4
国王へ挨拶したからといって何かが好転する訳でもなく、エイレーネの生活は相変わらず殺風景であった。身支度は手伝ってもらえるようになったが、変わった点と言えばそれくらいだ。使用人と鉢合わせる事が極端に少なく、また、食事は作りっぱなしで後は丸投げなのも同じ。まるで主人と使用人が互いに避け合っているようである。
そんな奇妙な毎日も、ひと月、ふた月と時が流れていけば感覚が鈍麻になっていく。エイレーネは本を読む場所を、蕾が膨らみ始めた庭の四阿へと移していた。晴れた日は、日がな一日そうしている事もあった。別に雨が降ろうと構わなかった。むしろ雨音は好きなのだ。しかし小降りの雨であっても、体を冷やしてしまわないかとリファトがしきりに案じるものだから、雨の日はやむなく邸内で過ごす事にしている。体を冷やしたらいけないのは彼方だろうに、と内心で違和感を覚えながら。
本日は生憎の空模様である。エイレーネは一階の、無造作に置かれた長椅子の所で本を広げていた。この場にリファトは居ない。彼がどこで何をしているかも知らなかった。
しばらく無心で頁をめくっていたエイレーネだが、雨音に混じる人の声に気が付き、その手が止まる。ひそひそと囁き合う声は、少し前の彼女ならば確実に聞き取れなかっただろう。けれど、幾分かこの国の言語が耳に馴染んできた現在、囁き声の意味がところどころ理解できるのだった。
声の主は使用人の女性達で、話の内容は異国の姫についてであった。身なりが貧乏くさいとか、喋り方が可笑しいとか。要するにエイレーネへの悪口だ。時折間違えてしまう発音を大袈裟に真似して、エイレーネを笑い者にしていたのである。断片的に聞こえてくるだけでも、耳を塞ぎたくなった。何が悲しいって、この程度の嫌がらせで挫けそうになる、己の弱さだった。ベルデ国に居た頃はこんなに脆い人間ではなかったのに。権威を持つ者は、善意も悪意も引っくるめて受け止めなければならない。エイレーネもそのように教育されてきた。幸いにも祖国ではあからさまな悪意に晒される事はなかったが、いつでも覚悟はしていた。だが所詮はつもりに過ぎなかったらしい。使用人から小馬鹿にされただけで背を丸め俯く、不甲斐ない姿を見たら両親もさぞや嘆くに違いない。
このままでは申し訳が立たないとばかりに、エイレーネはますます一生懸命に勉強した。死に物狂いな様子は、やはり不自然に映ったのだろう。リファトが控えめに声を掛けてきたのは、それから十日後の事だった。
「いつも熱心に読んでいますね。この国の本を気に入ってもらえたのなら嬉しいですが…」
彼は言葉尻を濁していたが、言外に「でも違うのでしょう?」との意味合いが含まれているのを、エイレーネも察した。図星を突かれて一瞬躊躇したものの、ここは観念して素直に吐露する。
「…恥ずかしながら、未だ言葉が堪能ではありませんので…こちらのマナーにも不慣れですし…」
伏目がちになり、ぽそぽそと語る彼女は、とても頼りなげな姿をしている。リファトは何とか励まそうとして、褒め言葉を並べた。短期間でぐんぐん上達している、ついこの間やって来たとは思えない、貴女は素晴らしい努力家だ、と。珍しく焦ったような早口に、彼の必死さが窺える。
しかし残念なことに、彼の言葉はいまいちエイレーネの心に響いていなかった。彼女は今も邸内のどこかで「小国の姫君が大袈裟な褒め言葉を真に受けている」などと嘲笑われている気がしてならなかったのである。
後日、雨が上がった庭で例の如く本を開いていたら、なんとそこへリファトがやって来た。いったい、どういう風の吹き回しだろうか。彼は「貴女さえ嫌でなければ…」と前置きし、瞠目したままのエイレーネに同席する許可を求めた。構いません、以外の返答を持たないエイレーネが戸惑い気味に頷くと、彼は隣に腰を下ろしたのだった。四阿はお世辞にも大きいとは言えないため、必然的に二人の距離は近くなる。もしかすると、共寝する時よりも近いかもしれない。雨上がり特有の土の香りに混じって、隣の彼からは微かに薬の匂いがした。
「今は、どの辺りを読んでいるのですか?」
「えっ?えっと…ここ、です」
何が起きているのか、あまり分かっていないエイレーネだったが、聞かれた事には反射的に答えていた。
「もうこんなに読み進めているんですね。ここの文章はかなり難解だったと思いますが、大丈夫でしたか?」
「いえ…実は…全部は理解できないので、飛ばしながら読んでいるんです。分からなかった箇所は、後ほど辞書を引こうかと」
「なるほど、そうでしたか。この単語は複数の意味を持つので、辞書を見ても理解しにくいかもしれません。文脈から判断することになるので……」
黒い手袋が頁の文字をなぞり、優しい声色が丁寧に語る……その様子から、エイレーネは彼が語学の授業をするために来てくれたのだと知る。
リファトの説明はとにかく親切であった。エイレーネと足並みを揃えるようにして教えてくれる。発音を間違えてもやんわり正してくれ、それが決して嫌味ったらしくならない。何度聞いても分からない言葉は、わざわざエイレーネの母国語に翻訳する事まで、彼はやってのけた。曰く、私には暇な時間が沢山ありましたので大概は本の虫になっていました、だそうだ。いずれにせよ、独学では限界があったが教師がいてくれると勉強の捗り方が段違いだった。
「あ…ありがとうございます。とても助かりました」
「いえ。お役に立てて良かったです」
授業の終わりに、エイレーネは深々と頭を下げた。すると頭上から、穏やかに笑う気配がしたのだった。
以来、ささやかな勉強会は毎日行われた。リファトは最初に必ず、隣に座る許しを求め、エイレーネも決まって「はい」と返した。ゆっくりとした静かな声に耳を傾けながら、黒い手袋を目で追う。不思議なことに、彼の声はするすると頭の中に入っていくのだ。エイレーネは彼の隣にいる時、耳を塞ぎたくなるような悪口が聞こえてこない事に気付いた。そして気付いてからは、安心感にも似た心地良さを覚えるようになったのである。
「そろそろ花が咲きそうですね」
いつしか、勉強とは関係の無い話題をエイレーネの方から投げかけていた。ごく自然に、するりと唇から溢れていたのだ。
「咲いたら…一緒に眺めてもらえますか?」
「はい。是非」
思い返せば少し前にも、同じような台詞を言われた。あの時は形だけの礼を述べただけだった。しかし今は、是非ともそうしたいと本心から願っている。エイレーネは己の心境が変化していた事に、自分でも驚くのだった。
上記のやりとりをしてから二日後。殺風景だった庭に一輪の花が咲いた。
とても可愛らしい桃色のラナンキュラスであった。幾重にも重なる花弁は、薔薇とはまた違った趣きがある。たった一輪であったけれども、折り重なった花冠はどっしりと華やかで、見る者を十二分に楽しませてくれる。
エイレーネはリファトと持ってきた本の存在も忘れて、一輪のラナンキュラスに魅入っていた。しゃがみ込んで、まじまじと花を眺めていたが、不意にその横顔が綻ぶ。大好きだった祖国の庭園は何処もかしこも見事に彩られていたため、一輪の花をじっくり愛でるという機会はあまり無かったかもしれない。だから、なのだろうか。膨れ上がるような嬉しさを感じるのは。
咲いたのはまだ一本だけだが、閉じたままの蕾が沢山あるから、全部開花したら壮観に違いない。満開になる日が待ち遠しい。エイレーネはこの小さな庭園が花々で溢れる未来を心から望んでいた。
「………良かった…」
誰にも知られずに落ちる朝露の如く、その一言は零れた。
エイレーネの耳が安堵を表す呟きを拾ったと同時に、彼女は隣で片膝をついていた人を仰ぎ見る。
そこで初めて、否。ようやくエイレーネは確とリファトの瞳を見た。
交流は増えたはずなのに、彼の顔を真正面から見つめる事は、どうしてか避けてきた。その理由はエイレーネにもよくわからない。恐らく、どこかで予感していたのだろう。ひとたび見つめ合えば、これまでとは何かが大きく変わってしまう事を───
リファトの顔は鼻の上あたりから額にかけて皮膚が変質、変色していた。普段、手袋で覆っている両手も同じ状態と予想される。意図しているのかいないのか、病変部を隠すように伸ばされた前髪と、背をやや曲げて歩く様を使用人達は"足の生えた幽霊"と言い表していた。だがエイレーネは、皆して呪いだ化け物だと言う彼の顔を目の当たりにしても、恐怖など感じなかった。それは、深い海の蒼を閉じ込めたようなリファトの瞳が、一点の濁りも無く澄み切っていたからかもしれない。
「貴女に喜んでもらいたくて、この庭だけは拘ったんです」
「わたしに…?」
エイレーネが鸚鵡返しすると、彼の視線が急に泳ぎ始めた。どうやら話すつもりのなかった事らしい。しかし一度口から滑った言葉は取り戻せない。リファトは気恥ずかしそうにしながら明かしてくれたのだった。
「…めぼしい物は没収されたきり、戻ってきませんでした。遥々貴女が来てくださるというのに、調度品も碌に揃えられなくて心苦しかった…せめて庭くらいは綺麗に整えて、少しでも貴女の癒しになればと思ったのです。ベルデ国は緑豊かなところだと聞いていましたから。エイレーネの故郷には遠く及ばないでしょうが、貴女の笑顔が見れて良かった」
蒼い瞳を優しく細め、いっとう柔らかい微笑をたたえるリファトから、エイレーネは目が離せなくなった。それだけでなく声も詰まり、唇はわななくも音にはならない。
「エイレーネの喜びになれたことが何より嬉しいです。私を幸せ者にしてくれて、ありがとう」
春の陽射しよりも心地良い声音が、エイレーネの心の琴線にそうっと触れる。一輪のラナンキュラスの前で、彼女は白い頬を淡く染め上げたのであった。