表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/47

40

 永久に変わらぬ日常など存在しない。当たり前の事であるはずなのに、平穏に浸かっている間は忘れ、それが崩れた時にはたと思い出すのだ。


「フェルナン兄上が体調を崩された?」


 思いの外、大きな声が出ていたらしい。その声を聞きつけてやって来たエイレーネの姿を見つけ、リファトは申し訳なさそうに眉を下げた。


「すみません、レーネのところまで聞こえましたか」

「…はい。王宮へ行かれるのですか?」

「そうしようかと。遅くなりそうなら早馬を出します」

「承知しました。お気をつけて行ってらっしゃいませ」


 せき立てられるように出て行ったリファトの背中を見て、エイレーネは言い知れぬ不安を感じた。




 この七年の間、リファトは何度も王宮に足を運んだ。国王に命じられて微力ながら政務を手伝い、国議に参加した回数はもう覚えていない。未だに病変した面を不気味がられることもあるが、もう気にならなくなった。リファトが慣れたのか、それとも周囲が見慣れてきたのか。どちらにせよ、現にこうして廊下を歩いていても、王宮勤めの使用人は驚かなくなったし、声を掛けても嫌な顔を表に出さなくなった。


「陛下に謁見することは可能だろうか。それが無理なら、ご様子だけでも知りたい」

「かしこまりました。確認してまいりますので、少々お時間をくださいませ」


 リファトが頼めば、見ず知らずの使用人は確認の為に走ってくれた。そして、フェルナンの方も話がしたいと言っている、と伝言を預かってきたのだった。


 てっきり寝室で休んでいるかと思っていたのに、フェルナンは執務室に居た。机の上で淀みなく筆を走らせているのは、馴染みの光景だった。よくよく観察すれば心なしか顔色が悪い気がする。リファトは挨拶もそこそこに思わず「横になられたほうが…」と口に出していた。


「大袈裟に伝わったみたいだが、病気ではない」


 それなら良かったとリファトが胸を撫で下ろしたのも束の間。


「とは言え、長くはもたないだろうな」

「…!!」


 病気ではないのに余命幾許も無いとは、一体全体どういう意味か。リファトは目を見開いて兄を凝視した。異様に喉が渇き、舌が縺れるのが焦ったかった。

 フェルナンは椅子の背もたれに体重を預けた。ふう、と息を吐く様は気怠げであった。


「お前も知っての通り、父上は毒によって亡くなった。母上とアンジェロは似た者同士だ」

「まさか…アンジェロ兄上が、毒を盛ったと…!?」

「そうではない。が、そうなる可能性は大いにあっただろうな」


 王宮に毒見役が存在するという事は、それだけ毒殺が脅威である事の裏返しだ。飲んだ毒の判別すら困難な時代。解毒薬を作るのはもっと難しい。一命を取り留める鍵は、自身の体力と運のみだった。毒殺は確実性が高く、且つ、犯人の特定もし難い。

 そういった理由から、ニムラもよく用いていた手段である。アンジェロが思い付かないはずも無いし、自領に軟禁されている状況では、人を雇って毒を盛るのが最も手っ取り早いだろう。

 フェルナンもそう考えた。だから彼は耐性訓練を行う事にしたと言う。毒性の弱いものから摂取し、徐々に強い毒へと体を慣れさせる。だがそれは、危険と隣り合わせの行為であった。


「時間は有限だ。だから…いけないと知りながら侍医の指示を無視して、増量していた。こんな身体になったのは自業自得だ」


 リファトはとうとう黙り込んでしまった。かける言葉なんて、見つかる訳がない。


「…自棄になっていたのかもしれない。いつからか忘れたが、私はもう生きることさえ億劫に感じる」


 兄の弱音を、リファトは初めて耳にした。


「王太子に生まれ、王になる事を望まれ、それに応えるだけが私の存在意義だった。だからといって別に不満は無い。だが満ち足りた事も無い」


 常にフェルナンの側に在ったもの。それは、他人からの重すぎる期待と、憎しみをぶつけ合う両親の姿だった。

 王太子なのだから努力は当たり前、失敗は許されない。小さな間違いであっても、とことん追及された。成果を出したところでそれは当然の事で、喜んでくれる人はいなかった。

 父の横にはいつも母ではない女人がいて、母は絶えず憎悪を向けていた。口を開けば罵り合う怒声が飛び交った。我が子にかける情など持ち合わせていない親であった。男と女の汚い面だけを見て育った故に、フェルナンは両親に対して嫌悪感しか抱けなかった。王と王妃を敬う体裁を整えるのが精一杯だった。

 苦行ばかりを強いられる環境に身を置き続けるうちに、いつしか己の情緒も壊れていた。それに気が付いたのは娘のシルヴィアが生まれた時である。我が子を前に、ほんの少しも心が動かなかった。本当に何も感じなかったのだ。その事に驚きもしなかった時、フェルナンは人間として大切な部分が欠如していると悟った。


「…妃と王女は一刻も早く、私のもとから解放してやるべきだと思った。かけられる唯一の情けが、それだった」


 王太子妃であったヴァネッサと突如離縁したのは、そういう背景があったようだ。リファトは心臓が搾られる心地になった。

 妃がいかに尽くそうとしても、フェルナンは応えられないし、我が子を慈しむ事もできない。ヴァネッサがどうしようもない女人だったなら罪悪感も薄れただろうが、彼女は善人であった。独り静かに耐え忍ぶ様は哀れだった。だからフェルナンは妃を王宮から出したのだ。冷たいやり方なのは分かっていたが、変に同情されては困るので敢えてそうした。


「世継ぎを残す、その期待にだけはどうしても応えられなかった。私はそれが心苦しかった。しかし私の憂いはリファト、お前が取り除いてくれた」


 ここまで淡々と語っていたフェルナンが、ふっと微かな笑みを溢す。その表情のまま、彼は言葉を繋いだ。


「感謝している。これだけは直接、伝えておきたかった」


 この瞬間に動いた感情は、リファト自身でさえも言い表せない。ただ、途轍もなく切ないもので溢れかえっていた。


「この命が尽きる前に懸念は一掃しておきたかったが…間に合いそうにない。お前が決着をつけてくれ」

「…はい。必ず。必ずや、私が成し遂げます」


 フェルナンは右手を伸ばし、リファトの肩を二回叩いた。長兄から末弟へ贈る、最後の激励であった。




 ただいま戻りましたの声色だけで、エイレーネは夫の機微を察知した。こういう時、エイレーネは言葉少なに微笑んで出迎える。あなたの抱えている重荷が幾らかでも軽くなりますように……そんな願いを込めて穏やかに振る舞う事を心掛けていた。

 一緒になって悲しみ、苦しみを分かち合うのも大事だが、時には心を整える為の静かな時間も必要だ。黙って傍にいてくれるだけで良い場合だってあるのだ。リファトは沈黙と共に寄り添ってくれる妻へ、長兄の命がもう長くない事をぽつりとこぼした。彼が伝えたのはそれだけだった。他には何も語らなかった。

 エイレーネは言葉を発する代わりに、リファトの方へ身を寄せた。彼の肩に凭れ掛かるような格好だ。その少しばかりの重みが、今のリファトには丁度良かった。


 初めてだったのだ。血の繋がった家族から感謝を表されたのは。

 しかしリファトの胸を占めたのは喜びではなく哀しみだった。リファトが幸せに囲まれて過ごしていた時、フェルナンは寿命を削りながら闘っていたのだ。兄が生きる事に疲れ果ててしまう前に、手助けできなかった。それが悔やまれて悔やまれてならない。リファトは幾度となく守ってもらったのに。それがたとえ国王の義務としてやった事だったとしても、フェルナンのおかげで"呪われた王子"の居場所は広がった。感謝しているのはリファトの方だ。恩返しも不十分のまま死に別れなければならないと思うと、悔恨ばかりが残る。

 望まれた王子は孤独を選び、永らえる事を拒んだ。呪われた王子は最愛を得て、永らえる事を望んだ。王位を欲した訳ではない。病弱になりたかった訳でもない。ましてや不幸になりたいなんて誰も思っていない。フェルナンも、リファトも。

 誰もが幸福になる権利を持っているものの、それが発揮される機会は平等ではないのだろう。生まれつく地位、生まれもつ身体、生まれ育つ家庭を自分で選ぶことはできないのだから。だがリファトには、息を吹き返すきっかけが与えられた。フェルナンも、そうあってほしかった。ああ、まこと人生ほど思い通りいかぬものは無い。




 フェルナン・グレン・カルム王の治世は、十年にも満たないうちに幕を下ろした。

 四十数年の彼の生涯において、この世界に生まれた事を感謝した瞬間は、ほんの僅かでもあったのだろうか。




 フェルナン王は生前、三名の人物に遺言を託していた。宰相、裁判長、教皇に渡された遺書の内容は全く同じである。改竄や隠蔽を防ぐ為の処置だった。崩御後の混乱を最小限に留めんと、事細かな指示が書かれていた。体を毒に蝕まれ、日一日と死が迫る中でも、フェルナンはこの国の事を案じ続けたのだ。本当に最期まで立派な国王だった。

 遺書は新たな国王の指名から始まった。新王にはライファンが選ばれた。しかし年齢が幼すぎる故、成年者になるまではリファトとアンジェロが共同で摂政となり、カルム王国を統治する。

 これは恐らく、アンジェロが王位継承権を破棄する署名に同意しなかった為、合同統治の形にするしかなかったと思われる。フェルナンとて苦渋の決断だったに違いない。第二王子のマティアスは王位継承権を辞退したので、順当に考えれば次期国王の座は第三王子に渡ることになる。だが第三王子に統治能力が無いのは明らか。フェルナンがライファンを指名したのは妥当な判断である。

 アンジェロに権力の半分を渡したところで碌な事にならないが、かと言って何もかも取り上げても臍を曲げて厄介な事になる。どちらに転んでも悪手にしかならない選択だ。しかしたとえ悪手にしかならずとも、最悪だけは避けたい。フェルナンはそんな思いだったのではなかろうか。

 二点目。ライファンの即位式までに、第四王子夫妻は子供達と共に王宮に住まいを移す。ただし第三王子は下賜された自領にて政務に携わり、不必要な接触は控える事が明記されていた。リファトとの合同摂政とはいえ、不仲な兄弟を同じ城に置いておく訳にはいかない。

 三点目もやはり、第三王子に関する事であった。アンジェロが上記の指示に従おうとせず、秩序を乱す行動をとった場合、全権は即座にリファトへ移る。この一文を読んだリファトは、再度フェルナンから後を託されたのだと、気が引き締まる思いだった。

 遺書の最後は「静かに眠りたい」というささやかな願いで締め括られていた。葬儀を仕切ることとなったリファトは、フェルナンの願い通り、式がしめやかに行われるよう計らった。仰々しい事は控え、遺された側が静かに故人を偲べる場にした。


 戴冠式は喪が明ける一年後になるが、即位式だけは王宮内にて行われる運びとなっている。齢八歳にして王位を継がねばならなくなったライファンの重圧と不安は計り知れない。葬儀のため忙しくしていたリファトは、今度は即位式の準備に追われ、子供達と過ごす時間を作る事ができずにいた。だが、そちらに関してはエイレーネが細やかに補佐してくれた。特にライファンとはよくよく話し合っていたようで、彼は大人顔負けの落ち着きを見せつつ、式の段取りを覚えていた。その度胸に我が子ながら感服させられる。

 子供達に構ってやれなかった事をリファトは申し訳なく思ったが、エイレーネは励ましの言葉を掛けるのみだった。


「大変な時こそ支え合い、助け合うのが家族ですよ。わたしがもっと殿下のお力になれるよう、たくさん頼ってください」


 陽だまりの中にいるような優しい笑顔と、心に沁み入る声音。そして、手の平から伝わる温もりは年月を重ねても色褪せず、むしろ鮮やかにリファトの心を彩り、前へと進む力を貰える。

 ベルデ国で聞いた"太陽の愛し子"とは、エイレーネのために造られた言い回しとさえ思えた。


 即位式までに住居を移せ、という指示に従うのは中々骨が折れた。召し抱える人間も持ち物も少なかった以前のようにはいかないのだ。六人の子供達と一緒の引越しは、とても慌しいものだった。

 豪華絢爛な王宮に移り住んだ子供達は、その煌びやかさに瞳を輝かせていた。しかしそれも最初のうちだけで、数日もすれば寂しさを感じるようになったらしい。ステファナがぽつりと呟いた「…まえのお城がすきだった」という台詞に、異議を唱える子は一人もいなかったのだ。

 確かに王宮は国で一番立派な建造物で、広大な敷地を有しているにも関わらず、ここは少し窮屈だった。王宮には王侯貴族が頻繁に出入りする為、人目を気にせず過ごせる場所は案外少ない。王宮の外では許された事も、ここでは許されなかった。泥まみれになりながら芋を掘るなんて、とんでもない事だ。

 寂しがる子供達の姿が、エイレーネは昔の己に重なって見えた。朽ちかけの古城にあった、小さな庭を手放さなければならなかったあの日の心情は、寂しいなんて言葉では言い表せない。同じような思いを、十にも届かない幼子達に味わせるのは可哀想だった。

 幸いにして、王宮には大小様々な庭園が造られていた。エイレーネは丁度空いていた一画に、実のなる木を植えてほしいと庭師に依頼した。そして子供達に木々の成長を見守るよう伝えると、それは嬉しそうに大きく頷いたのである。

 勿論、エイレーネの為の花壇も用意された。こちらは、上記の話を小耳に挟んだリファトが勝手にやった事である。子供達と好きな花でも育てたら良いと思っての事だったが、彼女はいの一番に薬草を植えていた。場所は変われどあなたを想う気持ちは変わらないのだと、リファトは彼女から告げられたような心地になった。


 カルム国中が亡きフェルナン王の服喪につく最中ではあったが、王宮では即位式の準備が進められ、国民の与り知らぬ所で幼君が王権を継いだ。いつまでも王座が空席のまま放置する訳にはいかないのだ。

 八歳という幼い身でありながら、ライファンは広間に会した貴族達から寄越される数多の視線を前にして、ひたすら真っ直ぐ顔を上げていた。例えそうするよう教わっていたのだとしても、特殊な緊張感の漂うこの場で、教えを忠実に実行するのは容易ではないだろう。少なくともリファトが同じ年頃であったなら萎縮してしまったに違いない。

 立派な我が子に関して心配する点は今のところ無さそうだが、リファトの面持ちは険しかった。それもそのはず、即位式には第三王子のアンジェロも列席しているのだ。そもそも継承順位からいえばアンジェロが第一位であり、決して無下にできる立場ではない。長兄の遺言を彼がどう受け止めているかは不明だが、とりあえず従う姿勢を見せている以上、式典に来るなとは言えなかった。言ったところで何の効力も持たないのは分かっていた。

 アンジェロとは七年ぶりの再会だった。

 リファトは警戒を強めて兄を睨んだが、兄とは終始目線が合わなかった。兄は意味深に微笑んでいるだけで、目立つ事は何もしなかった。幼い甥に向かって低頭する場面でも、不気味なくらい大人しく従っていた。だが怪しく細めた瞳にエイレーネだけを映しているのが、リファトにはこの上なく不快であった。




 アンジェロは口角が上がっていくのを抑えられなかった。

 髪を斬られた姿を盗み見たのが最後になっていたが、今はすっかり元通りに……いや、よりいっそうエイレーネは綺麗になっていた。柔らかく波打つ髪は、太陽を閉じ込めたみたいに暖かでアンジェロの胸を高鳴らせる。また、少女らしさが抜け、大人の女性ならではの艶を纏うようになった。しかし照れたように笑う時だけは、無垢なあどけなさがちらつき、目が離せなくなる。それでいて美しい瞳に宿る慈愛や、清廉された気高さはアンジェロが心を奪われた日よりも深みを増していた。


 本当にエイレーネ姫は綺麗になった。この世のどんなものより綺麗だ。彼女との再会をよくもまあ七年も邪魔してくれたものだが、鬱陶しいフェルナンは死んだ。もっと早く消してやりたかったが、間抜けにも自滅してくれたので良しとしよう。これで障壁は無くなった。汚物同然の愚弟なぞ、恐るるに足らず。物の数にも入らない。


 ああ待ち遠しい。彼女の手を握り、髪に触れ、白い肌に口付けを落とす日が、待ち遠しくてならない!あの綺麗な瞳に見つめられ、優しく微笑みかけてもらう日を、指折り数えて待っていたんだ。


「可憐な唇で愛の言葉を紡いでくれた時、僕は生まれて初めて心から言える。愛しているよと」


 人知れずアンジェロが高笑いをした瞬間、リファトは正体不明の悪寒に襲われたのだった。

【補足】

フェルナンは配下の登用を、従来の階級主義から実力主義に転換しました。高い爵位だけで威張っていた貴族達から反感を買いますが、見過ごされてきた才ある者達からは尊敬されていました。

娘シルヴィアに金持ちのおっさんとの縁談が持ち上がった時、フェルナンが反対しなかったのは「持病持ちの夫は長生きできまい。数年我慢すれば、家の財産はシルヴィアが相続して、あとは自由を謳歌できる」と考えた為です。一人娘のことがどうでも良かった訳ではありません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ