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「母上」と、少し舌足らずに呼ぶ声がエイレーネを我に返らせる。束の間、己は上の空であったらしい。
「母上?ぐあいが悪いのですか?」
「…いいえ。どこも悪くありませんよ、ライファン」
喋った立った歩いたと騒いでいたのが、ついこの間のように感じられる。長子のライファンは八歳になった。親の贔屓目を差し引いても利口な子だ。色彩からして中身も母親に似ると思われたが、叔父にあたるアーロンの面影が濃くなりつつある。
第二子ステファナを出産してから、はや七年もの歳月が流れ、エイレーネは六児の母となっていた。
ステファナの後に次男、三男を出産し、先月には双子の女児を産んだ。それぞれ上から、レフィナード、ルーフェン、ラトナ、エレノアと名付けられた。五度目となる出産は双子であった為に体力の消耗が激しく、エイレーネはしばし安静にしていなければならなかった。昨日ようやく侍医から許可が下り、ひと月ぶりに子供達と中庭に出ることが叶ったのである。青空を真下から見上げる心地良さは、やはり部屋の外へ出ないと味わえない。
「ライファンも不安そうですし、やはりまだ無理をしないほうが…」
「心配しすぎですよ、リファト殿下。ギヨーム先生がもう良いと三度も仰っていたではありませんか」
エイレーネに対する過剰な心配性が留まることを知らないリファトは、平穏無事に三十路を越えた。産まれた時に「この子は十まで生きられない」と言われ。十歳になったら「二十歳が関の山だろう」と言われ。二十歳になれば「三十を越えることは無い」と言われた第四王子は、冬場に発熱することも無くなり、六人の子供達に囲まれて幸せな日々を送っている。
「お父さま!お母さま!まだですか?」
催促の声が聞こえて振り向くと、ステファナが白木蓮色の髪を揺らして中庭で待ち構えているのが見えた。姉になった彼女は、二歳になったばかりの三男ルーフェンと手を繋ぎ、空いている方の手を興奮気味に振っていた。
城の中庭には、エイレーネが作った小さな畑がある。そこでは薬草を育てていたのだが、子供達の成長に伴い野菜も植え始めた。エイレーネのように草花を愛でる心を持ってほしいと願っていたリファトが、先導してやった事である。花ではなく野菜を選んだのは、当たり前のように出てくる食事にどれだけの時間と労力が掛かっているかを、理解させようとの意図も含まれていた。
両親の期待通り、子供達は物心ついた時から土に触れ、楽しみながら植物の成長を見守ってきた。今日はかねてより計画していた、じゃがいもの収穫を行うので皆、うきうきしているのだ。
「いま行きますから」
エイレーネは娘に笑顔で答えてから、傍らにいた長男の背を押し、歩き出そうとした。しかしライファンは、父の方を見上げたまま動こうとしない。正確には父が抱いている弟レフィナードを見ていた。その視線が意味するところをリファトとエイレーネは察して、とても温かい気持ちになる。
第三子のレフィナードは他の兄弟に比べて体が弱かった。軽い喘息があり、両親ともに発作が起きないよう細心の注意を払っているが、どうしても運動に制限がかかってしまう。リファトには病床につく辛さや心細さが誰よりも解るので、折に触れて次男を励ましていた。エイレーネの看病の手厚さは言わずもがなだ。そういう両親を持ったライファンもまた、弟妹想いの良い兄になった。
「レフィナードは私が寂しくないよう、側にいてくれるそうだ。お前は、まだ本調子ではないエイレーネのことを頼む」
「…はい。わかりました」
「兄うえ。ここから、おうえんしてます。がんばってください」
「ありがとう。レフィナード」
長女もかなり面倒見が良いと見受けるが、長男が発揮する洞察力は目を見張るものがある。長子は弟妹を守るべきと教えられてきたライファンは、体の弱い弟を殊更気に掛けているみたいだ。両親のやり方を見て真似したり、寝床から出られない弟が退屈しないよう工夫を凝らしたり……それがまた思いやり深い仕方なので、レフィナードも兄をいたく慕い、尊敬の眼差しを向けている。
体は弱く生まれついたものの、レフィナードは人並外れて賢い子であった。寝床にいる日が多い為、彼の趣味は専ら読書である。記憶力と理解力に優れ、兄が勉強している本は既に読破してしまった。一回読んだだけで全て暗記してしまう頭脳に、訪れる講師達はレフィナードを天才だ神童だと褒めた。だが本人はどんな褒め言葉を貰おうとも、自慢げに振る舞うことはなかった。勉学に打ち込むのは偏に尊敬する兄の為。レフィナードにとって一番重要なのは兄の助けになる事で、他人から褒められる事ではないのだ。「たとえ寝台の上にいても知力があれば人の助けになれる」そうリファトに諭されたのがきっかけである。
リファトとエイレーネの子供達はみな仲が良いのだが、長男と次男の絆は最たるものだった。
「では母上。私がおともします」
「はい。お願いしますね、ライファン」
父の代わりを務めんと、凛とした面持ちで手を引く息子に、エイレーネはとびきり優しい微笑みを浮かべるのだった。
子供達が主体となって土作りから手掛け、雨の日も風の日も成長を見守ってきたのだから、収穫を迎えた期待と達成感は何物にも代え難い。子供達は口酸っぱく教えられているはずの行儀作法も忘れ、夢中になって土を掘り返した。
「わあ!とれた!とれました!お母さま!」
ステファナは可愛らしいかんばせに泥を付けて、高々と成果を持ち上げた。汚れることは微塵も気にせず、青い瞳をきらきらさせている。彼女と一緒に居た三男のルーフェンも姉につられて、にこっと笑窪を作る。二歳の幼子では手をぱたぱたさせて土を飛ばすのが精々だったが、それだけでも面白いようである。
第四子のルーフェンはちょっぴり心配になるくらい、おっとりした性格の持ち主だった。生まれた時からぽやんとしていて、大泣きした事も無かった。立って話せるようになってもおおらかさは変わらず、喋り方もすごくゆっくりだ。天真爛漫な姉が全部喋ってしまい、ルーフェンは唇が半開きになったまま止まっている、なんて光景もしばしば見られる。だからといって癇癪を起こすでもなく、終いにはにこにこと姉の話を聞いているので、とんでもなく器が大きいのかもしれない。
「お兄さまのも、大きいわ!それにたくさんついてる!」
「大きさは同じくらいじゃないかな」
子供らしからぬ慎みを持つライファンも、やはり年相応の部分はあるらしい。妹と張り合う様子が、ひたすら微笑ましかった。
「怪我には気をつけるのですよ。傷ができた肌に、土は毒ですから」
監督していたエイレーネが注意すると一応、元気な返事は聞こえてきたのだが、夢中な子供達に果たしてどこまで届いているのやら。エイレーネの横にやってきた侍女達は、うっかり笑いを溢してしまう。
「ラトナ様もエレノア様も、一生懸命ご覧になっていますね」
「そのうちきっと、お兄様達の真似をなさいますよ!」
アリアとジェーンの腕には生まれたばかりの双子がいた。乳飲み児の世話に右往左往していたのが懐かしく思える程、侍女達の子守りはすっかり手慣れたものだった。
「おっと…ルーフェン様、危ないですよ」
「ステファナ様。採れた芋はこちらへどうぞ」
熟練度はアリア達に及ばないが、侍従の二人も子供達の良き兄貴分となっている。有能な使用人達がついているおかげで、今日の収穫においてエイレーネは手を貸す事がほとんど無い。
「ポプリオさんも、わざわざこちらまで足を運んでくださってありがとうございます。庭園の管理でお忙しいでしょう」
「……………このくらい…訳ない事です…」
「また今度、みんなで伺いますね」
「……………お待ちしております…」
古城の跡地に造っていた庭園も完成し、エイレーネのみならず子供達もお気に入りの場所となっている。次はいつ行くんですかと、帰ってきたその日に尋ねられるのは毎度の事だ。
「…あの、母上」
「ライファン?どうしたのです」
収穫も残り僅かとなった時。妹と競うように作業していたはずの長男が、所在なげに立っていた。
「さいごに少しだけ…レフィナードをつれてきてはいけませんか?」
「…そうですね。あなたがお手伝いしてあげるなら良いですよ」
「ほんとうですか?じゃあ、すぐによんできます!」
「慌てさせては駄目ですよ」
ライファンは病気がちな弟が、体調の良い日に中庭を覗いていたのを知っている。他の兄弟と同じようにできなくて悲しかっただろう。遣る瀬なかっただろう。同じ喜びを共有したくて、できる時には水やりだけでも参加しようとする健気な姿を、ライファンは見てきた。兄弟と同じ事ができた日のレフィナードは幸せそうだった。それが忘れられないライファンはどうしても今日、弟に収穫作業をさせたかったらしい。
平時は大人しい兄が飛び跳ねるように走って行き、父から弟を引き受け、戻って来る際には慎重に歩いていた。レフィナードはもう既に嬉しそうである。
「お兄さま、レフィナード、こっちよ!」
二つの小さな影に気付いたステファナが笑顔で手招きする。彼女も弟を手伝うつもりで待っていたようだ。最後の一株を掘らずに残してある。
「私がささえているから、思いきりひっぱっていい」
「ころんでも、わたしがうけとめてあげるわ!」
「はい…っ」
兄と姉に励まされたレフィナードは、小さな手を使って芋の蔓を引っ張った。そうして引き抜いたじゃがいもは、今日一番の大物であった。
「レフィナードのが優勝だな!」
「そうね!お兄さま」
「兄うえと姉うえに、てつだってもらったから…みんなで、父うえのところに持っていきましょう」
というのも実は「一番良くできたものはお父様に差し上げましょう」とエイレーネが夫に内緒で提案していたのだ。病が原因で手の皮膚が脆いリファトは土に触れず、いつだって離れた所から見ている事しかできない。彼本人は眺めているだけで幸せなのだが、それでは寂しかろうとエイレーネが話したところ、子供達は真面目な顔で同意してくれた。内緒の会議は段々と盛り上がり、結局は一番大きなじゃがいもを採った人が父にプレゼントする、という事が決まったのである。
中庭の隅では料理長のマルコが即席のかまどを作り、採れたての芋を茹でられるように湯を沸かしていた。収穫してすぐに青空の下で齧りつくなんて、王族からすればある意味、贅沢であった。
手を洗った子供達は、真っ先に一番大きなじゃがいもを茹でてもらい、四人一緒になって父の元へ持っていった。そこで初めて妻と子供達の計画を知ったリファトは、たちまち相好を崩すのだった。その嬉しそうな顔といったら!
「皆様の分も茹で上がりましたよ。熱いのでお気をつけください」
皮付きのまま茹でたじゃがいもに、切ったバターをのせただけの簡単な料理だ。他所の貴族が見たらなんて粗末な食事なのかと卒倒するかもしれない。だけど、子供達はこの上ないご馳走を頂くみたいに、頬を紅潮させていた。おいしい、おいしいと、ひと口頬張る毎に喜びの花が飛ぶ。
子供達の笑顔を見つめながら、リファトはこっそり涙を拭っていた。歳を重ねるにつれ、涙腺が脆くなっていけない。
リファトが感涙を堪えていたのを知るのは、彼の隣に寄り添っていたエイレーネのみである。
【補足】
子供達が増えたので上から順にまとめておきます。
①ライファン(長男)
②ステファナ(長女)
③レフィナード(次男)
④ルーフェン(三男)
⑤ラトナ(次女)
⑥エレノア(三女)
次女と三女は双子です。
ベルデ国で見たような家庭が理想だとリファトが言ったため、エイレーネは自分と同じ五人兄妹を目指して頑張りました。五度目の懐妊が珍しくも双子だったので、三男三女の六人兄妹となりました。
長女・ステファナは妹を欲しがっていたので、双子が産まれて大喜びです。双子の名前は私がつけたいと、初めて駄々をこねた程です。リファトは自分も娘達の命名に関与したく、でもステファナの要望も叶えたいし…という狭間で葛藤してました。そこへエイレーネがステファナを嗜めます。妹達を大切に想う気持ちは素晴らしいが、一人で全て決めてしまうのは不平等だ、と。結果、家族みんなで候補を出し合い、ステファナが二つ選ぶという形に落ち着きました。




