表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/47

3

 小雨が降ろうとも広大な庭園を飽く事なく散策していたエイレーネが、今や埃っぽい室内で読書に耽る日々を送っている。言語の勉強に追われ、嘆いている暇も無い。同じ寝台でリファトと眠るだけの夜は、辛うじて少しずつ慣れていったが、未だに慣れない事もある。むしろ、慣れた事のほうが少ない。

 何がエイレーネを戸惑わせているかと言えば、使用人達の素っ気なさだ。それは初日に夜着を手渡された時から感じていた。顔色の優れないエイレーネを放置し、淡々と事務的に仕事だけ済ます……彼らのそういう態度は現在も続いている。冷静な対応が嫌だと言うつもりはない。ただ、エイレーネは侍女や騎士とも気軽に言葉を交わす関係を当たり前としてきた故、百八十度変わってしまった環境に馴染めないでいるのだ。そもそもここで働く彼らと話したくても、エイレーネの聞き取りや発音が今ひとつなので、きっと迷惑をかけてしまう。そう考えれば自然と閉口する。現に、使用人同士の会話が理解できない場面が度々あった。こんな風では談笑など夢のまた夢。公務はどうなるのかと思い至ったところで、エイレーネは一層顔を曇らせたのだった。

 その日の晩、彼女は意を決して口を開いた。リファトは日中、本を読んでいるエイレーネに近寄ろうとしないので、話ができるのは寝台に上がってからなのだ。


「あの…殿下。ひとつ、お聞きしても宜しいでしょうか…」

「どうかしましたか?」

「国王陛下へのご挨拶に伺うのは、いつ頃になりますか?」


 実はまだ一度も、エイレーネは夫を除くカルム家の人間に会えていない。つまり国王であるギャストン、並びに義理の家族となった面々への挨拶がまだなのである。謁見を先延ばしにしてはいけないと思いつつ、礼儀作法に全く自信が持てずにいるエイレーネは、何の催促も無いのを良い事に黙っていた。結婚式に列席しなかったのは彼方だが、挨拶をずるずると引き伸ばす言い訳にはならない。諸々の不安要素は残っているものの、一刻も早く謁見するべきと決心した次第である。

 今から身構えるエイレーネを見て、リファトはしばし思案した後、彼女の思いを汲む事にしたようだ。


「父上から特に指示は受けていませんが、エイレーネの気持ちが落ち着かないのであれば、明日にでも向かいましょうか」

「はい、殿下。仰せのままに」


 まずは一つ、肩の荷が下りたかと思いきや、翌朝から早速エイレーネは別の問題にぶつかる羽目になった。机に置かれた衣装をどうにかこうにか着てお終いだったのは、昨日までの話。国王に謁見するとなれば正装で出向かなければならない。なのに今朝、侍女が置いていったのは普段と同じ衣装だ。今日謁見すると伝達し忘れていたエイレーネの失態である。ベルを鳴らしてもう一度侍女を呼び出すも、自分は衣服を管理する納戸係ではないのでよく分からないと言われてしまう。使用人の顔と名前すら把握できていないエイレーネでは、誰が納戸係か知るはずもない。尋ねる前に侍女は出してあった服を片して、さっさと部屋を出て行ったきり、戻ってくる気配も無かった。仮に正装が用意されていたとしても、流石にそれを自分で着付けることは不可能だ。出発までにはまだ余裕があるが、時間の猶予があっても独りでは何一つ進められない。

 もうどうする事もできず、エイレーネは恥を忍んで寝室を出た。夜着のまま彷徨く惨めさに泣きたくなる。リファトを見つけても、彼女は床から視線を上げられなかった。


「エイレーネ?どうしたのですか」

「…っ、わたしが未熟なばかりに申し訳ないのですが、使用人の方々を数名お借りできませんか…?」

「……すみませんが、その前に詳しいお話を聞かせてもらえますか」


 結婚してからそれほど経っていないのに、エイレーネは常に俯くのが癖になっていた。心なしかリファトの纏う雰囲気が固くなったのを感じ取り、ますます居心地が悪くなる。

 躊躇いがちの説明を聞いていた彼は徐々に顔を険しいものにするが、終始俯いていたエイレーネが気付く事は無かった。


「…そうでしたか。それは本当に申し訳ないことをしました」


 聞き終えたリファトが真っ先にしたのは、心底悔やまれるといった謝罪であった。王子に深々と頭を下げられたエイレーネは、おっかなびっくりして彼のつむじを凝視してしまう。リファトの髪は灰を被ったみたいで艶も無かった。


 彼は「寝室で待っていてください」との言葉を残して、どこかへ行ってしまった。しばらくはぴくりとも動けなかったエイレーネであるが、ややあって指示に従うべく足を動かしたのだった。

 寝台にちょこんと腰掛けて待つこと数分。扉をノックする音がした。エイレーネはリファトかと思って扉を開けたが、そこに立っていたのは毎朝来る侍女とは違う、二人の使用人であった。目を瞬かせるエイレーネをよそに、二人の面持ちは強張っていた。やがて使用人の片方が小声で、支度を手伝う旨を告げる。改めて見ると、二人は正装と小道具を持っていた。エイレーネは二人に感謝を述べるのと同時に、王子の手を煩わせてしまったと人知れず肩を落としたのだった。


 正装に着替えたエイレーネが再び階下へ行くと、同じく正装を纏ったリファト待っていた。エイレーネと違うのは、黒い手袋と黒のヴェールで顔を覆っているところか。彼は足音を耳にするなり、すぐさま二度目の謝罪をした。曰く、使用人達がエイレーネをいい加減に扱っていたのを知らなかったらしい。女性の身支度を見るのは失礼だからと、毎朝早々に退室していたのが仇となったようだ。


「私自身はこんななりですから無理もないことですが、まさか貴女に無礼を働くとは思わず、何とお詫びすれば良いか…」


 再三頭を下げられたエイレーネは慌てふためき、背中に冷や汗をかく。


「わたしが無知なのもいけなかったのです」

「それは違いますよ。私が気付き、正すべき事でした。貴女を蔑ろにして良い理由などありせん。使用人達には厳重に注意しましたが、不備があれば遠慮なく指摘してください」

「…わたしは、大丈夫ですから」


 いずれ、こういった扱いにも慣れるだろう。エイレーネはそう自らに言い聞かせながら、ぎこちなく微笑むのだった。




 エイレーネ達が暮らす小さな城は王宮から隔絶されているものの、奥まった僻地にある訳ではない。馬車を駆れば昼過ぎまでに到着できる。移動の最中、エイレーネは何気なく「わたしはヴェールを被らなくて良いのでしょうか」とリファトに尋ねていた。礼儀作法は勉強中であるが、国王への謁見時に面を覆わなければならない、とはどの本にも書かれていなかったように思う。黒いヴェール越しに不思議そうな視線を受けたリファトは「ああ、これですか」と、いつもと変わらぬ口調で話し始めるのだった。


「私は家族から、会う時は必ず顔を隠すよう言われていますので。エイレーネはそのままで問題ありませんよ」

「そ…う、ですか…」


 エイレーネはそれきり、掛ける言葉を失ってしまった。依然としてまともに彼の顔を見れていない人間が言えた義理ではないが、実の家族がする接し方にしては冷たいのではないか。身体が辛いであろうリファトを、どうして家族が突き放すのだろう。温かな家庭で育ったエイレーネには信じ難い事であった。しかし冷遇されている本人が、なんて事は無いといった風に話すものだから、彼女はえもいわれぬ心地になるのだった。

 静かになったまま、以降は会話が進むことなく、馬車は目的地へと到着した。

 首が痛くなるほど見上げなければならないカルム王国の王宮は、取り囲む城門からしてベルデ国とは規模が違う。大きさだけでなく、贅沢さも桁違いだ。エイレーネは思わず、ぽかんと口を開けて魅入ってしまった。壮大な外観に相応しく、内装も素晴らしいものであり、彼女はいっとき礼儀も忘れて、好奇心の赴くままに視線をあちらこちらに動かしていた。リファトに名を呼ばれなければ、夢見心地から戻るのにまだ暫く時間がかかっていたに違いない。


「エイレーネ。この部屋で少し待っていてください。すぐに戻ります」

「はい。殿下」


 とにかく広い王宮で、今どこに居るのかさっぱり見当もつかないエイレーネは、何の疑いも持たずに頷く。言葉通り、リファトは数分としないうちに戻って来たが、そこで二人は二時間ほど時間を潰すこととなる。その間、使用人の出入りは一度も無く、茶の一杯も振る舞われる事はなかった。

 ようやく謁見が叶った頃には三時を回っていた。正直、待っているだけで疲れてしまったが、正念場はこれからである。己の言動に祖国の名誉がかかっていると思うと、エイレーネは握りしめた手が冷たくなっていくのを感じた。挨拶の言葉を何度も何度も反芻し、深呼吸を繰り返す。ところが、いつになく緊張していたエイレーネをよそに、国王夫妻の応対は拍子抜けするほど淡白であった。謁見の間に漂う芳しくない雰囲気に、最初は真っ青になった彼女も、国王と王妃がこちらに大して興味が無い事を徐々に肌で感じ取った。

 懸念されていた謁見は特に問題なく終わったが、エイレーネの胸には空虚ばかりが広がっていくのだった。


 移動と待機に使った時間に比べて、国王と顔を合わせた時間は至極短かった。歓迎されていない結婚だと、こう何度も突き付けられれば、流石に堪える。気を抜くと情けない溜息が漏れそうになるのを耐えながら、エイレーネはリファトの後ろをとぼとぼ歩く。豪奢な調度品に目が惹かれる事はもう無かった。

 回廊の向こうから誰かが来る、それに気付いた二人は足を止めた。王宮に来てから不自然なくらい誰ともすれ違わなかったので、エイレーネは驚く。しかも相手はリファトの兄である、第三王子のアンジェロだったのだ。アンジェロは四人兄弟の中でも抜きん出た美形の持ち主で、母もとい王妃の寵愛を独り占めしている……というのが専らの噂だ。そんな彼は弟に嫁いできた少女を一瞥する。遠慮の欠片も無い視線は、いけないと思いつつ嫌悪感を抱かせた。エイレーネが挨拶しようとしたのを見計らい、アンジェロは先んじてせせら嗤うのだった。


「今度こそ金目の物を持ち出して逃げるような女じゃないといいな。ああ、阿婆擦れなのは使用人のほうだったか?」


 その瞬間、エイレーネは唐突に悟る。

 朽ち果てた城、殺風景な部屋、使用人の同伴が許されなかった事……感じていた違和感の正体が今わかった。何もかも全て、前妻達の愚行を再発させない為。エイレーネの人格も知られていないうちから既に、信用は損なわれ、軽蔑されていたのだ。身一つで異国にやって来た少女に対して、あんまりな仕打ちである。エイレーネは心の柔らかい所を踏みつけられた気持ちになった。それでも、祖国を想えばただ耐えるしかない。震える彼女が唇を噛み締めた直後───


「苦言なら全て私が聞きます。妃への侮辱は金輪際やめていただきたい」


 その凛とした音は、黒いヴェールの内側から放たれた。

 エイレーネが弾かれたように顔を上げるも、線の細い背中が見えるのみ。リファトの表情は窺えない。けれど青く燃える炎を思わせる、彼らしからぬ声音は初めて聞いた。


「お前とは話していない。許可していないのに喋るな。気分が悪い!」


 リファトが庇うように立ったため、エイレーネには対面していた相手の表情も見えなくなっていた。だが、吐き捨てられた台詞からして、不快そうに歪んだ顔であっただろう。

 アンジェロは言いたい事だけ言い、悪びれもせずに去って行った。足音が消えてから、リファトがゆっくりと振り向く。


「…すみません。兄上が無礼なことを…気分を害したでしょう」

「いえ…」


 リファトの語勢はいつもの調子に戻っていた。相手を気遣う、穏やかでゆったりとした声に、先程のような熱は感じられない。エイレーネは首を小さく横に振ることで、大丈夫である事を伝えた。確かに心無い言葉を受けて傷付きはしたが、リファトの声を聞いていたら悲しみが薄らいでいったのだ。

 怒る姿をあまり想像できないような彼が、怒りの感情を垣間見せた。ともすれば、エイレーネよりも酷い罵倒をぶつけられたのに、彼が怒っていたのはそこではなかった。

 顔全体を隠してしまうヴェールの奥で、リファトがどんな眼差しを向けているのか、エイレーネは気になった。このとき初めて、彼の表情が分からないのを残念に思った。しかし結局、黒の覆いを除けるために手を伸ばす勇気は出せなかったのだった。

【補足】

カルム王家の王子達の年齢です。

第一王子…31歳

第二王子…26歳

第三王子…22歳

第四王子…21歳

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ