでは踏破できなかった。
でも今日くらいは、贈られた感謝の言葉を素直に受け取りたいと、リファトは思った。エイレーネからの優しい抱擁を、彼はただ静かに享受するのだった。




