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 冬本番が近づく頃、臨月を迎えたエイレーネは、暖炉の前の長椅子でリファトと並んで話し込んでいた。生まれてくる我が子の名をいよいよ決めていたのだ。

 鋭さを伴った大声が階下から突き抜けて聞こえてきたのは、そんな時だった。幸せなひと時が一瞬で崩れ去る音がした。


「リファト殿下とエイレーネ妃殿下は居られるか!!」


 リファトは反射的にエイレーネの肩を抱き寄せていた。続けて聞こえてきた怒声は、恐らくユカルのもの。すぐに確信できなかったのは、ユカルの怒鳴り声なんて久しく耳にしていなかったからだ。


「何だお前達は!無礼だろう!」

「我々は法廷からの指示に従い、被疑者を連行しにきたまで!そこを退け!」

「ならばお引き取りいただいて結構!両殿下が罪に問われる事など何一つ無い!」

「それは我々が決める事ではない!使用人風情がしゃしゃり出るな!」


 ややあって荒々しく部屋の扉が開けられ、鎧を着た騎士達が十名ほど雪崩れ込んできた。リファトは立ち上がってエイレーネを背に庇い、闖入者へ威嚇を込めた睨みをきかせる。


「失礼仕る」

「私達に何の用だ」

「お二方にはアンジェロ殿下のお子を手にかけた嫌疑がかかっております。裁判所までご同行願います」


 エイレーネはここに至って初めて、アンジェロの幼い息子が死んだ事実を耳にした。彼女からすれば、赤児がいつ亡くなったかも知らぬまま、殺したとの疑いだけを持たれた訳だ。心の整理が追い付かなくて思わずリファトを凝視してしまうが、彼は前を見据えたまま。しかし、彼の険しい横顔が全てを物語っている気がした。彼の背後で、エイレーネは小さな身震いを一つする。


「私も、私の妃も逝去した嬰児に会ったことすら無いというのに、どうやって手に掛ける?馬鹿馬鹿しい」

「言い分は法廷で裁判官が聞きましょう」


 我々には関係無いと言わんばかりの太々しい態度に、リファトはいきり立った。額に青筋を浮かべる第四王子を舐めているのが見え見えだ。騎士達は二人を連行すべく動いたが、リファトがエイレーネへ伸びる手を跳ね除けたのだった。


「私の妃に乱暴をするな」

「心外です。我々は命令に従って行動しているだけですよ。法廷からの書状もあります」


 鍛えられた騎士と細身のリファトでは、腕力の差は歴然。軽くあしらわれてしまい、逆に彼が拘束される。その隙に腕を掴まれたエイレーネは、縛り上げられる寸前だった。未だ気が動転している彼女は抵抗どころか、あっと声を上げる事もできない。


「やめろと言っている」


 地を這うような低い声に、騎士達は動きを止めた。決して大きな声ではなかったのに、リファトから射殺さんばかりの眼光を向けられ、静止せざるを得なかったのだ。


「私の妃と、腹の子を害したならば貴様らの命をもって償わせる。無論、貴様らの家族も無事で済むとは思わない事だ」


 その絶対零度の声音には、有言実行の暗示があった。エイレーネを拘束する騎士は喉元を喰い千切られそうな恐怖を感じて、体が勝手に震えた。舐めてかかっていた相手は、人民の命を掌握できる王族なのだと強制的に理解させられたのだ。エイレーネがひと言、痛いとでも漏らそうものなら命は無い。

 赫怒するリファトを前にして、動くことができたのはエイレーネだけであった。


「…リファト殿下」


 控えめに呼ばれた彼は、エイレーネの方へ顔を向けた。吊り上げていた眉がゆっくりと下がっていく。こんな結果になると分かっていたら、彼女の心の準備ができるよう猶予を設けたのに。後悔してももう遅い。

 事実から遠ざけられていたエイレーネであるが、会話から大凡の事態は把握したらしかった。彼女は一人だけ除け者にされていた事について、何ひとつ言及しなかった。


「わたし達の潔白は明らかです。堂々と法廷で申し開きをして参りましょう」

「…貴女まで出廷する必要は無い」

「書状は正式なものです。無視することはできません。それこそ罪に問われてしまいます」


 騎士が持ってきた書状には、ニムラの署名があった。エイレーネの臨月を狙って裁判を起こしたとしたら悪質極まりない。リファトは母への憎しみで全身の血が沸騰しそうであった。

 彼は暫しエイレーネの瞳を見つめ、その後、項垂れるのだった。


「……彼女を拘束するのだけは勘弁してくれ」

「しかし決まりですので…」


 被疑者は両手を拘束するのが規則だ。騎士達は迷いを見せる。だがリファトが再度「頼む」と訴えると、躊躇いながらも従ってくれた。暴れない限りは拘束しないとの事だった。

 その後、リファトとエイレーネは、別々の馬車に乗せられた。被疑者が二人同時に証言台へ立つ事は許されない。これから法廷を出るまで、顔を合わせる事もできなくなるだろう。


「…レーネ」


 二人が分かたれる直前、リファトは切なげにエイレーネを呼んだ。振り返った彼女の瞳も揺れていた。


「…リファト殿下」


 エイレーネはひと呼吸置いてから、ふわりと笑ってみせる。


「わたし達の子は死なせません。リファト殿下にわたしの死に顔を見せる事も絶対にしません」


 エイレーネは力強く言い切ったが、リファトは作り笑いすらできない。母親の強さを、こんな形で思い知りたくはなかった。




 裁きの場への出廷に応じたは良いが、法廷まではリファトの城から六時間はゆうに掛かる。身重のエイレーネには往路だけでも苦行であっただろう。しかし、こんなのは序の口に過ぎなかった。到着するなり、彼女は証言台ではなく牢屋へ入れられた。石畳みの冷たい牢だった。酷く底冷えする牢の中では、羽織ってきた上着など大して役にも立たず、体温は着実に奪われていく。エイレーネは膨らんだお腹を抱えるように背を丸めるも、既に指先が氷のように冷たい。


「…寒い思いをさせて、ごめんなさい。まだ生まれてもいないあなたを、頑張らせてごめんなさい」


 白い息を吐きながら彼女が謝ると、お腹の中からぽこりと小さな蹴りが返ってくるのだった。


 エイレーネが凍てつく寒さに耐えている最中、開廷が宣誓された。先にリファトの裁きが行われるようだ。両手を拘束されたまま、彼は証言台に立った。原告側には王妃と第三王子の姿がある。憎悪を滲ませるニムラはともかく、我が子を喪ったばかりだというのに、薄ら笑いを浮かべているアンジェロには反吐が出そうだった。

 原告側の主張は『リファトとエイレーネが権力欲しさに、アンジェロの子を呪い殺した』というものだった。まったく、出鱈目もいいところだ。いつ、誰が、権力など欲したか。リファトが望むのはエイレーネと共に在る事のみだ。これまでも、これからも。


「お前とベルデの姫が、黒魔術を使って呪いをかけたのであろう!」


 ニムラが声を荒げるが、リファトは度を越える怒りにより、酷く冷淡になっていた。心が冷え切るあまり、対面にいる女が己の母だという認識まで薄れていく。


「エイレーネは兄上のお子が亡くなった事すら知らなかった。私が秘匿とするよう、使用人に箝口令をしいたからです」

「口では何とでも言えるわ」

「其方こそ、証拠もない適当な主張はお止めになったらどうですか」


 そう告げればニムラは意地悪く笑って、黒魔術の証拠だという道具を持ち出してきた。使い方なんて以ての外、リファトに言わせれば大きなごみにしか見えない。


「お前の城から出てきた物だ。言い逃れできまい」

「先日、納戸係に倉を点検させましたが、そんな物が発見されたという報告は受けていません。仮に道具があったから何だと仰るのですか?私やエイレーネがそれを使ったという証拠にはなり得ません」


 こんな無駄な論議をしている場合ではない。早く、早くエイレーネだけでも、こんな所から去らせなければ。リファトは拳を握りしめる。


「第一に、黒魔術とやらで顔も知らぬ人間を殺せるかも定かではないでしょう。それほど便利な術が本当にあるのなら、とっくの昔に私を呪い殺しているはずです」


 図星を突かれたのかニムラは喚き出し、裁判長から注意を受けた。だが彼女に鋭く睨まれると裁判長は首を縮め、何も言わなくなる。とんだ茶番もいいところだ。エイレーネを苦しめる為だけに設けられた裁きに、リファトの怒りが再燃する。


「ああ、いっそここで証明なさってはいかがですか。憎い私を実験台に、その手にある道具を使い、見事成功すれば黒魔術が実在するとの証拠を提出できますよ」


 リファトが正論を吐き捨て、ニムラが暴論を喚き散らす。裁定は下る気配が無く、その後もだらだらと中身の無い問答は続いた。

 他方、寒々とした牢にいるエイレーネは、冷や汗が止まらないでいた。さっきからお腹に引き攣ったような痛みがあるのだ。小さくて不規則だった痛みが徐々に強まっていくのを、エイレーネは感じていた。気のせいでは誤魔化されない痛みに、嫌な汗が止まらなかった。

 見張りの騎士に医者を呼んでもらえないか頼みたかったが、先刻から騎士同士で何か揉めている。とても声を掛けられる雰囲気ではない。断片的に聞こえてくる会話から推察するに、エイレーネに暴行を加えるか止めるかで言い争っているようだった。一人はニムラに逆らうなと言い、もう一人がそれに反論していた。暴行されるかもしれない不安に加え、強まるお腹の痛みとエイレーネは独り闘わなければならなかった。

 時間の経過がいやに長く感じられた。そうしてやっと、彼女が証言台に立つ番が来た。呼ばれたエイレーネは自力で立ち上がったものの、ひどい眩暈がして動けなくなってしまった。行かねばという気持ちはあれど、体が言うことをきかない。騎士が二人がかりで支えてようやく歩き出せるくらい消耗していたのだ。


 法廷に現れたエイレーネに、傍聴していた者達はどよめいた。彼女の顔があまりにも白く、具合が悪そうなのは一目瞭然だったからだ。ふらつき、真っ直ぐ歩けない彼女を見ても、ニムラは愉快そうに笑むだけであった。悪意に満ちた笑みを見つけたエイレーネは、深く息を吸い込んだ。そうして両足にぐっと力を入れ、面を上げ、反対側にいる敵に向き合う。青白い顔をしながらも、迎え撃つ体勢でいるエイレーネに、傍聴人は釘付けになった。

 ニムラはリファトにぶつけたのと同じような内容で、エイレーネを糾弾し始めた。


「賤しい小娘め!罪なき幼な子を殺してまで王位を得たいか!」

「時代が王を選ぶのです。わたしに次の王を決める権利も、また、逆らう意思もございません。幼い王子殿下が亡くなられたのは非常においたわしい事ですが、天命だと思い受け入れるほかありません」


 誰もが尻尾を巻いて逃げ出す王太后を相手に、たおやかな妃は一歩たりとも引かない。


「何を申すかと思えば実に下らぬ。天命なものか!お前が呪い殺したのだ!あの醜い男の呪いを受けても、平然としているお前は真の魔女だ!」

「…呪いをかけているのはどちらですか」

「なに…?」


 エイレーネは燃えるような憤りを瞳に滾らせ喝破していく。


「凶刃じみた言葉を吐き続け、心に消えぬ傷を負わせる事…それこそまさしく呪いと言えましょう。身に覚えがございませんか?ニムラ王太后陛下」

「お前…っ、お前はあたくしが裁かれるべきだとでも言う気かっ!!」

「"善には善が、悪には悪が返ってくる"という摂理をご存知ないのでしょうか。長きに渡りリファト殿下へぶつけてきた呪いの言葉が、発言した者の元へ戻ったところで何ら不思議はありません」


 ニムラは力任せに拳を机へ叩き付けた。逆上したニムラの様相は悪魔のようで、誰も止めに入れない。


「何たる無礼!何たる侮辱!国母たるあたくしを罪人呼ばわりとは!!決議をとるまでもない!!此奴の首を即刻刎ねよ!!死罪じゃ!!」


 目を血走らせ処刑を連呼するニムラに対し、エイレーネは尚も鋭い声で詰問を重ねるのだった。


「母と申されるのならば、何故リファト殿下を愛そうとなさらないのですか。我が子を蹂躙して、讒言して、ニムラ陛下はお幸せですか」

「黙らぬか!!お前には分かるまい!!あたくしの屈辱が!!この辛酸が!!」

「仰る通り、わたしには理解しかねます。あれほど綺麗な心根の方を子に持てた果報から、どうして目を逸らし続けることができるのでしょう」

「ハッ!お前こそ、醜い化け物がその腹から生まれれば、同じ事をするに決まっている!!」

「いいえ。わたしはお腹の子が病弱でも、男児でなくても、生涯大切に愛しみ、見守って参ります。この子は、リファト殿下とわたしを親に選んでくれたのですから。これ以上に光栄で、誇らしい事はありません」


 言行一致の如く胸を張り、優麗な弧を唇に纏うエイレーネを見て、誰かが女神のようだと呟く。

 ニムラとエイレーネ、母親としての格の違いをはっきりと見せつけられた傍聴人は、感嘆の息を吐いていた。荒唐無稽な主張で相手を責め立てる原告。それとは対照的に、気高い姿勢を崩さなかった被告。高潔な態度で、己の無実を凛と主張していた。どちらが王族と呼ぶに相応しい姿か、裁定するまでもない。

 傍聴人がある種の感動に浸っていたら、突如としてエイレーネが膝を折った。遠目から見ても尋常ではない苦しみ様であった。まさかお腹の子に、と傍聴人達が焦るのと同時にニムラが声高らかに笑い始めた。


「ハッ!先程までの威勢はどうした。そのように同情を引こうとしても無駄だ。お前は判決が下るまで牢から出られぬ!」


 エイレーネは激痛に意識を奪われそうなりながら、必死に呼吸を整えようとした。ニムラの声はその半分も耳に入ってこない。

 なにぶん初めての事なので断言できないが、恐らく破水してしまった。本格的な陣痛が始まったら、身動きが取れなくなる。初産は時間がかかると言われているが、この非常時にどこまで通説が当て嵌まるのかは未知であった。


 痛みで思考が散らされる。

 お腹の子を守らなければ。何としてでも。

 こんな所で死んではいけない。これ以上、家族のことで殿下に悲しい思いをしてほしくない。家族の絆を知らずに育った殿下に、我が子を抱かせてあげるのだ。だから絶対に死ねない。お腹の子と共に生きなければ。

 でもどうしたらいい。この状況でどうすれば……。


 ひときわ強烈な痛みを感じたのと同時に意識が遠のく。エイレーネの体は大きく傾き、そのまま床に伏してしまった。

【補足】

牢の番をしていた二人は階級の低い騎士です。ニムラからどんな手を使っても腹の子を流産させろと言われていました。

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