34
王宮からの使者を名乗る人間が来た時から、違和感はあったのだ。その時点で違和感の正体を突き止めていれば、悲惨な事件は回避できたかもしれない。
リファトは王宮へ向かう途中で賊の急襲を受けた。しかし同行していたユカルと親衛隊が即時、制圧してくれたので大事には至らなかった。事後処理にあたっていたところへ、古城付近の警備担当である騎士がリファトを捜しに来たのだ。
そこでやっとリファトは聞かされたのである。古城へニムラが闖入した事を。
リファトとユカルは血相を変え、来た道を全速力で引き返した。
長閑であったはずの古城は、惨たらしい景色に変貌していた。門の前には殺された番兵が倒れ、屋内はより酷い惨状だった。どこを見回しても死体が転がり、濃い血の匂いが立ち込めている。古城に残してきた親衛隊は全滅だった。使用人の亡骸は見当たらない事だけが、唯一の救いに思えた。リファト達は血の足跡を辿り、二階へと急ぐ。
その光景を目にした瞬間。ほんの一瞬だったとはいえ、リファトの心臓は凍りついて動かなくなった。
ユカルはリファトの肩越しに部屋の中を見ていた。
同僚であり友人でもある二人は、床に倒れていた。ジェーンは頭から血を流して倒れ、アリアは扉から一番離れた所でぐったり首を垂れている。彼の位置からは二人が息をしているのか分からない。
「嬰児を寄越せ!嬲り殺されたいなら望み通りしてやろうぞ!!」
そしてエイレーネは───ニムラに髪を掴まれ、引き摺り回されていた。ライファンを両腕にしかと抱いたまま。止まない大きな泣き声は、まるで母を助けてくれと訴えているかのようであった。
ユカルは怒りのあまり頭の血管が何本も切れたような気がした。しかし激情に任せて動くことはできなかった。以前、感情のままに激昂して失敗したのを彼は覚えていた。まして相手は王太后。この国で最も偉い女人だ。そんな相手を腰の剣で殺せば、己の死罪は確実として、主人であるリファトやエイレーネにまで火の粉が降り掛かる。今のユカルにはそれが分かるから、動けない。あんな害悪の塊は斬り捨てて然るべきだ、俺の命なんかくれてやるのに。そう思えどニムラを殺したところで、エイレーネを助けられるのはこの場限りである。根本的な解決にはならない。
燃える怒りの裏側で働く理性が無情に思える。剣の柄に手を伸ばしかけたまま動けないユカルの横を、通り過ぎる影が一つ。リファトである。しかも彼はユカルが抜くのを躊躇った剣を、迷う事なく引き抜いていた。
「御覚悟を」
リファトがニムラを斬る、と誰もが思った。明確な殺意がリファトの全身から溢れていたからだ。あのニムラでさえ、若干青褪めたようだった。
リファトは振りかぶった剣を真っ直ぐ下ろした。橙色の髪が、その風圧で舞い散る。
誰の血も流れなかった。彼が斬ったのは、ニムラが掴んでいたエイレーネの髪であった。
「ユカルッ!!行け!!」
鋭利な怒号が飛び、ユカルは反射的に床を蹴っていた。そして、よろよろと立ち上がったエイレーネに手を差し伸べる。彼女は片足を痛めているようで、足取りが覚束なかった。痛々しい様相にユカルは胸が苦しくなる。とにかく避難が最優先だ。
しかし、足を引きずりながらもエイレーネは、リファトと侍女の保護を頼んできた。二人は重い怪我を負った、リファトもただでは済まないかもしれない、軽傷の自分にはもう構わなくていいと言うのだ。だがユカルとて、彼女の側を離れるという判断は下せない。それがリファトの意思であるし、友人達が身を投げ打って守ったのだから、今度は自分の番だと思った。エイレーネの頼みは、難を逃れた親衛隊に任せ、まずは彼女を安全な場所へ匿うのだった。
通報を受けた騎士団が古城に駆けつけるのに、それほど時間は要さなかった。エイレーネは使用人達が使う一室に避難していたが、リファトやアリア達を置いてきてしまった事に、気を揉んでいるようだった。ユカルが、ライファンは預かるから怪我の手当てをしてくれと頼んでも、聞き入れてくれない。ぐずる息子を根気強くあやしているだけだ。遠くからリファトとニムラの言い争いが聞こえてくる限りは無理であろう。仕方なくユカルは説得を諦めて、リファトが来るのを一緒に待った。
そのうち怒声が聞こえなくなり、古城は静かになった。しばらくしてからリファトが使用人部屋にやって来た。ユカルは気を利かせて退室する。友人達の安否も知りたかった。
「殿下!お怪我はありませんか」
「レーネ!怪我をしたのはどこですか」
リファトとエイレーネは同時に口を開いた。しかも、発した内容まで同じだった。お互いが、お互いに怪我の心配をしていたのである。
「私は擦り傷すらありません。レーネは?足を痛めているのでは…」
「痛みはありますが、骨折等はしていないと思います。ライファンも無事です」
「見せてください。…少し触りますよ」
有無を言わせずリファトはエイレーネの足元に跪き、怪我の具合を確かめた。踵が刺さった箇所は赤黒くなっているが、大きな腫れは無い。侍女達の方がよほど重傷だろう。
だけど怪我の度合いなんて関係ない。エイレーネは傷付けられたのだ。リファトの実母に。その事実が重くのし掛かり、リファトは怒りで身が千切れそうだった。祖国へ戻らない選択をしたエイレーネの為に、何かしてあげたいと考えていた最中であった事も、リファトを酷く苛んだ。三人がかりで守ったライファンだけは無傷で済んだが、息子にまで毒牙にかかっていたら、リファトは本当に母を殺していたかもしれない。
「アリアとジェーンはどうしていますか?」
「先程、ギヨームが到着したので任せてあります。治療が終わったら、様子を見に行きましょう」
「はい」
「……すみませんでした。本当に…本当に申し訳ない」
何とも苦しげに搾り出された謝罪だったが、エイレーネは「何がですか?」と小首を傾げた。
「貴女の髪を無断で切ってしまった。貴女をこの手で、傷つけた…」
豊かだったエイレーネの髪は、一番短いところで肩の下あたりまで無くなっている。切り揃えたら、もっと短くなってしまうだろう。
「…殿下は、髪の短いわたしはお嫌いです?」
「そんな事はあり得ません!ただ…とても綺麗な髪だったので勿体ないと。それに、たとえ髪の毛の一本だろうと、レーネを傷付けたのが許し難いんです」
「わたしは殿下に傷付けられてなんかいませんよ。助けていただいただけです」
ニムラに髪を掴まれ、無理矢理引っ張られた際、頭皮からぶちぶちと嫌な音がした。その痛みから一瞬で解放されて、リファトには感謝しかしていないのだ。エイレーネはふわりと微笑みかける。
「今日からはリファトの殿下のために髪を伸ばしますね。毎日、殿下の望む姿に近付けると思うと心が踊ります」
「…っ、貴女は私に対して甘すぎます」
「いつもわたしを甘やかす殿下がそれを仰いますか」
責められたいのに喜んでばかりだと、リファトは溜飲を下げるのであった。
しかしながらアリアとジェーンの怪我は酷く、二人ともどこかしら骨折していた。特に頭を執拗に殴られたジェーンは一週間の絶対安静だ。排泄時でもベッドから動くなとのギヨームのお達しである。アリアも肋骨が折れている為、業務は固く禁止された。
「アリア。ジェーン。本当に、本当にありがとうございました。二人は命の恩人です。その勇気を讃え、最大の敬意を表します。二人の忠誠は生涯忘れません」
「私からも礼を言いたい。妃と王子を守ったのは君達だ。心から感謝する。本当にありがとう」
侍女の元を訪ねて頭を下げてくる王族に、アリアもジェーンも寝床の上で恐縮しきりだった。
アリアは最初、身体が竦んでしまった。でもジェーンが身を挺して庇うのを見て、自然と足が動いていたのだ。だから讃えるのはジェーンにしてほしい。そうアリアが言えばジェーンも負けじと、あたしは無鉄砲に飛び出しただけ、殺されなかったのはアリアが武器を押さえていたから、と早口に主張する。
「と言う事はやはり、二人の功績ですね」
だがしかし、全部聞いた後でエイレーネが笑顔で締めくくった為、結論が決まってしまうのだった。
「ジェーンの新しい眼鏡が出来上がるまで、侍女の仕事はお休みです。ゆっくり休んで、傷ついた体を労ってください」
眼鏡が完成するまで、とはギヨームが完治を言い渡すまでと同義である。要するに完璧に治るまでは復帰させない、という事だ。動いていないと落ち着かない二人は、重傷の癖に若干不服そうであった。
この事件は当日中に国王フェルナンの耳に入る事となり、憤慨した彼は王太后の行動を厳しく咎めた。『リファトとエイレーネの暮らしが脅かされないようにする』との誓約書をベルデ国と交わしたというのに、この体たらく。署名には前王ギャストンも関わっており、亡き先代の意向を軽視してはならぬと叱責しても、ニムラはどこ吹く風だった。それどころか議会の面前で亡き王を罵倒した上に、今回の件も「無礼な姫に躾を施したまで」などと平然と言い張り、おまけに母を殺そうとしてきたリファトを罪に問えとまで意見したのである。
そのような戯言をフェルナンが信じる訳もなく、彼は淡々とニムラの拘禁を命じた。
「王太后といえど、王子誘拐の罪は重いぞ。大人しく沙汰を待て」
「お前は母に罪を擦りつけるのか!」
「親衛隊の壊滅に関わった者は全員、首を撥ねよ。私が派遣した騎士を殺し、誘拐に加担したのだ。裁きの必要も無い」
「フェルナン!!あたくしはあれに殺されかけたのだぞ!」
「弟が何を斬ったか、確かな証拠も残っている。下らぬ虚言には付き合っていられない。ご退場願おう」
ニムラには反省という概念が欠落しているらしかった。フェルナンは時間の無駄だと言わんばかりに母を追い出し、さっさと議題を変えるのだった。
この事件の首謀者はニムラだが、もう一人協力者が居た。リファトを誘き出して殺害する役割を担っていた者、それがアンジェロであった。ところが彼は、弟なんかより関心を向けている存在がおり、ニムラの命令を適当にしか聞いていなかった。アンジェロが杜撰だった為に、リファト達が窮地を切り抜けられたのは皮肉でしかない。
アンジェロは安い金で雇った荒くれ者に適当な指示を与えるとすぐ、ニムラを追って古城へ急いだ。彼は王太后に立ち向かう凛々しい妃を、もう一度この目で見たかったのだ。そこで彼が目撃したのは凛々しいなんてものではなく、神々しい光景だった。
何としても子を守ろうと闘うエイレーネの姿。それはアンジェロの母とは全く異なっていた。我が子には手を出させまいと、あんな華奢な体でニムラの猛攻に耐えていた。エイレーネはたとえ自分が殺される事になっても子を放さなかっただろう。本当の愛が無ければできない事だ。彼女の愛の強さに、アンジェロは感動した。魂を掴まれたという幻触まで起きた。そして彼は気付いた。自分もああやって、ただ一心に愛されたかったのだと。
ニムラなら平気で息子を盾に使い、駒に使う。息子が死んだとしてもニムラの心には傷も付かない。そんな女を母に持ったが故に、アンジェロも無自覚ながら温かな愛に飢えていた。愛情いっぱいに抱きしめられたいと、心の片隅で願い続けていたのだ。置かれた境遇はまるで違うのに、変な所でリファトと似通うものである。
それから、侍女達が体を張って主人を庇う様子も素晴らしかった。アンジェロの屋敷にいる使用人は、大金を払ってもそんな事しない。我先に逃げるに決まっている。危機的状況でこそ、主人がどれほど敬われているか露見する訳だ。
極めつけは髪を斬られた後のこと。ざんばらになった頭のことなんて気にもせず、彼女は真っ先に他者の心配をしていた。殿下をお守りして、アリアとジェーンを助けて、と自分の事なんてそっちのけで嘆願するエイレーネに、アンジェロは未だかつて味わったことの無い高揚と飢餓感を覚えた。
何が起きても失われないどころか、よりいっそう際立つエイレーネの愛情と心の美しさにアンジェロはすっかり虜になってしまった。それはもう狂おしい程だった。彼の思考は、何とかしてあの愛らしい姫を手に入れたい、彼女に愛されたいという願望に取り憑かれた。
カルム王家の男は良くも悪くも頑固である。一度、心に決めた事は絶対に捻じ曲げない。アンジェロの場合、その性質が悪い方へと作用しまったのだ。
こうしてエイレーネに妄執的な恋慕が生じたアンジェロであるが、彼は以前の行いに関して後悔していた。断っておくが、弟にしてきた仕打ちの罪悪感などアンジェロは持ち合わせていない。何を悔やんでいるかと言えば、もっと早くに弟から奪っておけば良かったという点だ。
元々、ニムラとアンジェロには第四王子との接触禁止が命じられており、今回の事件で誓約の拘束力が強化されてしまった。おいそれとエイレーネに近付けない。こんな事なら何の規制も無かった時期に口説き落としていれば、余計な手間をかけずに済んだものを。
───まあいい。苦労して手に入れた方が、愛おしさも増すではないか。
アンジェロは舌舐めずりをした。手始めに邪魔者は消さねばならない。だがリファトは拙い。まだ時期尚早だ。であれば先ずは、あの口喧しい女から。五月蝿いだけで役に立ちもしない、馬鹿な母にはそろそろ我慢の限界である。あんな能無しにエイレーネを殺されては困る。
そう思い立った彼の行動は早かった。兄であり国王でもあるフェルナンのもとへ行き、ニムラを断罪するため協力しないかと持ち掛けた。当たり前だがフェルナンは訝しみ、その提案には乗らなかった。
「…どういう風の吹き回しだ。アンジェロ」
「どうもこうも、母上にはうんざりしているんですよ。兄上も…おっと失礼。陛下もそうでしょう」
「お前の目的は母上では無いのだろう。母上のことは私が解決する。協力など必要無い。お前は手を出すな」
フェルナンは母に似た弟の性格を熟知している。表向きは聞こえの良い事を喋っていても、目的は別にあるのだ。フェルナンは易々と騙されてはくれない。
「……邪魔者が多いな」
「何か言ったか」
「いいえ、何も。僕ならば、母上を追い詰める証拠を数多く提供できると思ったのですが。陛下がそう仰るなら仕方がありませんね」
「………」
フェルナンは一人になった執務室で嘆息した。あの場ではとぼけたふりをしたが、邪魔者とアンジェロが呟くのをしっかり聞いていたのだ。厄介事が増える予感に、頭痛がしてくる。あの弟がじっとしている筈がない。とりあえず弟の目的を探るべく、フェルナンは側近を呼びつけるのであった。
騎士の亡骸や血液で悲惨な状態になっていた古城は、数日かけて清められた。殉職した親衛隊の騎士達は、エイレーネの強い希望で一人ひとり丁重に葬られることとなった。
悲しい出来事が続いたが、一方で喜ばしい事も起きた。ついにライファンが喋ったのである。近頃、喃語を発することが増えたと思い、楽しみに待っていた矢先だった。一般的な赤児より少し早いらしいが、発語が遅くて心配するよりずっと良い。それよりびっくりしたのが、ライファンの発した最初の言葉が「レーネ」だった事である。きちんとした発音ではなかったものの、確かにそう言おうとしていた。これにはリファトとエイレーネも顔を見合わせて吹き出した。多分、その音が一番聞き慣れていたのだろう。いかに毎日、リファトがエイレーネの傍にいるか丸わかりである。
「もう殿下ったら。父上、母上と呼んでもらわないといけませんのに」
すみません、とは言いつつもリファトの顔は緩みきっていた。その日を境に、ライファンへ父と母について教える事が始まった。しかしながら「父上」「母上」は言い難いようで、「レーネ」の次は「殿下」を覚えてしまった。その為、またしても二人は吹き出す羽目になったのだった。
自分の名前がライファンだと理解し始めると、今度は色んな人や物に興味を示すようになった。あまり人見知りはしないらしく、ユカルを指差しながら「ゆっ、ゆっ!」と嬉々として言っているくらいだ。
「…狡いぞ、ユカル。私はまだ「父上」と呼んでもらっていないのに」
「俺に言われましても…それに「ゆっ」しか仰っていないじゃありませんか」
変なところで嫉妬してくるリファトに、ユカルは苦笑する。それを言い出したら、一番まともに呼んでもらえているのはアリアだった。療養中の侍女達を見舞う為、エイレーネはこまめに足を運んでいる。そこで彼女が「ライファン。あなたの恩人の、アリアとジェーンですよ」と、しきりに話していたので覚えたのだろう。赤児にとってアリアという名は言い易かったと思われる。リファトのみならず、ジェーンもすごく羨んでいた。
その後、エイレーネが繰り返し「父上」を教え込んだお陰で、息子からたどたどしくも「ちぃぅえ」と呼ばれたリファトは、目に見えて舞い上がった。それはもう大層な喜び様で、今晩は祝宴だなんてマルコに頼む姿に、エイレーネは久々に声を出して笑うのだった。
【補足】
エイレーネはリファトに喜んでほしくて、ライファンに「父上」を練習させていました。それが達成された次の日からはリファトが「母上」を熱心に教え込みます。




