23
リファトとの婚約が報された日も、エイレーネは一人で広大な庭園に出ていた。かつては母へ届ける花を摘んでいたが、今の彼女の手には何も無い。開花を待つ蕾の前に立って、ただぼんやりしているだけだった。
膨らんだ蕾を見ていると、寂れた庭に咲いた一輪のラナンキュラスを思い出す。花は大好きだけれども、あの時ほど心が震えた春はない。それを思い浮かべては苦しくなるのに、庭へ出るのを止められなかった。祖国の立派な庭園と、古城の小さな庭の違いを見つけては寂寥を味わう。その繰り返しだった。
空に羽ばたく鳥が羨ましい。この背に翼があったなら、リファトに会いに飛んで行くことができるのに。
「エイレーネ様!朗報にございます!今し方ウェイド将軍から早馬がございました!北方の第二砦にて、リファト王子が保護されたと…エイレーネ様!?どちらへ!?エイレーネ様っ!!」
エイレーネは無我夢中で庭園を飛び出していた。後々、思い返してみても、ひたすら駆け抜けた記憶しか残っていなかった。それほど脇目も振らずに走った。
「エイレーネ様!お待ちを!!」
制止の呼び声は大きくなっていくが、彼女の耳に届く事はなかった。騎士と姫では脚力に大きな差があるはずなのに、誰も彼女を止められない。
エイレーネは息つく間も無く、城門前に偶然いた白馬に飛び乗った。乗馬の経験は多くないにも関わらず、彼女は手綱を思い切り振った。よく躾けられた白馬は騎手の命令を汲み、力強く大地を蹴る。エイレーネを追い掛けて来た騎士達は悲鳴を上げたが、彼女は旋風のように走り去ってしまった。
呼吸も、瞬きも、今や忘却のかなた。ここに在るのは抜け殻も同然、心はとっくに彼の元へ飛んで行った。あとはこの身が、心の在るところへ向かうだけ。
"カルム王国の第四王子を見つけ次第、速やかに保護及び伝達せよ"。ウェイド将軍が出していた指示は滞りなく遂行された。リファトとユカルは強化された包囲網を巧みに掻い潜り、無事に亡命を遂げていた。流石のユカルも疲労困憊であったが、その表情は達成感に満ちている。リファトも安堵しつつ、今後の指示を仰ごうとしていた。
その折に彼の耳は荒々しい馬蹄の音を捉えたのだった。
リファトは弾かれたように振り向く。太陽の光の中から白馬が現れるのを、彼は見た。馬の背に跨っているのは───彼の至宝たるエイレーネだ。
綺麗に纏まっていたであろう橙色の髪は解けて乱れ、風に逆らった為に頬も耳も鼻先まで赤くなっている。顔は涙で汚れており、王族が晒すにはみっともない格好であった。しかし身なりについては、野山を駆けずり回ったままの姿でやって来たリファトも似たようなものだ。
そんなことよりも彼女が。あのエイレーネが。威厳も恥も外聞もかなぐり捨てて、自制も効かずに駆け寄って来る様相に、リファトは打ち震えた。
刹那、愛してると告げられるよりも鮮明に、彼女の深い情愛が伝わってきた。エイレーネに心から愛されている事を、リファトはひと瞬きの間に感じ取ったのだ。理屈など分からない。愛するひとに、愛してもらえたのだと。それだけの事実が心の真ん中に、すとんと落ちてきた。
馬上から滑り落ちるようにして着地したエイレーネは、リファトに向かって両手を伸ばす。ドレスの裾を踏んで転びそうになりながらも、足を止めないで前に進み続ける。リファトも腕を広げて走り出していた。そうして胸の中に戻ってきた至宝を、二度と放すまいと抱きとめるのだった。
強く強く抱きしめ合う二人は、互いの肩を落涙で濡らしていた。
─── わたしはあなたを愛し、愛されるために、生まれてきたのだ。
二人の心に浮かんだ確信が、寸分もたがう事なく重なった瞬間であった。
二人の再会を見守っていた人々は、笑っていたり、貰い泣きしていたり様々であったが、声を掛ける頃合いを逸した。このまま二人きりにして差し上げたいのは山々なのだが、それをするには場所が宜しくない。最優先は心身共に休養させる事だ。
さてどうしたものかと計りあぐねていたら、不意にエイレーネが顔を上げた。否、リファトが「ああ…すみません。私の泥でレーネの衣装を汚してしまいましたね」と申し訳なさそうに眉を下げたのが先か。
「そんな事はどうだって良いのです!そんな事より殿下のお体が熱いように思います。お熱があるのではないですか?以前よりかなり細くなってしまわれたとお見受けしますし…」
千載一遇の好機だとばかりにユカルが動いた。リファトはここ数日、微熱が続いている事をウェイド将軍に声を張って伝える。するとすぐに、移動の為の馬車が目の前に用意された。見事な連携である。
その時にはエイレーネを追い掛けていた騎士達も到着していた。
「国王陛下からウェイド将軍へ伝達です!『リファト王子は療養地へお送りせよ、謁見は王子のご回復を待ってから行う』との事でございます!加えましてエイレーネ様は…その…城に戻るようにと王妃様が仰せでした」
伝令の騎士が言い淀んでしまったのも無理はない。エイレーネの母であるエレーヌ王妃は、子供の躾に厳しい事で知られているのだ。声を荒げて怒鳴ったり、体罰を与える事はしないのだが、悪事を列挙し反省を求める圧迫感が凄く、反論する力は根こそぎ奪われる。エレーヌに叱られた子供達は、泣きべそをかいて部屋から出てくるのが恒例だった。
母の怒りの原因を、エイレーネは解っていた。濡れていた眦を拭ってから「はい」と静かに返事をする。そのやり取りから不穏さを感じ取ったらしいリファトは、大丈夫なのですかと彼女を案じた。
「お母様は一見すると厳しそうですが、本当はとてもお優しいんです」
矛盾しているような台詞であったものの、リファトにはそれだけで充分通じたようだ。たちまち心配そうな表情を解いた。
名残惜しい気持ちは無くならないが、これ以上周囲に迷惑をかけられないので、二人はそれぞれに用意された馬車へ向かう。ユカルはリファトに付いて行こうとしたところで、エイレーネに呼び止められた。
「ユカル。あなたの働きに心からの感謝と敬意を表します」
「いえ、そんな…出来ることをしただけですから」
「あなたにしか、出来なかった事です。しかし、わたしのせいで沢山困らせてしまいましたね。償いは必ずします」
「償い!?必要ありませんっ」
「ユカルに感謝せずにはいられないのです。必ず、ですよ」
愛らしい笑顔に念押しされては、ユカルは何も言えなくなってしまうのだった。
リファトと別れ、王城に戻ったエイレーネは城門を潜る前に、騎士達へ頭を下げた。彼らの制止を振り切って飛び出した事を詫びたかったのだが、釣られて彼らも頭を下げるので、お辞儀合戦になってしまった。事態を収めたのは騎士団長で、彼は豪快な笑い声を立ててから、こう言うのだった。
「エイレーネ様に追いつけぬとは、我々の鍛え方が足りなかった証拠。訓練内容を見直す、良い機会となりましたな!」
騎士達は誰もエイレーネを責めたりしなかったが、母は違った。
「そこへ座りなさい」
王妃の私室を訪ねたエイレーネへ、冷淡な声が掛かる。母が指差していたのは椅子ではなく床だった。
エイレーネはすぐさま命じられた通り、絨毯の上に座った。必然的に母を見上げる格好となる。お叱りを受ける時はいつもこうなのだ。
「王族としてあるまじき態度です」
「はい。浅慮な行動でした。申し訳ございません」
エイレーネは両手をついて平伏した。
「そのまま聞きなさい、レーネ。王族は常に民の尊敬に値する存在でなければなりません。たとえ激しく感情が揺さぶられようとも表に出してはならない、その理由を覚えていますか」
「はい。狼狽する姿を見せて民に不安を与える事、正常な判断を下せなくなる事は、王族として失格だからです」
「そうです。そしてお前の身に何かあれば、責任を問われるのはお前の護衛を担っていた者達です。仕えてくれる者達の命を、無闇に危険に晒す事は決して許されません」
「はい。お母様。深く反省致します」
王女ならば、姉ならば、規範となる姿を見せなくてはいけない。ゆめゆめ忘れないよう、言い聞かせてきたにも関わらず、今日のエイレーネは自分を抑えきれなかった。未熟である証だ。
「…立ちなさい」
「はい…」
平伏し続ける娘を立たせたエレーヌは、次いで「こちらへ」と傍に来させる。彼女は項垂れる小さい頭に手を遣り、乱れていた髪を撫でて整えてあげるのだった。
「これでひと安心ですね」
「お母様…」
母の優しい手付きを享受しながら、エイレーネは母の声色が和らぐのを聴いていた。
「お行きなさい。リファト王子もお前を待っているでしょう」
「はい…!ありがとうございます」
エイレーネが部屋を出ると、下の子達が廊下に顔を揃えていた。大方、お叱りを受ける姉の事が気掛かりだったのだろう。どう切り出そうか、もじもじしているのが大変可愛らしい。
しかし、エイレーネが何か声を掛けようとするのを遮ったエレーヌは「何をしているのです」と鋭く問うた。相対する子供達の背筋が自然と伸びる。
「お前達の姉は礼節を欠いた行いの罰として、暫くの間ここから出て行きます」
一様に悄気た顔をする兄妹達は、せっかく姉が里帰りしたのに、とでも言いたげだ。けれども母には逆らえないので皆、口を閉ざしている。聡いアーロンだけは、姉に「お気をつけて」と小さく笑いながら告げていた。エイレーネも同じように笑った後に、小さな会釈を返すのだった。
他方、リファトはベルデ王室が利用する療養地へ迎えられていた。湯治もできるその場所は、長閑で居心地が良い。医者も駐在しており、療養中はいつでも診察も受ける事できる。至れり尽くせりな好待遇だ。
汚れを落とし、用意された衣装に着替え、ひと息ついていたら、玄関の方から多数の人の声が聴こえてきた。エイレーネがこちらへ到着したのだと気付き、リファトは発熱しているのも忘れて起き上がる。愛する人を迎えに行こうと逸る彼を、ユカルはわざと止めなかった。
「リファト殿下!」
「レーネ!」
エイレーネの方が僅差でリファトの姿を先に見つけ、駆け寄ってくる。それから「体を休めなくては駄目ですよ」と、咎めるような声を出した。注意されたリファトはというと、眉尻を下げつつも口元は分かりやすく緩んでいる。
「貴女に会いたくて、じっとしていられなかったんです」
「わたしも同じ気持ちですが、まずは体力の回復を優先すべきですよ」
「はい。すみません。つい…」
そんな応酬をしている傍らで、使用人同士も再会を喜んでいた。
「おかえり!ユカル!」
「お疲れさま。無事で良かったわ」
「ああ。二人もな」
バラバラになっていた五人が、これでようやく揃ったのだ。おかげで笑顔が絶える事も無い。そして皆、屈託無く笑うエイレーネを見て、息の吐き方を思い出せた気がした。
リファトに充てがわれた部屋は、一人で使うには広すぎるくらいであった。多分、エイレーネと共に寝起きするのを見越して用意されたのだろう。そこはかとなく気恥ずかしいが、久方ぶりに二人きりで過ごせる嬉しさが勝る。
「殿下はいくつの言語を習得しておられるのですか?こちらの言葉をご存知だとは分かっていましたが、とても流暢で驚きました」
「自国とベルデ国だけですよ。レーネとの結婚が決まった時、言葉の壁を気にせず貴女と話ができたらと考えていたんです」
「そ、そうだったのですか…」
「単純で呆れるでしょう?」
「まさか!嬉しいに決まっています!」
リファトとエイレーネは、ずっと叶わなかった就寝前の語らいに花を咲かせていた。今夜くらいは早く休んでほしい、というのがエイレーネの本音であるものの、リファトは目が冴えて眠れないと言うのだ。離れていた分、積もり重なった心配が噴出するのは致し方ない。
「レーネ…よく兄上から逃げ切ってくれました」
「皆の助けが無ければ、何もできませんでした。殿下こそお一人で、耐え抜かれたではありませんか」
「いや、私にも助けの手がありましたから」
その話の流れで彼女は、リファトを助けてくれた恩人達について知った。ユカルは勿論、陶芸家の老夫婦、それからミランダもである。
「ミランダ様が…?」
「ええ。もしかしたら、レーネの元に届いたという蜂蜜酒も、彼女の仕業かもしれませんね」
リファトの脱走に手を貸したのだから、そう考えるのが妥当だろう。賢く、したたかなミランダの事だ、王妃と第三王子の企てを、事前に察知していてもおかしくない。
「…レーネ?どうしました?」
だけど何にも勝ってエイレーネの存在が己を強めたのだと、リファトは伝えようとした。ところが、暗がりの中でも分かるほど、彼女の様子がいつもと違っていたので、そちらの方が気になってしまう。陶芸家夫婦のくだりでは、顔を輝かせながら嬉しそうに聞いていたのに、ミランダの名前が出た途端、エイレーネの表情が変わった。
「いえ…その、いかがでしたか?ミランダ様にお会いして…」
口籠もりながら話す様は、何やら不安そうであった。彼女が発した問いかけも、要領を得ていないような、いるような。返答に困ったリファトは、質問の真意を探ろうとする。
「油断ならない女性だという印象でしたが…それがどうかしましたか…」
「………」
「えぇと…レーネ?」
またしても彼女は言葉に詰まってしまった。何がそんなに言い難いのだろうか。リファトは段々と心配になってきた。
「……お綺麗な方だったでしょう?」
「…?一般的な審美眼からすれば、まあ…そうでしょうね」
しかしあくまでも一般的な話だ。リファトの一番はエイレーネで揺らがない。不動である。我が妃が最も綺麗だと断言できるし、他は欠片の興味も湧かない。あの時は意識が朦朧としかけていた事もあって、正直なところ相手の顔を観察する余裕も無かった。
だが、彼の極端な評価をあまり知らないエイレーネは、自信無さげに目を逸らすのだった。
「…同じ女のわたしから見ても、素敵な方ですもの。殿下が心変わりしてしまうかもと…つい、考えてしまって…」
つまるところ、それは嫉妬であった。リファトを助けてくれたミランダには感謝したいが、彼をとらないでほしいという気持ちと鬩ぎ合い、エイレーネは胸が苦しくなってしまったのだ。
「…こんな事で臍を曲げるのは狭量でしたね。お母様に訓練し直していただかなくては……殿下?」
今度はリファトが静かになる番だった。彼は口元を押さえて、黙り込んでいた。エイレーネが表情を窺おうと首を傾けるが、片手で制される。次いで、くぐもった声が指の隙間から聞こえてきた。
「…見ないでください。きっとだらしのない顔をしていますから。レーネに妬いてもらえた事が嬉しくて、馬鹿みたいに舞い上がっているんです」
急な発熱の如く火照った顔を見せる訳にいかず、リファトは上半身ごと捻って隠蔽しようとする。彼女のいじらしい嫉妬を知り、歓喜が止まらないのだ。嫉妬とは、本気で想うからこそ生まれる感情である。こんな"呪われた王子"をとられたくないと必死になってもらえて、リファトが喜ばない訳がなかった。
「ま、舞い上がる…?」
「…嫉妬するのは、私ばかりだろうと思っていましたので」
「えぇっ?殿下が?」
「驚くことでしょうか?レーネの方がずっとずっと魅力的ではないですか」
「大袈裟すぎます…」
「大袈裟なんかじゃないですよ。レーネは綺麗です。いつか誰かに奪られてしまうのではと、冷や冷やしています」
彼はまだ赤みが抜けない顔を、エイレーネに向けた。恐らく彼女も似たような顔色をしているだろう。
「こんな私を良いと言ってくれるのは、レーネしかいません。貴女に出会う前の私は、どうやって生きていたのでしょうね」
今晩だけは抱擁しながら眠る事について、リファトは許しを求めた。いつも寝床の中でする事と言えば、手を握るのみ。それだとて会話している最中だけで、手を繋ぎながら眠った夜は無い。主に彼の理性の問題だった。しかしながら、再会できたこの一晩だけはエイレーネの温かさを感じていたくて、歯止めがきかなかったのだ。けれどそれは彼女も同じ気持ちだったらしく、頬を染めつつも期待に満ちた瞳で見つめ返されたのである。
お互いの体が細くなってしまったのは悲しいが、絶対の安心感と甘美な胸の高鳴りは、離れる前より大きくなってきた。
再会を果たした二人をよそに、カルム王国ではささやかな騒動となっていた。ニムラとアンジェロの謀略がとうとう国王の耳にも入り、公となったのである。王子が妃共々、亡命したのだからもっと大騒ぎになってもおかしくないはずだが、王子は王子でも"呪われた王子"であるが為、居なくなろうが大して差し障りが無かった。であるからギャストン王の怒りは息子が一人消えた事より、ニムラが己の与り知らぬところで好き放題やった事へ向いている。あの女狐め、と玉座で悪態を吐く。
リファトの処遇はどうするか、先程から宰相と大臣達が議論しているものの、中身の無い話し合いだった。第四王子が何故、逃げ出す羽目になったのか調べはついている。だがしかし、ニムラもアンジェロも知らぬ存ぜぬを貫いている。糾弾しようにも王妃の圧力で潰され、裁判官は出る幕も無い。そして声には出さないが皆、逃げたリファトも連れ戻すだけの価値が無いと思っているのだ。論じるだけ甚だ無駄である。堪忍袋の緒が切れたギャストンは王笏を床に突き、乱暴な音を立てたのだった。
「あれは病弱ゆえ、無期限の静養に出掛けたのだ」
国王陛下の一声で全てが決まった。あくまでもリファトは静養を目的に出国し、誰の干渉も受けていない、故に責任を問われる者はおらず、この議題は二度と取り扱われぬ、と。玉座の隣に控えていた第一王子のフェルナンは、無言のまま頭を垂れる。家臣達もそれに倣うのであった。
【補足】
エイレーネは感情豊かなたちなので、幼少期は笑ったり泣いたり、忙しい女の子でした。弟のアーロンの方が冷静です。母エレーヌに口酸っぱく注意され、感情を乱さないよう努力するようになりました。弟妹達の前では上手くできていましたが、感極まると制御しきれなくなります。しかし、泣く時は決まって自分ではない誰かを思ってでした。エレーヌは心配しつつも、心優しい娘を一等可愛く思っています。