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カルム王国の幼君となったライファンに対する反応はまちまちだったが、大きく分けると三つであった。何であれ亡き王の意向に沿うと決めた者。新王は幼すぎると反感を抱く者。そのどちらでもなく様子見している者。だいたいこんなところだが、散見されるのは三番目である。
現状、新王とは名ばかりで、実権を握っているのは摂政に指名されたアンジェロとリファトの二人だ。ニムラが存命だった時代からアンジェロ派と呼ばれる勢力がおり、今なお彼の側についている。幼君を快く思っていないのは主にアンジェロ派だ。
ここまでは予想していた事だからまあ良いとしても、問題はリファトを強く支持する貴族が少なすぎる事である。これは由々しき事態だった。代々国王の側近として仕えてきた筆頭貴族も、過半数が様子見している有り様だ。リファトの人望の無さが浮き彫りになっていると言えよう。
リファトはだんだん情けなくなってきた。けれど弱音を吐いている場合ではない。卑屈になって引き篭もるのは散々してきた事。そんな人間のままでは、フェルナンとの約束も果たせないし、最愛の人を守るなど叶う訳がない。
反応の芳しくない貴族達を毎日相手にしながら、リファトは手探りで政務をおこなった。慣れない事は肉体的にも精神的にも疲れる。生前フェルナンが折に触れて重要な仕事を回してくれたおかげで、大まかな進め方を掴み、何とか形になっている状態だ。思えばあれは、死期を悟ったフェルナンの備えの一つだったのかもしれない。遺していく弟の為に基盤を整えてくれた長兄の骨折りを考えると、また一段と胸が苦しくなった。
エイレーネは手伝うと申し出てくれたが、父親が傍に居られない分、子供達と過ごしてほしいとの理由をつけて断った。本当なら政務も育児も両立できる男でありたかったが、リファトの能力には限界があった。
しかしながら、妻子の顔が見たいというリファトの気持ちを汲み、ユカルがよく働いてくれた。忙しない一日の中で、リファトを執務室から離れるひと時を捻出してくれるのだ。
「すまない。助かるよ、ユカル」
「両殿下のお役に立てるのが俺の喜びです」
ユカルのみならずイシュビも侍女の二人も、出自のせいでとやかく指摘されることがあった。反論できないユカル達に代わり、大抵はエイレーネが盾となって彼らを擁護してきたが、今では己の働きによって喧しい連中を黙らせることにしたらしい。たとえ卑しい生まれを蔑まれても、肩を窄めることはせず、堂々とした態度で邁進している。侍従達なんて、いつでも勝負を受けるという挑発までしてのけたとか。ユカルとイシュビの実力を知ってる者は挑むどころか、二人が睥睨しただけで逃げ帰っていく始末だった。
「ありがとう。君を侍従に持った事は、私の果報の一つだ」
「…何を仰るかと思えば。果報者は俺の方です。さあ、早くお行きにならないと、妃殿下との休憩時間が無くなりますよ」
「それは困るな」
だんだん急ぎ足になりながら、リファトは家族の元へ向かう。エイレーネ達は限られた人間のみが入室を許される、王室の居住区で一日の大半を過ごしている。家族の為の小さな庭園もあり、余所者は決して入れぬ内廷なので、そこに居てくれればリファトも安心だった。
「レーネ。入っても良いですか?」
エイレーネに会えると浮かれ気味だったリファトを出迎えたのは、妻ではなく侍女達であった。音を立てずに開けられた扉から室内を覗き見れば、長女と下の子三人が仲良くお昼寝をしている。多分、ステファナが弟妹を構っていて、そのまま一緒になって眠ってしまったのだろう。
「エイレーネ様でしたら、王子様方とお庭に出ておられますよ」
「今日はレフィナード様の体調がとても良いので、お兄様と一緒にお散歩しているんです」
アリアとジェーンが内緒話をするように教えてくれた。リファトは幼い四つの寝顔に和んでから、自身も庭園へ足を向けたのだった。
緑あふれる爽やかな庭へ近付くにつれ、親子の会話が聞こえてきた。エイレーネの右側にライファン、左側にレフィナードが座っている。そう距離は離れていないのだが、リファトが立っている場所は死角になっており、エイレーネ達からは見えないらしい。後ろから来たリファトに気が付かないまま、エイレーネ達は話を続けていた。
「…母上。王様は、私でないといけないのでしょうか」
抑えられた声量はライファンの内にある心細さの表れだった。我が子が漏らした台詞に、リファトはぎくりと身を強張らせた。
いくら子供ながらに立派な振る舞いをしていても、大人達が一様に頭を下げて讃えてくる光景は異質で、名状し難い不安を抱かせたのだろう。即位式の最中も終わった後も落ち着き、取り乱す事などしなかったので、ライファンがそんな物思いをしていたとは知らなかった。
だけど考えてみれば当然だった。ある日を境に両親からも「国王陛下」と呼ばれて跪かれては、混乱もするし戸惑いもする。国王になる事を期待される重責は、亡きフェルナンが苦悩のうちに吐露していた通りだ。
「父上のお手伝いもできませんし…勉強なら、レフィナードのほうがよくできます。私よりも、王様にぴったりの人がいると思うのです」
教師から神童だの稀に見る天才だのと盛んに褒められる弟に、ライファンは少なからず劣等感があるのか。子供達を比較するような素振りは、リファトもエイレーネもしてこなかったつもりだが、知らないうちに気を悪くする発言でもしていただろうか。いや、たとえ失言は無かったとしても、弟妹との差というのは否が応でも無意識に目が向いてしまうものだ。だから子供が自信を失わないよう、大人が巧みに援助しなければいけなかった。
考え込むほど却ってリファトの方が不安になり、焦りで汗が滲んでくる。比べられ、貶される苦痛はリファトがよく分かっているだけ、我が子に同様の痛みを味わせたと思うと耐え難い。
リファトが己に失望しかけた時、優しい春の風のような声音が耳朶を打った。
「この国の名を背負う限り、わたし達には重い責任が伴います。それを受け入れる事が辛い時も、かえって逃げる方が苦しい時もあるでしょう」
王家の血を引く嫡男が王座に就くと法で定められている以上、宿命から逃れるのは容易ではない。秩序から逸れた譲位は、必ず新たな火種を生む。全てを穏便に済ます為には、定められた道を進むしかないのだ。
泣きそうな顔をするライファンに、エイレーネは安心させるように微笑みかける。レフィナードにも同じようにし、小さな頭を撫でた。
「でもあなた達がたくさん悩み、繰り返し考えた上で正しいと思えたなら。たとえそれが他人から理解されない道であったとしても、わたしはあなた達を信じます。王と民では身分こそ違いますが、支え合うという点においては何も変わらないのですよ」
「母上…」
「それと、覚えておいてください。王様がほしくてあなた達を産んだのではありません。わたしが、あなた達の母になりたかったのです」
エイレーネがライファンを引き寄せると、素直に体重を預けてきた。弟妹の前では、母に甘えるのを我慢している節があるので、これは貴重な姿だった。こんな小さな背中に、途方もなく大きな定めがのし掛かかるのは無慈悲な事である。大人が教えずとも省察できてしまい、余分な苦しみを生むのあれば、賢すぎるのも善し悪しかもしれない。
するとここで、それまで静かに傾聴していたレフィナードが、辿々しくも懸命に喋り出した。
「…兄うえが王さまじゃなくても、ぼくは兄うえがだいすきです。ぼくはベッドのうえで、本をよむことしかできないけど…いつか、たくさんかしこくなって、兄うえがこまっているとき、力になります。だから、まっていてください」
「素晴らしい心掛けです。レフィナード、その気持ちをいつまでも大切にしてください」
「はい。たいせつに、します」
「ライファン。レフィナードの言葉は、あなたが立派な兄上へと成長した証です。わたしはとても嬉しいですよ。王様になった事よりもずっと、ずうっと嬉しく思います。あなたの頑張りは皆が知っていますし、あなたを支えたいと願う者もたくさんいます。わたし達家族は、全員あなたの味方です」
「あ…ありがとうございます。母上、レフィナードも…」
照れて口籠るライファンの顔にもう不安の影は無く、有るのはほのかな喜色だけだった。
我が子達が誇らしくもあり、兄弟の尊い絆に憧れもする。リファトは少し余韻に浸ってから、さも今しがた到着した風を装って三人の前に出て行った。こちらを見上げる真ん丸な三対の瞳に、笑みが溢れてしまうのは不可抗力だった。
「お前達なら、私など霞むくらい立派な人間になれる。正しいと思う事は何でもやってみれば良い。お前達の事は私達が必ず守る」
「父上…?」
リファトは息子達の前に屈み、ぽんと肩を撫でる。きょとんとした表情が、年相応にいとけなくて可愛い。リファトにとってライファンは一国の王であるより先に、かけがえのない大切な息子だ。
「言いにくい事もあっただろうに、よく打ち明けてくれた」
後からエイレーネは「どこからお聞きに…?」と不思議そうに尋ねたが、彼は意味ありげに微笑むだけであった。
明くる日。リファトは朝から執務室の机に齧り付き、報告書を漁っていた。アンジェロ派の動向を警戒していたところ、思いがけず過激派と呼ばれる一派の動きが活発化しつつあるとの情報を掴んだのだ。
過激派とは、国王派・アンジェロ派のどちらにも属さない少数の派閥である。現在は停戦状態となっているウイン帝国との和平に反対する者で構成される、と言われている。断言できないのは首謀者はおろか、下っ端の構成員さえ捕まえることができていないからだ。正確には捕まえても直後に自害を図るので、情報が得られないのである。
カルム王国とウイン帝国の戦争の歴史は長く、帝国側の皇帝は血気盛んな男が多いので、幾度となく試みられた和平も失敗続きであった。しかし帝国内では年々飢饉が深刻化しているらしく、他国と戦争している場合ではなくなったようだ。そういった背景がある故、リファトの祖父の時代から停戦という形に落ち着いている。だが所詮は一時的な休戦だ。
帝国の衰退はまたとない好機、カルム王国は幼い新王が即位したばかりで体制が不安定となれば、過激派が争いの火種を落とそうと企むのも十二分に考えられた。
「…アンジェロ兄上が陰から糸を引いているというのは、考えすぎだろうか」
溜め息混じりの愚痴に、ユカルも苦い顔をする。
「いずれにせよ野放しにはできません。国賊は捕らえなければ無法地帯となります」
「分かっている。検閲の基準を厳しくするか…いや、国境の警備も強化する必要が…」
万人に受け入れられる政策など有りはしない。反発は必ず出る。人の数だけ思想はあるのだから致し方ない。重々わかっている。だけど、果てのない焦燥を覚えるのだ。より良い統治をしたいと願い、最善を尽くしても、周囲の反応は芳しくない。悪い方にしか進んでいないのではないか。こんな終わりの見えない苦しみの中に、フェルナンはずっと独りでいたのか。心が疲弊しきるのも無理はない。
重圧が溜息となって出てくる直前、扉の向こうから鈴を転がしたような声が聴えてきた。
「リファト殿下?少しだけ宜しいでしょうか」
「レーネ…!もちろんです」
リファトは飛び上がるようにして椅子から立ち上がり、自ら扉を開けに行く。その見事な変わり身に、ユカルは笑いを噛み殺す。そこには最愛の妻と娘が待っていた。二人の明るい雰囲気から察するに悪い知らせでは無さそうで、リファトの表情も緩む。
「失礼致します。お忙しいところすみません。ステファナがどうしてもと言うので…」
「構いません。二人の顔が見れて嬉しいですよ。それでステファナ、どうしたんだい?」
「はい!お父さまにさし上げます!どうぞ!」
長女のステファナが眩しい笑顔とともに差し出したのは、小ぶりの花束だった。摘んできたばかりなのだろう。瑞々しい花達からは甘い香りが漂ってくる。
両親の趣向により、子供達は物心つく前から植物と触れ合ってきた。屋敷の至る所に生花が飾られているのは、当たり前の光景だった。美しい花々は癒しであることをステファナも知っており、忙しくしている父のために持ってきたのだ。
愛娘の親切にリファトが歓喜したのは言うまでもない。締まりの無い顔で小さな手から花束を受け取っていた。
「ありがとう。ステファナのおかげで頑張る力が湧いてきた」
「お父さまは体がよわいから、むりはだめですって、先生がいってました。お父さま、むりしてないですか?」
青く澄んだ瞳で見上げられ、リファトの口角は緩みっぱなしだ。鬱屈としていた気持ちなぞ、忘却の彼方である。
「大丈夫だよ。昼食は向こうで摂ろう」
「じゃあみんなと待ってます!お父さま、はやく来てくださいね!」
「ステファナ。殿下を急かしてはいけません。そろそろ失礼しますよ」
「はい!お母さま」
母にやんわり嗜められたステファナは素直に聞き分け、可愛らしくお辞儀をして退室していった。
癒しを貰ったリファトはいそいそと花束を花瓶に挿し、上機嫌になったまま政務に励むのだった。
愛娘との約束通り、リファトは家族とのんびり昼食を摂る時間を作った。両親の手付きをお手本にして、食事の作法を覚えようとする真剣な姿を心穏やかに見守る。エイレーネも優しい眼差しを向け、子供達が真似しやすいようゆっくり手を動かしていた。
ずっとここにいたいのは山々だが、リファトにもエイレーネにもやるべき事がある。リファトが政務を仕切る傍らで、エイレーネは王宮の管理を担っていた。だだっ広い王宮はさながら小さな国家だ。この場所で行われる催しのほとんどは、彼女が取り仕切っている。来賓に徹していられたのは過去の話である。
今日は大広間の絨毯を交換する時期がきた為、職人との打ち合わせが予定されていた。近々、夜会が開催されるので、それまでに間に合わせなければならない。しかも予算を抑えつつ、王宮に相応しい品格の物を選ぶ必要があった。ここでは調度品一つにも気を遣うのだ。人任せにはできない。
アリアとジェーンに子供達をお願いし、エイレーネはイシュビを伴って応接室に向かう。応接室には既に職人が沢山の見本品を持ち込んで待っていた。
「早速ですが、色々見せていただけますか?」
「勿論でございます。お前達、妃殿下にお持ちしなさい」
親方と思われる職人に命じられ、弟子の一人が絨毯を取り出そうとした瞬間。箱の蓋が一人でに開き、中から人影が飛び出してきた。
突発的な異変に真っ先に動いたのはイシュビである。彼は人影がエイレーネを害す前に、俊敏かつ無駄のない動きで押さえ付けた。拘束された相手は、いつの間にか床に転がっていた感覚だろう。
「衛兵!!侵入者だ!!妃殿下を御守りしろ!!」
王宮内にいる時は基本的にイシュビしか帯同しないエイレーネであるが、見えない所に必ず数名の親衛隊が待機している。だから彼が叫べば間髪入れずに増援が雪崩れ込んできた。おかげでエイレーネには傷一つ付かずに済んだが、気になるのはイシュビが拘束している少女であった。
「貴様らの企てか!」
「ち、違います!誓って我々は何もしておりません!」
親衛隊は職人達に疑いを向けた。彼らが持ち込んだ荷物から出てきたのだ。疑われるのは必然だった。職人達は額を床に擦り付けながら必死に無実を訴える。
「信じてください!今朝、積荷を確認した時は本当に何もなかったんです!人が入り込んでいるなんて知らなかったんです!」
「…一先ず剣をおさめてください。無闇に怯えさせてはなりません」
「は…申し訳ありません、妃殿下」
エイレーネが親衛隊を静かに諌めた直後、それまで特に抵抗もせず取り押さえられていた少女が突然喚き始めたのだった。
「あんたが…!あんたが"エイレーネ姫"ね!!」
少女の齢は二十歳手前だろうか。身に着ているのはなかなか上等な服だが、薄汚れて裾も破れている。靴は脱げたのか履いていなかったのか裸足だし、縮れた髪は艶の無い橙色をしていて、何というか……とても違和感のある格好であった。
じたばたともがく為、イシュビが拘束の力を強めるも、少女は意に介さず怒声を張り上げ続けた。
「あんたのせいで、あたしはこんな滅茶苦茶にされたのよ!!"エイレーネ姫になれ"なんて言われたって、あたしみたいな庶民にできる訳ないじゃない!!まっすぐな髪が自慢だったのに…っ!全部あんたのせいよ!!」
興奮している少女の言っている事は支離滅裂で、いまいちよく分からない。ただ、エイレーネに強い恨みがあるのは見て取れた。捨て身同然で王宮に忍び込むまで追い詰められた少女を、エイレーネは頭ごなしに責める気にはなれなかった。
「もう少し、詳しい事情を聞かせてくださいますか?」
「妃殿下!」
制止の声を出したのはイシュビである。不届き者に自ら歩み寄るエイレーネに、待ったをかけた。彼女の寛容さをよくよく知っているのでイシュビは焦ったが、流石に拘束を解けとは言われなかった。その代わりにエイレーネが膝をつき、少女の目線に近付けたのだった。
「あなたのお名前は?」
臆することなく話しかけてくるエイレーネに、しばし少女のほうが呆気にとられていた。
「……バーバラ」
「バーバラ、ご存知の通りわたしはエイレーネと申します。しかしお会いするのは、今日が初めてではありませんか?」
「そ…そうよっ。あんたのことなんて知らないわ!でも、あんたを理由に酷いことをされたの!!」
「それは誰ですか」
その人物にされた事を思い出したのか、バーバラの顔が苦痛に歪む。やがてバーバラは憎々しげに男の名前を吐き出したのだった。
「……っ、だ…第三王子の、アンジェロ様が…」
七年も前から、アンジェロの屋敷がある東部の街で女性が失踪していると噂されていた。エイレーネはそれを聞いてすぐ、リファトに報告した覚えがある。しかしその噂は間もなく耳にしなくなった。だから解決したのか、単に彼が女性に飽きたのかと思われていた。
ところが、それは大きな間違いだったようだ。アンジェロは民間人の娘に手を出していたらしい。上流階級の令嬢が消えれば、たちまち噂になる。だが平民が居なくなったところで、貴族達は気にも留めない。捜索命令が出ないので騎士も動かない。弱者の訴えなど簡単に潰せる。それを良い事にアンジェロは、街で暮らす娘を誘拐しては、エイレーネに似せようと無理難題を課していた。
バーバラは被害者の一人だった。どこにでもいるような街娘でしかなかった彼女は夜道でいきなり誘拐、そのまま監禁され貴人の振る舞いを強要された。そして彼の望み通りにできなければ理不尽にも酷い罰を受けたのだ。屋敷の内部は警備が異様に厳重で、逃げ場のない牢獄そのものだった。だが新王の即位式に出席する為、アンジェロが屋敷を出発した際に警備が若干手薄になり、バーバラは死を覚悟で脱走したという。それから、どうせ死ぬならこのやり場のない怒りをぶち撒けてやるという執念だけで、ここまでやって来たと話した。
「…ほんとはお父さんとお母さんに会いに行きたかった…でももし見つかったら、二人も殺されちゃうと思ってできなかったの…っ」
バーバラはしくしくと泣き出してしまった。苦しみの涙が絨毯に落ちて染みとなる。あまりに残忍な話であった。
「……申し訳ありませんでした。弱い立場にある者を虐げるなど、許し難い所業です。同じ王族として、深くお詫び申し上げます。許せないでしょうが、それでもどうか謝らせてください」
「え…っ」
「イシュビ、拘束はもう結構です。バーバラの怒りは正当なものですから」
「し、しかし妃殿下…」
イシュビが言い淀んだところで、けたたましい足音をさせながらリファトが駆け込んできた。リファトはすぐさまエイレーネを抱き寄せ、大事無いかを早口に問うた。
侵入者がエイレーネに襲いかかったと聞いたリファトは、生きた心地がしなかった。とるものもとりあえず走ってきた次第である。青褪めきった顔と乱れた呼吸が、彼の動揺の大きさを伝えている。
「レーネッ!!怪我は!?怪我は無いですかっ?」
激しく狼狽するリファトを安心させる為、エイレーネは彼の背中を撫でながら、繰り返し大丈夫である事を言って聞かせた。
「大丈夫です。リファト殿下。ご心配には及びません。わたしは本当に平気ですから。それよりこちらの、」
「僕より先にエイレーネ姫とお話しするなんて、一体全体どういうつもりかな?」
新手が乱入してきた。しかし耳につく、嫌味なくらい悠然とした男の声は既知のものだった。
応接室の空気が凍り付いたのがイシュビは分かった。リファトは反射的にエイレーネを男の視線から隠していた。
まったくアンジェロという男は、どうしてこうも神出鬼没なのか。
「…兄上。即位式は終わりましたのに、何故こちらにいらっしゃるのですか」
「いやぁエイレーネ姫。すまなかった。僕の使用人がとんだ無礼を働いたね」
そして弟を無視するところも相変わらずだった。
「ご用件がお済みでしたお帰りください。兄上。前王のご遺言を無視なさるおつもりですか」
「ふん。死人に何ができる?土に埋まった骸が、今更なにを為せるというんだ?」
亡きフェルナンに対する冒涜に、リファトは眦を決した。だがアンジェロが気にするはずもない。性懲りも無くエイレーネに話しかけようとしていた。リファトはエイレーネを強く抱き締め、話す必要は無いと言外に伝える。
「見ての通り、僕の周りには簡単な命令さえ聞けない愚図しかいない。だからわざわざ僕が出向いて書簡を持ってきたんだ。でも…」
リファトの頑なさを悟ったのか。或いは想い人を一目見る事ができて良しとしたのか。アンジェロは押し黙って息をも殺すバーバラに視線を落とすのだった。
「まさかよりにもよってエイレーネ姫に暴言を吐くとはね」
「ぁ…あぁ……!」
床に伏すバーバラは、顔色を失くして震えていた。傍目から見ても明らかなくらい異様に怯え、歯がかちかちと鳴っている。
「分かっているのかい?これは立派な不敬罪だ。死をもって償うべき重罪だ。ああ、不法侵入も加わるなぁ。もう死ぬしかないね。でも死ぬ前に、自分が犯した罪の重さを思い知るべきだから、僕が直々に教育してあげよう。光栄だろう?」
「ひっ…ご、ごめんなさいっごめんなさい!今すぐそこの窓から飛び降りますっ、だから許してくださいっ…ひどいことしないでくださいっ」
「君は致命的に頭が悪いな。エイレーネ姫に、汚いものを見せる気かい?正気を疑うよ」
「いやっ、もういや…やめてぇ…っ」
もう黙って聞いていることはできず、エイレーネはリファトの服の袖を引いた。リファトも思いは同じだったのだろう。エイレーネに小さな頷きを返し、兄に待ったをかけた。
「この者は兄上の使用人かもしれませんが、処遇については被害者であるエイレーネの意見を尊重すべきではありませんか」
「ん?お前にしては真っ当な事を言うじゃないか」
アンジェロはこの場に全くそぐわない満面の笑みを浮かべて、エイレーネに喋りかける。
「エイレーネ姫よ。姫が望むまま、この娘を処分しよう!なに、僕にとっては羽虫を払うようなものだ。何なりと願うといい。僕が全部叶えてあげるよ!」
陶然として両手を広げる様はまるで、芝居に興じているかのようだ。狂気そのものの笑顔を見た者全員が総毛立つ。
全てはエイレーネの言葉に委ねられた。彼女はリファトの腕から抜け出て、もう一度バーバラの側へと寄った。そして未だ震えが止まらないバーバラに、労りの眼差しを注ぐのだった。
「わたしはあなたを不敬罪で訴えることはしません。今日起きた事は全て不問とします。ですから安心してください」
それからエイレーネは、こちらを見つめて頬を染めるアンジェロに向かって言い放った。バーバラへ傾けていた思い遣りは閉じられ、代わりに冴えた声が彼を刺し貫くのだった。
「バーバラの身柄はわたしが引き取ります。二度と手出しをしないでください。それから無礼を承知で申し上げます。守るべき民を羽虫などと軽んじ、あまつさえ反省もなさらないアンジェロ殿下を、わたしは軽蔑致します」
見下げ果てたとばかりに非難されたアンジェロは、笑顔が削げ落ちて無表情になっていく。愛しの彼女から引導を渡され、喪心してしまったようだ。
その隙にリファトとエイレーネは、バーバラを連れて部屋を出て行った。バーバラは腰が抜けて歩けなかったので、イシュビが抱えて移動した。
後で聞いた事だが、見向きもされずに取り残されたアンジェロは、茫然自失となったままふらふらと王宮を去ったらしかった。
上等な客室の、これまた上等の寝台に降ろされたバーバラは、きまりが悪そうに肩身を窄めていた。極限状態に追い込まれていたとはいえ、とんでもない事を仕出かしてしまった。遅まきながら後悔の波が押し寄せてくる。
おぞましい恐怖から解放されたことにより、膨れ上がっていたバーバラの怒りは萎んでいた。冷静になってみれば、責めるべきはエイレーネではなく元凶たる王子なのに、この国で一番偉い女人に当たり散らしてしまった。挙句の果てには散々詰った相手に庇われ、守ってもらった。恥の上塗りではないか。
「…あのっ。す、すみませんでした…あたし、ひどいこと言いました。悪いのはお妃様じゃないのに…」
不法侵入に不敬罪を重ね、本来ならばアンジェロが指摘した通り死罪を言い渡されてもおかしくない。それらを不問にすると宣言したエイレーネはというと、バーバラの足元に跪き、怪我の具合を確認し始めた。素足で東方から王宮まで来た為、足の裏はぼろぼろだった。
痛ましそうに眉根を寄せるエイレーネを余所に、バーバラはびっくり仰天して言葉を失っていた。何せ、お妃様が平民の足に触れているのだ。教育のなってない田舎娘でも、それがあってはならぬ事くらい解った。
「何であれ、声を上げることには勇気が要ったでしょう。それでも己の肉声を届けるために、ここまで来たあなたはとても勇敢な方です」
エイレーネの台詞が、するりと胸の内側に入って溶ける。その瞬間、バーバラの両眼から涙が溢れ出した。
父と母が待つ家へ帰るはずだったのに、いきなり後ろから襲われて、当たり前の日常を失った。連れて来られた場所は陰湿で暗いお城だった。そんな場所で、見たこともない姫君になれと命令された。口答えしたら殴られた。泣けば蹴られた。上手くできなければ罵詈雑言の嵐だった。塵を捨てるかのように処分された女の子を見てしまい、次は自分がああなる番ではないかと毎日怯えた。エイレーネ姫とやらがいなければ、こんな目には遭わなかったという考えに囚われて、抜け出せなくなったのだ。
狂った非日常を強いられ、自分もおかしくなっていたとバーバラは思う。
「うっ…うぅ…うえぇぇ…」
「もう大丈夫ですからね。これしきでは償いに及びませんが、怪我の手当てをしたらご家族のところへお送りします」
「ひっく…き、汚いのに…ごめ、なさい…っ」
「謝ることはありませんよ。わたしは傷の手当てが得意なんです」
アンジェロにされた仕打ちを、バーバラは死んでも許さないし忘れない。けれども彼がこのお妃様を、微塵も厭うことなく包帯を巻いてくれた人を求める気持ちだけは、共感できてしまった。
【補足①】
第一話にてベルデ国は三つの国と隣接していると書きましたが…それがカルム王国、サリド皇国、ウイン帝国です。ようやく名前が出てきました。
およそ二百年前、ウイン帝国とカルム王国はベルデ国の豊かな土地に目をつけ戦争をしました。その時の戦争はウイン帝国が勝利し、戦利品としてベルデ国から領土を奪いました。ベルデ国が小国と呼ばれるようになった原因です。
しかしベルデ人のようなグリーンフィンガーズを持たないウイン帝国は、手に入れた土地を徐々に枯渇させる事しかできませんでした。その結果、カルム王国に並ぶ広大な国土を持ちつつも、食糧困難に陥っています。
【補足②】
アンジェロが二十代前後の女性を拐っていたのは、最後に見かけたエイレーネがそれくらいの年齢だったからです。リファトに切られた彼女の髪を、こっそり持ち帰って大事に箱に仕舞っています。宝物です。たまに取り出しては頬擦りしたり吸ったりしてます。気持ち悪いです。




