38
湖面に浮かぶ城に引っ越してから迎えた初めての夏。新たな命が産声を上げた。
エイレーネは明け方に産気付き、昼頃に女の子を産んだ。二度目の出産は、拍子抜けするくらいの安産であった。王女として生まれた子はステファナと名付けられた。
目出たくも兄となったライファンは、あれだけ夢中だった探検も庭もそっちのけで、妹の周りをうろうろしている。しかし最も骨抜きにされていたのはリファトであろう。彼は娘を初めて抱くなり、あまりの可愛さに眩暈がしたと後に語った。
無論、ライファンも可愛い。二人の子供は同じように愛しているが、娘の可愛らしさは格別だった。息子に感じる可愛さとは質が違う。いったん抱いたら手離し難くなる。ステファナが嫌がって大泣きでもすれば、リファトも頭が冷えたかもしれないが、兄に似てお利口さんであった為、彼はのぼせる一方であった。
産後の経過もすこぶる順調で、エイレーネを診察していたギヨームもご満悦である。だが彼は、長年の患者であるリファトに対しては相変わらず辛辣だった。
「ご機嫌なのは結構ですが、妃殿下を放っぽり出すのはいかがなものでしょうな。妃殿下がお可哀想です」
「えっ」という声が出たのはエイレーネである。彼女はリファトから放置されてるなんて、これっぽっちも思っていなかった。むしろ子供達が寝静まってからは、また一段と甘さを増した声にあてられ、胸の高鳴りがぶり返しているくらいだ。寂しく思う暇さえ貰えない。
しかしリファトにとっては図星を突かれたも同然だったのか、途端に焦り始める。
「ご、誤解しないでくださいっ、レーネ!私は貴女のことを疎かにした日はありません」
「は、はい…大丈夫です、よ?」
「困った…大切な人が増えて、自分の心をどう配分して良いか加減が分からない…」
リファトは大真面目にそんな事を呟いて、弱った顔をしていた。真剣に悩んでいるらしいところ申し訳ないが、エイレーネはくすりと笑ってしまった。
「みな等しく全力で接すれば、そう悩まずとも良いのではないでしょうか」
「…成程」
しばし何か考える素振りをしたリファトだが、終いには眉尻を下げて締まりのない表情に変わる。
「……でもやはり、貴女だけは特別です。皆と同じように、とはいきません」
耳元でそう囁かれたエイレーネは、顔を赤く染めつつ「…わたしもです」と小声ではにかむのであった。
これで二児の母となったエイレーネであるが、育児に専念してばかりはいられなかった。懐妊を理由に先延ばしとなっていた、王宮行事を補佐する仕事にそろそろ取り掛からねばならないのだ。これはフェルナン王直々の頼み。手抜かりがあってはいけない。
エイレーネは結婚する前、祖国で母が行うのを横から観察し手伝いもしていたので、主催側がすべき事は大凡わかっているつもりだ。しかしながらベルデ国とカルム王国では当然、しきたりが異なる。故に、改めて勉強し直す分野も出てくるだろう。
ただ今回の集まりは事前に頼まれていた通り、リファトとエイレーネは主賓としての扱いとなる。難しい事は考えず、大人しく招かれていれば良い。指示によれば、乳飲み児を抱えているエイレーネ達は、いっとき顔を出すだけで構わないとの事である。
「そうは申しましても国王陛下の生誕祭ですから、すぐに引き返しては失礼なのでは…」
「いえ、兄上がそれで構わないと仰っているので大丈夫でしょう。長居する方が疎まれそうです」
二人が社交の場に出るのは本当に久しぶりだ。子が生まれる前から宮廷行事とは縁遠い生活をしていたので、行って帰るだけなら幾分気が楽だった。
エイレーネが社交界に復帰すると聞き、すぐさま駆けつけた者がいる。お針子のハリエットだ。二人の衣装を新調するとあっては、じっとしていられなかったに違いない。
これまでも度々、ライファンの衣装作りは依頼していたのだが、やはり女性のドレスの方が仕立て甲斐があるそうだ。エイレーネの妊娠中は見た目より機能性を重視した衣装しか作らせてもらえなかった。その反動が出たのか、ハリエットの目が燃え滾っている。
「まずはステファナ様のお誕生おめでとうございます。ライファン様と同じく、ご成長に合わせて衣装をお届けするつもりですので、今後ともよろしくお願いします。早速ですがエイレーネ妃殿下の新しいドレスについてお話ししても宜しいでしょうか。今回は流行の型ではなく、私が考案したデザインを用いたいと考えておりますので、採寸から裁縫まで全て私が致します。それから…」
怒涛の勢いにエイレーネは口を挟むことができなかった。
別室にて採寸されていたリファトはというと、エイレーネの衣装は露出を控えてほしいだの、ステファナに可愛らしいドレスを作ってくれだの、ちゃっかり注文を残していたのだった。
新しい城は、王宮まで馬車で三十分とかからない位置にある。往復すると一時間弱の距離だ。そして王宮での滞在時間も一時間を想定すると、おおよそ二時間は留守にする事になる。ライファンは良いとして、生まれたばかりのステファナが心配だ。
「あたしとアリアでお世話しますから、任せてください!」
乳母を呼ぶかとの意見もあったがリファトの賛成が得られず、最終的にはどんと胸を叩いた侍女達を頼ることになった。出発前にたらふく乳を飲ませれば、お腹を空かせて泣くことはないだろう。
国王の生誕祭は国中で祝われるのが通例だった。だがお祭り騒ぎになるのは王宮のある王都近辺で、地方はそうでもない。気合いの入れようは平民より貴族の方が顕著だ。国王と対面できる貴重な機会なのだから仕方がない。
フェルナンは贅沢を好まないが、王の前へ出る際は可能な限り着飾るのが礼儀とされている。その為、エイレーネもドレスを新調せざるをえなかった。出産する前と後で体型が変わり、以前のドレスは合わなくなってしまったのだ。体型の変化といっても、少しだけふっくらして、より女性らしい体付きになった程度である。痩せ細って頃よりずっと魅力的になった。
「お待たせ致しました、リファト殿下。いかがでしょうか」
先に支度が終わっていたリファトは、階段を優雅に下りてくるエイレーネを見つめて、感嘆の吐息を漏らす。
カルム王国では、パニエを使ってスカートを大きく膨らますのが流行りだ。そして、レースや宝石が多ければ多いほど富裕層の証となった。しかしながら今回ハリエットが手掛けたドレスは、どちらにも当てはまらなかった。スカートの膨らみはやや控えめで、流行りの形とは異なっている。その代わり、歩いた時の揺れ方が非常に美しくなるよう、計算されて作られていた。本人曰く透明な水の中で幻想的に広がるドレスを想像して仕立てたらしい。最終調整の為に来ていたハリエットはやり切った顔をしていた。
「綺麗です。本当に…素晴らしく綺麗な妃の隣を歩ける私は、なんて幸せなのでしょう」
「そんなに褒められると照れてしまいます。ハリエットはすごいですね。針と糸だけでこれほど見事なドレスを作れるなんて、芸術だと思います」
エイレーネが来ていったドレスは案の定、他の貴族達の目を惹きつける事となる。彼らは目新しいものに興味を引かれずにはいられないのだ。王宮へ到着し、回廊を進んでいると、皆が彼女を振り返った。だがそうなれば否が応でもエイレーネの横にいる、顔を黒いヴェールで覆った王子が異質に映るのだった。
ひそひそと囁やかれている対象が自分である事に、リファトはもちろん気付いていた。それでも彼は気弱になって落ち込んだりしなかった。しっかりと手を握ってくれるエイレーネに罪悪感を抱くのはもう止めたのである。
フェルナンの生誕祭にて、リファト達は一番最初に王へ挨拶する権利を与えられていた。それは非常に名誉な事であり、国王に次ぐ権力を持っているのが誰なのか、周囲に知らしめる場ともなるのだ。
リファトはエイレーネと共に王の前へ進み出て跪き、祝辞を述べる。彼の堂々とした姿に、エイレーネは感動を覚えた。出会ったばかりの頃、リファトは家族から酷く虐げられても悪いのは自分だと淡く微笑むばかりで、決して積極的に関わろうとしなかった。何もできないと気落ちする事も多々あった。仕方がないという諦めで全てを片付けてしまっているように見えた。そんなリファトが、王の前でも臆せず語るどころか、兄の誕生日を笑顔で祝福しているのだ。
家族のことで他人よりも沢山、辛い目に遭ってきたリファトが、兄と交流を持とうとして前向きに奮闘しているのがエイレーネはとても嬉しかった。
「…いつまでそれを付けているつもりだ」
弟の祝辞を聞き終えたフェルナンは、唐突に黒いヴェールを指差した。
「家族の前に出る際は必ず着用するよう言われていましたので…」
「もう良いだろう。それを言い出した者達はここに居ない。かえって目障りだ」
「は…はい。失礼致しました」
リファトは戸惑いつつも、ヴェールを取り払った。その刹那、暗黒に染まっていた世界が鮮明に輝き始める。
「その布切れは捨ててしまえ」
「…はい。そうします」
エイレーネはすぐ隣で、リファトが喜びを噛み締めているのを見ていた。黒いヴェールは拒絶の証そのものだった。少なくともリファトにとっては、そういうものであった。それが最早捨てて良いものに変わり、嬉しくないわけがなかった。胸が詰まって無口になる彼の手を、エイレーネはずっと握っていた。
子供達を残していったので、第四王子夫妻は王宮から早々に帰されたのだが、二人の姿は他の招待客の記憶にばっちり焼き付いていた。しかし悲しいかな、リファトに関する評価は大して上がらなかった。華麗で優美なものを好む貴族達に、病変した彼の素顔は直視するに堪えないのだろう。素肌を隠していた時も気味悪がられたが、露わになったらよりいっそう不気味だったと口々に噂されている。
そこへいくとエイレーネは対照的であった。まずもって前々から貴族達は第四王子妃との接触を狙っていた。王太后になるであろう彼女と繋がりを持っておけば将来は安泰。貴族達の間では常識である。だがしかし、ここ数年はフェルナンとリファトの双璧により、遠目に横顔を拝むことすら叶わなかった。それが漸く解禁となれば……。
「…これは壮観ですね」
晩餐会、舞踏会、観劇会、園遊会などのお誘いが次から次へと届き、机の上が埋め尽くされる有様である。ライファンを出産した際も手紙は束で届いていたが、ここまでの分量ではなかったし、そのほとんどをリファトが処理してくれていた。未だかつて見た事がない膨大な紙の山に、エイレーネは思わず苦笑いだ。とても一人では捌き切れないので、侍女達に手伝ってもらいながら厳選していく。
「エイレーネ様。参加、不参加はどのようにお決めになりますか?」
「多くてもひと月に五件までがリファト殿下のご意向です。それから遠出や長丁場になるものは避けるよう仰っていました」
「では、王都に屋敷を構える貴族を中心に纏めますね。後ほど内容をご確認ください」
「はい。それでお願いします、アリア」
「規模が小さめなサロンとかは、いかがですか?」
「大丈夫ですよ。ジェーンはこまめに休憩を挟んでくださいね。目が疲れてしまいますから」
「お気遣いいただき、ありがとうございます!」
貴族の家名がまだ完璧に覚え切れていないイシュビは手伝いに加わらず、子守りを担当している。とはいえライファンは大人しいし、ステファナは眠るか起きるかのどちらかで、泣き出したらエイレーネを呼びに走るだけの簡単な仕事だ。それでも、生真面目なイシュビはお手本のような直立不動の姿勢を崩さないのだった。
何故、リファトがこの場に居ないのかというと「行かなくていいですよ」しか言わなくて作業が滞りそう、と侍女達が指摘したからである。ぐうの音も出なかった彼はすごすごと退散するしかなかった訳だ。
エイレーネが手始めに赴いたのは、ミランダがまだこの国にいた頃に参加したサロンだった。今回は二時間以内という条件付きでの参加である。乳飲み児のステファナがいるので、三時間以上そばを離れるのは厳しいのだ。
公爵夫人が主催するサロンには、名だたる貴婦人が揃っていた。夫人達の歓迎を受け、エイレーネも笑顔で応じる。ミランダが同席していた時は、誰もが彼女の顔色をうかがっていたが、現在その対象はエイレーネだ。そうやって勢力図は変化していくのである。
過剰なまでに持て囃す夫人達を眺めていたジェーンは「エイレーネ様が困ってた時には何もしてくれなかった癖に」と内心で一蹴していた。因みに、アリアはお供していない。足の悪い彼女を、主人の後ろで立ちっぱなしにさせるのは忍びなかったからだ。
サロンにてもっぱら話題となったのが、生誕祭でエイレーネが着用していたドレスだった。さすがは流行に敏感な夫人達である。
「一風変わっておりましたが、とても素敵でしたわ」
「私も妃殿下と同じドレスを着てみたいですわ」
「ご贔屓になさっているお針子がいるとか。わたくし達にもご紹介いただけませんか?」
女性が集まれば時間などあっという間に過ぎていく。この日は終始なごやかな雰囲気が続いた。エイレーネの返答こそ当たり障りのないものだったが、口振りや態度は友好的で、夫人達もすぐに打ち解けた様子であった。久方ぶりのサロンにしては上々の結果だろう。
社交場に顔を出し始めたエイレーネの評判が良かったため、一つ終われば次、という具合にあちらこちらのお屋敷へ招待された。たかが二時間弱とはいえエイレーネと離れる事に、リファトはあまり良い顔をしなかった。彼は自分の居ない所で、妻に秋波を送る輩が湧く不安に駆られているのである。随行するイシュビとジェーンに、外出先での出来事をこと細かく報告させるまでが一連の流れだった。エイレーネに声をかけた異性を一人残らず詳しく報告しなければならない二人の苦労はいかに。
今日もまた、エイレーネに話し掛ける貴族の男を見て、イシュビとジェーンはこっそり目配せし合った。本音を言ってしまうと、リファトの不安はするだけ無駄だと思う。確かに、エイレーネを熱っぽく見つめる男は散見する。しかし当の本人はリファトしか眼中に無いので、男だろうが女だろうが一律の対応をとっていた。むしろ同性より、異性と接する時の方がしっかり一線を引いているように見える。手の甲に口付けする事さえエイレーネは拒み、リファトにしか触れられたくないとの強い意志を、やんわりとした口調の中に含ませていた。
「…しかし今日は人が多い分、報告会が長引きそうだ」
「…覚えきれるか不安になってきちゃった」
本日の社交は園遊会。と言っても公的なものではなく、立派な庭園を所有する貴族が個人的に開催している集まりだ。先だっての公爵夫人から共にどうかと声がかかったので、足を運んだ次第である。
余談だが、上記の台詞はイシュビとジェーンの心の声だ。対話のようになってしまったのは偶然にすぎない。
「ご機嫌麗しゅう、エイレーネ妃殿下。王女様のお誕生を心よりお慶び申し上げます」
「ご丁寧なお言葉に感謝致します」
挨拶をして回っていたエイレーネを、とある伯爵家の当主が引き留めた。髭と贅肉をたっぷり蓄えた男だった。言葉遣いは慇懃でも、エイレーネを見下ろす目にはどこか嫌な感じがある。イシュビは伯爵の眼から、ジェーンは伯爵の声から、滲み出る敵意を感じ取った。
「私も父親という肩書きがありますゆえ、子を育む苦労は一通り味わいました」
「親の振る舞いについて、指導書があればと思うこの頃です」
エイレーネは微笑みを作りながら相槌を打っていたが、イシュビとジェーンは「変な事を喋ったら後でリファト殿下に言い付けるぞ」と刺々しく言い返していた。無論、全て心の声である。
「私が思うに人手は多いに限ります。子とは幾つになっても手がかかるもの…いかがでしょう、妃殿下もこれを機に世話係を増やしては?腕の立つ剣士に心当たりがございます。お望みとあらばご紹介いたしますよ」
「お気遣いは嬉しいのですが、現状に不足や不満は抱いておりません」
「手が回らなくなってからでは遅いのです。失礼を承知で少々調べさせていただきましたが…」
伯爵のもったいぶった言い方が苛立ちを煽る。それ以上に、エイレーネの後ろに控える二人へ、差別的な目線を向けられる事が気に障った。
「妃殿下の周囲には、どこの馬の骨とも分からぬ下賤な者がうろついているみたいですな。これは宜しくない事ですよ。妃殿下のお近くに侍る人間は、選び抜かれた高貴な者でなくては。妃殿下ご自身の品位に関わります」
親身な素振りをしているようで、実際にはエイレーネを貶めていた。そうでなければ、会場の目立つ所でわざとらしく声を張ったりしない。この伯爵はニムラに肩入れする派閥に属していたものの、支持者は死に、勢力図は完全に逆転。家はすっかり落ちぶれてしまった。エイレーネに喰ってかかったのは、私怨による腹いせに過ぎない。
くだらない八つ当たりである。しかし男の台詞に、表情を曇らせる者がいた。イシュビとジェーンだ。イシュビは辺鄙な田舎育ちだし、ジェーンは孤児だ。アリアだって同じで、ユカルに至っては出自不明の元奴隷で犯罪歴もある。下賤と言われても反論できなかった。相応しい身分でない後ろめたさは常に付き纏っている。それでもこんな衆目の中で、よりにもよってエイレーネの目の前で、こき下ろされるのは酷く惨めだった。
「そのように他人の使用人を侮辱する行為のほうが、よほど品性を疑われますよ。リファト殿下とわたしに仕えてくれる使用人達は皆、国王陛下のお許しを得た上で側に置いているのです」
肩身の狭い思いに耐えていた二人を庇ったのは、言うまでもなくエイレーネであった。彼女らしからぬ険を含んだ物言い。それはエイレーネが強い怒りを感じている事を意味していた。
「私はただ進言しただけです。未来の王太后陛下を思っての事ですよ。孤児や奴隷が妃殿下の周りをうろちょろしていては、御身を危険に晒すようなものですから」
「…では問いますが、リファト殿下やわたしが危険に晒されていた時、伯爵は何をしてくださいましたか」
これには伯爵だけでなく、興味本位で成り行きを見ていた貴族達の目も泳いだ。エイレーネが懐妊するまで見向きもしなかった疾しさを、的確に突かれたからだ。
「そ、それは……過去の失態をほじくり返して責め立てるなんて、妃殿下もお人が悪い」
「それぞれのお立場やお考えがあっての事、というのは理解しております。責めるつもりでお聞きしたのではありません。しかしながら伯爵が傍観者であった間、今し方下賤と蔑まれた者達が、リファト殿下とわたしを命がけで守ってくれたのです。死の危機に瀕しても折れぬ忠義に信頼を置いて、我が身の守護を任せる事に何の問題がありましょうか」
高貴なのは身の上ばかりで、高みの見物していた連中に、とやかく言われる筋合いは無い。エイレーネに完封され、束の間言葉に詰まった伯爵だったが、彼は往生際が悪かった。
「ぐっ…仰る通りですがね。与えられる機会は平等でなければならないと思うのですよ。私は妃殿下に忠義を示す機会が無かっただけです。他の者達だとて、妃殿下をお守りする名誉に与りたかったはずですよ」
「………」
「お話を遮って大変恐縮ですが、こうなさったらいかがでしょう?」
エイレーネが口を開く前に、二人の間に入った女性がいた。エイレーネを園遊会に誘った公爵夫人である。彼女は己の好奇心を刺激してくれる事象を好んだ。面白そうに細められた夫人の目が良い証拠だった。
「エイレーネ妃殿下の侍従と、伯爵が推薦なさる剣士を決闘させるのです。"決闘の結果は神の審判"、誰も文句はつけられません。非常に分かりやすい方法ではありませんこと?ここはちょうど決闘をするのにお誂え向きな広さがありますし、立ち会い人にも事欠きませんわ」
公爵夫人の先導により、あれよあれよと決闘の準備が進められていく。エイレーネは園遊会の主催者に詫びを入れたが、彼方もかなり乗り気になっており、逆に応援されてしまった。
「ごめんなさい、イシュビ。不本意な戦いを強いる事を許してください」
装備の最終確認をしていた侍従へ、彼女は詫びの言葉を述べる。しかしイシュビの口元には笑みがあった。エイレーネに向き直ると、彼は恭しく片膝をつくのだった。
「滅相もありません。お仕えする主人のために戦えるのは、騎士にとって誉れです。あっ…私はもう騎士ではありませんが…」
「主人のために戦う方は、誰であれ立派な騎士です。どうか胸を張ってください」
「…感謝致します。このイシュビ、必ずや両殿下の名誉をお守りしてみせます」
「神のご加護がありますように。わたし達だけでなく、あなたやジェーン達の名誉もお願いしますね」
「っ、はい!」
大勢の目がある手前、ジェーンは鼻息荒く握り拳を作るだけだったが、喋って良かったなら声を大にして応援していたに違いない。
「決闘を行う両名は前へ!」
剣を構えるイシュビは勇み立っていた。彼にしてみればこれはある種の雪辱戦である。助けを差し伸べられる距離に居たのに、何もできなかった悔恨の雪の日……鍛えた剣を正しく振るい主人をお守りする事で、己が悔いを清算してみせよう。
「両名、用意は良いか。……始め!」
イシュビが相手の間合いに踏み込んだのは、開始の合図とほぼ同時であった。
園遊会から戻ったエイレーネより報告を受けたリファトは、ここまで聞いた時点で、粗方の顛末を察してしまった。一応「結果はどうなりました?」と尋ねはしたものの、イシュビが勝ったであろう事は分かりきっていた。何しろジェーンがその場に居なかった友人達へ、擬音だらけの熱弁をふるっているのが、部屋の外から聞こえてくるのだ。その興奮具合から、あっという間の決着だったと推測できた。
「初戦は一対一だったのですが、ものの数秒で終わってしまいまして。イシュビが『刻限が迫っているので残りは纏めてどうぞ』と言ったので一対四の戦いになったのです。それでもイシュビの圧勝でした」
腕が立つと自慢していた剣士達があえなく一掃され、伯爵は赤っ恥をかきながら退散する他なかったそうだ。イシュビの健闘をリファトも賞賛する。
「人数差をものともせず勝つとは流石だ。彼に何か褒美を贈らないといけませんね」
「すでにそう伝えたのですけど断られてしまいました。イシュビはもう頂いていると言って…」
エイレーネはあまり腑に落ちていない様子だったが、リファトにはイシュビの言わんとした事が理解でき、そっと微笑みを浮かべるのだった。
次に招待されたサロンでは早速、決闘の一件が話題に上った。
「園遊会での決闘、お見事でしたわ。妃殿下に益々の栄光がもたらされますように」
「伯爵のお顔をご覧になりまして?痛快でしたこと」
「妃殿下も爽やかな気分ではございませんか?」
エイレーネと顔馴染みになれた夫人達は、調子付いて言葉を重ねる。けれどもエイレーネの反応は、夫人達の予想とは違っていた。周囲がいくら褒めそやしても、彼女は賛辞を受け取らなかった。決闘に勝利したのはイシュビであり、誉を受けるべきも彼だというのが、エイレーネの主張だった。
期待した反応が返ってこなかったので、夫人達はすぐさま話を切り替えた。
「そういえば妃殿下はお聞きになりましたか?東部の街で女性が夜な夜な消えているそうですよ」
「正確な人数は分からないらしいのですけど…」
「え…?」
エイレーネの表情が中途半端に固まる。何せカルム王国の東部といえば、第三王子が屋敷を構えているのだ。その近辺で女性が失踪しているなんて、怪しい以外の何物でもない。
エイレーネの関心を引いたのを見て取り、夫人達は我先にと喋り出した。
「わたくしも聞きましたわ。年若い女性が相次いで行方不明になっていると」
「アンジェロ殿下がお気に召した女性を囲っているのかもしれませんわね。お遊びが激しい方ですもの」
「フェルナン陛下のお怒りを買ったせいで、自領から出してもらえないのでしょう?きっと鬱憤が溜まっていらっしゃるのね」
「でもアンジェロ殿下がお求めになるのは、いつも一夜限りのお相手ですわ。囲うなんて事、なさるかしら?」
「お詳しいのね、貴女。もしや経験がお有りなの?」
「ち、違いますわよっ。下世話な勘繰りはおよしになって」
薄気味悪い寒気を覚えたエイレーネは、定刻よりも少し早く退席させてもらった。彼女の頭には、リファトへ知らせなければならない、という焦りだけが残っていた。
東部の街の目印にもなっている城。その城は第四王子との差を見せつけるかの如く、広大な土地に手間と大金をかけて建てられた。とにかく豪華である事を念頭に造られた屋敷のはずだが、今はどこか殺伐とした雰囲気が漂っている。
城の主人たるアンジェロは非常に苛立っていた。苛立ちの原因は、彼の足元に蹲る小柄な女性だ。
「どうか、お願いですから…っ、お怒りを鎮めてくださいませ…」
「僕が何に対して怒っていると思う?」
女性は可哀想な程がたがたと震えていたが、アンジェロは同情する演技さえしない。
「そ、それは…私が至らないばかりに…」
「何が?何が至らない?具体的に言ってみろ。言えないのか?だから駄目なんだ。そんな風に泣いてみっともなく床に蹲って、誰がそんな事をしろと命令した?」
怒りの形相でアンジェロは女性の髪を乱暴に掴み上げた。女性はぎゃっと悲痛な悲鳴を上げるが、それが余計に彼の苛立ちを加速させてしまう。彼は鞭を振るうように、掴んだ髪を振り回した。頭皮に激痛が走るたび、女性はますます泣き叫んだ。
「僕はエイレーネ姫になれと言っただろう!彼女はそんな汚い声で叫ばなかった!この程度の痛みで涙を見せたりしなかった!大きな脅威に毅然と立ち向かっていた!自分ではない誰かを優先していた!だいたいお前は笑い方からなってない。ほら、笑ってみせろ。はやく!笑え!……ああ素晴らしい。素晴らしく似てないなお前。最高に不快だよ。不快すぎて僕が笑ってしまうよ。ははっ!いいかい?エイレーネ姫はね、それはもう可憐に微笑むんだ。自分が傷付いていても、汚物同然の弟に対してもだよ?なんて清らかで優しい心の持ち主なんだろう!お前もそう思わないかい?ん?そうだろう。彼女は唯一無二だ。はなからお前なんかに高望みはしてないさ。でも真似事くらいはできるはずだろう?街一番の舞台女優を謳うくらいなんだから。それがなんだい?エイレーネ姫になりきる事もできないで、何が一番だ?可笑しいなぁ。可笑しいよなぁ」
常軌を逸した狂気にあてられた女性は、耐えられずに失神してしまった。にも関わらずアンジェロの狂言は止まらない。
「使えない。こいつも、こいつを連れてきた奴も。すぐ壊れる玩具は拾ってくるなとあれほど言ったのに。耳が腐ってるのかな。後で削いでおこう。使えないものは捨てていかないとね。僕は綺麗好きだから。エイレーネ姫みたいに綺麗なものが大好きなんだ」
アンジェロは打って変わって恍惚とした表情を浮かべると、掴んでいた女性の髪を離した。ごん、と鈍い音がしたが一瞥もしやしない。それどころか、部屋の隅で卒倒しそうになっていた使用人に向かって「処分しておけ」と投げやりに命じるのだった。
東部の街で女性が謎の失踪をとげている。その噂の真相は、アンジェロがエイレーネに背格好が似た女性を屋敷に拉致していた、というもの。彼は誘拐した女性達へ、エイレーネになりきる事を強制した。髪を橙色に染め、問答無用で同じ髪型、同じような格好をさせた。だが誰一人として彼を満足させられず、拷問紛いの折檻を受けるだけであった。そんな事が毎日続けば、命を落とす者が続出する。
何より最悪なのは、死人が出てもアンジェロには罪の意識が欠片も無かった事である。だから彼は平然と恐ろしい非道を繰り返すのだ。
第三王子に対する疑惑はエイレーネからリファトへ、そしてフェルナンにも伝わっていった。だがしかし、東部の街にいる貴族や騎士はアンジェロが掌握している。通報があっても失踪事件は揉み消されるか、改竄されるのが落ちだった。しかも国王の耳にも入ったと知るや否や、失踪事件はぱたりと止んだ。ご丁寧にも犯人確保の報告付きで、である。報告書に目を通したリファトは、追及を免れる為にアンジェロが犯人役をでっち上げたのではないか、という疑心が拭えなかった。でも口惜しいことに、決定的な証拠が見つからないのだ。
フェルナンでさえ真意を図りかね、迂闊に手が出せないところを見ると、アンジェロの狡猾さはニムラを上回っているのだろう。けれどもリファトだけは確信を得ていた。アンジェロの標的は不特定多数の女性に非らず、第四王子妃だ。
東部の街で起きた事件を、エイレーネに結び付けるのは少々無理があるかもしれない。単なる直感でしかない事はリファトも分かっている。だがリファトのエイレーネに対する執心は追随を許さぬだけあって、彼女への脅威には何にも優って敏感だった。フェルナンが「邪推しすぎではないのか」と眉を顰められても、リファトは己の見解を曲げなかった。
アンジェロがエイレーネを狙っている。だとすれば今度は、以前のように手を引く事は決してない。どこへ逃げても、地の果てまで追ってくるだろう。残された道はただ一つ、真正面から衝突するのみ。
元より不仲を極めていたアンジェロとの、完全な決別をリファトは予感した。
「リファト殿下?」
「…少し考え事をしていただけです」
最愛の彼女にだけは気取られぬよう、リファトは微笑を取り繕う。
───戦う剣にはなれなくとも、エイレーネを守る盾でありたいのです。
かつて己が告げた決意を、彼は心中で撤回した。
───私はエイレーネを守るための盾となり、剣となる。
カルム王家の男は頑固だ。良く言えば一途、悪く言えば執着心の塊。十年経とうが百年経とうが、死ぬまで一つの事に固執し続ける。
リファトとアンジェロ。カルム王家の性質を受け継ぐ二人の王子は同じ女人に惹かれ、心を奪われてしまった。最愛の存在が己だけのものになったと確信できるまで、その心が満たされる日は永遠に訪れない。
彼らの命運が決するのは、およそ七年後の事である。
【補足】
リファトは昔、乳母からも言葉の暴力を受けていたので、自分の子に乳母をつける事に強い抵抗感があります。
次回。時間が一気に飛びます。




