26
一年以上帰る事が叶わず放置された古城は、どこまで悲惨な有様になっているのか。皆、話題にすることは控えていたものの、何を目の当たりしても動揺しないよう心の準備はしていた。
ところが、彼の心配は全く無用であった。何故なら古城は、出て行く前より綺麗になっていたからである。城壁にあいていた穴は埋められ、隙間風が好き勝手に通り抜けていた箇所も修繕されている。仄かに花の香りも漂ってくるので、恐らくは庭も整えられているのだろう。
そして何よりも喜ばしかったのは、解雇も同然に別れた使用人達が一人も欠ける事なく集合し、古城の前で待っていた事だ。使用人に混ざって、侍医のギヨームとお針子のハリエットまで駆け付けている。
「お帰りなさいませ!」
「どうぞ中へお入りください!」
「すぐに温かいお料理をお持ちしますよ!」
料理人のマルコは鼻をすすりながら赤い目を擦っていたが、皆だいたい同じような反応だった。庭師のポプリオも何か喋っていたようだが、周囲の歓声に掻き消されてしまい、誰の耳にも届いていなかった。出て行く前と変わらない日常が、そこには在った。
「…皆、ありがとう」
「…ただいま帰りました」
リファトとエイレーネは声を震わせながら、同時に破顔するのだった。
和気藹々とした食事会を想定していたはずが、飲めや歌えの大騒ぎとなった。古城の外にまで騒ぎ声が漏れている始末である。皆が皆、再会の喜びに湧いているので致し方ない。
「やれやれ。殿下は私が診ていない方が元気になるようで。そろそろ引退も検討すべきですかな」
「その気もないのに変な冗談はよさないか。エイレーネが悲しむだろう」
「おや。殿下は悲しんでくださらないのでしょうか」
「本気で言っているのなら、私も引き止めるが」
久々だというのに、この侍医の捻くれ具合は相変わらずだった。しかし憎まれ口を叩いていても、リファトの健康状態がすこぶる良好なのを見て安心している。遠回しの優しさを分かっているリファトは、小さく笑いながら軽口の応酬に応じた。
その傍らではエイレーネが使用人達に囲まれている。
「皆さんでお城の修繕をしてくださったのですか?」
「いえいえ、私達だけではないですよ。連中、かなり派手にやってくれましたからね」
「手を貸してほしいと方々へ声をかけて回ったら、想定より多く集まったので、この際、直せるところは直そうという話になったのです」
「ですがお戻りになると聞く前から、城内の掃除だけは時々しておりました。お二方がいつ帰っていらしても良いように、と」
エイレーネがユカル達と逃亡した直後は、第三王子が手配した騎士によって古城は完全に包囲されてしまったという。一日中、監視下に置かれていた為、使用人達は近付く事すらできなかった。しかし時間の経過と共に、警備は緩んでいった。エイレーネは国外に逃げたのでは、という噂が流れ始めたのを契機に、リファトが王宮から脱走したとあれば、人手は捜索活動に割かれた。古城を手薄にして、リファトを誘い込む意図もあったのかもしれないが、使用人達はその機を逃さず交代で古城に忍び込み、城内を少しずつ片付けていった。
第三王子から「気に入った物があれば好きに持ち去れ」とでも言われていたのか、彼の配下達は無遠慮に城を踏み荒らしてくれた。だが、どこをひっくり返しても、金目の物は手に入らなかっただろう。貴重品は全て、ポプリオとマルコの手によって運び出されていたからだ。エイレーネから宝物庫の鍵を預かった二人は、まず使用人全員に半年分の給金に相当する金貨を配った。後は各々、日雇いの仕事でも見つけるなり何なりして、お二方のお帰りを待とうと皆で決めた。リファトとエイレーネの持ち物は少なかったとはいえ、やはり王族の所持品は一つ一つが値の張る逸品だ。指輪一つ売るだけでも充分こと足りた。
ほぼ手付かずとなった宝飾品は、厳重に布でくるんで木箱に仕舞い、ポプリオの自宅の庭に埋められた。仕事が見つからず、暮らしに困った者のみ追加の金を受け取り、なるべくそのまま妃殿下にお返しする事。その取り決めを最後に、使用人達は古城に別れを告げたそうだ。
ほとんど減っていない宝石箱を返されたエイレーネは、眉を下げて微笑む。使用人達の誠実さに感銘を受けた、というような事を彼女が伝えたところ、辛うじて耳が拾えるぎりぎりの声量でポプリオが答えた。
「……………それは、お二方が…誰よりも誠実でいらっしゃるからです…」
そうですよ、とマルコや他の使用人も便乗するのであった。
後で聞いた話であるが、古城にアンジェロ本人がやって来た時もあったようで、彼は癇癪を爆発させながら剣を振り回して暴れたらしい。いくつかの家財が修復不能となり、壁や床に傷が残ってしまった。だがそれらを除けば、あとは概ね元通りだった。今や心地の良い平穏が古城を包み、その中心でリファトとエイレーネは笑い合っている。
散々な仕打ちをしてきた王妃と第三王子は、不気味なくらいに静かだった。待望の男児が生まれた事により、ニムラの関心がそちらへ移ったのだろう。アンジェロは国王から、リファトとの接触禁止を言い渡されたので、出くわす方がまずい。とはいえあの第三王子がどこまで国王の指示に従うか甚だ疑問ではある。
リファトとエイレーネは、束の間の平和を享受した。約束していた海にも出掛けた。二人で海を眺めていたら感傷が押し寄せてきて、エイレーネは目が潤んだ。先行きは見えないが、どうしようもない事で頭を悩ませても仕方がない。今ある幸せを噛み締めようと思いを新たにした。それでも一度だけ、エイレーネはリファトに小声でお願いした事がある。
「その…三年と言わず、今夜でも……わたしは構いません。リファト殿下に全てをお捧げする覚悟はできておりますし…そうしたいと、本当に願っていますから…」
頬を朱に染め、意味も無く指先を擦り合わせる健気な姿と殺し文句に、リファトの理性は激しく揺さぶられた。
彼とて分かっているのだ。このままいくとアンジェロの子が王位を継ぐ事になる。そうなれば、国政にはさして興味が無く強欲かつ傲慢なだけのニムラが摂政となり、カルム王国は存続の危機に陥るだろう。最悪の事態を阻止する為にも、リファト達は子を成さねばならない。対抗する手立てはそれしかないのだ。
しかしリファトは世継ぎ争いなんかよりも、ただ純粋に愛する人と身も心も結ばれたい、という願いが勝る。ベルデ王室のような温かい家庭を作りたいとリファトも思う。ましてやエイレーネがそう望んでくれるのだ。今すぐにでも彼女と身を重ねるのは簡単だが、リファトは耐えた。甘美な誘惑を跳ね除けるのは至難の業であったが、彼は自制心を総動員させる。
「……レーネ…私は、自分の言葉を違えないよう、それはもう必死に耐えているのです」
いつまでも子ができぬのは女人にとって肩身が狭いだろう。王族としての責任ものしかかっているだろう。だが、何をおいても守りたいものが、リファトにはあるのだ。
「あと一年だけ、待ってくれませんか」
「…はい。困らせてしまい、申し訳ありませんでした」
「いいえ。言葉に尽くせないほど嬉しかったですよ」
余裕の無い瞳で諭されたエイレーネは、素直に聞き分けていた。その後もしつこく食い下がる事はせず、艶めいた雰囲気にもならなかった。それを見たリファトが大層安堵したのを、きっと彼女は知らないだろう。
そういった意味である種の危険を感じた時もあったが、幸せな悩みなので問題は無い。何か事件に巻き込まれる事もなく、リファトが熱で寝込む事もなく、夏は過ぎようとしていた。
そんな折、外に出ていたユカルがとある情報を持ち帰ってきた。
「なんだと…!?マティアス兄上が!?」
「はい。先月の事らしいのですが…」
リファトとユカルが話し込んでいるところに、丁度エイレーネもやってくる。曇った顔をするリファトを見つけ、彼女はそっと「何かございましたか?」と尋ねた。その問いに答えたのはユカルだった。
「第二王子のマティアス殿下が狩猟中に負傷し、半身不随になったとの話を耳にしたので、ご報告していたところです」
突然の報せに、エイレーネも目を丸くする。王子が重傷を負ったというのに誰も一言も騒がないとは、無関心で片付けて良いものなのか。しかしリファトは、両親が第二王子を心配するような人間でない事をよく分かっていた。両親の今の関心事は世継ぎの一点である。森で遊び呆けてばかりの息子にかける情けなど有りはしないのだ。
「………」
「リファト殿下?」
エイレーネは黙りこくったままの彼を表情を窺う。リファトは小難しい顔をしていて、酷く悩んでいるようだった。
ユカルにもっと詳しい情報を仕入れてくるよう指示した後、リファトは途方に暮れたように呟いた。
「…見舞いの文くらい、送るべきなのでしょうか」
エイレーネは一瞬、どう答えるべきか迷った。リファトの抱えている事情や思いは複雑なのだ。エイレーネの主観や常識を一方的に押し付ける真似はできない。
「…殿下は、どうなさりたいのですか?」
リファトは少し逡巡してから、分からないと力無く答えた。
「…マティアス兄上とは、まともに言葉を交わした記憶も無いのです。私は王宮に閉じ籠り、兄上は王宮に寄り付かなかったので…何が迷惑に思われるか、判断がつかないんです」
「でも殿下は、文をお出ししたいのですよね?」
「……どう、なのでしょうね」
あまりにも接点が無かったせいで、兄弟だという実感も湧かない。どういう顔立ちをしていたかも思い出せず、堂々と家族だと胸を張れる自信も無い。リファトとマティアスの仲は、それほど希薄であった。今更、交流を持とうとしたところで、何になるというのか。
けれど以前のリファトなら、文を出そうかと迷う事すら無かっただろう。心境の変化が訪れた理由は、ベルデ国で本物の家族の絆に触れたからだ。
「…貴女が家族と支え合っているのを見て、家族とはこうあるべきなのかと、考えさせられました。それと同時に…憧れました」
リファトは例外だったとしても、親が子を守るのは自然な事だ。野の獣でもそうする。だが彼が何より目を見張ったのは、エイレーネとアーロンの姿だった。無条件に助け合う美しい姉弟仲に、リファトはいっとう惹きつけられた。
「レーネのようにはできませんし、アンジェロ兄上とはもう手遅れでしょうが、それでも…いつか、他の兄上達の力になれないかと…」
しかしマティアスは自他共に認める人間嫌いだ。だから早々に王宮を出て、辺境に城を構えたが最後、一度も戻って来ないのだ。嫌われ者のリファトから見舞われても、余計に気が滅入ってしまうかもしれなかった。怪我の具合は心配だが、こと家族の話になるとリファトは及び腰になってしまう。家族からは逃げる事が当たり前だった故、臆病が心に根を張っているのだろう。
「リファト殿下。こういう時は、自分に置き換えて考えると良いものですよ」
迷子の手を引いているかのように、エイレーネは優しく笑いかける。その声音にも、相手を安心させるような温かさがあった。
「自分に、置き換える…」
「そうです。大きな怪我をしたのに、誰からのお見舞いも無く、独りぼっちで寝ているだけだったら、殿下はどう感じますか?たった一言でも『お大事に』と言ってもらえた方が、嬉しいと思いませんか?」
「……ええ。そうですね。私はそう、思いますが…兄上には鬱陶しがられてしまうかもしれません」
「そうなったら、申し訳ありませんと謝罪の文を送りましょう」
「読む前に捨てられたら…」
「ご覧になるまで送れば宜しいのですよ」
「…本当に、迷惑ではないのでしょうか…」
「では『ご迷惑であれば、お手数ですがそのようにお返事いただけますか』と書いておくのはいかがでしょう?」
リファトが漏らす不安を一つ一つ、エイレーネは丁寧に取り除いていった。
「わたしもお手紙をしたためますから、内容を一緒に考えていただけませんか?」
最後にはそう提案され、リファトが断れるはずもなく、二人で机に向き合う事となったのである。
「書き出しはこれでどうでしょうか?」
「…少し、堅いかもしれません。兄上はとにかく堅苦しいのがお嫌いだそうです」
一行目から迷い、筆が進まないリファトと一緒になって、エイレーネも何回か書き直す。顔すら知らない義兄への手紙を書くのは思いのほか難しかった。
「そうなのですね。もう少し挨拶の言葉を工夫してみます。もしや、マティアス殿下ではなく、お義兄様とお呼びした方が良いですか?」
「大丈夫ではないでしょうか。多少、馴れ馴れしくても、兄上は気にされないと言いますか…そもそも礼儀作法に興味が無いと思いますよ」
リファトは朧げな記憶を辿り、マティアスがすぐに森に行きたがって勉強をしない、と世話係が愚痴を言っていたのを思い出す。
「ではお義兄様と呼ばせていただきますね。わたしは長子でしたので、なんだか新鮮な心地です」
相手を一生懸命に思い遣り、言葉を吟味して綴っていくエイレーネを横目で眺めていると、不思議なことにリファトの筆が軽くなった。綴っていくにつれ、マティアスが今どうしているのか、深く気に掛かった。こんなにも己の家族の心配をした事は無い。その事に気が付いたリファトは、神妙な気持ちになった。だが決して嫌なものではなかった。
幾度も書き直し、幾度も見直した手紙は翌日に出された。
しかし、幾ら待っても返事は返って来なかった。リファトはここで諦めるつもりだったが、エイレーネが粘り強く切言する。
「もしかしたら、今は筆を取る気持ちになれないのかもしれません。日を置いてもう一度、文を出してみましょう」
彼女がそう言うのならば、とリファトは再び手紙を出したが、結果は変わらない。
「今度、アリアとジェーンに色々教えてもらいましょう。わたし達では思い付かない、手助けの仕方がきっとありますよ」
「ユカルが、お義兄様の両足は二度と動かせないと…話していました。ご心痛の今、文字を書くのは億劫なのでしょう」
「王宮から返答が無いのは了承の証だと、殿下も仰っていたではないですか。お義兄様も、そうかもしれませんよ。お嫌ならもう結構だと、教えてくださるはずです」
心を込めて書いた手紙を悉く無視され、リファトが気弱になる度、エイレーネは一生懸命に励ました。彼女に背中を押されると、リファトは踞らずに済んだ。優しい笑顔に元気を貰い、酷く気落ちする事はなかったのである。
そうしているうちに、リファトも少しずつ図太くなっていき、促されずとも筆を取るようになった。趣味の狩猟ができなくなった兄の消沈はいか程だろうか。リファトは一回だけエイレーネには内緒で「お見舞いに伺っても宜しいでしょうか。お返事をお待ちしています」と書いてみた。会っても怒鳴られるだけだろうが、誰かに鬱憤をぶつける事で晴れる思いもあるかもしれない。そんな一心だった。
残念ながら返事は無かったので会いに行けなかったが、リファトにしてはかなり大胆な提案だった。実際、その一文を書くのにありったけの勇気を集めなければならなかった。
何の反応も貰えないとしても、リファトは月に一度の見舞い文を欠かさず出し続けた。止めろと怒られる日まで頑張ってみると決めたのだ。
しかし、マティアスからの手紙は終ぞ届かず仕舞いであった。