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 "カルム王国のどこかに、世にも恐ろしい拷問塔がある。"

 これは、王宮勤めの騎士ならば一度は耳にする与太話だ。先輩が後輩を揶揄う時の、定番の話みたいになっている。カルム王国には幽閉に使われる塔はあれど、拷問を目的とした塔は存在しない。とはいえ火の無いところに煙は立たぬとも言う。そしてリファトはこの噂の真相を知っている、ごく限られた人間の一人だった。


「相も変わらず醜穢な面よ」


 広大な王宮の一角、正確には王妃ニムラが賜った区画の最上階こそ、おぞましい噂の出処だ。最上階の角部屋は、全ての窓に板が打ち付けられており、外の光が一切入らない。また室内には用を足す為の桶が転がっているのみ。扉の鍵は廊下側、つまり部屋の外にあった。ここは王妃ニムラが作らせた、私的な牢獄。誰からも咎められる事なく拷問を行う為の場所なのだ。言うまでもなく、国王の許可は得ていない。

 王妃が第四王子を呼びつける時は即ち、この部屋で折檻をする事を意味していた。


「お前、この離縁書に署名しなさい」


 ニムラは抑揚の無い声で用件のみを告げた。リファトは手枷も足枷も嵌められていない。であるから、投げて寄越された離縁書に署名するくらい簡単な事で、それがこの牢獄から無傷で出る唯一の手段だった。そんな事は分かっていたが、リファトは頷く訳にいかなかった。


「いいえ」


 王妃の横には男が一人、控えている。昔から見知っているが、リファトは未だ名を知らぬ。彼は王妃の下僕で、どんな命令も淡々と従う男だ。王妃の命令ならば、王子を殴る事さえ躊躇わない。忠誠心がある訳ではないのだろう。命じられた事を遂行する、それだけの為に存在する人形のような男であった。

 彼は王妃の一瞥を受けると、無表情のまま剣の鞘でリファトの腹を殴った。堪らずリファトは呻き声を出し、その場に膝をつく。リファトの身体には、病が原因ではない傷跡がいくつも消えずに残っている。


「とうとう頭の中にまで病気が回ったか?治療が必要のようだ」


 ニムラは息子が一方的に殴打される様を、冷酷に見下ろしていた。


「あたくしが可哀想だと思わぬのか」

「…ぐっ…ぅ…げほっ…」

「お前のせいだ。何もかも、お前なんぞを産んだせいだ」


 苦しげに血の混じった唾を吐いた息子に対し、ニムラは憎悪のこもった形相で詰り出す。


「何が"瑞祥の兆し"ぞ!お前があたくしに齎すのは不幸ばかりではないか!!」


 リファトが誕生した時。ニムラは半狂乱になりながら絞め殺せと命じていた。それが今日に至るまで実行されなかったのは、然る預言者が『この御方には瑞祥の兆しがございます。御命を奪えば、我が国に齎されるはずであった幸も消え失せるでしょう』という神託を下したからだ。

 ニムラは当初、聞く耳を持たなかった。それどころかその神託を、無用な殺生を悪とする聖職者の口実だと捉え、彼女の怒りを買った預言者は始末された。しかし、別の預言者に聞けども似たような神託しか聞けなかった。彼女が最も信頼していた預言者でさえ、震えながら肯定した。信心深い家で育ったニムラはその神託を跳ね除けられず、止む無く気色悪い赤子を生かす事に同意したのだ。


「産まなければ良かった!!お前なぞ産みたくなかった!!」


 剣の硬い柄がリファトの頭部を打つ。鈍い痛みと共に、鮮血が散った。


「何故まだ生きている!?何故まだ死なぬ!?さっさと死ね!死んでしまえ!!この化け物め!!」


 遂に刀身が抜かれ、容赦無く振り下ろされる。リファトは辛うじて体を捻って躱したが、肩を斬られてしまった。右肩を押さえると、ぬるりと生温かい感触があった。


「ここまで生かしてやった分、あたくしの役に立て。それから死になさい」


 目を血走らせ、言葉の刃を吐き散らかす母へ、リファトは唸るような声で、しかしきっぱりと返答するのだった。


「…離縁はしません。何があろうとも」


 虐げてきた息子から挑戦的な視線をぶつけられたのは、初めてであった。ニムラにとって第四王子とは、邪魔者以下の存在。そんな塵芥が小癪な瞳をして刃向かおうとしているので、ニムラはその意気地を完膚なきまでに粉砕してやりたくなった。


「お前の意思など知らぬわ。ベルデの姫が、アンジェロの子を孕めば良いだけのこと」


 喚いていた先程とは打って変わり、ニムラは嗤っていた。女の顔は邪悪そのものだった。嗤いながらリファトの想いを踏み躙っていく。


「生娘なのだろう?お前の大切な姫は。気味の悪い体を見せて同衾を拒まれたか?」


 そんな訳がないだろう、とリファトは奥歯を噛み締める。エイレーネは全部を差し出す覚悟を、健気に言い表してくれた。拒んだのはリファトの方だ。だが、この母に事実を訴えても無駄なだけである。というより教えたくない。


「お前が死ぬのが先か、婚姻が無効になるのが先か。ほほっ、これは見ものだのう」


 カルム王家の長い歴史において、夫婦生活が無かった事を理由に、結婚無効を言い渡された王妃がいた。それは離縁と似て非なるもので、結婚した事実さえも無かった事にされるのだ。城を追い出されるだけならまだ優しい。婚約の期間から費やされた時間と経費を返却する為、実家の全財産は没収され、身一つで追放されたかの王妃は、実に不幸な末路を辿ったという。

 いくらリファトとエイレーネが離縁しないと主張したところで、世継ぎが生まれぬ大義名分のもとに国王と教皇が結婚無効を宣言すれば、二人の婚姻は文字通り白紙に戻される。父が王妃の言いなりになるとは考えにくいが、教皇はその限りではない。ニムラが脅せば、簡単に言いなりとなるだろう。


「あたくしは高みの見物といこうぞ」


 歪んだ笑みを最後にニムラは扉を閉めた。

 仮にここでリファトが命を落とした場合、寡婦となったエイレーネの身柄は、海に放られた小枝の如し。カルム王家の為に骨の髄まで利用される、絶望の未来しかない。ならば是が非でも、母の思惑通りに死んでなるものか。絶対にだ。アンジェロにも、他の誰にもエイレーネは渡さない。たとえエイレーネから拒絶されたとしても手放す事は不可能だというのに、第三者に奪われるなど決して容認できない。

 エイレーネに対して強い独占欲を抱いているのは、リファト自身も認めるところであった。しかし、ともすると生きる事にも無頓着だった己に、これほど鮮烈な生存本能まであったとは驚きだった。




 再び陰鬱な闇に支配された"拷問塔"の中で、リファトは忍ばせていた軟膏を取り出した。ここから逃げる事は叶わぬとたかを括っているのか、拘束具も付けず、所持品の確認もされなかった。おかげでエイレーネが持たせてくれた薬が使える。

 「殿下を護ってくれますように」と彼女が祈りを込めて手渡してくれた薬は二つ。皮膚病に常用しているものと、新たに調剤されたものだ。後者は傷の痛みによく効いた。斬られた箇所も止血した後で手当てする。どうやら皮一枚で済んだようなので、化膿しなければ数日で塞がると思われる。リファトの看病を率先しておこなっていたエイレーネは、至る所に残る不自然な古傷を見つけていたことだろう。彼女は追及してこなかったが、何となく見当はついたはずだ。そうでなければ、リファトの手に傷薬を握らせた説明がつかない。彼女が別れ際に取り乱していたのも、きっとそれが理由だ。

 以前エイレーネは、剣や盾が無くても鎧があれば闘えると、リファトを励ましてくれた。正しくその通りであると、彼は微笑みを浮かべる。姿が見えず、声も聞けないのは本当に寂しいけれど、離れていてもエイレーネの優しさがリファトに力をもたらすのだ。




 病死に見せかけたいのか、それともじわじわと餓死に至らせる算段なのか、日に二回は食べ物が運ばれてくる。だが、とても手を付ける気にはなれなかった。何せ食べ物といっても、濁ったスープと一杯の水だけなのだ。毒が混入しているかもしれないと疑い始めれば、口に運ぶ気も失せる。毒は入っていないにしろ、こんな何も無い場所で腹を壊したら、それこそ死に直結する。

 しかし、全く飲まず食わずでは三日と持たない為、仕方なしにリファトは水の入った容器を手に取った。食事の時間だけは蝋燭が置かれるので、その心許ない火で沸かしてから、少しずつ水を口に含む。それは特に異臭もせず、無味であった。

 食事が寄越される時間はまばらで、ほぼ一日中暗闇に覆われる部屋に居ては、いつ朝と夜がやってきたのか把握できなくて、感覚がおかしくなっていく。空腹感は日に日に酷くなり、眩暈に苛まれながらも、リファトは水だけで幾日も凌いでいた。初日以降、ニムラは姿を見せない。やはり神託の事があり、直に手を下すのは避けたいとみえる。リファトが力尽きるのを優雅に待っているのか、はたまたアンジェロに手を貸すので忙しいのか。

 離れ離れになっているエイレーネを想えば想うだけ、リファトは気力を保つのが容易になる。母の口振りからすると、贔屓しているアンジェロにエイレーネを充てがいたいらしい。そのような最悪の結論に至った経緯は知らないし、知りたくもないが、母と兄に捕まったらお終いだ。子を孕むまでエイレーネは無理やり犯され続けるだろう。

 あの母のことだ、策略が上手くいったのなら、嬉々としてリファトに報せてくれるに違いない。だからこの静けさこそ、エイレーネが魔の手から逃れている証拠だとリファトは考えた。いや、そう考えていなければ正気を失ってしまう。最愛の人が兄によって穢されたとしたら、己が何をするのかリファト自身にも最早わからない。


 暗闇の牢獄に光が差すのは、食事が運ばれてくる時のみ。他にあるとすれば、それは母が最悪の報せを持ってくる時だけだ。

 ところが、そのどちらでもない要因で、忌々しい扉は開放された。


「ご機嫌はいかがでしょう。呪われた王子様?」


 闇の中に居続けたリファトは、光を背にして立つ人物を即座に捉える事ができなかった。ただ、声の主と面識が無い点のみはっきりしていた。


「ご病気が無ければ、整ったご尊顔をお持ちだったでしょうに、神様は優しくないとお思いになりません?」


 明るさに目が慣れてくると、リファトはそこに立っているのが誰なのか、すぐさま察した。エイレーネ以外の女性には一切合切、興味が湧かないリファトだが、彼女との会話に登場した人物だったので記憶に残っていた。極めて美しい方だったと、エイレーネが相手を大層褒めていたのを覚えている。


「…用向きは何だろうか。ミランダ嬢」


 鷹揚な調子で軽口を並べるミランダに対し、リファトはかなり淡白だった。ここのところずっと、喋っていなかったせいで発声するのも力が要る。


「あらあら。殿下とお会いしたことはなかったと存じますが、あの可愛らしいお姫様からお聞きになったのでしょうか」

「すまないが…本題に入ってほしい」


 ミランダが母の差し金でない事は明白だ。対立している王妃と愛妾が手を組む日など、永久に来ないに決まっている。しかしながら、そうなるとわざわざこんな所までやって来たミランダの意図が掴めない。

 リファトの態度は無愛想ととられる恐れがあったものの、ミランダは艶然と微笑み続けるだけだった。


「ここから出るお手伝いをしに参りましたわ」


 本日の見張り番はミランダの手下のようだ。潜り込ませるまでに日数を要してしまった事を彼女は詫びたが、それは口先だけみたいである。


「お城から出るまでは手引き致します。さて、どうなさいますか?」

「…私に手を貸して、貴女には何の得があるのか」

「恩は売れる時に売っておく、それがわたくしの処世術ですの」


 彼女はそう言いながら笑みを深めた。


「それからもう一つ。売った恩は必ず回収するのもわたくしの信条ですので、お二方にはいずれ素敵な見返りを期待しますわ」

「成程…ではその申し出、有り難く受けさせていただこう」

「かしこまりました」


 ミランダは控えていた少年に合図を送る。少年は一人で立ち上がれぬリファトに肩を貸し、素早く支えてくれた。


「王妃様の目を誤魔化せるのは今日一日が精々でしょう。あとはご自身で頑張ってお逃げくださいね」

「恩に着る」

「これは独り言ですが。癇癪を起こす第三王子に皆、辟易しているそうですよ。なんでも探し物が見つからないのだとか」


 茶化すような語り口で、ミランダはエイレーネの無事を示唆した。リファトは幾分柔らいだ声で「…感謝する」と告げ、振り返ることなく部屋を去ったのだった。


 ミランダが言っていた「お手伝い」は「お城から出るまで」という言葉の通り、城壁を越えた途端に終了した。肩を貸してくれた少年は役目を終えるとすぐ、無言で立ち去った。ぽつんと取り残されたリファトは体を引き摺るようにして、どうにか雑木林まで逃げ込んだ。とりあえず、遮蔽物がある所に居たかった。

 木々の隙間から見える空は灰色で、現在の時刻を分からなくしている。兎にも角にも、ミランダが時間を稼いでくれている間に、母や兄から身を隠さなければならない。リファトは疲弊しきって鈍くなりつつある頭を懸命に働かせた。

 アンジェロがエイレーネを狙って動いているならば、あの古城へはとっくに押し入った筈だ。執拗な兄は、たとえ城がもぬけの殻であっても、警備の騎士を置くに違いない。エイレーネが懇意にしていた相手も調べ、捜索が及んでいる事も考えられる。リファトの侍医であるギヨームの元へは真っ先に向かっただろう。その繋がりで孤児院にも行ったかもしれない。

 だがしかし、エイレーネとて同じように考えたはず。そして彼女は民に迷惑はかけられないと思い、頼る事を良しとしなかったであろう。きっとユカル達と自力で逃げる選択をしたはずだ。長年、騎士団の追跡から逃げていたユカルは、巧みに痕跡を消しながら逃走しているだろう。だからこそアンジェロも彼女を捕まえられないでいる。

 エイレーネが上手く逃げ延びているのに、リファトだけが捕まっていては情けないにも程がある。死にものぐるいで逃げ切らなければいけない……が、彼ひとりでは到底無理だった。普段ならいざ知らず、こんな碌に動けぬ体で何が成し遂げられようか。誰かに助力を求める必要があった。生きて、母と兄を出し抜いてこそ意味があるというものだ。

 しかし、誰が適任だろうか。リファトの人脈はあまりにも細い。ギヨームも、仕えていた使用人達も、心強い味方だが今は頼れない。恐らく下働きの人間にも、アンジェロは目を光らせている。だとすると残された選択肢は、エイレーネを通じて交流していた民達であった。リファトは度々外出していた事を逐一、報告してはいなかった。歌劇場でアンジェロと鉢合わせたのは運が悪かったが、まさか母達も万年引きこもりのリファトが、民と親しい関わりを持っていたとは夢にも思うまい。

 民を巻き添えにしてしまうのは本当に申し訳なかったが、もはや背に腹はかえられない。追い詰められたリファトは良心が咎めるのを感じつつも、市井へ下るのであった。




 ミランダは第三王子が癇癪を起こして暴れていると話していたが、民の暮らしぶりは特に代わり映えのしない、平穏なものだった。兄としても騒ぎを大きくして、国王の目につくのは避けたいのかもしれない。

 見張りが設置されていないとはいえ、悪目立ちする容姿のリファトが白昼堂々、歩き回るのは避けるべきだ。正直なところ、陽が落ちるのを待つ事さえ、今のリファトには苦痛であったし、刻一刻と追っ手が放たれる時は迫ってくる。それでも彼は寒空の下で息を殺し、人の出入りが減る時間を待った。

 リファトには正確な土地勘があった。彼はエイレーネと共に訪れた場所を、一つとして忘れてはいなかった。雑木林を南へ抜けた先には、陶芸家の老夫婦が住む家がある。いつ力尽きてもおかしくない体で、リファトはそこを目指した。もう真っ直ぐ立つ事もできなかった。


 店仕舞いをした後に戸口が叩かれ、怪訝に思った老夫婦であるが、来訪者が第四王子だと知ると腰を抜かしかけた。しかし死人のような顔色の王子を見て、只事ではないと察したようだ。急いで家の中へ引き入れ、彼を横にならせた。彼は息切れしながら、言葉少なに事情を話し出す。


「王宮から追われている故、私の居場所は決して他言しないでいただきたい」


 それからリファトは頻りに詫びた。あなた方の生活を脅かす厄介者だと、己を強く非難した。

 けれども老夫婦はそれを優しく否定するのだった。


「そのように仰るのは、およしになってくださいな。私共は覚えておりますよ。こんな老いぼれの仕事を、貴方様が褒めてくださった事を」

「そして何の変哲もない花瓶を、妃殿下が後生大事に抱えてお帰りになった事もです。私共は決して忘れません。取るに足らない老いぼれの言葉に、耳を傾けてくださった王族は、お二人が初めてです」


 老夫婦は見返りはおろか、詳しい説明さえも一切求めなかった。ただリファトの望む通り、彼を屋根裏に匿い、固く口を閉ざした。長い人生の中で時代の移ろいを直に見てきた老夫婦は、王族には王族の、平民には平民にしか分からぬ苦労や悩みがある事を、重々理解していた。そして何よりも、困っている人を見つけたら、助けるのが人の道。それを先に示してくれたのはリファトとエイレーネである。高貴な身の上でありながら民に寄り添おうとする若き夫婦に、老夫婦は感銘を受けたのだ。生い先短い余生を、優しい王子様の為に使えるのなら本望だった。


 元来、体が丈夫でないリファトは、緊張が僅かに緩んだ直後に寝込む羽目となった。いや、むしろよくここまで耐えられたものだ。一年前に同じような目に遭っていたら、とっくに息絶えていたかもしれない。エイレーネに出会い、少しずつ生活が改善されていった事が命運を分けたに違いなかった。

 しかし、それを以ってしても此度の仕打ちは堪えた。監禁されるとしても丸一日が往々だった今までを考えれば、今回は折檻が長過ぎた。加えて、体調を崩しがちな冬季だった事も、回復の遅さに拍車をかけている。リファトはパンを噛み切る力さえ無くし、およそひと月もの間、寝床から起き上がれなかった。エイレーネやギヨームが看病していたら、快方へ向かうのはもっと早かっただろうが、リファトは潜伏場所を気取られぬ為に、民間の医者すら呼ばなかった。

 一ヶ月後。少しずつ暖かくなるにつれ、どうにか自力で身を起こせるようになったはいいが、逃げ回るだけの体力は依然として戻っていない。焦っても仕方がないと頭では分かっているのだが、階段の昇降だけで呼吸が乱れる体が焦ったかった。


 そんな時であった。陶芸家の夫が、ユカルを引っ張って連れて来たのは。


 出先で見覚えのある赤茶けた頭を発見した瞬間。老人は叫びたくなる衝動をぐっと飲み込み、父親面をして青年の背中を叩いていた。


「なんだなんだ、こっちに戻ってきてるなら、顔くらい出さんか。母さんも待っとるぞ」


 突然の呼びかけにユカルは面食らう。だが、やや遅れて彼も老人が見知った顔だと気付いたようだ。しかも袖を引く力の強さに何か思うところがあったのか、咄嗟に話を合わせてくれた。


「すまない親父。用事を済ませたら寄ろうと思っていたんだ」

「おお、そうか。用事はもういいのかい」

「ああ。大丈夫だ」


 こうして取り止めもない会話を続けながら、家まで戻って来た次第である。

 老夫婦は屋根裏へ上がるようユカルを急かし、そこで彼は痩せ衰えたリファトと再会したのだった。


「リッ、リファト殿下!?ここにいらしたとは…!」

「ユカル…か?どうして君が……」


 驚愕で舌が絡れたのはどちらも同じ。二人とも泡を食ったような顔をする。いち早く我に返ったのはリファトで、彼は途端に表情を険しくさせた。


「エイレーネはどうした。まさか彼女を置いて、君ひとりで行動しているのか」

「…はい。申し訳ありません」

「…一先ず、理由を聞こう」


 ユカルは寝台の横に跪き、ここへ至るまでの道程を話して聞かせるのだった。


「……そうか。エイレーネが、君を残したんだな」


 事のあらましを聞き終えた後、リファトは労うようにリファトの肩を叩いた。


「本来なら命令に背いた君を叱らねばいけないが…今回は褒めなくてはな。私だけの力ではベルデ国に辿り着く事はできない。君が戻って来てくれて助かった」


 自分の命よりエイレーネを大切に想うリファトだ。彼女の護衛を放棄して戻った事で、厳しい叱責があるかと思いきや感謝の言葉を掛けられて、ユカルは声を詰まらせた。だが立て続けに、外の状況を問われた為、慌てて口を動かす。


「王妃と第三王子の親衛隊を筆頭に捜索は続いています。一部の国境も封鎖されました。正規の方法で砦を越えるのは、困難を極めると思われます」

「やはりそうなるか。ではベルデ国に渡る算段は?」

「如何様にでも」

「頼もしい限りだ」


 窃盗団に買われたユカルは国内外を問わず金品を盗んでは、衛兵の警備を掻い潜って持ち帰っていた。無論、奴隷だった彼に通行証など発行されるはずもなく、彼は自然とあらゆる抜け道に精通する事となった。


「…ここにエイレーネが居なくて良かったと、つくづく思うよ」

「恐れながら同感です」


 思いきり法に触れるやり方で亡命しなければならないのだ。清廉なエイレーネに汚い方法は似合わない。


「ところでユカル。少しでも良い、貨幣かそれに代わる物は持っていないか?」

「それでしたら、妃殿下からこの首飾りを預かっております。困った時に使ってほしい、と」


 ユカルが懐から取り出した首飾りは、エイレーネが古城から持ち出した唯一の貴重品であった。何か思い入れのある品という訳ではなく、路銀の足しになればと服の下に隠していたものである。それをユカルと別れる際に外して、彼の手に握らせたのだ。


「……貴女には助けられてばかりだ…」

「殿下?いかがしました?」


 リファトは小さくかぶりを振り、その首飾りを老夫婦に渡してくれと指示した。王族の持ち物なので、売れば纏まった金が手に入るだろう。

 しかし、せめてもの礼にと渡したところ、老夫婦は震え上がってしまった。曰く、そんな高価な物を頂くような事は何もしていない、そうだ。けれどもリファトは、二人は命の恩人だ、是非とも受け取ってほしいと押し返す。更には、むしろ足りないくらいだと説き伏せ、エイレーネも同じ事をするとも付け加えた。

 とても断れる雰囲気ではなかった為、老夫婦は取り敢えず受け取ったものの「お戻りになったらお返しいたします」と条件をつけたのだった。


「それはエイレーネの持ち物ですから、頑張って彼女を説得してください」


 頼み込んだとしても彼女は頷かないに決まっているし、もしかしたらもっとお礼を弾もうと躍起になるだろう。リファトとユカルはその光景が目に浮かび、随分と久しぶりに笑いを溢すのであった。

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