35
先日、ニムラが起こした誘拐未遂事件にて、リファトは痛感した。エイレーネの身辺警護をもっと強固にする必要がある。それも早急にだ。フェルナンが寄越した親衛隊に文句を言う訳ではないが、彼らを動かす権限は国王にあり、最終的な決定権はリファトに無い。ユカルのように忠誠心が厚く、どこへでも帯同でき尚且つ、リファトの命令を確実に遂行可能な逸材を、エイレーネの側にも置いておきたかった。
という話をユカルにしたところ、彼もまた深く頷いていた。
「君を残していこうとすると、エイレーネが良い顔をしないから…すぐにでも彼女付きの侍従が欲しいところだがユカル、誰か心当たりはいないか」
「親衛隊の他にですか?」
ユカルが首を捻るのも仕方がない。国王直属の親衛隊は、選び抜かれた精鋭の騎士で構成されている。彼らと同等の人材を民間から見つけるのは簡単ではないからだ。
「国王陛下に願い出て、親衛隊から幾人か引き抜くのが最も確実かと」
「それはそうだが…しかし…」
大勢の親衛隊がニムラに殺されてしまったが、フェルナンは前と変わらぬ人数を派遣してくれている。それは即ち、王の側に残る親衛隊が規模を縮小しているという事だ。これ以上、長兄の身辺を手薄にしたくないのも、リファトの本心だった。
リファトと揃って頭を悩ませていたユカルだが、不意に「そういえば」と切り出した。
「妃殿下がお探しになっている騎士がいましたよね。裁判所の牢屋で見張りをしていたという…」
「ああ…そうだったな」
凍えそうな牢の中で裁判を待っていた、あの時。エイレーネは鉄格子の外から聞こえてくる会話に、神経を尖らせざるをえなかった。見張りの騎士達が言い争う声は切羽詰まっており、「腹の子」「流産」「俺たちが殺される」といった言葉の断片から、良くない内容である事を理解した為だ。
騎士達はニムラに、エイレーネの腹の子を殺せと命令されていたのだろう。一人の騎士は今にも殴りかからん剣幕だった。そうならなかったのは、もう一人の騎士が止めていたからだ。
───血迷ったのか!?騎士の仕事は命を奪うことじゃない!人の命を守ることだろう!
そう叫んでいた騎士の名前はおろか、顔を盗み見る余裕もエイレーネには無かった。でも、彼が放った台詞だけは一言一句はっきり覚えていたのである。だからエイレーネは出産を終えて間もなく、名も知らぬ騎士の無事を確認してほしいと、ユカルに頼んでいた。
当時、持ち場を離れられなかったユカルは、その頼みを親衛隊に託していたのだが、未だ色よい報告はできていない。かの騎士の名前だけは判明したものの、足取りが掴めないのだ。自ら行方をくらませたのか、或いはもう既に始末されたか……最悪を想定してしまうとエイレーネに伝えるのは憚れて、現在に至っている。
「探してみます。元はと言えば俺が妃殿下から頼まれた事です」
「わかった。本人が見つかり、侍従になる気が無いとしても、連れてはきてくれ。エイレーネがお礼を言いたがっていた」
「ご期待に添えるよう尽力します」
「無理の無い範囲で頼むよ」
彼女の話を聞いただけだが、良い心掛けを持った騎士だとリファトも思う。護衛として腕が立つことも必要だが、重要なのは信用できるかどうかだ。
ユカルが手始めに向かったのは畑である。民達は驚くほど顔が広い。というか、ちょっと怖いくらいよく見ている。隣近所の事情は当然のように精通しているし、商売相手も多いし、婦人達には独特の情報網がある。それらを頼ろうと思い、ユカルは農民達に会いに行った。親衛隊もまさか畑には来ていないはずだ。
畑仕事をしていた農夫がユカルを見つけると、そこからあれよあれよと人が集まってきた。手間が省けたと思ったのも束の間、皆エイレーネと赤子の様子を知りたがるので、なかなか本題に入れなかった。ひとしきり質問に答えたところでユカルはやっと、ある騎士を知らないか尋ねることができた有様だった。
「へぇ、探し人ね…その騎士はなんて名前なんだい?」
「イシュビというらしい。年は二十代半ば。それ以上は分からない」
「それだけか?ははあ…そいつは骨が折れそうだ」
「すまない…無茶は承知だが、妃殿下がお探しなんだ」
エイレーネの名が出ると、民達の目の色が変わった。
「そりゃあ是非とも見つけて差し上げようじゃないか!なあみんな!」
ひとりの農夫が声を上げると、その場にいた全員が応と答えた。
「ちょいと待っとくれ。裁判所にいた騎士なんだろう?その辺にあたしの親戚が住んでるからさ。ひとっ走りしてくるよ」
そう話す婦人は、早速出掛けて行った。
「そういや、お得意様の娘の婿が騎士をやってた気がする。今度会ったら騎士団のこと、いろいろ聞いておくよ」
市場に野菜を卸す若者が捜索を請け負う。他の者達も、できる限りの協力を約束してくれた。ユカルは何度も何度も感謝を伝えてから、自分も捜索に向かうのだった。
実のところ、騎士の名前がイシュビと判明してすぐ、親衛隊は彼の家族を探し出していた。だが家族には会えたものの当の息子は、二十歳で念願の騎士になってからこの五年、一度も帰郷していないので今どこで何をしているのか分からない、という答えしか得られなかったのである。
親衛隊はそれだけ聞いて引き返したみたいだが、ユカルは再度会いに行ってみた。そこで改めて聞くことができたのは、イシュビは体力が取り柄の息子だった事。地方出身の平民であるのを理由に階級は低いままで大変な任務ばかり押し付けられていた事。家族思いで少ない給金はほとんど仕送りに充てていた事、だ。ユカルはそう話してくれた両親の顔をよく見ておいた。彼らの息子ならば面影があるはずだ。
その後は方々を巡っていたユカルだが、馬で駆けている最中、農夫に呼び止められた。
「最近になって隣町で見かけるようになった奴がいる。がっしりした若い男らしい。お前さんが探してた騎士かもしれん」
「ありがとう。隣町のどの辺りだろうか?」
「運河沿いに市場が出てるだろ。あそこを通り過ぎると三叉路があるから……」
教えてもらった情報を元に、ユカルは直ちに隣町へと向かうのだった。
「もしかして君がイシュビか?」
その言葉と共に肩を叩かれた青年は勢いよく振り返り、そして……息つく間もなく逃走した。一拍子遅れてユカルも地面を蹴る。
「おっ、おい!ちょっと待て!」
「……ここも駄目か…っ」
騎士になるのがイシュビの夢だった。生まれた家は貧乏で、いつもお腹が空いていたけれど、人一倍おおきく育った。この恵まれた体格を、世のため人のために生かしたいと思った。体力しか取り柄のない己に、騎士という職はまさにうってつけだった。
平民出身の騎士は出世できないと言われていたし、実際その通りだった。だが出世なんてどうでも良かった。生まれ持った力を正しく使い、誰かを守れるなら。給金なんて親に苦労をかけない程度に貰えれば充分であった。
任務と鍛錬を地道に重ねた五年間だった。体力自慢のイシュビでも苦しい仕事が多かった。でも充実していたと思う。あの雪の日、あの命令が下るまでは。
階級の低い騎士が貴族のお歴々と対面することは滅多に無い。ましてや王族なんて一生お目にかかることもないはずだった。そんな論外な事態がイシュビの身に生じたのだ。
第四王子妃のエイレーネ様。己が担当する牢屋にやってきたのは、小さく華奢なお妃様だった。詳しい事は何も聞かされないまま、彼女に暴行を加えろと言われた。耳を疑った。しかもニムラ王太后の命令だという。逆らえばどうなるか分からんぞ、と隊長に脅された。そんな事はできないと即座に思った。第四王子妃が何の罪を犯して牢屋に入っているのか知らないが、身重の女性を暴行するなど、人間のする事ではない。
己の信ずる正義に従い、命令違反を犯した。これは単なる命令違反ではない。ニムラ王太后に背いたのだ。無論、責任を問われた。同じ場にいた同僚は自分だけ助かろうとして罪をなすりつけてきた。だが反論はしなかった。同僚を止めたのは事実だ。王太后の怒りを一身に受けて、二度と剣を振るえないようにしてやると言われた。あわや腕を斬り落とされる寸前だった。命からがら逃げ出すことができたのは、命令を出していた張本人が捕まったからだ。
イシュビは全力で逃げていた。捕まれば今度こそ殺されると思ったのだ。
突如として逃走を謀ったイシュビを、ユカルもまた全力で追った。ユカルには馬がある。さほど時間をかけずに回り込めるはずだった。しかしながらイシュビはとんでもなく足が速く、持久力も底無しであった。
感心している暇もなく、イシュビは馬が通れぬほど細くて入り組んだ路地に逃げてしまった。こうなってはユカルも己の足を使って追い掛けなければならない。追われる事には慣れているが、追う事はやや不慣れなユカルは梃子摺った。
「頼むからっ!足を止めてくれっ!」
全力で走りながらユカルは半ば自棄くそになって叫んだ。探しに来た理由を説明できたら良かったのだが、如何せん喋りながら走っては速度が落ちてしまうし、息が続かない。やむを得ずユカルは足を動かす事だけに意識を集中させたのだった。
結局、大の男二人による追いかけっこは三時間弱にも及んだ。体力には自信のあったイシュビだが、ここまでしても振り切れない追手に対し、逃走は難しいとの判断に至る。そして彼はようやっと諦念して足を止めたのだった。
追いついたユカルはどうにかこうにか呼吸を整え、滴る汗を乱暴に拭い、イシュビと向き合った。体格はユカルと同等か、ひょっとするとユカルより大きいかもしれない。短く刈られた黒髪がいかにも騎士らしい。
「俺はユカルという。君はイシュビで間違いないな?」
「そうだが…僕に何の用だ。命令違反の罰を下しに来たのであれば、悪いが全力で抵抗させてもらう」
あれだけ駆け回った後だというのに、イシュビは臨戦態勢をとろうとする。まだ戦う余力があるとは末恐ろしい。
ユカルは早口に用件を伝えるのだった。
「とんでもない。君に会って礼が言いたいと仰っている方のため、君を探していたんだ」
「僕に礼を…?どなただ?」
「エイレーネ妃殿下だ。お会いした事があるだろう」
「なんだって…!?」
イシュビは目玉が飛び出るかと思うほど瞠目する。
「まさかっ、そんな…!」
「君さえ良ければ妃殿下の侍従になってもらいたい、これはリファト殿下の希望だ」
次から次へと信じられない事を聞かされ、イシュビは蹌踉めいた。
「じ、侍従…?僕が…?」
「返事は保留で構わないから、とりあえず一緒に来てくれないか。妃殿下があの日からずっと、君の身を案じておられるんだ」
ニムラの命令も信じられなかったが、ユカルの話はなおのこと信じ難かった。どうして王族が、取るに足らない平民騎士なんかを気に掛けるというのか。あの日イシュビは、エイレーネと言葉さえ交わしていないのだ。覚えられている事すら驚きである。
「………」
「…混乱しているだろうが行くぞ」
放心状態のまま、イシュビはユカルに引き摺られていった。
古城の前に立ってようやく、イシュビは顔を青くした。妃殿下の前に出られる格好ではない、そもそも身分が等々、必死に並べて立てる。
けれどもユカルは耳を貸さずにぐいぐい引っ張った。物凄い力で抵抗される為、ユカルの腕は限界が近かったし、帰還が遅くなり無用な心配をかけているのが分かっていたからだ。
「おお、ユカル。戻っていたのか」
「マルコ殿。丁度良かった、両殿下に目当ての人物が見つかったと伝えてほしい。ちょっと手が離せないんだ」
「おう。任せてくれ」
マルコが二階に上がっていくのを、イシュビはぼんやり眺めていた。この上に王族がいるのか。彼は何気なく天井を見上げる。
そんな事をしていたら足音が戻ってきた。てっきりマルコが下りてきたと思っていたイシュビは、度肝を抜かれることとなる。なんとエイレーネ本人が階段を降りてきたのだ。イシュビは吃驚しすぎて、全ての動きを止めた。
「イシュビ…ですね?もう一度お会いしたいと思っていました」
エイレーネは石像のように固まるイシュビに近寄り、にこやかに微笑みかけた。次いでユカルにもそうする。
「苦労をかけましたね、ユカル。こんな時間まで…大変だったでしょう」
「大した事ではございません」
「立派な働きですよ。ありがとうございました」
周りまでも華やぐエイレーネの笑顔を前にして、手足の疲労など些末なことである。ユカルもすっきりした面持ちで頬を緩めた。
彼女は姿勢を改めてイシュビを見上げ、それから一礼した。ぼろぼろの奴隷であったユカルにしたように、丁重なお辞儀をするのであった。
「わたしとライファンを、助けてくださってありがとうございました」
イシュビの喉が鳴った。驚き、喜び、畏れ。色んな感情が一瞬にして動いたので、何が何だか訳が分からなくなる。
「お礼が言えず仕舞いだった事が心残りだったのです。本当ならばわたしが出向くべきでしたが、ここまで来てくださった事にも感謝申し上げます」
「………」
「おい、しっかりしろ」
何の反応も示さないイシュビに痺れを切らし、ユカルは肘で突いた。気持ちはすごく分かるが、呼吸はしてもらわないと困る。
「……あ、の…えっと……髪…」
「髪?ああ、少々事情があって短くしたのです」
「ちがっ…いえ、そちらもお似合いですが…えぇと、僕…あっいや、わ…私は……」
「落ち着け。いったん深呼吸してみろ」
短くなった髪について言及している場合ではない事くらい、イシュビにもわかっていた。ただ、何か言わなければならないと思った。だけど言葉が纏まらないのだ。
様々な感情が浮かんでは消え、最後に残ったのは罪悪感であった。
「私は…毛布の一枚すら差し入れることもできず…助けるなどと…そんな…」
確かに命令には背いたが、言い換えれば何もしなかっただけだ。エイレーネの助けになるような事は何一つしなかった。丁重に頭を下げてもらえるような事はしていない。
イシュビは弱々しく首を横に振った。いっそのこと、なぜ手を差し伸べなかったのかを責めてほしかった。
「いいえ」
イシュビが抱いた罪の意識は、即座に否定される。
「イシュビが止めてくれなければ、抵抗する力の無かったわたしは、ひとたまりもありませんでした。あなたの勇敢な行動のおかげです」
「………」
「わたしとライファンは、大勢の方に守っていただきました。イシュビ、あなたもそのうちの一人です」
「私からも礼を言う。彼女の砦になってくれた事、感謝する」
いつの間にかリファトも合流していて、イシュビに感謝を伝えていた。
ややあってイシュビは勢いよく平伏するのだった。
「ご、ご無礼をお許しください!両殿下の御前にて呆けるなど…っ、申し訳ござません!」
「気にしなくていい。それよりもユカルから話は聞いているか?君と見込んで、エイレーネの侍従を任せたい」
「そ、それは…大変光栄なお話ですが、私は平民の…しかも騎士号を永久に剥奪すると言われた人間でして、そのような大役を仰せつかる身分ではございません」
辛うじて腕は斬られなかったが、あのニムラが見逃してくれる訳もなく、イシュビは二度と騎士を名乗れないようにされた。王族を守るのは親衛隊、というのが本来の決まり事だ。正式に認められた騎士でなければ、親衛隊に配属されない。
言い淀む彼の背を叩いたのは、ユカルだった。ユカルは袖を捲って奴隷の焼印を晒した。肌に刻まれた生涯消えぬ焼印に、イシュビは目を見開く。
「見て通り俺は売り物だった人間だ。汚らわしい過去もある。身分という話なら、俺よりよほど君の方が相応しい」
「ユカルだけではない。当初より、この城で働く使用人に対し身分は問わないと決めている。真摯に働く気が有るか無いか。必要なのはそれだけだ」
ユカルの言葉の後で、リファトが説明を加える。イシュビは泣いてしまいそうだった。平民出身の凡庸な男が王族の侍従になれるなんて、世界がひっくり返ってもあり得ない事だ。命に貴賤は無いとはいえ、至誠の妃を己が剣でお守りすることができたなら、どれだけ誇らしいか。
「お願いできませんか?イシュビ」
命令一つで他人を意のままに動かせる立場にいる女人。ニムラはイシュビから騎士の道を奪ったが、エイレーネは新たな道を拓いてくれた。決して驕らず、思い遣りに富んだこのお方の元でなら、正しく剣を用いることができる。イシュビはそう確信した。感激で声を詰まらせながらも、彼はどうにかして「はい」との返答を絞り出したのだった。
その後、折角だから無事に生まれたライファンを見てほしいと乞われ、畏れ多くも腕に抱かせてもらったイシュビは、がちがちになりながらも目の端に涙を滲ませるのであった。
イシュビが侍従として正式に採用されたのは、それから一週間後のことである。住み込みでの勤務となる為、諸々の支度が必要であったし、エイレーネの勧めにより、両親へ顔を見せに田舎へ帰っていたのだ。
彼女の配慮に感激しながら帰郷したはいいが、イシュビの両親は底辺の騎士から妃殿下付きになった急展開を、中々信じてくれなかった。お前は疲れて幻覚を見てるんだ、とまで言われてしまったイシュビは説得しようと頑張ったが、未だに疑心を持たれている気がしてならない。
余談はさておいて、朝一番に響き渡ったおはようございます、という声の大きさは、イシュビのやる気をそのまま表していた。彼の挨拶に劣らず元気な声を出すのは、新しい眼鏡を装着したジェーンである。しばらく休養していた侍女の二人も今日から復帰する。怪我は重かったものの、幸いにして後遺症も傷跡も残ることなく完治した。ずっと寝台の上にいて動けなかった分、やる気も増し増しだった。
古城で働く使用人達は、あまり年齢差や先輩後輩である事を気に留めない。だから新米に該当するイシュビも友好的に受け入れられ、ジェーン達など初日から同僚扱いである。イシュビは戸惑っていたが数日が過ぎれば馴染んできて、特にユカルとは気が合うらしかった。剣の腕前も互角で、初めて得た好敵手と剣を交える様子は、どこか楽しそうである。
侍従達が鍛錬する音を聞いていたエイレーネは、隣に座るリファトにおずおずと切り出した。
「わたしも皆さんにお会いしたいのですが…お許しをいただけないでしょうか」
彼女はライファンを身籠もってから今日まで、リファトの希望に添い、古城から出ることをしなかったのだ。親交のあった民達と、久方ぶりに言葉を交わしたいと願うのは自然なことと言える。ライファンも乳離れしたことだし、イシュビという頼もしい護衛もできた。少しの時間なら良いのではとエイレーネも考えるようになり、リファトへ打診してみたのである。
「………そうですね」
だが、リファトの反応は芳しくない。返答までに間があった。エイレーネのお願いは叶えたいが一抹の不安が拭えず即答できない、といった具合だろうか。
エイレーネは少し眉を下げて「殿下を困らせたい訳ではありませんので…」と、諦めの姿勢をとろうとするので、リファトは急いで引き留める為の言葉を発した。
「またしても私のせいで窮屈な思いをさせましたね。レーネには青空が似合うのに、私はどうにも貴女を閉じ込めたがる傾向がある」
「それもまた幸せだと思います」
「まったく貴女は…少しは私を叱る事を覚えた方が良いですよ」
"呪われた王子"に囚われて幸せだと笑顔でいられるのは、国中を探してもエイレーネだけだろう。リファトは喜悦の息を吐く。
「外出の際はユカルも同行させます。それが条件です。イシュビが頼りないのではありませんよ。ユカルには先輩として、護衛のお手本を見せてもらいます」
ユカルとイシュビという、精鋭中の精鋭を同伴させる事を条件に、エイレーネの外出許可は下りたのだった。
ユカル自身も記憶に新しいが、やはり民の元へ直接出向く貴人は奇特なのだろう。イシュビは形容し難い顔で、エイレーネを眺めていた。
「まあまあまあ!エイレーネ様!お久しぶりです!」
「お元気そうで良かった!」
「一年ぶりくらいですかね。お会いしたかったですよ!」
イシュビは何度か目を擦ったが、いくら瞬きしても王族である女性が畑の中にいるのは変わらない。しかも彼女が来たと知るや民達がこぞって集まり、押すな押すなの盛況だ。
「随分日が空いてしまいましたが、皆さんお変わりありませんか」
「悪いことは何もありませんよ!しいて言うなら歳を食ったくらいです」
「今年も豊作になるでしょうな。いやあ、王子様もお生まれになって、めでたい事ばかりです!」
「いつも我々の事を気にかけてくださって、ありがとうございます」
「こちらこそ、皆さんのおかげで探し人が見つかりました。お礼を申し上げます。日々の暮らしで忙しい中、ご協力ありがとうございました」
「なんのなんの!大した事はしてませんよ!」
「では後ろにいる人が例の?ははぁ、こりゃまた立派な男前が来たもんですなぁ!」
下っ端とはいえ騎士だったイシュビは、多少なりとも貴族達と関わる場面もあった。だから貴族の中にも民衆想いの善人はいる事を知っていた。けれど、服が汚れるのも厭わず泥の上を行き、自ら民に歩み寄って握手を交わす貴人は、一人も出会わなかった。そして、これほど深く慕われている貴人も、イシュビは他に知らない。
「そうそうエイレーネ様!私のところにも赤ちゃんが生まれたんですよ!」
「俺のところはもうすぐ産み月なんです。良かったらエイレーネ様、名付け親になっていただけませんか」
「エイレーネさま、エイレーネさま。こんどは、いつ来てくれますか?」
こんな光景は本来、有り得ない事だ。王族とは畏怖される存在で、下々の人間は両手をついて伏し、許しが無ければ顔を上げてもならないもの。同じ目線で語り合うなど、許されないはずであった。
「…凄い…お方だ」
「そうだな」
イシュビの口から思わずといった風に溢れた感嘆に、ユカルは短い同意を返した。それから黙り込んでしまったイシュビだが、彼の様子は己が仕える人を、今一度目に焼き付けているようだった。
あまり長居はしないように、とリファトからこっそり言いつけられていたユカルは、その指示は遂行できそうにないなと内心で謝った。エイレーネに一目会いたいと集結した民達は多く、全員と挨拶するだけで何時間かかることやら。それにエイレーネは畑の様子も気にしているから見て回りたいだろうし、婦人達に捕まれば世間話に花が咲くこと間違いなしだった。
案の定、エイレーネが古城に帰ったのは、たっぷり四時間が経過した後である。その事でリファトが再度、彼女の外出を渋るようになったのは言うまでもない。
「次はリファト殿下とお出掛けしたいです」
しかし最愛の女性から、そんな可愛らしい台詞を言われてしまえば、リファトはたちまち上機嫌になるのだ。とどのつまりリファトが彼女に勝てる要素は皆無、という事だ。
二人揃って出て行く機会は、存外はやくやって来るのだが、それは思いも寄らない形での実現であった。
翌日。ライファンが初めて掴まり立ちをしたと歓喜に湧く古城に、退去を命じる遣いが訪れる。
【補足】
ユカルとイシュビは気が合うので、すぐに友人になります。二人とも戦闘技術がすば抜けているため、お互い相手でなければ練習にもならなりません。エイレーネが屋敷にこもっていると護衛の仕事にならないので、空いた時間はもっぱら鍛錬に充てています。
同じエイレーネ付きの使用人であるアリアとジェーンとも、イシュビはあっという間に打ち解けます。でも彼はどちらかというと、真面目で勉強家なアリアに親近感を抱いているみたいです。




