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 雪解け水が流れ、日差しが暖かくなってくると、エイレーネはライファンを抱いて庭を歩いた。大抵はリファトも一緒で、息子を抱く役を交代しながら散歩するのだ。おぼつかなかったリファトの手付きも随分、堂に入ってきた。ライファンは風に揺れる花や、舞い踊る蝶を一心不乱に目で追っている。これは歩けるようになったら大変そうだ。


「レーネのような"グリーンフィンガーズ"が、ライファンにも受け継がれるのでしょうか」

「それはこの子が大きくなって、植物達に触れてみなければ分かりませんね」

「ライファンも園芸を好きになったら、もっと庭を広げなくては」

「気が早いですよ、殿下」


 リファトが明るい未来を語ると、エイレーネはくすりと笑った。彼女は冗談半分に受け取ったようだが、リファトは割と本気である。


「そろそろ中に入りましょうか」

「そうですね」


 カルム王国は暑さが厳しい国ではないとはいえ、体温の高い子供はすぐに汗だくになってしまうので、服がぐっしょり濡れるたびに交換してやらねばならない。そうやって風邪を引いてしまわないよう気を配り、汗疹にならないか体をこまめに調べる。乳離れの時期とも重なり、エイレーネは忙しくしていた。リファトも手を貸すのだが回数をこなしても何故か、エイレーネ達より上手にはなれなかった。特にもたついている訳でもないのに、エイレーネやアリア達がやる方が速いし仕上がりも上等なのである。

 己の力不足に若干落ち込みつつ、リファトは隣室で書類の整理をおこなっていた。ライファンが誕生して以来、長兄のフェルナンから書簡が届くようになった。長兄が末の弟に対してどのような感情を抱いているか知らないが、国王になったからには後継問題は避けて通れぬ道。フェルナンには次代の王を守護する責任がある。故にそう頻繁では無いものの、一通たりとも届かなかった以前と比べれば、けっこうな頻度で手紙が来た。内容はこちらへの簡潔な指示のみだが、リファトはどんな理由でも気にかけてもらえる事を嬉しく思っていた。


「ユカル、新しく届いた書簡はあるか?」

「はい。まとめてありますので、お持ちします」

「重要なものから頼む」

「かしこまりました。しかし…なかなか経験の差は縮まらないものですね」


 手紙の束を渡してくるユカルが茶化してきたので、リファトは片眉を上げる。


「…見てたのか、君」


 戦力外を自覚し、しおしおと退室する様子をユカルに見られたのだろう。少しばかり恥ずかしい。


「すみません。ライファン様のお世話に関して全く役に立てない俺が、口を出す事ではなかったですね」

「別に構わないよ。歯痒いが、事実でしかないからな。私も経験を積んでいかなくては……ん?」

「何か気になることでも?」

「この書簡…文字はベルデ語なのに、宛先は私になっている」


 彼が手にする封筒にはベルデ国の文字で、差出人とリファトの名前だけが記されていた。今までベルデ国から届く手紙は全部、エイレーネに宛てたものだったので、リファトは妙に胸がざわつくのを感じた。差出人も彼女の家族ではない。

 だがこのまま文字と睨み合っていても仕方がない為、ペーパーナイフで開封してみる。

 それから黙って文章を目で追うリファトであったが、次第に顔つきが強張り始め、終いには目元を手で覆ってしまった。その重苦しい様相に、ユカルも不吉な予感がしてくる。


「…リファト殿下。何が書いてあったのですか」


 ユカルはベルデ語が達者ではない。手紙に書かれている文字は読めなかった。リファトもそれを知っているので、ややあって重たい口を開くのだった。


「……エレーヌ王妃が、お亡くなりになったらしい」

「………は…」


 書簡は報告書のようなものであった。

 月が変わってすぐの頃、ベルデ王が熱病に罹患。程なくして、一人で王を看病していたエレーヌも同じ病に倒れる。彼女は回復することなく息を引き取った。ベルデ王は快方に向かっているところであるが、王妃を失った傷心が癒えず憔悴しきり、とても政務ができる状態ではない。現段階では王太子であるアーロンが王の代理を務めている。他の王子、王女は亡きエレーヌ王妃が徹底して隔離させた為、全員健康である……以上が書簡の概要だ。


「…エイレーネへ伝えるのは私に一任する、と」


 締めくくりの言葉はそうなっていた。

 エイレーネの母が死んだ。

 その衝撃たるや、リファトは己の父の訃報を聞いた時を凌駕していた。一年弱の短い期間ではあったが、かけがえのない穏やかな日々を共に過ごした。家庭とは何たるか、親とは何たるかをリファトに教えてくれたのは、ベルデの家族だ。いやそれよりも、母を喪ったエイレーネがどれほど哀しみ、嘆くことか。リファトはその事が最も辛かった。

 ユカルも呆然と立ち尽くしていた。エレーヌはユカルの目にも素晴らしい人格者として映った。王妃のお手本のような女人だった。いかにも優しげなエイレーネがここぞという時に発揮する強靭さは、王妃譲りなのだろうと勝手に納得したものである。あの日、見送ってくれたのが最後に見た姿になるとは、誰が想像できたか。


「……どう、なさるのですか」

「…今夜にでも話そうと思う。君は皆に話しておいてくれ」

「はい」


 下手に隠したが為に痛い目を見るのは、もう懲り懲りだ。けれど、リファトは最愛の人が哀しみに打ちひしがれる姿を想像し、ぐっと胸を押さえたのだった。


 暗い表情にならぬよう努めながらリファトも庭に出てみる。エイレーネはこちらに背を向けて立っていた。長い橙色の髪が吹き込む風に揺れ、抱かれている息子がそれを掴もうと夢中になって手を動かしているようだ。ちっちゃな手をぱたぱたさせるのが可愛いのか、彼女は遠目にも分かるくらい幸せそうな笑みを浮かべていた。

 この幸せを壊したくない。ずっと笑顔のまま過ごしてほしい。そう願って止まない。けれど今宵、彼女は酷な報せを聞かねばならぬ。

 いつものリファトなら、足早に妻と息子のところへ行くのだが、今日だけは一歩が踏み出せず、そのまま音もなく踵を返す事しかできなかった。




 ユカルから通達があったはずなのに、アリアとジェーンは普段と変わらない様子で、主人の寝支度を整えに現れた。エイレーネもそうだが、彼女らの胆力にも脱帽する。


「今晩は二人きりでお話する事があると聞いておりますので、ライファン様のお世話は私とジェーンで致します」


 初耳だったらしいエイレーネは、リファトを見遣った。彼は頷きを一つ返す。


「そういう事でしたら、二人にお願いしますね」

「はい。お任せくださいませ」


 アリアは淡く微笑んでライファンを受け取り、退室していった。寝室にはリファトとエイレーネしか居なくなる。息子が生まれてからは毎日、親子三人で眠っていたため、二人きりになるのは久しぶりだった。


「お話とは何でしょうか」


 エイレーネの方からにこやかに会話を振ってくる。夕食時から妙に口数が少なかったリファトに、気付いていないはずはないだろう。彼女は意図して明るい声音で話しているのだと、リファトには分かった。その優しさが、今は彼の胸を抉る刃となる。


「…あの、レーネ…手を握っても…?」

「もちろんです。どうぞ」


 リファトは彼女の両手を握った。思いのほか強い力だったのか、エイレーネの目が僅かに開かれる。

 リファトが臆病になって二の足を踏む時はいつも、エイレーネが手を握って力付けてくれた。でも今夜は、彼女を支える為にそうしたのだ。リファトは短く息を吸い込む。


「今日、手紙が届きました。ベルデ国からです」


 エレーヌ妃の急逝を報せるものでした、とリファトはひと息に告げた。自ずと彼女の手を握る力が増す。

 本音を言えば、彼女を顔を見るのが怖かった。けれどリファトは、エイレーネから視線を逸らさなかった。


 彼女の唇は「えっ」という形をしていたものの、それだけだ。エイレーネは音も無く、リファトを見つめるだけだった。哀しみの色はまだ見受けられず、放心してしまっているようである。

 リファトは彼女を抱き寄せてしまいたかったが、エイレーネが呆然とした面持ちのまま、ぎゅうと手を握り締めてきたのでそれはできなかった。


「…レーネも、読みますか?」


 リファトが机に置かれた手紙へ視線を動かせば、誘われるように彼女もそちらを見る。しかし返答は無かった。

 エイレーネは何も言葉を発しなかったが、手紙を食い入るように見ているので、リファトは片手をそっと離し、手紙を取って彼女に持たせた。やはり黙ったまま、エイレーネはのろのろと手紙へ視線を落とす。彼女は微動だにしなかった。長いこと、そうしていた。とっくに読み終えているだろうに、全く動かなかった。リファトも彼女に倣って黙っていた。ただ、繋ぎ直した右手は決して離さなかった。


 やがてリファトがぽつりと言った、横になりませんかという言葉に、エイレーネは大人しく従った。こんな、どこか遠くに取り残されてしまったように、悄然となる彼女を見るくらいなら。どうか声を上げて泣いてくれと、リファトは切実に思うのだった。




 母の死を知った後のエイレーネは、酷くぼんやりしていた。声を掛ければ反応はする。返事もある。だが、目線が全く合わない。ずっと俯いているのだ。そのひっそりとした背中は、古城に来たばかりの彼女を彷彿とさせる。

 かつて、リファトと引き離された時のエイレーネは、顔を曇らせ哀情を漂わせながらも、アリア達の前では己を奮い立たせて笑んだりもした。それはきっと、リファトと再会するという希望が心にあったからだろう。そうではない今は、少しも取り繕う事ができず、虚な瞳で地面ばかりを見ている。労りの言葉すら発するのを躊躇われた。

 アリア達は黙々と仕事をすることに徹し、エイレーネがリファトと一緒に過ごせるよう計らった。それくらいしか、できる事が思い浮かばなかったのだ。無言で肩を抱かれる後ろ姿があまりに痛々しくて、アリアとジェーンは陰で何度も涙した。


 少しは気が晴れるかと、リファトはエイレーネを庭の四阿へ誘った。ついさっきまで泣いていたライファンは、彼女の腕の中で眠っている。どんな状況であっても、エイレーネは我が子の泣き声を耳にするとすぐに動いた。子の世話を任せっきりにしようとはしなかったのである。


「…葬儀には間に合わないとしても一度、ベルデ国に帰り、お別れの挨拶をしてはどうでしょう」


 四阿に並んで腰掛けたリファトは、寝ている息子を起こさぬよう、小声で囁いた。依然としてエイレーネは俯いている。


「ベルデ王や弟君、妹君もレーネの顔を見たらきっと……」


 リファトは続けるはずだった言葉を失う。

 エイレーネが、泣いていたのだ。彼女は庭を見つめたまま、ぼろぼろと涙を流していた。

 リファトは束の間、止め処なく落ちていく雫を拭うこともできなかった。


「……わたしは、帰りません」


 エイレーネは小さく鼻をすする。


「…ここにいます」


 瞬きをする毎に、大粒の涙が頬を濡らす。その涙は抱いているライファンの頬にも落ちて弾けた。温かい雨に気付いたライファンは、不思議な刺激に対し目を真ん丸にしている。


「リファト殿下の、お側にいます…っ」


 ようやっと、エイレーネは顔を上げてリファトを見た。瞳も頬もしとどに濡れてしまっていたが、口元には不恰好な笑みがあった。


「…いまベルデ国へ戻ったら、お母様に叱られてしまいます。わたしは…っ、エイレーネ・グレン・カルムなのですから」


 生前、エレーヌは言った。ベルデ国への情は置いてゆけ、と。

 情を捨てろとは言われなかった。十六年もの間、祖国で育まれた情は命じられて捨てられるものでは無い。だが捨てられなくても、もう取りに戻ってはいけないのだ。家名が変わった日に、エイレーネの道は決したのである。

 エレーヌとて、自身の最期がこのような形になるとは予期していなかっただろう。エイレーネも子を持つ母になったからこそ、幼い我が子を残して逝かねばならない無念は痛いほどに解る。そして残される側である父やアーロン達の事も。王妃として、妻として、母として素晴らしい女性だったエレーヌを喪い、家族は深く消沈していることだろう。父が病から回復しても、心が癒えないでいるのも無理はない。幼い弟妹達はわんわん泣いているに違いない。アーロンだって泣きたいだろうに、彼に全ての荷を背負わせてしまっている。

 許されるならばエイレーネだってベルデ国へ行き、アーロンの手助けがしたい。嘆き悲しむ父を励まし、弟妹達を抱きしめてあげたかった。けれども、エイレーネには新しい家族がいる。娘であるより、姉であるよりもまず、ライファンの母でありリファトの妻なのだ。それを決して見失ってはいけない、エレーヌなら必ずそう嗜めただろう。


「っ、レーネ…!レーネ…ッ」


 いよいよ涙が止まらなくなったエイレーネを、リファトは己の腕の中へと掻き抱く。哀しみのどん底に落とされても尚、リファトの傍を離れないことを示した彼女へ掛ける言葉は、ありがとうも申し訳ないも違う気がして、口に馴染んだ愛称しか出てこなかった。

 エイレーネはリファトの胸に縋り、嗚咽を噛み殺しながら、涙が枯れるまで泣いたのだった。





 思い切り泣いた後、エイレーネは祖国の家族に手紙を書いた。ベルデ国には戻れない事を謝り、それから家族一人一人に向けて真摯に言葉を綴った。

 慌しくしている状況を慮り、返事は不要だと書いたのだが、後日、アーロンから手紙が届いた。


『…母上が熱病に倒れる前日、私にこう仰せになりました。「陛下かわたくしに万一があっても動揺せぬように。死は万人に等しく訪れるもの、狼狽えなくて宜しい。まずは心を落ち着かせることです。それともし、お前の姉が帰って来ようとしても、国境を越えさせてはなりませんよ」。姉上は私達のことをいたく案じておられることと思います。しかし私達も同じ思いです。姉上がひどく気落ちしているのではと案じています。同じ空の下、家族が無事でいてくれるならそれで充分だと、姉上もお思いになるでしょう。ですから私達のことは程々に、どうかご自分のことを第一にしてください…』


 出し尽くしたはずの涙がまた溢れてきそうだった。昔からアーロンはしっかり者で自慢の弟であった。エイレーネより余程、王族としての資質が備わっていると信じていた。辛く、苦しい状況であろうが、彼が指揮を執るのならばベルデ国はきっと安泰だ。

 エイレーネは徐に星空を見上げた。弟が次期国王として立派に成長できたのは、本人の努力も勿論あるが、両親の貢献が大きかったに違いない。生き方において、立派な模範であった。果たして己はライファンに対して同じようにできるだろうか。答えが得られないと知りつつも、エイレーネは瞬く星に問い掛けずにはいられなかった。




 エレーヌの服喪にあたる期間中ずっと、エイレーネは黒色の服で過ごしていた。そしてリファトも同じように喪服に身を包んでいる。頼まれた訳ではなく、彼が進んでした事だ。ユカル達も仕事中はお仕着せを纏っているが、仕事終わりには黒い衣装に着替えていた。強制されていないのに皆、エイレーネの気持ちに寄り添おうとしてくれる。その気遣いにエイレーネはいたく感激し、少しずつ元気を取り戻していった。

 赤子であるライファンも、母親が悲しい顔をしていると喜ばせたいと思うのか、ふにゃふにゃと笑ってみせる。それを見ているうちに、エイレーネも自然と微笑みを浮かべていたのだった。

 彼女の笑顔に一番喜んだのは、言うまでもなくリファトである。やっと笑ってくれたと安堵するあまり、目が潤んでしまった程だ。エイレーネが泣き腫らしながらリファトを選んでくれた時、例えようもない喜びを味わった直後に激しく自己嫌悪した。彼女が必死で辛い出来事を耐えているのに一人だけ幸せを感じるなんて最低すぎる上、苦しい選択を迫る要因となっていたのは他でもないリファトだ。誰よりも幸せにしたい人を己が苦しめている、それがリファトは申し訳なくてならなかったのである。

 何があってもカルム王国に留まると宣言したエイレーネの為に、もっと出来る事はないのかと彼が思案していた矢先のこと。王宮から遣わされて来た使者が、古城の扉を叩いた。


「なに…?フェルナン陛下が、私を?」

「急ぎお耳に入れたいお話があるそうです」


 使者の男は、フェルナンからリファトを連れて来いという命令を受けたそうだ。それを聞いたリファトは訝しげに片眉を上げた。


「書簡では駄目なのか」

「ただの遣いである私に仔細は伝えられておりません」


 先述した通り、ライファンが誕生してからというもの、フェルナンとの手紙のやり取りが行われるようになった。フェルナンの書簡は決まって、非常に事務的かつ簡潔な文面だった。だが、それで充分事足りているのだ。わざわざリファトが出向いて話す必要は感じられない。むしろ父ギャストンが崩御した頃から、長兄はリファトを王宮から遠ざけている節がある。


「既に馬車もご用意しております」

「…いや、自分で向かうので結構だ」

「困ります。陛下から直ぐにお連れするよう仰せつかっておりますゆえ」

「…わかった。外で待っていてくれ」


 どうにも不信感が拭えず、リファトは親衛隊の数名を呼び、随行を命じた。ユカルは古城に残し、エイレーネの側に控えさせるつもりだったのだが、本人も同行すると強く言う上、エイレーネから「ユカルの仕事を奪わないであげてほしいです」なんて、やんわり言われてしまえば、リファトの出る幕は無かった。


 リファトが出掛けて行って半刻。

 エイレーネはうとうとし始めた息子を揺籠に寝かせたところであった。ライファンはぐずらないで大人しくお昼寝をしてくれるので助かる。息子と一緒にエイレーネも体を休めるのが日課になっていた。また、耳を澄ますと聞こえるぷうぷうという寝息に、侍女達が抑えた囁き声で可愛いを連呼するのも毎日の事だ。


「さあさあ、エイレーネ様もお休みになってください」

「ありがとうございます。二人とも、殿下が帰っていらしたら…」


 その時、エイレーネの声が断末魔によって掻き消された。苦痛の叫びは一つではなかった。

 何か、異常事態が起きたのだ。階下が阿鼻叫喚となっているのが床から伝わってきた。大きな危機が迫っている。でも、それ以上の状況が分からない。硬直するエイレーネ達の元へ、蒼白になった親衛隊の騎士が駆け込んできた。


「お逃げください!!妃殿…か…っ!?」

「っ!!」

「うそ…殺され…っ!?」


 警告を伝えにきた騎士は背中から斬られ、血飛沫を上げて倒れた。それを見て、悲鳴を上げたのはアリアだ。やや離れた場所にいるせいで、ジェーンにははっきり見えなかったが、それでも飛び散る赤色だけは捉えていた。

 騎士を殺したのは表情の無い男だった。そう、ニムラの下僕である。彼は今し方殺した騎士の亡骸を足で雑に退け、主人が通る道を開けた。


「…祖国へ発ったのではないのか?ベルデの姫よ」


 血に染まる廊下から悠然と現れたニムラは、エイレーネを目に留めるなり睥睨するのだった。


「…どういう、意味でございましょうか。王太后陛下」


 エイレーネは硬い表情と声で言葉を返す。先程、階下から聞こえてきた断末魔は一つでは無かった。恐らく、古城に残っていた親衛隊のほとんど、或いは全員がニムラの下僕を含めた手下達に殺されたのだろう。エイレーネは己が害される恐怖よりもまず、怒りが込み上げてきた。


「お前は己の母が死んだというに、会いにも行かぬのか。ベルデの王妃も浮かばれぬのう。娘がこんな親不孝に育っては」


 カッと頭に血が昇るのが、エイレーネは自分でも分かった。亡くなっても尚、心配をかける方が親不孝だと考えたから、エイレーネは断腸の思いでここに留まる決断をしたのだ。遠き地から偲ぶしかない無念に、今でも胸が張り裂けそうなのに。敬愛する母までも侮辱され、途轍もなく腹が立った。

 少々冷静さに欠けるエイレーネは、思考を切り替えるのに時間が掛かってしまった。


「まあ、小国で起きた事などどうでも良い」


 ニムラが近付いてくる。


「呪われた化け物も今頃、死んでいるだろう。ようやく胸が空く思いだ」


 エイレーネの目の前で何かが弾けた。それは彼女の幻覚だったのだが、本当に一瞬、視界が明滅した気がしたのだ。

 まさか国王からの召集というのは、リファトを誘い出して殺す罠であったのか。


「その嬰児を渡せ。さあ、早く。化け物の呪いがかかっておらぬか調べねば」


 リファトに迫る危険に考えを馳せる暇も与えないとばかりに、ニムラは揺籠の中で眠るライファンを指差して急かす。エレーヌ王妃の訃報が届いてから虎視眈々と、ニムラは古城を見張らせていた。全ては後継となる男児を手中に収める為。短絡的なニムラであっても、他国の姫を殺して奪うのはかなりの悪手だと考えたらしい。そこで少々手間だが、エイレーネが祖国に戻った隙にライファンを攫う計画を立てたのだ。

 ここからはエイレーネの憶測になるが、二日前に出入りがあったところを見られていたのかもしれない。しかしそれは、エイレーネ自身が出掛けた訳ではない。古城の庭に咲く花達を大河に流すことで母への弔いをしようと、使用人に頼んで外出してもらっただけだ。ところが皆が皆、似通った黒い服を着ていた為に、古城を見張っていた人間はエイレーネが祖国へ出掛けて行ったと勘違いしたのだろう。


「そのご命令は何があろうと聞けません」

「あたくしを煩わせるな!小娘が!」


 その怒声が合図だったかのように、エイレーネ達はニムラの手下に囲まれた。エイレーネは我が子を守らんと立ちはだかるが、非力な彼女では簡単に取り押さえられてしまう。揉み合っている間に、ライファンは手下の一人に収まってしまった。しかし優しい母の腕とは違う事に気付いたのだろう、火が点いたみたいに泣き始めた。いつもの控えめな泣き方を思えば、尋常ではない泣き声だった。


「五月蝿い嬰児だ。口を塞げ。耳障りでならぬ」

「…っ!!」


 我が子の悲痛な声に堪らなくなったエイレーネは死に物狂いでもがき、拘束から逃れると、なりふり構わずライファンを奪い返した。だがしかし、そのまま逃走を許すニムラではなかった。

 ニムラはすかさずエイレーネの服の裾を踏み、転倒させたのだ。更に、彼女がすぐさま立ちあがろうとしたところを、容赦無く踏み抜いた。固い靴底で足首を潰されたエイレーネは「くっ…」と苦しげな声を漏らす。

 それでも。地べたに蹲るしかなくなっても。エイレーネはライファンを抱き込んだまま放さない。泣いている我が子を、華奢な身体全てを使って必死に守る。


「お前のような卑しい娘、王の母たる器ではない!王太后であるあたくしこそ、相応しいのだ!」

「…たとえ国母の器でなくともっ、ライファンの母親はわたしです…っ!」


 自分の子すら愛そうとしない女人に、ライファンを渡すなど以ての外だった。母親として絶対に許せない事だった。エイレーネはニムラの言い分に、全く耳を貸さなかった。彼女の反抗に業を煮やしたニムラは、再び暴力を振るおうとする。


 蹲るエイレーネが力任せに踏み付けられる直前。間一髪のところで、ジェーンが割り入った。二人の間に自分の体を捩じ込めば、当然、盾となったジェーンが攻撃を食らう。下腹のあたりに蹴りを受けたジェーンは、えずいて咳き込んだ。


「邪魔だ!退かぬか!」


 ニムラはますます怒り、手近にあった本を取ってジェーンを殴り付ける。厚みと硬さのある本で頭を殴られ、彼女のかけていた眼鏡はひしゃげて飛んでいった。膝を折り、頭から血が流れても尚、ジェーンはエイレーネを守る肉壁となり続ける。

 意地でも退かない侍女を憎悪混じりに見下ろし、ニムラは下僕の男に「殺せ」と低い声で命じた。眼鏡を失い、視界が不明瞭になったジェーンには、眼前で何が起ころうとしているのか全然見えていなかった。その上、殴られすぎたために気が遠くなりかけていて、自慢の耳もあまり機能していない。そんな状況だったが、ここで怯むな退くなと自分を鼓舞した。

 速やかに実行されると思われたニムラの命令は、その予想を裏切り、完遂されることは無かった。

 男は剣を抜いたものの、横から体当たりしてきたアリアが、それが振り下ろされるのを阻んだのだ。足の悪いアリアでは男を蹌踉めかす事すら叶わなかったが、力を振り絞って男の右腕にしがみ付いた。どんな手練れでも、成人した女性が腕に絡みついたままでは剣を操れない。男はアリアを振り払おうとして殴ったり、蹴ったり、叩きつけたりしたが、思うようにいかなかった。

 エイレーネを慕う侍女達は、激痛に耐えながらも叫ぶ。お逃げください、と。


 だが侍女達の決死の願いは、無慈悲な怒声に一刀両断されてしまう。


「逃がすものか!!」

【補足】

男は見つけ次第殺せ、という指示が聴こえてきたため、男性の使用人達はすぐに身を隠しました。でも料理人のマルコだけは見つかる危険を冒しながら、通報しに走っています。ポプリオさんは本日不在にしていました。

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