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 気が付けばもう年の瀬に差し掛かっていた。ベルデ国より帰還してからというもの、リファトは一度も体調を崩していない。今も寒い昼下がりにエイレーネと並んで庭を一周し、こぢんまりした四阿から花弁のような小雪を眺めている。雪の降る日に屋敷の外へ出るなんて、結婚前の彼なら到底できない事だった。

 古城の時の流れは穏やかだ。されど、一歩外へ出れば穏やかとは言い難い世情が牙を剥く。第三王子のもとに男児が誕生して以降、ニムラは連日のように舞踏会やサロンを催し、王位継承者の誕生を祝っていた。間もなく赤児が一歳を迎えるので、生誕祭は派手に執り行うのだろう。そうやって誰が時の権力者かを周囲に誇示したいのだ。アンジェロは一応リファトに接触しないでいるものの、父親になったというのに女遊びは治らない。それどころか以前よりも酷くなっていると聞く。

 リファトとエイレーネは静かに手を取り合い、無言のうちに平穏な一年になる事を祈った。口に出さなかったのは、その祈りが聞き届けられることはないと、どこかで諦めていたのかもしれない。


 王宮にて同じ雪を見上げていた国王ギャストンの顔は、苛立ちに塗れていた。それもそうだろう。以前にも増して大きな顔をする王妃が目障りであり、第一王子のフェルナンは相変わらず聞く耳を持たない。口酸っぱく世継ぎを作れと命じても、フェルナンは素知らぬ顔を貫く。

 そこでギャストンは思い付いた。アンジェロのようにフェルナンにも彼好みの女を宛てがえば良いのではないかと。実のところ、男児を産んだのはアンジェロの二人目の妃なのだ。最初の妃はリファト達がベルデ国にいる間に不審な死を遂げた。ニムラは息子が手を出した女性の中で最初に孕んだ令嬢を、さっさと次の妃に据えたのである。

 なのでギャストンもフェルナンに同じ事をしようと考え、本人にその旨を伝えた。とはいえ、フェルナンは誰の言いなりにもならない性格をしている為、半ば自棄になって提案したの部分は否めない。ところが息子の返答は意外過ぎる事に「是」であった。


 フェルナン王太子がヴァネッサ妃と離縁する。


 この一報は社交界を激震させた。

 当然、大きな衝撃はリファト達の古城にも届く。リファトは兄の思考が読めずに渋面を作り、エイレーネは一度だけ挨拶を交わしたヴァネッサのことを思い出していた。とても物静かで大人しい妃だった。暗い表情こそ気になったが、悪い人ではないと思った。王太子妃と己とでは比べるのもおかしいかもしれないが、それでもエイレーネは同じ妃としてヴァネッサを案じずにはいられない。かのお方は今、どうしておられるのだろうか。


 王宮の回廊では、ヴァネッサの悲痛な声が響き渡っていた。


「お願い致しますっ、どうかお考えなおしくださいませ!お願い致します…!」


 これまで一度も反発する事なく、黙って従い続けてきた王太子妃の、最初で最後の嘆願だった。けれども彼女の願いは、夫によって冷酷に切り捨てられてしまう。


「既に決まった事だ」

「そんなっ…む、娘は…シルヴィアはどうなるのです…!?」

「あれはもう手のかかる幼な子ではない。よって母親の庇護は必要無い」


 ヴァネッサはどうにか思い止まらせたくて、フェルナンの腕を掴んだが「しつこい」と、すぐさま叩き落とされた。


「速やかに出て行くように」


 振り向きもせず放たれた言葉には、何の感情も含まれていなかった。ヴァネッサは体を震わせ、か細い声で問うた。


「…わたくしが殿下にいったい何をしたというので、このような仕打ちをなさるのですか…?」


 フェルナンは聞こえていなかったのか、一瞥もくれずに行ってしまった。その場に独り残されたヴァネッサの瞳は光を失い、絶望さえも映していないようだった。




 男児の誕生で騒ついていた王宮内は、王太子の離縁によって更なる混乱が生じている。城の外でも話題となり、民の間でも噂に上っていた。リファトとエイレーネは、農民達から色々尋ねられても、曖昧に言葉を濁すほかなかった。王宮から離れて暮らす二人では、開示できる情報が無さすぎたのだ。


「…王太子殿下は再婚なさるおつもりなのでしょうか」

「どうでしょう…フェルナン兄上にも、何かお考えがあっての事だと思いたいのですが…」


 寒さが本格化する前に民の様子を見てきた二人は帰途の最中、浮かない面持ちで会話をする。馬車が古城に着くとジェーンが出迎えに来てくれたが、彼女はどこか落ち着かない様子であった。エイレーネが聞くまでもなく、ジェーンは訳を話し始めた。


「エイレーネ様にお客様がいらしてて、今はアリアが対応してるんですがっ、そのお相手が…王太子妃のヴァネッサ様なんです!」


 なんと、噂の真っ只中にある人物が、エイレーネを訪ねに来ているらしい。彼女はリファト共々、目を見開いた。


「…ヴァネッサ様は、何と仰っていましたか?」

「『エイレーネ様にお話があるので、待たせてもらえませんか』とだけ…」


 エイレーネはすぐに客間へ向かった。聞けば既に三十分以上は待たせているらしい。帽子と外套を脱いでジェーンに渡し、軽く身嗜みを整えた後に客間の扉を叩いた。扉の向こうから返事をしたのは応対していたアリアで、扉を開けたのも彼女だった。


「お帰りなさいませ。エイレーネ様、あの…二人きりでお話がしたいそうです」

「分かりました。アリアは下がって良いですよ」

「はい。失礼いたします」


 一礼し、客間を辞したアリアは、扉の死角になる所で壁にもたれ掛かるリファトを見つけた。あっ、と声を上げそうになったが、彼が人差し指を唇に当てたので、平静を装ってその場を後にする。この古城は音が漏れやすく、廊下にいるだけでも会話の内容は充分聞き取れるのだ。

 部屋の外で聞き耳を立てる人間がいるとは露知らず、エイレーネはヴァネッサに話しかけていた。


「いつぞやの晩餐会以来ですね」

「……ええ」

「失礼ながら、お食事はされていますか?随分お疲れのご様子とお見受けいたします。もし宜しければ、今晩はわたし達にご馳走させてくださいませんか」

「…ご親切、痛み入りますがそれには及びません。速やかに去れと…それがフェルナン殿下のご意向ですので…長居は致しません」


 かねてより物静かな女性だと感じていたが、今のヴァネッサはそれに拍車が掛かっている。気配が希薄というか、今にも消えてしまいそうだ。話し声にも張りが無い。伏せられた瞳からは何の感情も読み取れなかった。


「…本日、先触れも無しに来訪しました理由は、エイレーネ様にお願いがあっての事でございます」

「わたしにできる事であればお力になりたいと存じますが、若輩者のわたしでは頼りないのでは…」


 第四王子妃という肩書きには権力など無いに等しい。そんなエイレーネではなく、もっと有力な貴族がいたはずだ。わざわざエイレーネを頼る意味が見出せず、彼女は眉を下げた。

 しかしヴァネッサは、弱々しく首を横に振る。


「いいえ…エイレーネ様にお願いしたいのです。貴女様だけが、わたくしを王太子妃として扱ってくださいました。嘲笑も打算も無く、挨拶をしてくださったエイレーネ様にしか、もう縋るものがありません」


 二人の交流は僅か一度の挨拶のみであった。だが、敬意を払われる事さえ無くなっていたヴァネッサには、その一度きりが心に優しく響いたのである。

 若くして王太子妃となり、翌年には娘が生まれたヴァネッサの生活は、順風満帆に見えたかもしれない。しかし内情は酷いものだった。フェルナンは初めからヴァネッサを愛していなかったし、それが変わる事も無かった。

 娘が生まれてからは彼の冷たさが顕著となった。我が子の顔を見ようともしないばかりか、用済みだとでも言うようにヴァネッサの前にも姿を現さなくなったのだ。少しでも振り向いてもらえるよう、彼女なりに努力しても全て無駄に終わった。そして冷遇された妃と知られるや、それまで愛想良くしていた貴族達も離れていく。そうなればもうヴァネッサには涙を堪えて娘を育てるしか、心の拠り所が無かった。我が子はとても可愛かった。シルヴィアと名付けた娘は母をとても慕ってくれて、ヴァネッサは幾分か救われた気持ちになった。

 けれど最愛の娘までも奪われては、もはや何も残らぬ。涙を流す力さえ失い、ヴァネッサは生ける屍と成り果てた。底無しの絶望に苛まれる中で思い出されたのは、晩餐会での優しい声音と笑み。それはヴァネッサの全てを託そうと思えるほどに、温かな笑顔であった。


「娘のシルヴィアの事だけが心残りでならないのです…」


 ヴァネッサは我が子と別れの挨拶もさせてもらえぬまま、王宮を去らねばならなかったと話した。道理で離縁の宣言からさほど日も経たず、エイレーネの元へ来れた訳だ。国王達の冷淡な所業に、同じ女性として涙を禁じ得ない。


「あの子は気弱で…どれだけ心細い思いをしていることか……エイレーネ様、どうかお願い致します。ほんの時々で良いのです、シルヴィアの事を気に掛けていただけませんか…っ?」


 護ってくれ、とは言われなかった。ただ時折、気にかけてやってほしい。王太子妃であった彼女の頼みはそれだけだった。


「はい。わたしの力及ぶ限り、シルヴィア王女様の助けになりましょう。お約束いたします」


 エイレーネは真剣な態度で、頼みを引き受けた。一つでも運命の歯車が掛け違っていたら、両者の立場は逆転していたかもしれない。女人に対してこの世は厳しかった。家長または夫となった者が、女の生き方を決める。エイレーネもヴァネッサもそうであった。己の意向は反映されない。婚姻も離縁も、彼女達が望んだ事ではなかった。それでも罷り通ってしまう時代なのだ。良縁に恵まれなければ、ヴァネッサのように絶望へ叩き落とされるのみ。いつ、誰が、そうなってもおかしくはなかった。

 故にエイレーネは下手な慰めの言葉を使わず、粛々とヴァネッサの頼み事を受け入れたのだった。


「…っ、エイレーネ様…!ありがとう…ございます…っ。向後の憂いはこれで無くなりました。感謝いたします…本当に、ありがとうございます……」


 ヴァネッサは肩を震わせながら頭を下げ、その後、古城から去って行った。彼女は足音までとても静かな女性であった。




 こうして王太子妃は退いた訳だが、ギャストン王の思惑通りだったのはここまでだ。フェルナン王太子は離縁には同意したものの、再婚に関しては絶対に同意しなかったのである。国王と教皇とで無理やり婚姻を結ぶ事はできなくもないのだが、それをやったところでヴァネッサ妃の二の舞になるのは火を見るよりも明らか。世継ぎは望めない。

 初めからフェルナンは、二度と結婚しないつもりでいたのだろう。国王は苛立ち頭を抱えたが、カルム王家の人間は揃いも揃って頑固なのだ。この先フェルナンが意志を曲げる事は無い。王太子妃の座は空席のままであろう。当人を差し置き、次の王太子妃は誰かと盛り上がっていた周囲の人間は馬鹿を見たのだ。

 ギャストンの悩みは振り出しに戻ってしまった。男児が誕生したので一先ず安堵している家臣は多いが、世継ぎが一人しかいないというのは心許ない。その点、四人もの王子を産んだニムラは王妃としての役目を充分果たしたと言えよう。だがしかし、それが理由で絶大な権力までもが強欲な女の手に渡ってしまったのも事実だ。権力で揉み消した罪が、いったいどれだけ有ることか。


 そうだ、王妃が犯した罪を暴き、断罪してしまおう。さすれば離縁などしなくとも、王妃の地位は失墜する。己の横には愛しのミランダを置けば良いのだ。


 素晴らしい思い付きではないかと、ギャストンはほくそ笑む。これが後に、己の首を絞める事になるとも知らずに……。




 場所を戻して古城では、エイレーネが書き上げた手紙を前に思案していた。相手は無論、シルヴィア王女だ。エイレーネは早速、ヴァネッサとの約束を実行に移そうと、見舞いの文をしたためたのである。しかし手紙を書いたは良いが、問題はどうやって届けるかだった。

 現在、シルヴィア王女は王宮ではなく避暑地の屋敷にいる。どうやらフェルナンが王太子妃の退去に合わせて、娘までも王宮から追い出したらしいのだ。非道な事をするとエイレーネは怒りを覚えたが、外部からは分からぬ何かしらの事情があるのやもと思い直した。王宮でないのなら、面会も少しは容易かろうと思いきや、かなり厳重に警護されているとはユカルの報告である。直接会って話をするのは困難だった。ならば手紙をと思い至ったのだが、そこまで厳重だと手紙や贈り物は全て検閲されるかもしれない。

 勝手な事をしてリファトがお叱りを受けてはいけないので、エイレーネは彼に相談した。包み隠さず語る彼女には残念なお知らせだが、教えてもらうまでもなくリファトは一連の経緯を把握している。廊下で盗み聞きしていたからだ。彼の言い分としては、よく知らぬ人物とエイレーネを二人きりにするのは心配だったの事であるが、些か過保護だ。とはいえ真実を知る者は、目撃していたアリアだけなので、彼女が黙っていればエイレーネに知られることは無かろう。


「出来ることなら直に手紙をお渡ししたいのですが、殿下の知恵をお借りできませんか?」


 盗み聞きしていた罪悪感もあるが、愛する女性の頼みだ。リファトには「はい」の返事しか用意されていない。


「…ありきたりですが、屋敷に出入りする人間に紛れるのが手っ取り早いでしょう」


 作戦にはお針子のハリエットを用いてはどうか、と彼は提案した。料理人や庭師なら潜入は比較的簡単だが、自室にこもってばかりだという王女に近付くのは難しい。又、侍女は顔を覚えられているので怪しまれやすい。その点、お針子ならば採寸の為に必ず側へ行くし、見知らぬ顔がいても不審に思われにくいだろう。


「もちろん、仕立ての依頼が入るまで待たなくてはいけませんし、そもそも彼女が話に乗ってくれるかも分からないですが…」


 リファトが言葉尻を濁した訳は、ハリエットが仕事熱心すぎるお針子だからだ。ハリエットはとにかく綺麗な服を作るのが好きで、お針子は天職だと自負している。ベルデ国から戻ってきたエイレーネを迎えたのだって、嬉しさ半分、商魂逞しさ半分だった。一年以上碌に手入れされなかったドレスは着れたものではないでしょう今なら特別に安く仕立てます、とひと息に力説していたものだ。

 逆を言えば、仕立てに関してハリエットが断る事は無いが、それ以外の仕事には熱意を傾けないという事。清々しい性格の彼女は、エイレーネ相手でも「嫌です」ときっぱり断る可能性もある。


「助言に感謝します、殿下。ハリエットにはわたしからお願いしてみます」


 結果から言うと、ハリエットは「別にいいですよ」とあっさり頷いてくれた。


「手紙を渡すだけですよね?それくらいお安い御用です」


 運の良い事に、ハリエットはシルヴィア王女付きのお針子と顔見知りだという。友達ではないものの商売敵でもないので、手伝わせてほしいと言えば了承してもらえるだろう、とのことだった。


「助かります。では、良い時を見つけたらこの手紙を渡していただけますか」

「はい。お渡しできたら、報せに参ります」

「ありがとうございます。ハリエット。でも、無茶はしないでくださいね」


 ハリエットは人間としても、客としてもエイレーネの事を気に入っている。お針子たるもの、依頼された服は何だって仕立てるし、完成した服をどうしようが、それは客の勝手だ。けれどもやはり、精魂込めて仕立てた服は大事に着てもらえた方が嬉しいに決まっている。

 そこへいくとエイレーネは模範的な良客だった。仕立ては全てハリエットに任され、仕立てたドレスは古着市に出すまで大切に扱ってくれる。古着にするのも、ハリエットが「そろそろ良いのでは?」と提言するまで手放さない。或いは、仕立て直してもう一度着たいと言ってくれるのだ。ただ着飾ることに金を注ぎ込む貴族より、エイレーネのような客の方が仕立て甲斐がある。田舎出身のお針子を贔屓にしてくれる恩もあって、ハリエットはエイレーネ相手に限り、専門外の依頼も引き受ける所存だった。


 何をさせてもハリエットは、仕事の早い女であった。依頼してから半月もしないうちに、彼女は手紙を渡してきたと報告しに来た。そして彼女は察しも良かった。特に命令された訳でもないのに、布の見本を見せる際に手紙を隠し持ち、人目につかぬよう手渡してきたという。

 気になるシルヴィア王女の反応だが、彼女は訝しみつつも黙って手紙を受け取ったそうだ。


「次回は仮縫いでお伺いする予定ですので、またお手紙がございましたら、お預かりしますが」

「お気遣いはありがたいですが、次々にお届けしても王女様の負担になってしまうかもしれません。王女様のお返事を待ちたいと思います」

「そうですか。わかりました」


 次にハリエットがエイレーネの元を訪れた時、彼女は王女からの手紙を携えていた。こんなにも早く返事が返ってくるとは思わず、驚いたエイレーネだったが、手紙に目を通している間に大きな瞳が伏せられる。    

 シルヴィア王女は寂しくて不安な気持ちを赤裸々に綴っていた。王女はエイレーネより三つ年若い。ある日突然、母から引き離された心痛は計り知れない。それから、手紙をくださって嬉しいとも書いてあった。エイレーネが「決して外部には漏らしませぬゆえ、どんな些細な事でもご相談くださいませ」と伝えたのが良かったのだろうか。

 それから、頻繁とはいかないものの、途切れることなく手紙のやりとりが行われた。


『…お辛い心中、お察し致します。先述しました通り、わたしはヴァネッサ様と交わした約束を果たしたいと願っております。お目通りする事は叶わないかもしれませんが、陰ながらお力になれればと思います。先の手紙を持っていったお針子は名をハリエットといい、仕事への熱意に溢れた者です。仲介役も快く引き受けてくれました。シルヴィア王女様も伝言がございましたら、ハリエットへお申し付けください…』


『…お手紙、拝読しました。エイレーネ様のお心遣いが、私の心の支えです。実は以前に一度だけ、母からエイレーネ様のお話を聞いていました。王宮での出来事について滅多に語らない母でしたが、晩餐会で貴女様にお会いした事は教えてくれたのです。珍しかったのでよく覚えております。"ベルデ国からいらした姫君は良いお方ね"と…母の口から他人を褒める言葉を聞くのは初めてでした。手紙の形でもお話できて、とても嬉しいです…』


『…わたしこそ、厚かましくもヴァネッサ様を姉とお呼びしましたのに、お叱りもなく受け入れてくださった事、今でも嬉しく思っております。それ故に、あまり多くを語り合わぬまま、お別れする運びとなってしまったのは、わたしとしても大変心残りでございます。しかしながら、こうしてシルヴィア王女様とお言葉を交わす機会に恵まれましたので、このご縁を大切にして参る所存です…』


『…エイレーネ様。少々、弱音を吐いても宜しいでしょうか。と言いますのも、私は食事をするのが怖いのです。昔、スープを掬った銀の匙が、みるみるうちに黒く変色した光景が忘れられません。母がいた頃は母が毒見役となり、私を助けてくださいましたが、今はわたし独りです。怖くて、心細くて、食事が喉を通りません。どうしたら良いのでしょうか…』


『…お手紙、拝読致しました。さぞかしお辛かった事でしょう。シルヴィア王女様の不安が少しでも軽くなればと、わたしから具申したい事がございます。リファト殿下に確認しましたところ、毒見役を付けてほしいと希望するのは問題無いそうです。しかし申し出が却下される事も考えられます。今まで通り銀製のカトラリーを使用してくださいませ。もしお嫌いでなければ、猫を飼うのも宜しいかと。腐った食物を嗅ぎ分けてくれます。万が一、毒と思しきものを口にしたと感じた際は、牛乳あるいは炭を溶かした水を飲むと、毒の吸収を遅らせる事ができると医学書に書いてありました。しかしながら毒を体外へ出すのが最も有効です。一度、信頼のおける侍医にご相談してみてはいかがでしょう…』


『…様々な対処法を伝授してくださり感激しております。こう言っては失礼ですが、あれ程こと細かで具体的な回答をいただけるとは思っていませんでした。エイレーネ様は本当に親切な方ですね。以下はご報告ですが、ひとまず毒見役は付けてもらえる事になりました。猫も飼って良いとの事ですが、手配に少し時間がかかるそうです。侍医とも相談してみます…』


 当初は悲観ばかりしていたシルヴィア王女であるが、徐々に明るい話題が混じるようになった。エイレーネがそういった話を振るようにしていたからかもしれない。此方では何々の花が蕾を付けました、そちらはいかがですか、といった具合である。

 特にシルヴィア王女は飼い猫が気に入ったらしく、度々手紙に綴るようになった。エイレーネもそれに合わせて返事を書いた。いつしかエイレーネは、飼ってもいない猫の髭の本数まで把握している始末であった。そのようにして、二人は友情に似た絆を結んでいったのだった。

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